【4月18日 鎌倉レポート1】鎌倉大仏と鶴岡八幡宮
先月、4月18日~19日にかけて、ひかりの輪では、鎌倉と千葉、そして善光寺・戸隠・諏訪への聖地巡礼を行いました。
4月18日の鎌倉や千葉の鋸山は、世田谷の本部教室から2時間前後で行くことのできる身近な場所なのですが、これまで巡礼の機会はなかなかなく、今回がはじめての巡礼となりました。
4月19日の、長野・善光寺などの巡礼は、5月末日まで行われている、7年に一度という善光寺御開帳の貴重な期間に合わせた巡礼となりました。また、まだ雪の残る戸隠や、久しぶりの諏訪は、ひかりの輪発足以前から巡礼を続けている思い出深い聖地でもあり、ひかりの輪創設2周年の節目に当たる巡礼ともなりました。
それでは、まずは鎌倉からレポートしたいと思います。
●鎌倉--武家政権の中心地・新たな仏都
鎌倉は、1180年に源頼朝が本拠を定めて以降、鎌倉幕府滅亡まで、鎌倉時代の武家政権の中心地であったところです。そして同時に、時の将軍や武士たちによって多くの寺院が建てられ、新たな仏都としての顔を持つようになっていったのですが、現代でも寺社の建ち並ぶ鎌倉の町並みは古都の雰囲気の感じられるところでした。
●高徳院(鎌倉大仏)--人々に親しまれる国宝仏
朝一番で、まずは鎌倉の顔ともいえる「鎌倉の大仏さま」へと向いました。
高さ11メートル、重さ120トンもの巨大な姿をもって、鎌倉の仏教文化を伝える鎌倉大仏は、国宝の阿弥陀如来像です。このお寺は高徳院といいます。
高徳院住職の佐藤孝雄氏は「参拝者が御尊体に触れられる、希有な国宝仏」と言われていますが、確かに、このような国宝は大変めずらしいものです。
人が、仏像の胎内まで入ることができ、胎内では、仏像と参拝者を隔てる壁一つ置かれず、直に仏のお体に触ることができます。きっと、このようなあり方が、長らく人々に親しまれてきた大仏さまたるゆえんなのでしょう。
寺に伝わる「鎌倉大仏由来記」によると、この鎌倉大仏は、源頼朝の侍女であった者が発願し、僧・浄光が、民間から資金を募って作ったもので、国家や王侯貴族が資金を出して作ったものではないといわれています。
鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)』は、1252年8月17日に、「釈迦」如来像の鋳造開始を伝えていて、これが鎌倉大仏を指すといわれていますが、この大仏さまは、実際は、阿弥陀如来像です。
このように資料も乏しく、不明な点も多いため「謎の大仏」ともいわれているのだそうです。
ここではみなで、鎌倉時代の巨大な大仏さまに手を合わせ、お香を捧げて、鎌倉の歴史に思いを馳せながら、世界の平和への祈願を捧げました。
●鶴岡(つるがおか)八幡宮--日本三大八幡宮
次に向かったのは鶴岡八幡宮です。
全国で、八幡神を祀る八幡神社(八幡社・八幡宮・若宮神社)の数は、1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで2番目に多く存在する種類の神社ですが、鶴岡八幡宮は、日本三大八幡宮の一つに数えられています。
大きな鳥居をくぐり、自然豊かな境内の参道を通って、奥へと歩いていきました。
八幡神は、農耕神あるいは海の神といわれる神です。また、応神天皇(子)を主神とし、神功皇后(母)、比売神の三神を合わせた、八幡神(八幡三神)としても祀られています。神功皇后は、応神天皇の母親ですので、親子神(母子神)信仰に基づくものと思われます。
この鶴岡八幡宮は、中世以降、常に鎌倉の中心として、都市の形成にも重要な役割を果たしてきたところです。1063年に、源頼義が源氏の氏神として、京都の石清水八幡宮をお祀りしたのを創始とし、当初、由比ヶ浜に建てられたものを、五代のちの子孫・源頼朝が、現在地に移したのだそうです。
ここは、平安京と同様に、陰陽道の風水思想に基づいて建てられていて、北に山(北山)、東に水(滑川〔なめりかわ〕)、西に大道(古東海道)、南に開けた土地(相模湾)という特徴を持っています。(陰陽道では、北は玄武、東は青龍、西は白虎、南は朱雀の四神が守護するとされる)
本来は、神仏習合の社だったものの、明治の廃仏毀釈により、多数の仏堂、仏像などは破壊され、今のような神社となったという歴史を持っています。
最後に、境内の丘に祀られる、丸山稲荷社を参拝しました。この稲荷社のある丘だけは、鶴岡八幡宮造営にあたり山腹がかなり削られたときにも、もともとの地主神の座として大切に残されたのだそうで、鎌倉の原初の自然の姿が遺されているといわれている場所です。
この自然豊かな社でも、鎌倉の歴史を学びながら、めいめいが参拝し、すべての人々の幸福への祈りを捧げました。
次の目的地は、宇賀福神社(銭洗弁財天)です。