(2)聖地と訪れる人の関係
ひかりの輪においては、聖地巡りを、
精神的な向上を得る貴重な手段と位置づけています。
しかし、いつでも誰でも、
そこに行けばいい、といったものではありません。
同じ聖地を訪れても、100人に100人の聖地が現れます。
その意味で、聖地は、訪れる人の心との相互作用で、
様々な結果をもたらすのです。
何かを真面目に求めている人は、
それが現世・世俗の問題の解決・目標の達成だろうと、
精神的な向上・悟りであろうと、
何かを与えてくれるものだと思います。
また、聖地は、その人の日ごろの努力や穢れが、
露わになるところだといわれます。
都会生活で、いろいろなことを
だましたり隠したりしているものが、
人間の自由が効かない自然の中では、
ストレートに現れ出ることがあるのです。
精神的な向上を得る貴重な手段と位置づけています。
しかし、いつでも誰でも、
そこに行けばいい、といったものではありません。
同じ聖地を訪れても、100人に100人の聖地が現れます。
その意味で、聖地は、訪れる人の心との相互作用で、
様々な結果をもたらすのです。
何かを真面目に求めている人は、
それが現世・世俗の問題の解決・目標の達成だろうと、
精神的な向上・悟りであろうと、
何かを与えてくれるものだと思います。
また、聖地は、その人の日ごろの努力や穢れが、
露わになるところだといわれます。
都会生活で、いろいろなことを
だましたり隠したりしているものが、
人間の自由が効かない自然の中では、
ストレートに現れ出ることがあるのです。
その意味で、たとえば、聖山を登拝する修験道の実践は、
日ごろの穢れを悟って反省する、
「懺悔・反省」の機会であるという思想もあります。
自然は、恵みと、浄化のための試練の双方を与えるものですね。
この意味で、聖地での体験は、
そこに行く前の普段の自分の心構えや努力と、深く関係しています。
その意味で、己を知り、反省すべきは反省し、
その後の道を定める機会ともいうことができます。
ましてや、聖地や、神仏といった存在に、
単に依存し、盲信することは、真の聖地巡りではないでしょう。
さらに言えば、神仏とは、
人がその内側にもっている良心・慈悲・博愛の心であって、
それを現しだすのが聖地ということができるかもしれません。
これは、仏教の思想が説く仏性
(すべての人の中にある未来にブッダになる可能性・潜在的な慈悲の心)
の思想と似ています。
そのため、理想としては、
聖地に赴くことが望ましいと思います。
しかし、日常的に精神的な訓練をしてない方でも、
聖地に行くことをきっかけとして、
変わっていくということもまた素晴らしいことです。
そうした場合は、行く直前だけでも、
自分なりの目的意識を持って、心身を整えて臨むといいでしょう。
宗教には、「偶像崇拝」という言葉があります。
それは、人の心と切り離して、
何らかの物が、それだけで絶対である、
神聖であるとする考え方でしょうか。
しかし、聖地や、聖地めぐりは、そうしたものではありません。
聖地自体が、神仏なのではありません。
訪れる聖地に感謝と敬意をもちながらも、
その聖地自体を神格化して依存することもなく
聖地の恵みと自分の努力の結合が、
貴重な体験・学びをもたらすのだと思います。