仏教思想
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新着情報 <仏教思想>

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哲学・科学・宗教:人類の叡智を総覧する
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親子問題の克服と仏陀の智慧

このコーナーについて

  • 様々な仏教思想をご紹介しています

    このコーナーでは、ひかりの輪が説く仏教思想や「輪の思想」の特別教本をご紹介するとともに、仏教・ヨーガを科学的に検証する記事を掲載していきます。

テーマ別教本のご紹介

  • 仏教・ヨーガのテーマごとの教本をご紹介します

     

      ひかりの輪では、2007年の発足以来、11年以上にわたって、古今東西の思想・哲学や科学などを幅広く探究してきました。その成果は、これまで、毎年の集中セミナーのたびに刊行してきた30冊以上の「特別教本」にまとめられてきました。

      しかし、「特別教本」は数が多く、テーマも分散しているため、何から読めばよいかよくわからないという声もありました。
      そこで、今回、ひかりの輪では、これまでの30冊以上の「特別教本」の中から、特定のテーマごとに内容を抽出して1冊1冊にまとめた「テーマ別教本」を新たに刊行することにしました。

      これで、ご興味・ご関心のある分野の「テーマ別教本」を選んで、効率的・集中的な学習をしていただくことが可能になりました。

仏教思想の基本

  • 精進(しょうじん):正しい努力に関して

     以下のテキストは、2022年夏期セミナー特別教本『宗教と政治の問題と和の思想 精進(しょうじん):正しい努力の教え』第1章として収録されているものです。

    教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     

    1.はじめに

    ヨーガ・仏教のいろいろな教え・法則であろうと、心理学の理論・心理療法であろうと、心身の向上に役立てて幸福になるには、単に、頭で学んで知識を増やすだけではなく、それを身に着けるまでの努力がなければ、あまり役に立たないことの方が多い。これは、実際に学びに入った人が実感することだと思う。

    私たちの幸福・不幸や、心や体のあり方は、その日常の思考・感情・性格・体の使い方・行動の仕方・周辺の環境などが深く関係しているが、それらのほとんどは、その都度、自分の意識が自分の意思で選択しているようで、実際には、習慣的に無意識的に(無意識の脳活動に主導されて)行われている。これが心理学の研究によっても確認されている。

    そのため、自分を良い方向に変えていくということは、これまでの悪い習慣を修正して、良い習慣を形成するという側面がある。こうして、今まで知らなかった良い知識を頭で吸収することと、それを心身において身に着けること(良い習慣にすること)は異なるのである。


    2.仏教の精進の教え

    仏教には、精進という言葉があり、これは日常用語にもなった。

    精進は、元は梵(ぼん)語(ご)のビールヤ(vīrya)の漢訳の仏教用語である。「勤(ごん)」「精勤(しょうごん)」などとも訳される(日本大百科全書(ニッポニカ)「精進」の解説より)。

    精進の元の意味は、①ひたすら仏道修行にはげむこと、また、その心のはたらき、などである。

    それから転じて、②一定期間、言語・行為・飲食を制限し、身をきよめて不浄を避けること。物忌みすること、③一般に、魚や肉類を食べないで菜食すること。また、その料理、④一所懸命に努力することを意味するようになった(精選版 日本国語大辞典「精進」の解説より)。

    われわれの日常用語では、④の意味で使われることが多いことは、ご存じの通りである。

    仏教教義の中では、仏祖釈迦牟尼がその最初の説法で説いた「八(はっ)正道(しょうどう)」という実践徳目(実践課題)の一つである(正精進(しょうしょうじん))。

    また、その後に釈迦が説いた、四(し)正(しょう)勤(ごん)、五(ご)根(こん)、五(ご)力(りき)、七(しち)覚(かく)支(し)などの教えでも説かれる。

    さらに、釈迦の死後に発展した大乗仏教における基本的な実践徳目(実践課題)である「六(ろく)波(は)羅(ら)蜜(みつ)」の一つにもあげられて、重視された。


    3.正精進(しょうしょうじん)・四正勤

    先に述べた釈迦は、その最初の説法で説いた八正道の八つの実践徳目の一つとして、「正精進」(パーリ語: sammā-vāyāma 梵語: samyag-vyāyāma)を説いた。これは、具体的には、「四(し)正(しょう)勤(ごん)」を意味すると解釈される。

    四正勤(パーリ語: cattāro sammappadhānā)とは、同じく釈迦が説いた「三(さん)十(じゅう)七(しち)道(どう)品(ぼん)」の教えの一部である。4種の正しい努力のことを意味する。これは、「四(し)精(しょう)勤(ごん)」「四(し)正(しょう)断(だん)」「四(し)意(い)断(だん)」とも訳されることがある。

    四正勤の具体的な内容は、以下の通りである

    ①断断(だんだん) - すでに生じた悪を除くように勤める
    ②律(りつ)儀(ぎ)断(だん) - まだ生じない悪を起こさないように勤める
    ③随(ずい)護(ご)断(だん) - まだ生じない善を起こすように勤める
    ④修(しゅ)断(だん) - すでに生じた善を大きくするように勤める

    パーリ語の仏典における釈迦牟尼の説法を紹介すると以下の通りである(パーリ仏典, 相応部 道相応, 44 Magga Saṃyutta, Avijjāvaggo, Sri Lanka Tripitaka Project)

    Katamo ca bhikkhave, sammāvāyāmo: idha bhikkhave, bhikkhu anuppannānaṃ pāpakānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ anuppādāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Uppannānaṃ pāpakānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ pahānāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Anuppannānaṃ kusalānaṃ dhammānaṃ uppādāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Uppannānaṃ kusalānaṃ dhammānaṃ ṭhitiyā asammosāya bhiyyobhāvāya vepullāya bhāvanāya pāripūriyā chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāvāyāmo.

    比丘たちよ、正精進とは何か。 未発生の不善(akusalānaṃ)は、これが生じないよう、比丘らは関心を持って努力し精進(ヴィーリャ)することである。 発生した不善は、これを解消するよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。 未発生の善は、これが生じるよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。 発生し成された善は、これが拡大するよう、比丘たちが関心を持って努力し精進することである。 比丘たちよ、これを正精進と呼ぶ。

    ここでいう「悪」(akusala)と「善」 (kusala)とは何かというと、経典の解釈書(論蔵)においては、一般的に、「悪」(akusala)は、仏教が説く三つの根本的な煩悩である「三毒」を意味している。

    三毒とは、①貪(とん)(lobha、貪り)・②瞋(じん)(dosa 怒り)・③癡(ち)(moha 無智)を意味している。そして、「善」(kusala)は、その反対で、①無(む)貪(とん)(alobha)、②無(む)瞋(しん)(adosa)、③無(む)癡(ち)(amoha)を意味している。


    4.四正勤の教えから学べる智恵:慢心・油断の戒め

    四正勤の教えをよく見てみると、単に善を増やし、悪を減らす努力をするというだけでなく、今生じていない善を生じさせるように努めたり、今生じていない悪が生じないように努めたりするといった努力を強調しているのが、一つの特徴である。これは、一言で言えば、慢心・油断を戒める内容だと思う。人の努力を鈍らせる最大の要因の一つは、確かに、慢心であり、油断であると思う。それは、向上欲求とは逆のものである。

    しかしながら、人は、労苦をともなう努力・向上よりも、安楽・堕落に流される傾向がある。そのため、ある程度努力して幸福になると、その後は努力が鈍り、その結果、元の木阿弥になることがよくある。その際に出てくるのが、「自分はもう努力を続けなくても(増やさなくても)大丈夫だろう」という慢心・油断だと思う。

    そして、この慢心・油断は、自分と他人を比較して、自分を他人よりも上に見るときに生じやすい心の働きでもある。例えば、律儀断(まだ生じない悪を起こさないように勤める)は、悪をなすことを予防する心構えであるが、他人との関係にあてはめて解釈すれば、自分はなしていないが、他人がなしている悪行を見ては、それに単に軽蔑・見下しの心を持つのではなく、自分の反面教師と見て、自己の戒めにせよ、という意味合いがある。

    また、随護断(まだ生じない善を起こすように勤める)も、他人との関係にあてはめて解釈すれば、他人に生じているが、自分には生じていない善行(とそれによる幸福)を見たときは、それを妬むのではなく、自分の見本・教師として学んで見習うことが大切であるという意味合いがある。こうして、四正勤は、自己向上のために重要である他人からの学びを示唆するものでもある。


    5.積み重ねの重要性:善がさらなる善をもたらす

    また、「まだ生じない善を起こすように勤める」という努力と、「すでに生じた善を大きくするように勤める」という努力という、二つの努力が合わせて説かれていることは、この二つには関連性があるからだと私は思う。すなわち、今できる善をコツコツ続けて増やす努力をしていくことが、今はできない善も未来にできるようになることを助けるということである。

    これは、最初は小さな善も、それを慢心・油断せずに、やめることなく続けて、少しずつ大きくするうちに、大変大きな善になるという道理を示していると思う。逆に言えば、最初は小さな悪も、慢心・油断によって、それをやめずに続けて、徐々に大きくしているうちに、大変大きな悪になる。

    これは、継続的な努力の重要性、良い習慣の形成の重要性を示していると思う。仏教の教えで言えば、繰り返された善行や悪行によって生じる善い業(カルマ)や悪い業の力の重要性である。また、科学的に言えば、慣性の法則である。ロケットは、最初はゆっくりと浮上していくが、エンジンの噴射を続ける中で、時間とともに徐々にスピードを上げ、最後には猛烈なスピードで宇宙空間を飛ぶことになる。


    6.六波羅蜜(六つの完成)の精進の教え

    次に大乗仏教の基本的な教えであり「六波羅蜜(六つの完成)」の中で説かれている精進の教えについて学んでみよう。チベットの高僧ケツン・サンポ氏によれば、その精進には3つの精進があるという。すなわち、「鎧の精進」「実行の精進」「飽くなき精進」である。

    まず、「鎧の精進」とは、仏道修行を始める際の精進で、「仏道修行の目的である悟りなどを自分が達成できるのだろうか」といった不安を、勇気をもって振り払って、思い切って修行を始める努力のことである。

    次に、「実行の精進」とは、仏道修行の開始を明日に延ばすことなく、今日すぐに開始することである。すなわち、よく言われる、今日できることを明日に延ばすなということだ。ケツン・サンポ氏は、ある高僧の言葉に、「人の一生は、一瞬ごとに死に近づいていく、今日できることを明日に延ばしていては、人は死の床でうめき続ける生を送る」というものがあると述べている。

    また、「忙しいから仏道修行のような新しいことができない」と考える人たちに向けて、「人の世俗の業は、子供の遊びに似て、手を染めればいつまでも続き、やめようと思えばすぐにやめられる」「実行の精進とよばれているものはその決心に関わっている」と述べて、時間の問題ではなく、自分の中の決心の問題だとしている。

    最後の「飽くなき精進」とは、仏道修行を始めて、どこまで行っても、「もうだいぶ進んだ、もうこれくらいでいいだろう」などと思うことなく、飽くことなく、精進を続けることである。これについては、後に詳しく述べることにする。


    7.実行の精進から学ぶ智恵:先延ばしにする悪習慣の問題

    今日できることを明日に延ばさずに今日実行するという実行の精進は、ある意味で、よく言われることであるから、当たり前のことのようにも思えるかもしれない。「思い立ったら吉日」「善は急げ」というのも同じ意味だろう。

    しかし、このように実践できるかと言えば別の問題だろう。この実践が難しいのは、ある意味で、私たち人間の本能に関係しているから、仏教的な表現で言えば、根本的な煩悩に関係しているからだと思う。

    具体的には、私たちは、幸福にはなりたいが、「楽に幸福になりたい」し、「早く、少ない努力で、幸福になりたい」と思う。しかし、実際には、「ローマは一日にして成らず」、「急がば回れ」というように、価値のあるものこそ、一朝一夕にはならず、長期間の継続的な努力が必要だ。これに対して一生の時間というものは、思ったよりも長くはなく、「光陰矢の如し」というように、人生の時間はあっと言う間に経ってしまう。

    そして、落とし穴が、「今日ではなく明日からやればいい(悪いことは、明日からやめればいい)」という考えである。この落とし穴は、そう思う本人は、嘘をついているつもりはないのだが、多くの場合、実際には、「明日からやればいい」というのが最初にあるのではなく、「今日はやりたくない」という怠け心が最初にあって、それを正当化するために、「明日からやればいい」という考え方が、自分に対する一種の言い訳として浮かんでいるのではないか。

    だとすると、どうなるか。「明日からやればよい」と思った時から一日が経って、その明日が今日になっても、また再び「今日はやりたくない」という昨日と同じ気持ちが持ち上がってきて、再び「明日からやればよい」という昨日使った言い訳を繰り返し、また先延ばしになる可能性がある。

    そもそも、人の心・体・行動には習慣性があるから、「今日やりたくない」と思って、今日やらない行動をとれば、それが習慣となって、再び明日以降も繰り返される可能性がある。そうして毎日、明日に先延ばしする習慣が付けば、いつまで経ってもやらないままとなり、そのうち(何かの言い訳を自分にして)完全に忘れていってしまう可能性がある。

    習慣の力は大きいので、先延ばしにすることを繰り返し、その習慣が深まっていくと、実行することはますます難しくなる。これを考えると「思い立ったら吉日」というのは、意味のあることだとわかる。思い立った日に実行するのではなく、それを下手に(怠け心で)先延ばしにしていると、その習慣の力で、実行することがより難しくなる面があるからだ。

     

     

     

    8.努力の実行ができるのは今日・今この時だけ

    今日できることを明日に延ばさない実行の精進を、別の視点で考えてみよう。それは、私たちが生きているのは、今日である、ということだ。言い換えれば、私たちが努力できるのも、今日の今の瞬間である。

    昨日や明日については、考えることはできるが、考えることはできても、昨日しなかった努力をしたことにはできないし、明日なすべき努力を今日のうちから計画することはできるが(計画することは良いことだが)、それを実行することはできない。言い換えれば、明日や昨日は、私たちの頭の中にある概念であって、実在するのは、今日・この瞬間だけである。

    そして、人は、昨日を含めた過去を後悔して苦しむことがあるが、後悔ばかりしている人は、今現在において、過去の失敗の反省に基づいて自分を改善する努力をしてないことが多い。同じように、人は、明日を含めた未来の不安で苦しむことがあるが、不安ばかり抱えて悩んでいる人は、未来に幸福になるために必要な、今現在の今日の努力には集中できていない。

    言い換えれば、今現在・今日の努力に集中できている人は、後悔や不安にあまり悩まないものだと思う。逆に言えば、後悔ばかりしている人、ないしは不安に悩んでばかりいる人は、自分でも気づかないうちに、その背景に、今日の努力を積み重ねることを妨げる怠け心があるのではないだろうか。

    そして、過去の後悔と未来の不安は、セットになっている。後悔ばかりして、反省と改善の努力をしない人は、自ずと自分が向上していく見通しが持てず、自信がなく、卑屈が強く、未来に不安を抱えることになる。こうして、後悔・卑屈・不安はセットになり、その背景には、今現在の努力が乏しいこと、怠け心がある。卑屈や不安の背景に、「それを取り除くための努力をしたくない」という怠け心が隠れている。


    9.飽くなき精進から学べる智恵:焦らず弛まず努力を続ける

    次に、飽くなき精進について、より詳しく述べる。これは、仏道修行を始めてどこまで行っても、「もうだいぶ進んだ、もうこれくらいでいいだろう」などと思わず、飽くことなく精進を続けることである。飽くなき精進に関する経典の言葉として、以下のような言葉が述べられている。

    「まるで、ゆったりと流れ続ける大河のように、完全なる仏性(悟り)を得るまで、貴方はゆったりとして飽くことなく、修行に打ち込んでいくのである」

    「ヤク(ウシ科ウシ族の動物)は自分の少し先にある草を見つめながら、草を食べながら進んでいく。仏道の修行も、そのようでなくてはならない。いつもこれで十分などと安心することなく、少し前方を見つめながら、着実に前進を続けなければならない」
    「もう修行の必要はない、と思うこと自体が、まだまだ修行を必要とするという証拠だ」

    飽くなき精進の教えは、第一に、継続的な努力の重要性を説くものだ。「ローマは一日にして成らず」「急がば回れ」というように、何事も本当に価値があることは、一朝一夕には成らない。

    特に心身・人格の向上、意識の改革といったことが目的の場合は、継続的な努力が必要なことは、科学的に明らかだと思う。人の心の働きは、その体と密接不可分であることが、最新の心理学や脳科学の研究の進展によって、ますます明らかになってきた。例えば、心の働きに直接的に関係するものが、人の感情と直接関係する脳内神経伝達物質を含む脳の神経ネットワークだろう。

    一方、人の体の細胞が更新されて入れ替わるためには、平均して数カ月かかるといわれている(細胞によって長短がある)。また、その細胞を構成する分子が、体全体において完全に更新されて入れ替わるには数年(一説に7年とも)かかるともいわれている。これは、「石の上にも三年」という格言と関係するのではないかと私は思う。だとすれば、何かの努力を始めて、それにともない、心や体が変わっていくためには、継続的な努力が必要である。

    脳科学者の中野信子氏は、脳の神経細胞は何歳になっても新しいものが生まれるが、それは使われないと(鍛えられないと)定着しないために、何かの精神的な努力をなす場合は、数日といった短い期間に無理な努力をするのではなく、少なくとも数カ月間、毎日継続的な努力をすることが望ましいとしている。継続的な努力は、毎日生まれる新細胞が望ましい形で定着することを助けるが、短期間の努力では、定着する脳細胞はごく少数にとどまるから、脳のあり方を大きく変えられないのだろう。


    10.焦らず弛まずコツコツ努力を続ける重要性

    継続的な努力の重要性に加えて、飽くなき精進の教えから学び取れるニュアンスは、焦らず弛まず、努力することである。経典の言葉を引用するならば、以下のようになる。

    「まるで、ゆったりと流れ続ける大河のように、完全なる仏性(悟り)を得るまで、貴方はゆったりとして飽くことなく、修行に打ち込んでいくのである」
    「いつ、どこにあっても、貴方は必要とするだけの食べ物を食べ、惰眠を貪らず、緊張しすぎるのでもなし、リラックスし過ぎるのでもない状態で、心を統一して、精進に励むように」

    ところが、私たちは、焦らず弛まずコツコツ努力することが、意外と苦手である。というのは、何を努力するにも、「できるだけ早く達成したい」という欲求があるからだろう。達成感は喜びとなるから、「それを早く得たい」と思うのである。また、これと本質的には同じことだろうが、強い不安を抱えている場合などにも、それから早く逃れたいがために、焦ってしまうこともあるだろう。

    しかし、この心の働きを突き詰めて考察すれば、「地道な辛抱強い努力なしに、早く楽に幸福になりたい」という心の働きだろう。すると、これは一種の怠惰が背景にあると言うこともできる。

    そして、焦りを背景として、一時的に無理な努力をする場合も多い。しかし、結果は出ないままに、そうした努力は長続きせずに終わってしまう。いわゆる三日坊主である。これは、本当の精進・正しい努力のあり方ではないだろう。

    また、この逆に、実行の精進で述べたように、人は、「一定の達成を得た」と感じると、慢心に陥り、油断してしまって、努力が鈍ることがある。この背景としては、人には皆、「自分が優れていると思いたい」という自己愛があって、「努力を続けなくても自分は大丈夫だ」という慢心・油断が生じるのだろう。しかし、地道な努力の積み重ねが大きな成果を生むのと同じように、油断の積み重ねも大きな苦しみをもたらすことになる。

    こうして、さまざまな背景によって生じる焦りと弛み、無理と怠惰の双方を避け、焦らず弛まず、無理せず怠けず、コツコツと努力を続けていくことが大切である。


    11.努力の仕方に関する仏陀の中道の教え:緊緩中道

    また、先ほど紹介したように、経典では、「まるで、ゆったりと流れ続ける大河のように、貴方はゆったりとして飽くことなく、修行に打ち込んでいくのである」とか、「緊張しすぎるのでもなし、リラックスしすぎるのでもない状態で、心を統一して、精進に励むように」と説いて、緊張しすぎることなく、弛緩しすぎることもなく、努力を続けることを強調している。

    この点に関して、仏教の重要な思想に、中(ちゅう)道(どう)という思想がある。その一つは、体をひどく痛めつける苦行主義と快楽を貪る快楽主義という両極端の修行の仕方を排除して、そのどちらにも偏らずに、中道の修行に励むというものである。これを苦楽中道という。現代的に解釈すれば、自分の体を痛めつけるような生き方・修行の仕方(苦行主義)は避け、健やかに生きるに必要なものは確保しつつ、それ以上は欲張らずに、快楽を貪ること(快楽主義)を慎むといったほどの意味になるかと思う。

    これに加えて、仏陀は、瞑想修行の努力の仕方に関しても、中道の教えを説いたと解釈されている。その要点は、瞑想において、力んで緊張しすぎることなく、弛緩しすぎることなく、バランスを取って実践しなさいというものだ(緊(きん)緩(かん)中(ちゅう)道(どう))。

    仏陀は、その際に、「ギターの弦は、きつく張れば切れてしまうが、弛みすぎれば音が出ない」という巧みな表現を使って、力むあまり瞑想がうまくできていない弟子に対して、緊張と弛緩のバランスを取って瞑想に励むように説いたという。

    この緊張と弛緩のバランスをとるという考えも、先ほど述べた、焦らず弛まず、無理せず怠けずの精神と、本質的に同じことではないかと思う。焦っていると、無理するし緊張しすぎる。逆に、弛みすぎて怠けるならば、努力にならない。


    12.努力を助ける智恵:苦しみに喜びを見出す

    さて、努力の行為は、一面において労苦・苦しみである。しかし、その労苦が、自分の成長と未来の幸福をもたらすとか、他人の幸福をもたらすという、本質的ないし長期的な幸福・喜びをもたらす場合に、努力の行為になるのだろう。このことを言い換えれば、苦しみに喜びを見出す賢明さ(仏教が説く智慧)が強ければ強いほど、精進・努力ができることになることを示している。

    ユダヤ人強制収容所に収容された経験を持つフランクルという精神科医・心理学者が提唱した、ロゴセラピーという心理療法の理論では、人は、生きる意味を見出すことができれば、幸福に生きることができ、そうでなければ、幸福に生きることができないと説く。特に、苦しみに意味を見出すことができれば、苦しみにも耐えることができるという。

    フランクルは、強制収容所の極限状態の中で、絶望して自殺する人、ますます自分勝手になる人、そして、思いやりを持つ人などを見た。その中で、体力の優劣よりも、生きる意味を持っていた人が、多少体力が劣っていても生き残ったという。これは、苦しみに耐えて生き延びて、果たすべき何かの目的があった場合もあるが、それに限らず、その苦しみ自体に意味を見出すことが含まれる。それは多くの場合、その苦しみによる自分の精神的な成長、他者への思いやり・慈悲といったものに関係しているという。

    また、大きな災難から立ち直るための「レジリエンス」の心理学(レジリエンスとは、立ち直る力)においても、立ち直る力の強い人は、ものの考え方が多様・柔軟で、苦しみを、視点を変えて喜びと考え直す能力が高いという。これは、切り替え、リセットする力とも表現できる。これは、苦しみの裏に喜びがあると説く仏教の思想と同じである。

    また、精神科医の樺沢(かばさわ)紫(し)苑(おん)氏によると、病気の回復が早い人は、病気になった自分を拒絶せずに素直に受け入れ、むしろ感謝する傾向が強いという。例えば、病気を契機に、これまでの生き方を振り返って反省して改善するなどである。


    13.仏教の苦楽表裏の思想

    仏教の思想を学ぶと、苦しみは煩悩が原因とされる。煩悩とは、間違ったものの見方(痴=無智)を原因とした貪りや怒り(貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち))などであり、これを一言でいえば、無智によって、間違った執着をしたり(欲張りすぎ)、間違った嫌悪をしたり(嫌がりすぎ)して、自分で苦しみを招くということである。

    よって、逆に、苦しみの経験が、その原因の煩悩を和らげて悟りに向かう仏道修行に入る契機となるという教えがある(苦あって信あり)。さらに、苦しみの経験は、自分だけの苦しみではなく、この世の人の苦しみの経験であり、それを縁として、同じ苦しみに嘆く人々を救おうとする慈悲の源になるという教えもある(観音菩薩の誕生の説話など)。

    悟りや慈悲という仏教的な視点ではなく、一般的に言っても、苦しみは視点を変えると喜びになる。例えば、他者からの批判は、それによって、自分では気づかなかった自分の問題を知って、それを反省改善して、成長するきっかけとなる。また、理不尽・不合理な批判であれば、それに動じずに冷静に対応すれば、それを見ている第三者の評価は逆に上がることになる。逆に、全く批判されない場合は、自分の問題点がわからないばかりか、批判しても無意味であると思われ、他人に見捨てられている場合もある。

    病気は、上にも述べたが、自分の従来の生き方を顧みて、それを反省・改善することができる機会となる。また、自分を支える他者や、自分の体自身への感謝のきっかけとなり、人間としての幅を広くすることもある。さらに、一つくらい持病があった方が、体をいたわるために、長生きをするという経験則がある(一病息災)。逆に、体力自慢は、体に無理をかけやすく、早死にしやすいともいう。

    経済的な困難は、質素倹約の智恵や習慣を身につけたり、お金の価値の理解を助けたりする。それによって、お金を浪費せずに、お金を有意義な目的に活かすことができるようになる。逆に、いくらお金があっても、長い人生の中では、それを浪費してしまって借金を負う場合もある。

    そして、さまざまな失敗・挫折の経験は、それに諦めずに努力を続ける人には、「失敗は成功の元」というように、最終的な成功にたどり着くための貴重な経験・ステップであり、智恵を深めるものである。この背景には、失敗なく、簡単に達成できるものは、さほどの価値はないという道理がある。失敗・困難という苦しみは、逆に言えば、取り組んでいる課題に価値があることを示している。

    こうして、苦しみの裏には、さまざまな喜びを見出すことができる。


    14.困難・苦しみを乗り越える努力が脳の発達・進化を促す

    さて、最新の脳科学によると、困難を乗り越えるために立ち向かうときに、人の脳は、訓練され、機能が向上するという。その際、脳は、普段のリミッターを外して全力で活動するのである。

    というのは、脳にとって、困難とは、直ちにはその問題の解決法がわからないものだからである。そのため、巷で流行った脳トレゲームなどは、すぐにその答えがわかってしまうために、脳の訓練・機能向上には、実際にはあまり役に立たないという。

    ただし、困難があれば、どんな場合も脳が発達するかというと、そうではない。困難によって潰れてしまった人の事例があるように、困難に際して、心がそれを乗り越えようとすれば、脳はフル活動して、成長するものの、心がそれを諦めてしまうと、脳は活動をやめて、そのため退化してしまうのである。

    そして、脳は、そもそも、鍛えなければ30~40代で老化を開始するという。そして、長寿社会では、高齢者の精神・知能の疾患の増大が問題になっている(認知症は、90代は8割。老人性うつ・自殺、感情暴走などの問題)。

    この要因の1つに、高齢期の多くの喪失体験(仕事・社会的な地位、配偶者・友人・交友関係、自宅・生きがい等を失う)がある。最近は、高齢者に限らないが、単身者の増大、孤独の問題が、精神疾患・認知症・集中力などの知力の悪化の問題をもたらしている。

    この老化は、脳の前頭葉(人間らしい脳)から始まる。前頭葉は、理性・感情制御・意欲・想像力・新しいものへの意欲などを司る。すなわち、老化は気(意欲)から始まるのである。すなわち、脳や体を使う意欲が減退し、それを使わない、鍛えないために、記憶力などの他の脳の機能が老化する(「記憶力が悪くなった」と感じる前に、脳や体の使い方が減っている)。

    一方、脳は、何歳になっても新しい神経細胞が生まれることが発見されている(1997年に発見。それまでの脳科学の常識を覆す大発見とされる)。ただし、脳を鍛えない場合は、その新しい神経細胞は、定着せずに消えてしまうのである。

    そのため、アルツハイマー病で脳の一部が損なわれても、他の脳の部分がそれを補うように発達して認知症を発症しない高齢者や、膨大な記憶が必要な職業では(例えばイギリス・ロンドンのエリートタクシードライバー)、その記憶の訓練の前後で、脳の機能(神経ネットワーク)だけでなく、その外形まで大きく変化するという事実が発見されたという。

    こうして、困難や苦しみを乗り越える努力を前向きに行うことは、脳を発達・進化させて、長期的な幸福をもたらすのである。


    15.「老年的超越」状態の超高齢者の至福感も、困苦を乗り越えた結果

    1990年代に、「老年的超越」現象が発見され始めた。それは、超高齢者の一部が、悟りの境地を得ているような現象である。

    彼らは「今が一番幸せ」と言う。そして、健康状態に満足し病苦がなく、今日生きられることに感謝し、死の恐怖がない。人間関係も不満・孤独感・寂しさがなく、逆に他者への感謝や無償の愛、さらには、万物とつながった感覚(宇宙意識)を持つ人もいるという。そして、人生で起きたいろいろな事には(困難・苦しみを含めて)、全て意味があるという考えを持つことが多いという。

    この老年的超越の状態の人は、その定義によって異なるが、超高齢者の数%から2割ともいわれる。しかし、その人たちは、順風満帆な人生ではなく、別離・病苦など多難な人生を乗り越えてきた人に多いことがわかっている(それに加えて、より高齢な人に多い)。

    すなわち、さまざまな困苦を前向きに乗り越える中で、(特に感情を制御する前頭葉などの)脳機能が(若い時よりもさらに)向上したのではないかと思われる。よって、老年的超越を研究している高齢者心理学者は、人間には、思春期に続く第二の心理的な発達(脳機能の発達)が、高齢期にあり得るのではないかとしている。

    これは、今後の人類の可能性として、従来の常識を覆し、加齢とともに幸福が増していく「尻上がりの人生」があり得ることを示している。思春期に、大人になる「理性」が発達し、高齢期には、理性の極致の「悟性」を得る人生である。

    そして、仏教の思想では、仏道修行は、この尻上がりの人生をもたらすものであると説かれている。仏教では、老・病の苦しみは、その苦しみから解放される悟りの境地に向かうことを修行者に促すものであり、その意味で、悟りに導く仏の御使い(みつかい)とも説かれる。そして、死というものは、身体から解放されて最高の悟りを得るものだという思想がある。その象徴として、80歳の高齢で死ぬ寸前まで、智恵に富んだ教えを説き、平安で堂々とした大往生(入滅・涅槃)を果たした釈迦牟尼自身の人生がある。


    16.努力できるという自信を得るいくらかのコツ

    先ほど多少述べたが、レジリエンス(立ち直り)の心理学から、努力をする上で役に立つ自信の身につけ方をいくつか紹介する。何かの努力をする前に、それが「できない」と思ってしまっては、なかなか努力はできないからである。

    第一に、最初から無理に大きな目標・課題を立てずに、まず、頑張ればできる小さな目標・課題を設定して、それを着実に実行しながら、少しずつ、目標・課題を大きくしていくことである。実行できれば、それが自信になり、それが継続されるうちに、心身が徐々に向上していくからである。

    一方、最初から、無理に大きな目標・課題を立てて実行しようとすると、短期間は頑張れたとしても、長続きしない場合が多く、そのため、自信を失ってしまう可能性がある。これについても、焦らず弛まず、無理せず怠けずの原則がある。

    第二に、他の成功体験をいろいろな形で学ぶことで、「自分も達成したい」、「自分も達成できる」という意欲と自信を強めることができる。ただし、他に対する妬みが強すぎる場合は、他の成功体験を自分の励みにすることができない場合があるので、妬みには注意するべきである。

    そのためには、自分と他人を比較しすぎずに、優れた他人は、自分の見本・教師であり、劣った他人も自分の反面教師と考えて、「自分の学びの対象、自分の導き手である」と考えるのが理想である。他への妬みや見下しは、自分の学びや努力に逆行する面がある。

     

    17.先を見すぎずに、毎日毎日の努力に集中する

    努力を継続することの重要性を説いたが、その場合、「今後、どのくらい長く努力をすればいいのか」ということを考えすぎてしまって、努力がしにくくなることがある。これは何かの労苦・苦しみに耐える場合もそうである。

    例えば、いつ終わるとも知れない高齢の親の介護の労苦のあまり、子供が親と無理心中をはかる例があるが、これに対して、ある禅の高僧は、「一体いつまで続くのか」と先のことまで考えることをやめ、一日一日を区切って考え、毎日毎日、その日の務めを果たし、その日の休みを取ると考えて、淡々と生きるならば、気づいてみれば、介護が終わる日がやってくると助言している。

    これは、仏道修行における「飽くなき精進」の教えにも通じる。先ほど紹介した経典の言葉の中に、「まるで、ゆったりと流れ続ける大河のように、完全なる仏性(悟り)を得るまで、貴方はゆったりとして飽くことなく、修行に打ち込んでいくのである」というものがある。大河の水は、毎日毎日、焦らず弛まず、ゆったりと一歩一歩進んでいくが、そうしているうちに、気づいてみれば大海に至るのである。これを言い換えれば「なすべきことをなして天の時を待つ」という感覚だろうか。

    これは、先ほど述べた、「努力できるのは、今日・今である」という視点とも関係する。これを言い換えれば、今日・今だけ努力すればいいのである。ところが人は、「これからどのくらい努力しなければならないのか」と思って、今日・今の努力の労苦だけではなく、遠い未来までの労苦まで、苦しむことがある。さらには、未来の労苦に加えて、過去の努力不足を後悔して、苦しむこともある。

    こうした未来や過去に苦しむことは、不必要なことである。遠い未来までの労苦ではなく、今日の労苦にのみ、耐えればいいのである。過去の努力不足についても、それを反省して、改善の努力をしているならば、その今の努力に集中して、忘れてよいのである(今の努力に集中すれば、自ずと忘れるものである)。


    18.目標を立て粘り強く努力する力を強める感謝や慈しみ:展望的記憶

    最新の脳科学の理論によれば、人の脳には、社会脳(自分の中の神)という機能があり、利他の心・行動(感謝・慈悲)によって、幸福ホルモンが出て、過剰な敵意・攻撃・不安・恐怖によってストレスホルモンが出るという。

    幸福ホルモン(エンドルフィン・オキシトシン・セロトニン)は、幸福感・心身の健康・知力・実行力・人間関係を改善し、過剰なストレスホルモン(コルチゾール・アドレナリン)の分泌は、逆に、心身の不健康・知力・実行力・人間関係を悪化させるという。科学的に見ても、「情けは人のためならず」「人を呪わば穴二つ」であることがわかる。

    そして、幸福ホルモンは、記憶を司る脳の海馬を活性化し、記憶力を高め、ストレスホルモンは、逆に、海馬を委縮させて、記憶力を低下させるという。さらに、この海馬の機能には、過去の記憶を保持・再生することだけではなく、未来に関する展望的記憶という機能があり、この機能が強い場合は、人生にヴィジョンを持ち、目標を立てて、それに向かって粘り強く努力をすることを助けるという。

    こうして、脳科学の視点から見て、感謝や慈しみの強い人は、心身の健康・知力・人間関係が改善するとともに、粘り強く努力する能力=精進の能力も高まることがわかる。そして、仏教が説く重要な実践徳目・実践課題である慈悲と智慧(智恵)と精進は、一体となって高まっていくことがわかる。

    また、京都大学の藤井聡教授の心理学的な調査の結果では、幸福になる人(幸運に見える人)は、利他心の強い人であることが判明したという。利己的な人は、短期的には、効率的に自分の利益を得ることがあるが、長期的には、不幸になることが判明したという(認知的焦点化理論という)。これは、利他心の強い人は、その人を幸福にしようとする多くの人によって、長期的には、幸福がもたらされるからだという。利己的な人は、その逆であろう。

    そして、人が、何かに向かって努力することを考えた場合も、自分の努力自体が、よく考えれば、さまざまな他によって支えられているものであるから、利他的な人こそ、多くの人の支えによって、努力を深めていくことができるということになると思う。


    19.自と他の優劣の比較の問題と、精進・努力

    心理学によれば、現代社会は、自己愛型社会といわれ、自分が他と比較して勝っているか否かで、幸福・不幸を感じるという。競争社会が、これに拍車をかけていることもあるだろう。

    一般には、劣等感・自己に対する不満は、それを挽回するための努力を促す面がある。しかし、優劣にとらわれすぎた場合は、逆に努力ができなくなり、さまざまな歪んだ心や行動の問題を作り出すことが知られている。

    具体的には、第一に、劣等感を感じることを嫌って、他から引きこもってしまうパターン(劣等コンプレックス)である。この場合は、当然、努力することはやめてしまい、徐々に退化・老化する。

    第二は、無理に優越感を感じるための行動に出るパターン(優越コンプレックス)である。例えば、ことさら他人を貶めたり、他人に責任転嫁をしたりする。また、他人から見れば有難迷惑の行為を働いたり、優越感を感じる妄想にのめり込む(これは、詐欺にあったり、陰謀論にはまったりする原因にもなる)。また、勝利のために、裏で不正行為に手を出すなどである。これでは、明らかに健全な努力はなされえない。

    また、脳科学的に見れば、優越感を求めるあまり、他に対する攻撃的な心や行動が強まると、上記のストレスホルモンが過剰に分泌されて、自分の心身・知力、そして、目標を立て粘り強く努力する力(展望的記憶)を損なうことになる。こうして他者との優劣にとらわれすぎると、いろいろな意味で、健全な努力ができなくなるのである。


    20.他との優劣の比較にとらわれすぎず、切磋琢磨による皆の成長を重視する価値観

    本来、優劣とは、単なる比較の結果であり、比較の対象が変われば優劣は逆転する。さらに、短所と長所は、裏表の面があって、自分より劣っている一面だけを見て、他者をあなどってはいけない。自分より劣っている者を反面教師として学んだり、その長所をあなどらずに、学び取ったりする必要がある。

    しかし、人は、それを怠ることが多い。というのは、「他より自分が優れている」という優越感の自己愛に溺れてしまい、いわゆる慢心に陥って努力を怠るようになり、その結果、堕落・落下する。逆に、他より劣っていても、劣等感に没入せずに、自分の成長を重視するならば、自分より優れた者を、見本・教師として見て学んで成長することができる。また、自分と同じく劣った者の気持ちを理解して助ける、優しさ・慈悲という優れた徳性も培うことができる。

    仏教思想でも、他との優劣の比較、優越感・劣等感にとらわれすぎる限り、優れた者と劣った者は、時とともに、容易に入れ替わると説く(六道輪廻の思想など)。

    こうして見ると、人は、他に勝ることばかり重視せず、自分が成長する(ための努力を続ける)ことを心掛け、何かの競争的な構造の中に自分があったとしても、それによる他との切磋琢磨を通して、皆が互いに成長することを重視することが重要だと思われる。

    これは、競争の本来の意味とは、勝って幸福になり、負けて不幸になる者を決めることではなくて、全体が向上するための切磋琢磨であるということに立ち戻ることでもある。


    21.禅の説く「今ここの」教え

    禅の教えに、「今ここの」というものがあるとよく聞く。今ここの悟り、今ここの幸福といったほどの意味ではないかと思う。

    人は皆、「今よりもっと」「他人よりもっと」と際限なく何かを求めて、幸福になろうとするが、仏教の教えから見ると、そうして際限なく求めてばかりいては、逆に、さまざまな意味で苦しみ、時とともに苦しみが増えていくのが人生である。

    具体的には、求めても得られない苦しみ、得て執着したものを失う不安や失う苦しみ、皆が求め奪い合って憎しみ合う苦しみなどを避けることはできない。さらに、老い病む中で、ますます得られにくくなり、失うものが増え、他には奪い負けることが多くなって苦しみは増え、最後は、死んで全てを失う苦しみを経験する。

    こうした生き方は、絶えず、「まだまだ足りない」という不満と、「未来にもっと欲しい」という欲求と、「それがかなわないのではないか」という不安を抱えている。絶えず不満と不安を抱えながら生きているから、充足している、満ち足りている時が一日もなく、一瞬たりとてない。人は、今この時に生きているが、こうした生き方では、今この時を楽しむこと、今この時の幸福を感じることができない。そのまま一生を終える恐れさえある。

    結果として、皆さんは、最近、一瞬でも満ち足りた瞬間を経験したことがあるだろうか。私がこの質問をした数十名の人には、一人も、「したことがある」という人はいなかった。場合によっては、生まれてこの方、そうした瞬間の経験の記憶がない人も多いかもしれない。

    これは、前に述べたように、多くの人が、無意識的に、絶えず、過去の自分と今の自分、今の自分と今の他人の優劣を比較して、「今よりもっと」、「他人よりもっと」と、際限なく恵み(比較に基づく一種の優越感)を求めているからである。このことを心理学では、現代人の幸福は、自己愛が充足されるか否かによって左右されると表現することがある(自己愛型社会)。

    しかしながら、瞑想を含めた私の経験では、人は、自と他の区別と比較を超えた、安定した大きな心にたどり着いた時にこそ、真の幸福・充足を感じるものだと思う。その時には、「自分が幸福になるためになすべきことが実現した」という実感をともなうと思う。

  • 仏教とヨーガの思想の根幹と実践の基本

    以下のテキストは、2018年夏期セミナー特別教本『仏教・ヨーガの根幹の思想と実践 ポスト平成の思想と神秘体験の科学』第2章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。


    1.ヨーガの本来の意味

    「ヨーガ」の原意は、体操ではなく、心のコントロールである。ヨーガの根本経典とされる『ヨーガ・スートラ』には、厳密な表現で「心の作用の静止・制御」とされており、「(日常的な)心の働きを止滅すること」などと解釈される。すなわち、(日常的な)思考や感情といった心の働きを静止させた状態であり、それは、究極的な心の安定と集中の状態である。

    ヨーガは、「牛馬にくびきをつけて車につなぐ」という意味の動詞(ユジュ)から派生した名詞で、「結びつける」という意味もある。つまり語源的に見ると、普通は自分の思いのままにならずに動き続ける心を牛馬に例えて、牛馬を御するように、心を制御するということを示唆している言葉である。


    2.ヨーガの本来の目的

    ヨーガの本来の目的について、『ヨーガ・スートラ』では、「ヨーガとは心の作用を止滅することである 」(『ヨーガ・スートラ』1-2)」、「その時、純粋観照者たる真我は、自己本来の姿にとどまることになる」 (『ヨーガ・スートラ』1-3)」と説いている。こうして、ヨーガは、心の作用を止滅して、「真我」の本来の姿に至ろうとするものである。

    ここで「真我」とは何かというと、サンスクリット原語はアートマン(Ātman)であり、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。これは「最も内側 (Inner most)」を意味する サンスクリット語のアートマ(Atma)を語源としている。

    よって、真我は、個の中心にあって、認識をするものであるが、知るもの(主体)と知られるもの(客体)の二元性を超えている。すなわち、主体と客体、自と他の区別を超えた意識である。

    ヨーガは、心の作用を止滅して、この真我の意識状態に至ろうというものである。
    そして、この状態は、インド哲学が説く人生の究極の目的とされる輪廻転生からの「解脱(モークシャ)」を果たした状態でもある。よって、心の働きを止滅して、解脱を果たすことが、ヨーガの目的であるということができる。

    また、真我(アートマン)は、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる(梵(ぼん)我(が)一如(いちにょ))。ウパニシャッドと呼ばれる経典では、アートマンは不滅であり、生存中は人の体の心臓のところに宿るとされている。


    3.ヨーガの古典的修行体系:八段階の修行

    『ヨーガ・スートラ』に示された古典ヨーガは、主に観想法(瞑想)によるヨーガである。そのため、体操を含んだ後期のヨーガに比較すれば、静的なヨーガである。

    そして、その具体的な実践方法は、アシュターンガ・ヨーガ(八階梯のヨーガ)といわれ、以下の通りである。

    ①ヤマ(禁戒) してはならないことを示した戒律
    ②ニヤマ(勧戒) するべきことを示した戒律
    ③アーサナ(座法・体位法) ヨーガ体操と瞑想座法
    ④プラーナーヤーマ(調息法・調気法) 呼吸法による気(プラーナ)の制御
    ⑤プラティヤーハーラ(制感) 感覚・五感の制御
    ⑥ダーラナー(凝(ぎょう)念(ねん)) 一点に対する精神集中
    ⑦ディアーナ(静慮) 集中の拡大
    ⑧サマディ(三昧) 超集中状態(主体と客体の合一)

    仏教では瞑想のことを「禅定」というが、禅定とは、「禅」と「定」の複合語であって、禅が、上記のディアーナ(静慮)に由来する言葉で、ディアーナが音訳されて、ゼンナとなり、禅になったものである。定は、上記のサマディ(三昧)に由来する言葉で、サマディが音訳されて三昧となり、それを意訳して定となったものである。

    そして、禅=ディアーナは、静慮と訳され、定=サマディは、三昧=超集中などと訳されるので、心が静まった深い集中状態を意味するが、仏教でも、禅定は、瞑想による心の安定・集中を意味する。そして、これは、心の働きの静止・制御を意味するヨーガの本来の意味とも非常に近い。


    4.仏教の本来の意味:仏陀とは目覚めた人

    仏教とは、文字通り、仏=仏陀・ブッダの教えである。ブッダとはサンスクリット原語で、目覚めた人、覚醒者、覚者といった意味がある。これを言い換えると、智慧を得た人という意味である。

    仏教開祖のゴータマ・シッダッタは、その最初の説法(初転(しょてん)法輪(ぼうりん))で、この教えは、目を開かせ、智慧を生じさせ、心の寂静、涅槃(悟りの境地)などを与えるとした。

    智慧とは、物事をありのままに見る認識力であり、仏教用語でいえば、縁起や空の道理を理解することである。

    縁起とは、一切の事物が他から独立しては存在せず、相互に依存しあって存在していること(万物相互依存)であり、空とは、一切の事物が他から独立した固定した実体を持たないことを意味する。縁起と空は本質的には一体の概念であり、相互に依存しあって存在しているから、一方が変われば他方も変わり、固定した実体がないということである。

    縁起や空といった難しい概念を使わずに、智慧を分かりやすく表現するならば、物事の全体を認識する力、物事を俯(ふ)瞰(かん)する力とでも表現することができる。

    それは、自分だけではなく、自分と他人のつながり・相互依存を把握する力であり、物事の今現在だけではなく、それが移り変わっていく未来まで把握する力などを含む。

    よって、智慧とは、仏陀の無我の教え(他から独立した私・私のもの・私の本質といったものはない)や、無常の教え(物事は移り変わる)を理解する力とも表現できる。

    よって、完全な智慧を得た仏陀は、世界の全時空間に合一しているなどとも説かれることがある。意識・心の視野が広大無辺に拡大した状態である。よって、この智慧は、仏陀の広大無辺な愛の心である大慈悲・四無量心と一体である。智慧と慈悲は、仏陀の二大徳性ともいわれる。


    5.智慧の対極の無智

    一方、仏陀ではない普通の人(凡夫)は、精神的に目覚めていない者(夢者)ということになる。そして、普通の人は、智慧を獲得しておらず、物事をありのままに見る力がない。これを無智(痴)という。

    よって、無智とは、智慧がない、縁起や空の道理を理解していない、万物の相互依存性・固定した実体の欠如を理解していない、物事の全体を把握する、俯瞰する力がない、無我や無常の教えを理解していない状態ということができる。

    結果として、無智によって、自分と他人のつながりと物事の無常性を理解しないがゆえに、自と他を区別して自己を偏愛し、自分と自分の物を際限なく欲求して(貪り)、それを阻むものに対して怒ることになる。これが無智から貪りと怒りが生じるプロセスであり、無智・貪り・怒りを心の三毒(貪・瞋・痴)という。

    こうして智慧と慈悲、無智・貪り・怒りがセットである。


    6.初期仏教の修行の目的:苦しみを取り除く

    仏教の修行の目的は、仏陀の最初の説法(初転(しょてん)法輪(ぼうりん))に説かれている四(し)諦(たい)の教えに明らかである。四諦とは以下のとおりである。

    ①苦(く)諦(たい):この世は苦である。一切は苦である。
    ②集諦(じったい):苦は煩悩によって生起する。
    ③滅諦(めったい):煩悩を滅すれば苦は滅する。
    ④道(どう)諦(たい):煩悩と苦しみを滅する道は八正道である。

    ここで、この世は苦である、ないし一切は苦である(一切皆苦・一切行苦)という教えの中の「苦」の原語であるドゥッカは、単純に苦痛という意味ではない(仮にそうだとしたら、この世には明らかに苦痛と快楽の双方がある以上、この教えは合理的ではないことになる)。

    それは、不安定な、困難な、望ましくないといった意味がある言葉である。よって、このドゥッカという言葉は、どんな喜びも時とともに変化する不安定なものであり、自分の思いのままにすることは困難であり、それにとらわれることは望ましくないといったほどの意味があると思われる。

    そして、この四諦の教えから明らかなように、仏陀の教え・修行の目的は、苦しみの原因を明らかにした上で、苦しみを取り除くことである。


    7.苦しみの原因は煩悩であり、その根源は無智である

    そして、苦しみを取り除くために、苦しみの原因を見ると、それは煩悩であると仏陀は説く。この苦と煩悩の心理的な因果関係が、仏陀が説いた最初の「縁起の法」である。

    後に縁起の法の概念が複雑化・拡大したため、この最初期の縁起の法を「此(し)縁性(えんしょう)縁起(えんぎ)」と呼ぶことがある(一方、先ほど述べた万物が相互依存であることを意味する縁起の法は相(そう)依(え)性(しょう)縁(えん)起(ぎ)と呼ばれる)。

    そして、先ほど述べた通り、仏陀によれば、煩悩の根源は無智であり、無智から始まって、貪りや怒りをはじめとする様々な煩悩が生じる。そして、無智を根本として、貪りや怒りといった様々な煩悩、様々な執着・とらわれが生じると、それによって様々な苦しみに至る。

    そのプロセスを十二の段階に分けて詳しく説いた教えが「十二縁起の法」と呼ばれるが、ここではその詳細は省略する。


    8.人間の苦しみ:四苦八苦・三苦

    そして、仏陀・仏教が説いた人間の苦しみとは、四苦八苦や三苦という教えに説き明かされている。

    四苦八苦とは、

    ①生
    ②老
    ③病
    ④死と、
    ⑤求不得苦(ぐふとくく:求めても得られない苦)
    ⑥愛別離苦(あいべつく:愛する者と別れる苦)
    ⑦怨憎会苦(おんぞうえく:憎しみの対象と会う苦しみ)
    ⑧五蘊盛苦(ごうんじょうく)ないし、五取蘊苦(ごしゅうんく:一切にとらわれることの苦しみ)である。

    ここで、生老病死の中の「生」の苦しみとは、出産は母子ともに危険で大きな苦しみを伴い、またどのような子供が生まれるか定かでないといった苦しみを指している。

    そして、そうして生まれても、必ず老い・病み・死ぬという苦しみがある。残りの四つに関しては、何かにとらわれて求めても得られない苦しみがあり、得て執着したものを失う苦しみがあり、求める限りは奪い合い憎み合う苦しみがあり、よって、一切のとらわれは苦しみであるといった意味がある。

    また、三苦という教えは、苦苦(くく)・壊苦(えく)・行苦(ぎょうく)であり、苦苦とは、心身の苦痛そのものである苦しみであり、壊苦とは、喜びであるものが壊れる時の苦しみである。行苦については、この「行」は(一切の)存在という意味であるから、一切の存在がドゥッカである(不安定で、困難で、望ましくない)という意味であり、一切の存在の無常性による苦しみを意味する。

    以上をまとめれば、仏陀は、①苦しみの原因は煩悩であり、②それを詳しくいえば、無智によって貪り・怒りといった煩悩が生じて、様々なとらわれが生じる結果として、四苦八苦や三苦といった苦しみが生じるから、③無智を解消するための智慧を培う修行をすべきであると説いたのである。


    9.智慧を得る道程:三学・八正道

    そして、智慧を得る具体的な実践法として説かれたのが八正道であるが、その要点は「三学」という教えに集約される。この三学とは、仏教の要となる三つの学習修行の実践項目であって、①戒(戒律を守る)、②定(禅定=瞑想の実践)、③慧(智慧)である。すなわち、戒律を守って、瞑想を行い、智慧(悟り)を得るということである。

    これは、仏教の最も基本的な修行の体系である。そして、三学の教えよりも、より細かく修行の実践課題を表しているものが八正道や、それを含めた七科(しちか)三十七(さんじゅうしち)道品(どうぼん)と呼ばれる修行体系であるが、それらすべてに共通する基本的な修行体系が三学である。


    10.ヨーガと仏教の修行体系・目的の違い

    ヨーガと仏教の修行の体系や目的の違いは、ここまで見てきたことからわかるように、ヨーガは禅定(=瞑想による心の安定と集中)に終わるが、仏教はそれに終わらず、禅定によって、物事をありのままに見る智慧を得ようとする点である。

    この禅定と智慧は、仏教の要となる概念であり、別の表現では、止と観(サマタとヴィパッサナー)という。心が静止すれば、物事をありのままに見る(観る)ことができるという意味である。そして、禅定と智慧、止と観は、相互依存の関係にあって循環しており、①瞑想による心の安定と集中(禅定・止)を努めて深めれば、物事をありのままに見る力(智慧・観)が深まり、②同様に、物事をありのままに見ることに努めれば(智慧・観)、禅定・止も深まる。

    一方、ヨーガには、アーサナ(座法・体位法)やプラーナーヤーマ(調気法)といった身体行法が瞑想の準備段階として説かれている点が、仏教と比較した場合の特徴となっている。ただし、仏教の中でも密教の宗派は、ヨーガとの交流・混合が進み、ヨーガの身体行法が多分に取り入れられているものがある。

    そして、日常の行動をコントロールする戒律が、瞑想の土台になっている点は、ヨーガと仏教の共通点である。


    11.ひかりの輪の修行の四つの柱

    さて、初期仏教・ヨーガの修行の重要な目的が、前にも述べた通り「心のコントロール」であるが、そのための手段に関して、ひかりの輪は、初期仏教・大乗仏教・ヨーガなどの古今東西の修行法を総覧して、以下の四つにまとめあげている。

    ①教学:教えを学ぶ→思考・想念の浄化
    ②功徳:戒律の実践→日常の行動の浄化
    ③行法:身体行法→身体の浄化
    ④聖地:自分の身を置く環境の浄化

    この教学・功徳・行法・聖地は、上に示した通り、思考・行動・身体・環境の浄化を意味する。そして、心は自分の意思では、直ちにコントロールすることはできないものだが、この四つは心と深くつながっており、この四つを浄化・コントロールすることで、間接的に心を浄化・コントロールすることができるのである。


    12.環境の浄化:自分の体の外側の要素の浄化

    (1)住環境:自分の身を置く環境

    ①自室:整理整頓・掃除・換気、心が落ち着く視覚・聴覚・嗅覚の情報。
    仏画・自然写真、クラシック・瞑想音楽・聖音、瞑想香・アロマ
    ②野外の自然に親しむ:理想は特段浄化された気の場所(パワースポット)

    (2)飲食物

    ①バランスがとれた自分の体質に合ったもの:極端な食養学は盲信しない。
    ②避けるべきもの:食べすぎと冷たい物の取りすぎ。

    (3)衣服

    ①体を締め付けず、気の流れを阻害しないもの。
    ②伝統的な瞑想補助ツール:①貴石(個人に合ったもの)②仏教法具

    (4)人間関係

    ①何事も学びは個人よりも、切磋琢磨する集団の方が進みやすい。
    ②他人の言葉・行動から学び、さらには心から以心伝心で学ぶという思想。
    ③釈迦の教え:①良き友と交わる ②サンガ:仏道修行者の集いの重視
    仏教の三宝:ブッダ(仏)・ダルマ(仏の教え)・サンガ


    13.日常の言動の浄化

    (1)心が安定する言動を選択し、不安定にする言動を避ける。

    心理学の選択理論:感情は選択できないが、行動・思考は選択できる。

    (2)仏教をはじめとする各宗教には、日常行動を規定する戒律がある。

    三学の教え(戒・定・慧)が説くように、戒律を守る生活が、心の安定と集中をもたらす瞑想の土台となる。
    心の安定をもたらす行為が善行(功徳)、その逆の行為を悪行(罪)と解釈される。

    (3)健康的な生活習慣も、日常の言動の浄化(戒律)の一部である

    ①住環境を整える(上記の通り)
    ②適度な運動をする(有酸素運動。ヨーガのアーサナ・プラーナーヤーマなど)
    ③適切な飲食(上記の通り)
    ④規則的な睡眠(夜更かしを避ける)
    ⑤入浴(下記の通り)
    ⑥良い姿勢・呼吸(下記の通り)
    ⑦気の流れを阻害しない服装(上記の通り)

    良い生活習慣は、生活習慣病や精神的な病気を回避し、健康・長寿・若さを保つことにも役立つ。


    14.身体の浄化

    (1)仏教・ヨーガ・気功などの身体行法

    ①アーサナ(体位法・座法):体をほぐし、気の流れを改善、座法を安定化。
    ②プラーナーヤーマ(調気法):気の流れを改善し、心の安定・集中力を高める。
    ③その他:クリヤヨーガ、気功法、歩行禅(歩行瞑想)

    (2)入浴:体をほぐし、血流・気の流れを改善する

    入りすぎは禁物、温泉は古来仏教僧の聖地(その後大衆化された)。
    時間がなくシャワーの場合、多少熱めで十分に浴びる。

    (3)真言(マントラ):心が安定する言葉を唱える

    これに関連して、巻末の参考資料の「身体心理学」の研究結果が示す通り、体の使い方と心の状態には、深い関係があることがわかっている。その一部は以下のとおりである。

    ①筋肉の状態:筋肉を弛緩させると、リラックスし、ストレスが減少し、免疫力が増大する。
    ②呼吸の状態:腹式呼吸で長く息を吐くと、心拍・血圧が低下、ストレスが減少する。
    ③姿勢:うつむきの姿勢はネガティブな気分、背筋を伸ばすと前向きになる。
    ④発声:アー音は開放的な気分、ウーン音はゆったりした気分、ウン音は温かい気分をもたらす。

     

    15.思考の浄化

    (1)思考と感情・心は深く連動しており、習慣化・自動化している。

    心理学の認知療法が説くように、否定的な思考とそれに連動する否定的な感情の習慣がある。
    自動思考・自動感情。

    (2)心が安定するものの見方(=仏陀の教え)を体得することが重要である(仏陀の智慧=正見を得る)。

    止と観の教え:心が静まると物事が正しく見える。正しくものを見れば心が静まる。

    (3)仏陀の教えを学ぶ際の注意

    単に知識として吸収せずに、その是非をよく吟味して、論理的に十分に納得した上で修習する。
    そして、絶えず法則を思念する(正念の教え)。

    (4)思考の浄化=智慧の獲得の3つの段階

    ①知識の学習:教えを学んでいるが確信していない。
    ②論理的な理解(推理智):教えの正しさを論理的に確信。
    ③瞑想による直観:教えを瞑想による直接体験で体得。


    16.瞑想直前の準備

    瞑想を行う場合、いきなり行うのではなく、以下の準備を心がける。

    (1)環境の浄化:瞑想する場の掃除・整理整頓・換気により、気の流れをよくする。

    加えて、心が静まるような仏画・聖音・瞑想香を用いた霊的な浄化が望ましい。

    (2)適度な運動を行う(例えば上記のアーサナなど)。

    (3)姿勢を整える。以下の三つの点に注意する。

    ①座法:安定した座り方(できればヨーガの座法)。
    背筋を真っ直ぐにして、肩などの体の力を抜く。
    ②手印:手の組み方。合掌・定(じょう)印(いん)など各種ある。
    緊張しているか眠気があるかなどによって選択。
    ③目・視線:しっかり開ける、半眼、目を閉じるなど各種ある。
    緊張しているか眠気があるかで選択する。顔は下を向きすぎないように。

    (4)呼吸法を行う。


    17.瞑想の際の注意点

    (1)真言瞑想や読経瞑想の時の注意点

    三密加持といわれ、①身(身体)、②口(言葉)、③意(意識)の3点において、仏陀に近づくようにする。身体においては、上記の通り、座法、手印、目・視線などにおいて正しい姿勢を保ち、言葉においては、真言・読経をしっかり唱え、意識においては、仏陀・仏陀の教えなどを思念する。

    (2)瞑想のタイミング

    朝起床後に瞑想すれば、1日全体の心や行動が、エゴ・煩悩から離れた、よいものとなりやすい。「初めよければ」ということ。普通の人は、寝ている間は意思が働かないから、朝起きた直後は、エゴ・煩悩が生じている。

    また、夜眠る前に瞑想すれば、その日の心や行動の汚れを、その後の睡眠や翌日に持ち越さずに済み、よい睡眠状態(=瞑想)を得ることができる。その日1日を反省する機会にも。

    (3)瞑想による智慧と煩悩の解消

    瞑想による心の安定と集中は、物事をありのままに見る力=智慧・悟りを与える。そして、この智慧が強まるほど、無智・貪り・怒りという3つの根本煩悩が和らぎ、他の煩悩も和らいで、苦しみが解消していく。

    人の苦しみの根本原因である根本的な煩悩(三毒)は、無智・貪り・怒りである。これを言い換えれば、智慧が生じると、自分の苦しみが、①貪り(欲張りすぎ)、②怒り(嫌がりすぎ)、③無智(間違った見方・今の自分さえよければという怠惰など)が原因であることに気づいて、それを解決・解消することができる。

    (4)感謝の瞑想は覚醒の扉となる

    感謝の瞑想を深めて広げていくならば、①自分の得ている恵みの膨大さ、②自分の苦しみの裏にある恩恵、③自分の慢心・罪、④恩返しとしての利他の実践の重要性、⑤万物が一体である真理などに目覚める(気付く・悟る)ことができる。この詳細に関しては、2018年GWセミナー特別教本『ポスト平成の新しい生き方・感謝の瞑想:仏陀の覚醒の扉』を参照されたい。


    18.心のコントロールの様々な恩恵

    (1)精神的な苦しみの解消、心の安定・幸福、苦しみに対する強さを得る

    究極的には、苦しみを喜びに変える生き方を体得し、仏陀の智慧・慈悲に近づく。

    (2)健康・長寿・若さ(仏教・ヨーガの修行と健康長寿の深い関係は第1章を参照)

    究極的には、強く良い気の流れによる身体的な快感を得る(仏陀の至福の身体・内的歓喜)。

    (3)知性の向上:感情に流されない合理的な判断力

    究極的には、静まった心に生じる直感力・インスピレーション(仏陀の智慧)を得る。

    (4)人間関係の改善:感情の暴走・奪い合い・憎み合いの解消

    究極的には、広く深い感謝と恩返しの心に基づく仏陀の利他心・慈悲・菩薩道の体得。

    (5)長期的な有意義な自己実現

    ①上記の心の安定・高い知性・健康・良い人間関係は、幸福の資源とされる。
    これによって、長期的な自己実現:時(=天)を味方に付けた生き方ができる。
    ②人生の前半は、学力・体力・容姿・財力などで負け組でも、心身の健康長寿を得て、
    後半は逆転して、最後は悟り(老年的超越)に至る人生が可能となる。

     

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  • 苦しみを滅する仏陀の哲学

    以下のテキストは、2017年GW特別教本『苦しみを滅する仏陀の思想と瞑想』第1章として収録されているものです。

  • 四無量心の教え:基礎編

    以下のテキストは、2016~17年年末年始特別教本『総合解説 四無量心と六つの完成』第1章として収録されているものです。

  • 仏教心理学の精髄:心の三毒と、智恵と慈悲

    以下のテキストは、2015年夏期セミナー特別教本『仏教の心理学』第1章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     


    1 心の三毒とは

       仏教は、心理学の要素がある。そして、人の心の働きを論理的に分析し、すべての煩悩と苦しみの原因として、(心の)「三毒」というものを説く。これは、すべての煩悩の根本となるものであり、そのために、すべての苦しみの根本原因と考えられている。

       三毒とは、貪り・怒り・無智の三つの心の働きである。仏教用語では、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)と表現する。貪=貪り、瞋=怒り、痴=無智である。そして、この三つの中で、無智が根本であり、無智が原因となって、貪りと怒りが生じているとされる。

     

    2 無智とは何か

       無智とは何か。これは非常に奥が深い。これを理解することは、仏教の精髄を理解することに等しい。仏陀とは、無智を超えて、智慧(智恵)を得た者とされる。よって、無智と智慧は対極的な概念であり、この二つを理解することは、仏陀とは何か、その悟りとは何かを理解することでもある。

       無智を一言で説明することは難しい。一言で説明してしまうと、逆にそのエッセンスが理解できない面がある。よって、本書では、無智を説明するために、様々な表現を使う。しかし、その表現はすべて同じことを意味している。


    3 伝統仏教の無智の説明

       まず、無智とは、物事をありのままに(正確に)認識することができないことをいう。ではありのままに、正確に認識できないというのは、どういうことであろうか。

       伝統的な仏教的な表現をすると、たとえば、無智とは、仏教の根本哲学である縁起の法を理解できず、それに基づいて事物を理解できないことと表現できる。なお、縁起の法とは、あらゆる事物が、他に依存し、相互に依存し合って存在しているというものである。

       また、無智とは、同じく仏教の根本哲学である空の思想を理解できず、あらゆる事物が空であることを理解できないこととも表現される。空とは、固定した実体がないことという意味であり、仏教(特に大乗仏教)では、あらゆる事物は固定した実体がないと説かれる。

       この縁起と空の二つの思想は、本質的に一体であり、同じことを言っている。なぜならば、縁起の法が説くように、あらゆる事物が他に依存し、相互に依存し合って存在しているならば、あらゆる事物は、他が変われば自分も変わり、自分が変われば他も変わるという関係にあり、その結果、空の思想が説くように、あらゆる事物は、固定した実体がないという結論となるからである。

       逆に、仏陀の智慧とは、あらゆる事物が縁起(相互に依存)しており、空である(固定した実体がない)ことを理解する強靱な認識力であると表現されることがある。


    4 簡明な無智の説明 (1) 自と他の区別

       このように無智を説明したとしても、皆さんの日常生活に役立つ智恵にはならないだろう。そこで、上記の意味をより噛み砕いた形で、無智の意味を説明した表現を紹介したいと思う。

       そうした無智の説明としては、「自と他の区別をする無智」というものがある。これは、人が、自己と他者・外界、例えば、自分と他人が、本質的には繋がっているにもかかわらず、それを別のものだと錯覚することを意味している。本当は一体なのに、別のものだと錯覚することを無智と言っているのである。

       その当然の結果として、この無智の状態にある人は、他人よりも自分に執着する状態に陥る。これが自我執着などと呼ばれている。具体的には、自分自身に加え、自分の物に執着するのである。

       なお、この応用編として、本当の自分は、自と他が繋がっていると認識しているのだが、その本当の自分を見失ってしまっていることを「根本的な無智」という場合がある。これは、まず、本当の自分を見失う根本無智があって、そのため、次に、自と他を区別する無智が生じるという理論である。

       さて、この自と他を区別する無智は、自と他の幸福を区別する心に結びつく。わかりやすく言えば、自分と他人の幸福は一体ではなく、別のものであるという意識である。自分の事だけを考える、エゴの心の働きである。


    5 簡明な無智の説明 (2) 目先の楽へのとらわれ

       また、別の無智の説明としては、「目先の楽を求める心の働き」という表現もある。これは、実際には、目先の楽の後には苦しみがあるにもかかわらず、その楽の部分しか見えず、裏の苦しみの部分がわからない心の状態である。

       これは、仏教が説く、苦楽表裏という思想と繋がる。すなわち、楽の裏には苦しみがあり、苦しみの裏には楽がある、という思想である。この視点からは、無智とは、苦しみを伴わない楽があるという錯覚(および、楽を伴わない苦しみがあるという錯覚)のことを言うのである。わかりやすく言えば、(人生は)楽があるから苦があって、苦があるから楽があるということである。

       以上の二つの簡明な無智の説明は、両方とも縁起の法と合致する。自と他を区別する無智は、自と他が相互依存の関係であることを理解しない状態である。楽があるから苦があり、苦があるから楽があることを理解しない無智は、楽と苦が相互依存の関係であることを理解しない状態である。


    6 簡明な無智の説明 (3) 今の自分さえよければいい

       さて、さらに噛み砕いた無智の説明をしたいと思う。それは、「今の自分さえよければいい」という心の働きである。

       前項で述べたとおり、自と他を区別する無智は、他よりも自分に執着する自我執着をもたらし、自分と他人の幸福を区別することにつながる。これをわかりやすく言えば、「自分さえよければいい」という意識である。

       次に、目先の楽にとらわれる無智とは、わかりやすく言えば、「今さえよければいい」ということである。よって、この二つの無智の説明を組み合わせて、わかりやすく表現すれば、無智とは、「今の自分さえよければいい」という心の働きと表現できる。

       このように無智を理解することは、人の様々な心の問題・煩悩・苦しみの根本原因を理解する上で非常に役立つので、ぜひ頭に入れておいていただきたい。


    7 簡明な智慧の説明

       それでは、無智の簡明な説明に基づいて、仏陀の智慧(智恵)というものを簡明に説明するとどうなるか。それは、「今だけではなく、長期的に(全体的に)、自分だけでなく、他と共に、幸福になることが、真の(自分の)幸福である」と理解している意識ということになる。

       これを噛み砕いて表現すると、第一に、目先の楽だけではなく、後先を見渡した長期的・全体的な幸福が重要だと理解していること。第二に、本当の(自分の)幸福とは、他人と共に幸福になることで、自と他の幸福は、本当は一体であると理解していることである。

       しかし、我々は、なかなかこのように思えないし、仮に頭ではわかっていたとしても、実際には、なかなか、このようには行動できないものである。そして、それは、無智が心を覆っているからだと仏教は説くのである。


    8 智慧と慈悲の一体性

       そして、智慧が生じるならば、慈悲が生じる。なぜならば、智慧とは、自と他の存在を一体と見て、自と他の幸福を一体と見る意識状態であるから、自ずと万物への愛が生じるのである。

       さらに、目先の楽にとらわれず、長期的な幸福を考えるため、他と共に幸福になる道をコツコツと地道に歩んでいこうとする。仏陀・菩薩は、すべての人々・生きものを救うために、延々と利他の実践に励もうとすると説かれているが、それは仏陀・菩薩の智慧から生じた慈悲であり、別の言葉では、菩提心と呼ばれている。


    9 無智から生じる貪り

       では次に、無智から生じる貪りについて説明したい。これは、自分にとって好ましいと感じるものを求める心の働きである。

       一見して、これは問題がないように思えるかもしれない。しかし、なぜ問題かというと、先ほど述べたように、目先の楽の後には苦しみがあり、自分にとって好ましいと思っても、それにとらわれて求め過ぎると、苦しみを招くからである。

       よって、より正確に言えば、貪りとは、単に自分に好ましいと感じるものを求めることではなく、それにとらわれて、生きていくに必要以上に貪り求める状態ということができる。そして、実際に、人は、この貪りの状態に非常に陥りやすい。

       たとえば、財や富、名誉や地位といったものへの欲求は際限がない。いくら得ても、もっと欲しくなる。そのため、求めて得られない場合の苦しみ、得たものを失う苦しみや不安・恐怖、さらに、他人と奪い合うことによる怒り・憎しみ・妬み・不安・恐怖といったものが生じる。これらの苦しみは、得れば得るほど逆に大きくなるのである。

       よって、仏教では、苦楽表裏と言う。得れば得るほど苦しみも増える。すなわち、楽の裏には苦しみがある。すなわち、多くを得た者の重たさ・苦しみである。逆に、それほど得なければ、そうした苦しみは生じない。すなわち、得ていない者の気楽さである。

       こうして、貪りは苦しみを招くものとされる。


    10 無智から生じる怒り

       さて、無智から生じる怒りとは、ある意味で、貪りとは正反対のものである。すなわち、これは、自分にとって好ましくないと感じるものに対する心の働きである。まとめれば、好ましいと思う(錯覚する)ものに対する心の働きが貪りであり、好ましくないと錯覚する者に対する心の働きが怒りである。

       なお、この怒りは、よりわかりやすく言えば、嫌悪と言った方がよいかもしれない。好ましくないと感じるものに対する嫌悪である。ただ、伝統仏教の表現では、瞋=怒りと訳されることの方が多い。

       この怒りも、一見して問題がないように見える。好ましくないもの、苦しみだと感じるものに対して嫌悪する、怒るのは当然ではないかと思うかもしれない。

       しかし、貪りの問題と同じように、好ましくない、苦しみだと感じるものの裏側に、好ましい要素、喜びの要素があるのである。よって、怒り・嫌悪が強いということは、苦しみの裏側にある喜びには気づかないということなのである。

       ここで、「仮に、苦しみの裏側に喜びがあっても、苦しみもある以上は、それは要らないから、苦しみをもたらすものに対しては、私はやはり怒るのだ」と考えるかもしれない。しかし、実際には、それでは苦しみが消えない場合が多いのである。

       たとえば、逃げ切れない苦しみである。どんなに怒り・嫌悪しても、それから逃げられない苦しみがある。たとえば、人間関係の苦しみのほとんどは、家族や、学校・会社の友人・知人など、嫌だからといっても簡単に離れられない人との間に生じる。

       さらに、この怒りは、貪りの対象と共に生じることが多い。そのため、貪りを捨てなければ、どんなに怒っても苦しみは続くのである。先ほど述べたように、何かにとらわれ、貪り求めれば、求めても得られない場合や、得た者を失う場合や、他と奪い合う場合に、苦しみが生じる。そして、この苦しみと共に怒りが生じるが、この苦しみは、どんなに怒っても、貪りを和らげなければ解消しない。


    11 苦の裏の楽に気付いて怒りを超える

       そこで、仏教は、こうした苦しみには、悪いことばかりではなく、良い面があると説くのである。

       例えば、こうした苦しみの経験によって、人は、過剰なとらわれ・貪りを解消する方向に導かれるという。それが解消できたならば、より自由な幸福な心の状態になるのである。

       また、こうした苦しみによって、人は、貪り奪い合うのではなく、他と分かち合うことこそが、真の幸福であると悟る時が来るという。

       こうして、苦しみの裏側には、自分にとって好ましい面、喜びがあると気づくならば、苦しみと怒りが和らぐことになる。


    12 仏陀・菩薩の広い心、平等心

       一方、無智を超えて、智慧を有する仏陀・菩薩とは、特定のものに対する過剰な貪りや、特定のものに対する過剰な怒りを超えて、万物への愛(大慈悲・菩提心・博愛)を有している者である。

       この心の働きは、万物を分け隔てなく愛することができるという意味で、平等心と呼ばれることもある(仏教用語では捨の心ともいう)。言い換えれば、非常に広い心、究極的には、世界・宇宙全体に広がった、広大無辺な心である。

       この象徴として、仏教には、宝生(ほうしょう)如来という仏がいる。平(びょう)等(どう)性(しょう)智(ち)という智慧を持っているとされる仏で、万物の平等性を悟っているとされる。また、阿弥陀如来にもそのイメージがある。南無阿弥陀仏の念仏や、世界遺産の宇治平等院で祭られていることで有名だ。その念仏を唱えるならば、悪人さえも救うといわれる。

       阿弥陀如来の化身とされる有名な観音菩薩も同様である。観音菩薩は、別名を観自在菩薩といわれる。そして、千の手を持つ観音菩薩は千手観音といわれるが、その千の手には千の目があり、すべての生き物を見守っているという。


    13 目覚めた人・仏陀

       こうした仏陀・菩薩は、まさに仏典の物語に出てくる(おそらく架空の)超人的な存在であって、私たち人間の手の届く境地ではないだろう。しかしながら、私たちも、自分だけのことばかり考える心の働きを乗り越えるならば、自分の身の回りの人から、友人・知人、さらには、その他の多くの人や生き物の苦しみを思うことは可能である。

       特に、情報通信技術が飛躍的に発達した現代では、昔の人から見るならば、私たちは、千の目を持っている存在といえるかもしれない。問題は、それを持ちながらも、毎日、自分のことしか考えていなければ、目が開いておらず、眠っているのと同様である。

       仏陀という言葉は、覚者とも訳されるが、サンスクリット語で「目覚めた人」という意味だ。仏陀でない普通の人は、夢者とも表現される。自分のことばかりにとらわれていれば、体の目は持っていても、実際には世界のほんの一部しか見ることはないから、事実上、眠っているのとほとんど同じであろう。体の目に加え、心の目が開かれてこそ、真に目覚めた人になるのではないだろうか。


    14 仏陀・菩薩の息の長い努力

       前に述べたように、目先の楽に偏らず、苦と楽が表裏であることを理解する仏陀の智慧は、息の長い努力をする特性がある。

       目先の楽の裏側には苦しみがあり、苦しみの裏側には喜びがある。ということは、真の幸福は、さほど簡単に得られるものではなくて、コツコツとした地道な長期的な努力によって得られることを示している。

       そして、仏陀の智慧とは、「今の自分さえよければいい」という無智を乗り越えて、「長期的に、他と共に幸福になることが、本当の幸福である」と理解している。非常に広い心を持って、皆と共に、息の長い努力によって、幸福になろうとする心構えである。

       伝説の弥勒菩薩などは、地球のすべての人々を救済するために、何十億年も修行するといわれている(一説に56億7000万年)。あえて身近な格言で表現すれば、これでは足りないかもしれないが、「ローマは一日にして成らず」ということだろうか。

       しかし、我々には、「すぐに幸福になりたい、成功したい」、という気持ちが起こりやすい。言い換えれば、「楽して幸福になりたい、努力はなるべくしたくない、怠けたい」という心の働きである。格言で言えば、「急いては事をし損じる」である。

       巷には、すぐにでも幸福になれる、誰もが成功するなどと宣伝し、多額の料金を取るものもあるが、これらは、目先の楽に飛びつく私たちの無智の煩悩を利用している商売のようにも思える。


    15 真の力は、破壊力ではなく継続力

       そして、長期的な地道な努力こそが、真の力ではないかと思う。つまり、忍耐力・継続力である。よく「継続は力なり」といわれる。

       一方、力には、いろいろな種類があって、人によっては、怒りの力とか、攻撃力・破壊力の方を重視するかもしれない。

       怒りにもいろいろあり、すべてを否定するつもりはないが、悪い意味での怒りは、忍耐力・継続力と対極にあるものだ。怒りを乗り越える力が忍耐力であり、怒りでキレずに辛抱強く努力し続けてこそ、継続力に繋がる。

       そして、前に述べたように、悪い意味での怒りは、苦しみに対して、その裏側に喜びがあることを理解できずに生じる心の働きである。

       逆に、その裏側の喜びを理解すれば、今の苦しみに忍耐することができる。そして、地道な継続的な努力によって、苦しみの裏側の喜びを引き出していくことができる。無執着や慈悲といった悟りの境地は、そうした努力によって実現されるものだろう。

       これは、世俗の世界にも通じる真理ではないかと思う。たとえば、戦国の覇者でいえば、織田信長は、破壊力に長けていたと思う。今川を破った衝撃的な桶狭間の急襲、武田を滅ぼした革新的な三千丁の鉄砲隊。

       しかし、最後に天下を手中に収めたのは、辛抱強さ・息の長い努力に優れていた徳川家康だった。気性が激しいといわれる織田信長らは、その性格からか、家臣の謀反で絶命した。信長を引き継いで天下を統一した秀吉も、寿命が足りず、自分の子孫は続かなかった。

       一方、家康は、その名の通り、健康によく留意し、辛抱を続けた。そして、49歳で没した信長や62歳の秀吉と異なって、76歳の天寿を全うし、徳川幕府は世界史で他に類を見ない、260年の長き太平の世を実現した。その寿命の違い、忍耐力・継続力の違いが、三人の命運を分けたのではないだろうか。

       怒りの力と関係する破壊力・攻撃力は、ある意味で、瞬間の力、一瞬の力である。一方、忍耐力・継続力と関係するのは、「時」というものの力である。時と共にすべては移り変わり、大器は晩成するという。その意味でも、それは大きな力ではないかと思う。


    16 広く長い心:時空間に広がる仏陀の心

       こうして見ると、仏陀の智慧・慈悲とは、世界・宇宙全体(の生きもの)に広がった心を持って、一生の間(ないしは未来永劫ともいうべき)息の長い努力を続けようとする心の働きということができると思う。短くいえば、空間と時間全体に広がった心、時空間一杯に広がった心である。

       私たちがこの境地に到達することは到底できないだろうが、できるだけ広い心を持って、一生の間努力し続ける心構えは重要である。それは、怠惰や焦りから解放された、広くて、どっしりとした心の状態であろう。

     

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