仏教思想
ひかりの輪の仏教思想をお伝えします

心の安定と幸福・人間関係の智恵

不安や恐怖を和らげる

以下のテキストは、2015年 GWセミナー特別教本『心の安定のための人生哲学 不安・卑屈・孤独・怒りの解消』第1章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

 


1 はじめに

  物質的には豊かになった現代社会でも、私たちの人生には、さまざまな不安が付きまとっています。例えば、仕事、経済、人間関係、健康、老後・死の不安など。そして、最近は、不安神経症・強迫観念症の人も目立ってきました。

  これは、物や技術が豊かになっても、人の心の不安は、解消されないことを示しています。そこで、本章では、不安や恐怖を和らげる方法を解説したいと思います。


2 不安と欲求は比例する

  まず、不安は、欲求と比例して大きくなります。「こうしたい」、「こうでなければならない」という欲求が多ければ多いほど、「そうならないのではないか」という不安も増大します。

私が、仏教哲学を研究した結果としては、欲求の増大とともに、以下のような不安・苦しみが生じます。まず、欲求には際限がありません。満たしても満たしても、「もっともっと欲しい」と思うのが、人間の心です。そのため、第一に、必ず欲求が満たせないという苦しみが生じます。その前に、「満たせないのではないか」という不安が生じます。

  第二に、何かを求めて、それを得たとしても、そのために、逆に、「それを失うのではないか」という不安が生じます。そして、場合によっては、実際に失う苦しみが生じます。

  第三に、求めれば、多くの場合、同じものを求める他人と争い・奪い合いになります。そこで、「他人に負けるのではないか」、「奪われるのではないか」、という不安・苦しみが生じます。また、「憎まれるのではないか」、「妬まれるのではないか」、といった不安・苦しみも生じます。

  これらの人生の不安・苦しみに加えて、人間には、老い・病み・死ぬという根本的な苦しみ・不安があります。そして、これらの人間の抱える苦しみ・不安全体を表現したものが、「四苦八苦」という言葉の本来の意味です。これは、そもそもは仏教用語だったのです。


3 欲求と不安を自己管理する

  もちろん、欲求と不安がすべて悪いと言っているのではありません。欲求と不安が全くなければ、何かを実現したり、改善したり、問題を察知して解決したりすることもできません。これまでの人類の発展もなかったでしょう。

  しかし、強すぎる不安は、逆効果となります。焦りや緊張が強すぎれば、逆に目的を達成することができません。また、不安に押しつぶされて萎縮し、非常に消極的な生き方に陥る場合もあります。また、人によっては、不安を持つ必要がない些細なことにも、不安を持つ場合があります。いわゆる、不安神経症とか、強迫観念症とも言われる状態です。

  よって、欲求と不安が大きくなり過ぎないようにする必要があります。つまり、自分で、欲求と不安の量をコントロールできるようになることが望ましいと思います。


4 とらわれを減らす

  さて、これまでにお話ししたとおり、不安が強すぎる場合は、欲求・とらわれを減らすことが、その一つの解決策となります。

  しかし、これには多少のハードルがあります。不安が生じるということ自体が、欲求に執着している、とらわれている状態だからです。簡単に欲求を減らせるならば、不安が強すぎる状態にはならないからです。

  そこで、不安が強すぎる場合は、落ち着いて「今自分が望んでいるものは、そのすべてが必要なものだろうか」と考えてみるとよいと思います。例えば、

  「それは皆、今、絶対に必要だろうか。もう少し後でもよいのではないか。
  焦りすぎてはいないだろうか。」

  「それは皆、自分が健やかに生きていくために必要だろうか。
  十分に恵まれているのに、欲張っているのではないか」

  などと、自問してみます。

  そうすると、多くの場合、必要以上のものを求めていることに気づきます。そして、少しだけ、自分の欲求・とらわれを減らすように、自分に言い聞かせます。そして、これがうまくできれば、心が落ち着きます。


5 腹八分目の精神

  とはいっても、とらわれを減らすことは、なかなか難しいものです。例えば、「求めることをやめてしまったら、幸福になれないのではないか」という思いも生じます。これは当然のことでしょう。それが、まさに「とらわれ」というものだからです。

  しかし、必要なことは、欲求・とらわれのすべてを捨てることではありません。それを「少しだけ」でいいから、節約することです。そして、客観的に見れば、とらわれによる不安が強すぎる場合は、それに押しつぶされてしまい、逆に不幸になろうとしているのです。落ち着いて考えて、これに気づき、自分に言い聞かせることが重要です。

  よく、「腹八分目に医者いらず」と言います。これは、食べたいと思う量の8割くらいまでにしておく、ないしは満腹の一歩手前でやめておくと、健康を守ることができるということですね。そして、この腹八分目の精神は、体の健康のみならず、心の健康にも役立つものだと思います。食べ物も、「こうしたい」という心の欲求も、多すぎれば、不幸を招くのです。

  言い変えれば、人間は、多くの場合、幸福になるために必要なものを100パーセントではなく、120パーセントくらい求めてしまうものだと思います。そうした時に、不安が強くなる場合があります。これをよくわきまえ、必要な時に、内省してみるとよいと思います。


6 とらわれない方がうまくいく智恵

  そして、古来の格言・ことわざや、仏教哲学を学んでみると、とらわれ過ぎない方が物事がうまくいくとか、幸福になるという智恵があることがわかります。

  例えば、「急がば回れ」、「急いては事をし損じる」、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来たる」といった格言があります。武術や競技の世界でも、「肩の力を抜け」、「勝つと思うな、思えば負けよ」と言われます。

  これは、欲求・とらわれが強すぎると、焦り・緊張・不安が強くなりすぎ、逆にうまくできなくなることを示しています。そうした時に、少しだけ、とらわれを節約すると、逆にうまくいくのです。

  私も、人前で講話をする時に、うまく話せるかが不安になることが、時々あります。そうした時は、「うまくやろうと思わない方(思いすぎない方)がうまくいく」と自分に言い聞かせることがあります。そして、今までの経験で、本当にそうだと思っているので、そのように言い聞かせると、すぐに心が落ち着くようになりました。


7 無心・無我の境地が最強という智恵

  そして、この延長上に、仏教の悟りや、武術の達人の境地として、いわゆる無心・無我の境地というものがあると思います。

  武術の達人は、相手に勝つこと(負けないこと)を目的としています。しかし、あたかも「勝ちたい」という欲求がないかのように、心が静まっている状態こそが、最強・無敗の境地であるということです。これは、静まった心こそが、相手の動きを最も正確に読み取ることができるし、自分の体も、緊張なく最もスムーズに動くからではないかと思います。

  仏教では、心が静まると、物事をありのままに見ることができると説きます。これは、有名な「止観」という教義です。「止」と「観」とは、「心が止まると、物事を正確に観ることができる」という意味です。

  そして、物事をありのままに見ることができる、という意味の中には、単に正確な分析力・判断力だけではなく、いわゆる直観・ひらめき・インスピレーションといった高度な知性が含まれています。心が静まった状態でこそ、直観が生じやすくなるのです。


8 捨てた後に、舞い込んでくる幸福

  よって、とらわれを捨てた後に、逆に得られるものがあるのです。「うまくやろう」と思い過ぎるとらわれを捨てて、心が静まった結果として、正確な判断力・直観が生じ、逆に物事をうまく行う智恵が生じるということです。

  また、単に自分の判断力や、直観が改善するだけでなく、実際に、自分の周囲の流れが良くなると感じる場合もあります。例えば、とらわれている間は、なかなか得られなかったものが、とらわれを捨てたら、逆に舞い込んできたと感じることです。

  これはあたかも、幸福を求めて幸福になるというのではなく、幸福があちらから舞い込んでくるような感覚です。まさに、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来たる」といった格言の背景にあるものかもしれません。

  不思議なことですが、この現象を合理的に説明できる面もあります。例えば、何かにとらわれるあまり、ガツガツしていれば、他人との良い関係は得にくくなります。「友達が欲しい」、「恋人が欲しい」、「顧客が欲しい」、「取引先と良い関係を得たい」と思っても、空回りしてしまいます。とらわれを弱めて、振る舞いに落ち着きや明るさが出てくれば、他との良い縁が得られやすくなります。何事も自分の力だけでは成せないものですから、これは重要だと思います。

  また、とらわれが強く、焦りがある場合は、時間が長く感じられて、「いつまでたっても、うまくいかない」と感じます。しかし、とらわれを弱めて、今できることに集中していると、その間に、求めていたものが得られることがあります。こうした場合も、幸福が舞い込んできたと感じるものでしょう。


9 バランスが重要。釈迦牟尼の中道の思想

  繰り返しになりますが、これまでのお話は、欲求・とらわれをすべて捨てるということではありません。適度な欲求を持つ、欲求の量を管理するということです。欲求が、多すぎず、少な過ぎず、バランスが取れていることが最善だということです。

  欲求が全くなければ、何の進歩・改善もありません。仏教で言えば、釈迦牟尼も、真の幸福を求めて、修行に入り、悟ったとされます。また、そもそも、人間が生きるためには、生存欲求が必要です。これを捨てるということは自殺を意味します。宗教で言えば、苦行の果てに死ぬことを解脱と誤解した一部の昔の修行者のケースです。

  その一方で、欲求・とらわれは、多ければ多いほど、多くのものが得られる、幸福になる、というわけでもないことが、重要なポイントです。全く欲求がなければ、得ることはできませんが、逆に多すぎれば、空回りするばかりか、逆に得られにくくなるということです。さらには、心身を病んだり、周りが敵ばかりに見えてきたりする場合さえあります。

  そこで参考になるのが、釈迦牟尼の中道という思想です。釈迦牟尼は、王子として生まれました。よって、修行を始める前に、王子として欲楽を極める生活をしたと思います。その後、修行に入って苦行を行いました。それは、極度の断食など、死の間際まで自分の体を痛めつけるものでした。

  その結果、釈迦牟尼は、このどちらの生き方も、真の幸福・悟りに至るものではないと悟り、どちらにも偏らない「中道の教え」に目覚めたとされます。それは、欲楽にふけるものでもなく、いたずらに体を痛めつけるものでもなく、心を静めた平安の境地(涅槃)を目指すものでした。


10 とらわれを減らすために役立つ人生観・世界観

  ここで、仏教の哲学の中で、とらわれを減らすために役立つ人生観・世界観をご紹介したいと思います。その代表的なものが、無常と慈悲の思想です。

  まず、無常とは、世の中のすべてが移り変わり、生じたものは滅するということです。私たちは、いつか必ず死にます。死ぬときは、それまでに得たものはすべて失います。だとすれば、例えば、「お金・名誉・地位などに、あまりにガツガツして生きることに、絶対的な価値があるのだろうか」と考えることができます。

  実際に、あまりにそうしようとすれば、犯罪さえも犯しかねず、実際に、そうした事例が毎日報道されています。それは著名な政治家・事業家にまで及んでいます。そのため、死んだ後に汚名を残す場合もあります。

  これに対して、自分がいずれは死んで、得たものすべてを失うことを意識することは、有益だと思います。こうして人生を長い目で見ると、目先のものへのとらわれが弱まり、本当に重要なことが何かが見えてくるのではないでしょうか。

  なお、仏教では、人は、「自分」と「自分のもの」にとらわれると説きます。それぞれを我執(がしゅう)・我所執(がしょのしゅう)と言います。お金や地位や名誉といった「自分のもの」に対するとらわれは、「自分」に対するとらわれが土台になっています。よって、「自分」を失う「死」を意識することで、「自分のもの」に対するとらわれを弱めるのです。

 

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