仏教思想
ひかりの輪の仏教思想をお伝えします

21世紀を幸福に生きる新しい仏教的思想

『21世紀を幸福に生きる新しい仏教的思想と、始まる悟りの大衆化』(2024年8月12日 東京 79min)

 これは、2024年8月12日の夏期セミナーでの上祐の講義の一部です。

 この日の講義では、上祐が、21世紀を幸福に生きる新しい仏教的思想と始まる悟りの大衆化について語っています。
 具体的には、「ひかりの輪の2024年夏期セミナー特別教本『仏教の変質の歴史と初期仏教の創造的再生 21世紀の新しい仏教的な生き方』」の第4章を読み上げながら、その詳しい解説を加える形で行いました。
 同教本第4章の全文は、動画の画面の下の箇所をご参照ください。

 また、その内容の概要は、以下の同教本第4章の目次をご参照ください。

・第4章の目次
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第4章 21世紀の仏教的な生き方・ライフプラン

1.はじめに
2.競合的・自己中心的な幸福観の行き詰まり――幸福の裏側に苦しみを生む構造がある
3.勝ち組も本当には幸福になれず苦しみが増える
4.高齢期になると増大する競合的な幸福観による苦しみ
5.高齢期の喪失体験による苦しみは、勝ち組の方がむしろ大きい可能性がある
6.統計的調査での高齢者の幸福観:価値観の転換の徴候
7.長寿時代の高齢期は非常に長くなり、第二の人生の様相を呈していること
8.高齢者の心身の健康問題が第一のピークを迎える2025年の問題
9.21世紀を生きるためのライフプラン、協調的な幸福を重視する
10.正しい競争に関する考え方:切磋琢磨による互いの成長の助け合い
11.自分の心を客観視し、心を制御する「心の主」となる心構え
12.長期的な視点で人生を考える:人生はマラソン
13.各種の瞑想、日常の行動のコントロール、それに必要な学習の実践
14.チャレンジングな生き方、困難を成長の機会として喜びとする
15.至福の老年的超越に向かう軌道に乗るための条件:健康長寿
16.老年的超越には、一定の困難・人生苦の経験が必要
17.人生苦を悟りへの導きとして喜びに変える感謝の生き方:人生を大切にする
付記1:徳川家康の遺訓
付記2:年齢年代と脳機能と生き方の変化


以下のテキストは、「2024年夏期セミナー特別教本『仏教の変質の歴史と初期仏教の創造的再生 21世紀の新しい仏教的な生き方』」第4章です。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

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第4章 21世紀の仏教的な生き方・ライフプラン


1.はじめに

 本章では、これまで述べてきたことを踏まえて、個人として、初期仏教の思想を現代社会に創造的に再生して、どのように生きる道があるかについて述べたいと思う。しかし、それは同時に、一人一人の人間が構成するのが人類社会である以上、将来的に社会の行方を示すものにもなると思う。


2.競合的・自己中心的な幸福観の行き詰まり――幸福の裏側に苦しみを生む構造がある

 前章でも述べたように、競合的・自己中心的な幸福の価値観は、現代社会において行き詰まりつつある。これについて体系的に羅列してみよう。
 まず第一に、そもそも競合的・自己中心的な幸福は、その本質において、喜びと同時に苦しみの原因を作るため、必ず行き詰まる。「今よりもっと、他人よりもっと」と求めて、①仮に得られることがあっても、それで満足できず、すぐにもっと欲しくなるという欲求不満が生じ、②その一方で、得る前はそれなしでいられたのに、得た後は、それなしではいられなくなるとらわれ=広い意味での中毒・依存症が生じて、失う不安や失った時の苦しみが生じ、③皆で際限なく求めるために、他との関係は敵対的、すなわち他人は自分の幸福の障害に感じられる状態となる。
 このようなストレスは、心身の不健康や、対立的な人間関係の苦しみをもたらす。よって、ストレス・生きづらさ・メンタル疾患、さらには生活習慣病などのさまざまな疾患(悪い生活習慣は心因性の面があることに注意する必要がある)、苦しみから逃避するためのさまざまな依存症、ひきこもり・社会的交際の消失・孤独・孤独死・自殺、さらには、自分の問題を責任転嫁した形の(不合理な他(た)責(せき)感情による)反社会的な犯罪などが広がっている。
 社会全体の状況を見ても、経済競争の加速のために、勝ち組・負け組、貧富格差が増大し、欧米などでは、負け組が、自分の不幸を他の責任に転嫁して排他的な行動に出る傾向が強まっている。以前は金持ちの部類だと自覚していた白人中間層の一部が、経済的繁栄から取り残されて没落したと感じる結果として、陰謀論や反移民主義が、欧州の極右や米国のトランプ派の台頭などをもたらし、国内社会の中の対立・分断を強めている。これは、健康で文化的な生活を送る上で、困っているわけではない相対的な負け組が、生活に困っている真の弱者を、排除する傾向をも生んでいる。
 客観的に見れば、前世紀に比較して、国によって程度の違いはあるが、物質的な豊かさや、技術開発による便利・利便は向上しているのであるが、意識調査をすれば、先進国社会でも、30年前と比較して幸福を感じる人の割合は、増えていないという。さらに、他国に比較して低成長・デフレ状態にあった日本では、この10年間で逆に幸福感が減っているというデータがある(下記参考情報参照)。
これは、衣食住などの生きていくための基本的なニーズが満たされた現代人の幸福・不幸は、前に述べた通り、他人との比較(自己愛の充足の有無)で決まるためだと思われる。物があっても幸福にならないし、いや、物はあふれる中で幸福・生きがいを感じられないのである。

※参考情報:「幸せである」と感じている日本人13年間で13%減
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000029.000122181.html


3.勝ち組も本当には幸福になれず苦しみが増える

 また、負け組に限らずに、勝ち組に関しても、真の幸福感・充足感は得ることができない。財物・名誉・地位などを得たとしても、幸福感が増えないことが明らかになってきた。年収の増大にともない幸福感は増大せず、一定の年収に到達すれば、それより増えても、逆に幸福感が減少する調査結果が出ている。これもまた、いくら得ても、得た喜びが、先ほど述べた、「もっと欲しい」という欲求不満、得たものを失う不安、他との対立的な人間関係の増大などによって、相殺(そうさい)される。その結果、競争に勝つためにいろいろと努力しても、長期的には、期待外れとなって真に充足することはなく、徐々に苦しみが増えてしまうという心理的な構造があることを裏付けるものだろう。
 こうした状況に鑑み、幸福・不幸は、財物や名誉・地位などで決まるのではなく、本来は、心が感じるものであるという視点が戻ってきて、21世紀は心の時代であると叫ばれてきて久しい。
その具体的な方針とは、長期的に見ればさまざまな苦しみを招いて行き詰る構造がある競合的・自己中心的な幸福の追求を、人生のある段階で抑制し、それに代わって、協調的・共栄的な幸福の充実に切り替えていくことである。これは、我欲の充足に関しては足るを知って、他への感謝、お返し、利他・慈悲、助け合い、分かち合いなどの豊かな人間関係を形成し、安定した広い心の幸福などを重視するものである。それは、過剰な我欲の追求から来るその裏側の心理的なストレスによる心身の不健康を解消し、心身ともに健康な生き方をもたらす。しかし、現状の社会を見ると、この協調的な幸福、心の幸福・豊かさを根本とする幸福観は、依然として十分には広がっていないように思われる。


4.高齢期になると増大する競合的な幸福観による苦しみ

 第二に、競合的・自己中心的な幸福観にこだわることによる苦しみ・問題は、高齢期になると、ますます強くなるということがある。具体的には、①加齢によって競合的な幸福を得る意志や能力は低下し、求めても得られない欲求不満が増え、②仕事・若さ・健康・人間関係の喪失など、高齢期のさまざまな喪失体験が生じて失う苦しみが増し、生きる意欲の低下などから、心身の機能は低下する(老化も気から)。その結果、体の疾患もあるが、老人性うつ・認知症・感情暴走など、知的・精神的な能力が低下してしまい、これは個人の問題にとどまらず、老人を介護する社会全体の負担となる。当然、その人間関係も、豊かなものとはならず、自分へのいら立ち・卑屈と、他への不満・怒りが強くなり、さまざまな意味で他者に迷惑をかける状態となって、自尊感情の充足や生きがいも感じられない。こうして高齢期は、競合的・自己中心的な幸福観が続くばかりであれば、それ以前に比べて、幸福感が減少することになる。

5.高齢期の喪失体験による苦しみは、勝ち組の方がむしろ大きい可能性がある

 さらに、勝ち組の人が、高齢期に入って、高齢期の喪失体験を経験するならば、得たものが多いゆえに、失うものも多くなるが、得たものが多いぶんだけ、心理的には、「それなしではいられない」というとらわれも多くなっているために、高齢の喪失体験で感じる苦しみは、負け組の者よりも、大きいことが推察される。私も、以下のような事例を知っている。若い頃は、その輝く才能によって上昇して大学の名誉教授となった人が、高齢期の喪失体験によって、以前と比較すれば大きく劣化した自分の現状に、うつ状態となってしまい、安楽死を求めてその法制化運動をしたが共感は広がらず、自分の中のいら立ち・抑うつ感情を背景にして、ごくわずかとなった世話をする周囲の者に対して、頻繁に八つ当たりするなどしながら死去したという事例である。


6.統計的調査での高齢者の幸福観:価値観の転換の徴候

 ここで、統計的調査における年代別の幸福を高齢者層を中心にして見ておこう。統計的調査(下記参考情報2~6)では、幸福感が一番低いのは、40代後半・50歳前後であり、それに加えて30 代・40代という調査結果などがある。なお、自殺率が一番高いのは50代(50~59歳)である。
 こうして、中年層の幸福感が一番低く、若年層と高齢層が高いという年齢別の幸福感のU字現象は、日本に限らず国際標準といわれており、統計的意識調査では、意外にも、高齢者の幸福感は低くなく、加齢とともに幸福な人の割合が高まることがわかる。
 しかし、これは、競合的・自己中心的な幸福観から協調的・共栄的な幸福観への転換の必要がないことを示しているのではなく、むしろその逆であり、高齢期に至って多くの人が、ある程度ではあるが、転換を始めることを余儀なくされるとも解釈できる状況なのである。この50歳前後の幸福度が一番低い理由については、その調査研究を行った拓殖大学の佐藤教授によれば(下記参考情報3参照)、40代から50代にかけて、若年期に思い描いた自分の人生の理想と現実との大きなギャップに直面するからだという。若年期ほど自分の将来に高い期待を抱くが、これが実現しないことが中年期の理想と現実とのギャップを大きくし、高齢期になるほど将来への期待が低く、理想と現実とのギャップも小さく、予想外の小さな幸福な出来事でも、幸福感を引き上げる要因となるという。なお、これに加えて、親の介護と(大学通学年齢の)子育ての負担、中間管理職のストレスなどがあり、また、住宅ローンの負担を指摘するものもあるという(下記参考情報2)。
 この期待と現実とのギャップを経験した後に、期待を和らげていくということは、まさに競合的・自己中心的な幸福へのこだわりを手放し始めて、自分の現実を受け入れ始めていることを示しているだろう。かといって、この統計的な調査の結果は、現状に重大な問題がないことを示しているのでは全くない。先ほど述べたように、自殺率は50代が高く、それに次いで40代・60代・70代・80代が高い。すなわち、現実に適応できない人たちが死亡し、現実に適応できて生き残った人が高齢層の幸福感を押し上げる結果の一因となっている。さらに老年幸福学専門の前野隆司慶大教授によると(下記参考情報7)、幸福感が低い人は、その後の健康状態・寿命も短くなる傾向があり、自殺ではなく病死により短命になる可能性もある。これもまた、結果として、幸福感が高い人が、より高齢まで生き残り、それが高齢層の幸福感を増大させている面もあるだろう。
 さらに、前野教授が指摘する重要なことは、老年幸福学の研究で、高齢者の幸福の個人差が他の年齢層に比べて大きいことが明らかになっていることである。これもすなわち、競合的な幸福から協調的な幸福に転換できたか否かによるのではないかと思われる。その一つの理由は、若年期には、競合的な幸福の実現に個人差があっても、まだ皆が将来に期待を持てているが、高齢期はもはや将来への期待がなく、現実のみがあるということであろう。
 また、競合的な幸福の実現の違いは、客観的に見れば、本質的にそれほど大きな幸福の個人差をもたらさない。というのは、それを実現できようとできまいと、その幸福の裏側にはさまざまな苦しみをもたらす構造があり、幸福の追求としては空回りになる面があるからである。実際にも、年収の増大が必ずしも幸福感の増大につながらない事実などを示す調査結果もある。
一方、高齢期において、価値観の転換に成功するか否かは、大きな幸福の個人差をもたらすと思われる。もちろん、高齢期特有の心身の病気や人間関係などの環境の変化といった喪失体験の問題があり、これらの問題の個人差が大きいのかもしれないが、よく考えてみれば、価値観の転換に失敗して幸福度が低くなれば、老人性うつ・認知症・感情暴走といった高齢期特有の精神的な疾患の原因になり、さらには身体的な疾患や人間関係の悪化、さらには介護施設への入居などの環境の変化の一因ともなるだろう。
 最後に、長寿社会の高齢者において、うつ・認知症・感情暴走を含めた心身の疾患に苦しむ人たちと、老年的超越という至福の心理状態に至る人達が存在するということは、高齢者の幸福の個人差が大きいという見解を決定づける現象の一つだろう。高齢者の二極化ともいうべき現象である。第4章(の付記2)で詳しく述べるが、日本では95歳以上の女性の8割が認知症である一方、老年的超越の研究では、超高齢者の2割が広い意味で老年的超越に至っているとされる。
 このような状況を踏まえて、前野教授は、長寿社会においては、人生のある段階で、競合的幸福観から協調的幸福観への価値観の転換を図る必要性を強調している(下記参考情報7)。

※参考情報
1.年齢別自殺率 https://www.mhlw.go.jp/content/r1h-1-3.pdf
2.人生の幸福度を調査「47~48歳が最低...最高値に達するのは82歳以上」
    https://www.fnn.jp/articles/-/22769#google_vignette
3.人生のどん底は「平均48.3歳」でやってくる
  https://president.jp/articles/-/77118?page=1
4.幸福度が高い70代男性と低い30代男性、その違いは?
    https://kyodonewsprwire.jp/release/202211180023
5.幸福度は30代が最低
https://www.nri.com/-/media/Corporate/jp/Files/PDF/knowledge/report/souhatsu/2023/
miraisouhatsu-report_vol4_202305.pdf?la=ja-JP&hash=4BEFA04FDFB47A6D8EF16C4A5FFBEC9A5DE8267B
6.人生は後半ほど幸福
https://well-being-matrix.com/100years_lab/posts/100_230320_02/
7.「老年幸福学」研究が教える 60歳から幸せが続く人の共通点 (青春新書 前野隆司 (著), 2023)


7.長寿時代の高齢期は非常に長くなり、第二の人生の様相を呈していること

 さらに問題であることは、今現在の社会が長寿時代を迎えていることである。すなわち、競合的な幸福観にこだわれば、苦しみが増大する高齢期の期間が、以前よりも長くなっているのである。医療技術の進歩によって、ある意味では、死ぬことができずに、暗く長い老後を生きなければならない可能性があるともいうことができるかもしれない。例えば、健康寿命は、平均寿命・平均余命よりも10歳以上短い。そして、この差は長年の間、なかなか縮まらないままに推移している。寿命が60歳ちょっとだった戦後では、長く生きたことを意味する還暦の60歳で退職した後は、まもなく死ぬことになるため、「余生」と表現したが、今はそれからなお数十年は生きることになるから、それはもはや、余生とはいえず、第二の人生である。
 なぜ、第二の人生かというと、それまでの人生とは、自分の心身の健康・能力・人間関係などが大きく変化したものとなっているからである。この人生観の変化は、実は従来型の宗教が衰退している原因でもある。すなわち、寿命が短く、戦争・飢餓・貧困・病気などで現世が辛く、いつ死ぬかわからなかった時代は、現世の苦しみを、宗教に頼って和らげようとしたり、身近である死後の不安に対して、宗教の信仰による死後の幸福を期待したりする気持ちが強かった。しかし、先進国をはじめとして、国内の内戦は解消されて、飢餓・貧困・病気に対する社会福祉や医療制度が整って、寿命が延びて死の不安が遠のくと、現世の苦しみや死後の不安のために宗教に頼るよりも、老後の不安の方が重要な問題と認識されるようになったのである。


8.高齢者の心身の健康問題が第一のピークを迎える2025年の問題

 また、社会全体から見れば、少子高齢化の中で、若年層の減少による労働力の不足や、年金財政の悪化が進む中で、退職年齢を先延ばしにするなどして、高齢者にも労働力としての期待が高まっているため、今現在の高齢者の心身の不健康の増大は、社会の未来に影を落としている。そして、2025年問題といわれるものの中に、団塊(だんかい)の世代が75歳になって、その時ちょうど健康寿命が終わる年代となり、健康問題を抱える高齢者が増えたり、企業の競争力が低下したり、いわゆる超高齢化社会に突入して、さまざまな問題が起きるのではないかということがある。
(参考情報:2025年問題:https://www.persol-group.co.jp/service/business/article/437/)
そして、この現状が続けば、今は未だ顕著ではないが、将来において、負担を背負う若年層と高齢者の利害対立・社会の分断を生みかねないと思われる。


9.21世紀を生きるためのライフプラン、協調的な幸福を重視する

 こうして見ると、われわれは21世紀という大きな時代の変わり目に生きており、新しい個人としての生き方を創造していく必要があるのではないかと思う。そして、前章までの考察を踏まえるならば、初期仏教の思想が説く生き方を、現代社会に合わせた形で創造的に再生することが、その貴重なヒントになるのではないかと思う。
 その第一は、「今よりもっと、他人よりもっと」と際限なく、自分のために財物・名誉・地位その他を求める、競合的で自己中心的な幸福の追求は、勝利・獲得した瞬間の刹那的な喜びはあっても、同時に、心身のさまざまな苦しみ・不健康・能力の低下・人間関係の悪化等をもたらす原因となり、長期的には苦しみを増やして、本当の意味での幸福には至らない、という心理的な構造・脳神経ネットワークの特性があることを、理解することが重要である。そして、この理解に基づいて、競合的で自己中心的な幸福、わかりやすくいえば、際限なく我欲の追求を行うのではなく、健康で文化的な生活ができるならば、足るを知るように努め、他者への感謝、助け合い、苦楽の分かち合い、利他・慈悲の実践に努めることである。
 脳科学的に見ても、敵対者に対する怒り・憎しみ・恐怖・破壊的な感情は、心身の健康と知力を低下させるストレスホルモンを分泌することになる(正確にいえば、アドレナリンやコルチゾールの過剰な分泌を招く)。すなわち他人を攻撃しているようで、自分自身をも痛めつけている(「人を呪わば穴二つ」ということである)。一方、他への感謝・尊重・愛・慈しみの感情は、心身の健康・若返り・知力の向上をもたらす幸福ホルモンの分泌を促す(エンドルフィン・オキシトシン・セロトニンなど)。


10.正しい競争に関する考え方:切磋琢磨による互いの成長の助け合い

 第二に、これは、競争を否定するものではなく、正しい目的のもとでの競争を肯定するものである。重要なことは、競争の目的が、唯一自己の勝利であって、自己の勝利のみを善・喜びとし、敗北を悪・苦しみとするのではなく、他者との切磋琢磨によってお互いが成長することだと理解するならば、それは競合的で自己中心的な幸福の追求ではなく、互いの全体の成長・幸福をもたらす、協調的・共栄的な幸福の追求となり、互いへの感謝・尊重・愛を培う。これは、一部の優れたスポーツマンが発揮する、ライバル(好敵手)をお互いを高め合う存在として尊重し、貴重な友人にして、自分の成長をもたらす助力者と見なすスポーツマンシップに見られる心理状態である。
 こうした正しい意味での競争においては、競争相手は敵ではなく、互いが互いの成長の助力者であり、助け合う友人である。例えるならば、互いに成長するための道場での稽古相手との稽古であるということができる。一方、自己の勝利至上主義であれば、自己の勝利を阻む他者は敵となり、競争はあたかも戦場となる。それは、勝利した者しか幸福になれない、戦場での敵との戦闘のようなものである。


11.自分の心を客観視し、心を制御する「心の主」となる心構え

 第三に、以上の実践を踏まえるならば、人間の生まれつきの心の働きにある競合的・自己中心的な心は、制御するべき対象であるとみなす必要がある。言い換えれば、心を自分自身だと考え、心が欲するままに生きるのではなく、心は、自分が制御するべき対象であり、自分は、心を制御する「心の主」であると位置づけることである。これは、心を客観視することが前提であるから、思考や感情といった心の働きを、自分ではないと見る仏教の無我の思想や、心のコントロールを意味するヨーガの思想の実践である。さらに言い換えるならば、自分の幸福の最大の敵は、自分の勝利を阻む他者ではなく、自分の中にあって自分を本当には幸福にはしない欲求(仏教が説く煩悩・我執)である、と理解することである。自分の中の真の敵を見失うと、他者が敵のように見えてきてしまうのである。


12.長期的な視点で人生を考える:人生はマラソン

 第四に、人生百年という長期的な視点を持つことである。競争社会を生きる中で、上記の正しい競争の目的(競争は互いを高め合うもの)を心がけることに加えて、この競争は、短距離走・スプリントではなく、長距離走・マラソンであると考えることである。特に、現代の長寿の人生は、昔のように、「若いうちにガンガンやって、年取ったらピンコロで死にたい」という短距離走的な考えではなく、長期的な視点に立って、心身の健康を高め、人間関係を温めるように努めるべきである。
 しかし、競合的・自己中心的な幸福観に偏るならば、そのために、心身の健康や他者との人間関係に関しては無理をして、それらを損なうことになる。この競争の目標は、たとえていえば、最善のタイムで人生のゴールを切ることであって、無理なスタートダッシュで途中まで先行しつつ、そのツケが回って、途中でリタイアすることではないのである。しかし、我欲・煩悩の本質・根元には、仏教で痴(愚痴)などと表現される愚かさ、錯覚があって、わかりやすくいえば「今の自分さえよければ」といった刹那的で愚かな心理的傾向である。この愚かさは、傍から見れば、焦りのように見えるものであり、この自分の中の弱さ・敵を克服するように努めなければならない。
 この点をわかりやすく言い換えるならば、仏教的な生き方とは、闘争や勝利を放棄するというものではなく、真の戦いの相手は、己の中の愚かさ・弱さであって、それを克服することによって、自己の最高の成長・パフォーマンスを引き出し、その結果、外部の他者は自ずと制することができるという考えとも表現できる。武道の達人も、真の敵は己であると言うし、釈迦自身も、100人の他者に勝つよりも、自我(執着)を打倒する方が価値があるという趣旨の説法をしている。
 実際に、良い生活習慣の形成に努め、健康長寿を実現し、継続的な努力を積み重ねるならば、他者に秀でる可能性は高まる。特に人生の後半において、健康な心身を維持し、他者よりも長く努力と経験を蓄積した結果は、大きな違いをもたらすだろう。これは、例えば、戦国の覇者である徳川家康の生き方と通じるものがあるように思う。家康は、初期の戦では負け続け、信玄、信長、秀吉など自分より有力な武将がいたが、石橋もたたいて渡るといった慎重さ、食事等の健康に気を付けて、それらの武将より長生きをし、継続的な忍耐と努力を経て、天下を取るに至ったことはよく知られている。家康の遺訓は(本人の作ではないとの説もあるが)、人生には長い辛抱が必要であり、焦り、欲から来る不満、怒り、慢心を戒め、安全長寿の秘訣としての忍耐や、他を責めず自己反省を説くものである(本章末尾の付記を参照)。


13.各種の瞑想、日常の行動のコントロール、それに必要な学習の実践

 瞑想とは、仏教・ヨーガでは禅定といわれ、専門的に定義するならば、心の安定と集中をもたらす繰り返し行われることである。すなわち、言い換えれば、心のコントロールであり、その意味で、ヨーガの本来の意味に近い。思考や感情が静まりつつ、意識は鮮明で、集中している。この状態は、スポーツ心理学などでゾーン状態、心理学ではフロー状態などと呼ばれ、人間の最高のパフォーマンスを引き出すものである。禅定の状態は、心が平安であり、幸福になる道を含めた、物事の道理を正しく認識することができ(いわゆる仏教が説く智慧が生じ)、健康・長寿や人間関係における他者との調和を妨げる要素を取り除くなどの効果がある。
 瞑想の種類には、身体をコントロールして心をコントロールする「身体的な瞑想」や、心を安定させるものを見たり、聞いたり、唱えたりする「感覚的な瞑想」、さらには、心を安定させるタイプの思索を行う「心理的な瞑想」などがある(なお、感覚的な瞑想と類似するものとして、実際に外界にあるものを見るのではなく、心の中のイメージを使う瞑想もあるが、ここでは省略する)。
 また、瞑想とは、心の安定と集中をもたらすものであるから、一日24時間が瞑想であるという心構えを説く宗派もある。すなわち、日常の言動を、心が安定するようなものにすることは、日常生活の中での瞑想ということができる。これは、仏教やヨーガが説く、日常の行為を律する、戒律の実践に通じることである。落ち着いた広い心をもたらすような、思考・言動に努めることである。
 そして、これらの実践をする上では、その実践の意味合いをよく理解していなければならない。単に形だけ、説かれていることを行うというのではなく、その実践の意味や目的を理解することである。そのためには、仏陀の教えや心理学の見解をよく学ぶことである。ただし、学ぶとは、単純にその言葉を記憶することではなく、言葉の意味を明確に理解し、その教えの確からしさをよく吟味して、理解・納得することが含まれる。理解・納得が生じたら、それを繰り返し実践して、身に着ける。そして、これは、仏教の三学といわれる修行の項目と合致する。三学とは、戒律(日常の行動規範)・禅定(瞑想)・智慧(正しいものの見方)の三つである。


14.チャレンジングな生き方、困難を成長の機会として喜びとする

 さて、脳科学者の中野信子氏が主張しているが、脳科学の視点から望ましい生き方とは、利他に加えて、困難を乗り越えようとするチャレンジングな生き方だという。利他の心が、幸福ホルモンを分泌し、心身の健康や知力の向上に良いことは前に述べたが、困難を乗り越えるチャレンジングな生き方は、脳機能を鍛え、向上させるという。これは、困難を、悪いことだと思って、逃避するのではなく、自分の成長の機会ととらえて、それを乗り越えようと努力・チャレンジする時に、脳は普段のリミッターを外して、全力で活動するという。
 筋肉を強化しようとする場合も、普段はない負荷をかける筋トレを行い、筋肉痛を経験する過程を経るように、脳の機能の向上のためにも、何かしらの困難を乗り越える負荷をかけて、現状では直ちには解決できない問題に対して、解決できる脳に進化させるのである。そして、現代人の苦しみは人間関係であることが多いが、中野信子氏によれば、だからこそ、人間関係こそが最高の脳トレだという。
 そして、困難を自分を成長する機会と考えて、喜びとして乗り越えるように努力することは、仏教が説く苦しみを喜びに変えていく忍辱(にんにく)(忍耐)の実践に通じるものがある。この忍辱(忍耐)とは、単に苦しみにじっと耐えていることではなく、苦しみを喜びに変えて、苦しみではなくしていくことが含まれている。仏教の思想では、人の苦しみは、過剰な自我執着・自己愛によるものであり、苦しみを経験した時は、自我執着を抑制する努力をする良い機会と解釈するのである。苦しみを、我欲を抑制して悟りに近づくことを自分に促す、愛の鞭のように考えるのである。
 これと符合するのが、老年的超越によって、人生の終盤に至福の状態に至る超高齢者が、多難な人生を送った人たちに多いという事実である。そして、彼らは、現在の至福の状態に至るために、それまでの困難が必要なものだったと認識していることは、前に述べたとおりである。

※参考資料 中野信子『脳科学からみた「祈り」』潮出版


15.至福の老年的超越に向かう軌道に乗るための条件:健康長寿

 老年的超越という仏教の悟りの境地に似た心理状態は、それに実際に至った高齢者の言葉の通り、人間としての最高の幸福を感じる心理状態であろう。それは、長い人生の終盤に、それまでの正しい努力が実った結果であり、長寿時代の人間にとって、真の、最高の勝利ともいうべきものではないだろうか。それは、人生というマラソンにおいて、最善の形でそのゴールを切ることであり、人間としての最高の心理的な発達を実現し、人生の本当の価値を実現して、その本懐を遂げることではないかと思う。
 よって次に、この老年的超越に向かう人生の軌道に乗るためには、何が必要かと考えてみたい。まず第一に、老年的超越が超高齢期に生じるという事実に基づくならば、長寿社会に住んでいるか否かが、基本的な条件となるだろう。その点でいえば、日本は、世界最長寿の国の一つであり、われわれは、この条件を満たしていることになる。
 ただし、老年的超越とは、常人を超えた心理的な発達であるから、高齢期に至るまで、感情を制御する機能を含めて、脳を中心とした心身の健康管理を行っていることも条件となるだろう。老年的超越の本質は、その心理状態にあるが、心理状態を形成する脳(神経ネットワークの状態)は、まさに身体の一部である。よって、心身を一体と見て健康を維持する努力が必要だろう。その具体的な実践法は、前に述べた通りである。


16.老年的超越には、一定の困難・人生苦の経験が必要

 次に、老年的超越とは、それを研究している心理学者の見解によれば、人間にとって、思春期に次ぐ第2の心理的な発達の実現である。思春期には、体が大人になるとともに、精神状態が不安定になる面があるが、それを制御する心理的な発達を経て安定し、心身ともに大人になる。そして、この一般の成人の心理的な能力(脳の機能)を、さらに大きく成長させるのが、老年的超越という第二次の心理的発達であるというのだ。
 そして、前に述べたように、調査研究の結果として、老年的超越の実現のために必要だと思われるのが、多難な人生、さまざまな困難と、それを乗り越える努力である。これはなぜかと言うと、困難・苦しみを経験して、それを乗り越える過程で、人は自ずと我欲を抑制する訓練をすることになるからであろう。もちろん、現実には、困難にぶち当たって、つぶれてしまう人もいる。困難を経験した際に、それから逃避するばかりで、乗り越える努力を放棄するならば、人は、心理的に成長せずに退化し、そのまま老化するに至る。
 これを言い換えると、あまりに順風満帆な人生で、困難・苦しみがないならば、逆に老年的超越は得にくいということである。この点をもう少し丁寧に説明するならば、順風満帆な人生を送る人にとっても、人生終盤の高齢期には、前に述べたように、多くの喪失体験の苦しみがある。そして、それまでの人生で、困難・挫折などがない場合は、そのために、逆に、我欲を抑制する訓練に乏しいため、いきなり高齢期に多くの喪失体験をした場合は、前に述べたように普通の人よりも失うものが多い一方で、その苦しみを乗り越える心理的な力が、十分にはない場合があると思われる。
 これを踏まえるならば、あまりに恵まれすぎている場合は、逆に、老年的超越は得にくくなるものと思われる。これが実際に、順風満帆な人生ではなく、多難な人生を送った人の方が、老年的な超越を得やすいという調査結果の背景にあるものではないかと思われる。
 これは、ある仏教の教えにも通じるものである。仏教では、喜び・安楽に満ちた世界として、天界の存在を説く。正確にいうと、その住人は、欲望を残しており、まだ悟りには至っていないために、欲天といわれる。そして、その来世は、必ずしも引き続き高く幸福な世界に転生するとは限らず、地獄に落下する場合もある。重要なことは、他者を悟りに導こうとする仏陀・菩薩は、その天界よりも苦しみの多い人間界に現れることが多いとされる。それは、欲天の住人は、喜びが多く苦しみが少なく、それに没入しているために、煩悩を止滅する悟りの修行をする動機が生じないからである。そして、その生の終わり間際に、初めて苦しみが生じてくるが、それからでは修行が間に合わずに、低い世界に生まれ変わることになるという。これは、人間とは異なる世界の話であるが、人間世界の中にも、欲天の住人と似たような境遇の人達にも当てはまるパターンであろう。


17.人生苦を悟りへの導きとして喜びに変える感謝の生き方:人生を大切にする

 こうして、老年的超越を得るためには、長寿社会に生まれて生きて、一定の健康管理ができており、さらには一定の人生苦の経験が必要ということがわかる。落ち着いて考えてみると、地球全体の生命体の中で、このような条件に生まれることは、非常にまれなことである。多くの生き物から人間に、しかも長寿の先進国に生まれることは、極めてまれなことだ。
 しかし、さらに重要なことは、その先進国社会は、ストレス社会などといわれるように、そこに住む人々は、さまざまなストレス・心身の苦しみ・困難を経験しているが、老年的超越や、老年前の超越=仏教の悟りを得るためには、実は、それは必要な経験であるということだろう。なぜならば、この事実は、苦しみと感じられるものが、実は至福に至るために必要であるということに気づいていないことが、その苦しみの本当の原因となっていることを意味するからである。
 すなわち、それらの苦しみを、悪いことばかりだと考えて嫌がることが、苦しみを増して、苦しみを作り出しているのである。実は、大きな幸福をもたらすものに対して、それを苦しみだとばかり考えて、それを嫌がりすぎることが、苦しみの原因になっているのである。これは、単に筋肉痛を感じている人は、それを嫌がり苦しみを感じるが、筋トレのジムで筋肉を鍛える運動をして、筋肉痛を感じる人は、それが筋肉強化の過程のものであると知っているから、むしろ手ごたえのあるトレーニングをしたことに喜びさえ感じるだろう。逆に筋肉痛が全く起こらないような筋トレばかりでは、筋肉の強化は見込めず、残念な気持ちになるだろう。
 これは、一般の努力というものに当てはまることだ。努力とは、未来の成長とそれによる幸福のために、今の苦痛に耐える側面がある。逆に、その行為に快感・安楽しかなければ、それは努力とはいわないだろう。すなわち、未来の成長や幸福を意識し、今の苦しみを喜びに変える心理が働いているのである。実際に心理学的な研究では、前向きな気持ちである場合と、そうでない場合では、人(の心理)が感じる体の痛みは大きく異なることがわかっている。前に述べたように、幸福は、人の意識が感じる心理状態であって、お金などの外界の条件だけでは決まらないが、苦痛というものも、人の意識が感じるものであって、その際の心理状態が深く関与しているのである。
 そして、この法則・道理を説くのが、仏教でもある。具体的には、苦の裏に楽があり、楽の裏に苦があり、苦楽は表裏一体であるということだ。また、楽が苦をもたらし、苦が楽をもたらすという意味では、苦楽は無常なものであるともいうことができる。そして、前に述べたように、自我執着によって生じる苦しみは、自我執着を離れて悟りに向かう原動力となり、大きな幸福の源になり、大きな幸福に変わっていくものだともいうことができる。
 こうして見ると、老年的超越のためには、①長寿社会を健康長寿で生きるとともに、②その中で一定の人生苦があり、③最後に、それを精神的な成長・悟りに結び付けて、苦しみを喜びに変えて、苦しみを乗り越えていくことによって老年的超越に至るというプロセスが必要である。そして、③に至るためには、やはり初期仏教の教えに巡り合って、それを学んでよく理解する機会=法縁があるに越したことはない。それがなく、独自に、③の段階に入ることも、仏道修行者でもない一般の高齢者が老年的超越を得ている以上は、可能なのであろうが、それは、人生苦の連続の中から、生まれ持った才能によって仏道修行と同じような価値観・生き方に転換したか、仏教の教えは、いわば人間幸福の普遍の道理でもあるから、仏教という形をとっていなくても、その本質は同じ思想・教えに、何らかの形で巡り合ったのであろう。こうして、仏教の教え、ないしは、仏教の教えと本質的に同じ何らかの思想に、何らかの形で目覚めたり、何らかの形で巡り合って共鳴したりすることが大きなカギとなると思う。こうした条件がそろう人生を、仏教では「宝のような人間転生」(人間としての生涯)という。言い換えると、法縁がある人間の転生(生涯)である。
 そして、精神的な成長・悟りを目指す場合においては、その中の苦しみも喜びも、悟りに至るための貴重な経験であるということができる。すると、この世界は、悟りの道場であり、その中の他の人は、喜びを与える人も、苦しみを与える人も、悟りに至るための貴重な経験を与える人であると解釈することができる。これは、万物に感謝する心、そして恩返しとして他者万物を利する心、すなわち仏の大慈悲・万物愛の心に結び付く。
 また、自分よりも、悟りが深く、善行をなす人は、自我執着のために、妬むのではなく、自我執着を離れて、自分の見本の教師と見る訓練をするべき対象となる。悟りが遠く悪行をなす人には、自我執着がもたらす慢心・油断によって、単に蔑視するのではなく、自分の反面教師と見て、自分の反省・改善努力をするべき対象となる。そして、そのように見れば、皆が自分の悟りの修行の助力者であって、悟りの道場で、悟りの修行を助け合う稽古相手であると見ることができる。
 そして、このような生き方ができて、悟り・老年的超越の至福に向かうことができる人生は、前に述べたように極めてまれなものであり、それを得たのであれば、それに感謝し、宝の持ち腐れにならぬように、毎日を大切に生きるべきだと思う。


付記1:徳川家康の遺訓

本人の作ではないという説があるが、いずれの説も確証はないと思われる。

「人の一生は重荷を負(お)て遠き道をゆくか如し。いそくへからず。不自由を常と思へばふそく無し。こころに望み起こらば困窮したる時を思ひ出すヘし。堪忍ハ無事長久の基(もと)いかりハ敵と思ヘ。勝事はかり知りて負くる事志らされハ害其身にいたる。お乃(の)れを責て人をせむるな。及ばざるハ過ぎたるよりまされり 慶長九年卯月家康」

(人の一生は重い荷物を背負って遠い道をゆくようなものである。急いではならない。不自由を常と思えば不足もない。心に望みが起きれば困窮した時を思い出せ。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。勝つことばかり知り、負けることを知らなければ害がその身にいたる。おのれを責めて人をせめるな。及ばざるは過ぎたるよりまさる。)

(出典:ウィキペディア)


付記2:年齢年代と脳機能と生き方の変化

 近年の脳科学の研究によると、人の脳は、何歳になっても新しい神経細胞が生まれるが、脳を鍛錬しないと、それが定着せずに流れる傾向があるという。また、何歳になっても、脳には、可塑性(かそせい)、すなわち訓練によって脳の神経ネットワークが改変されて、脳機能が変化・改善する。このような脳の神経細胞とそれによる脳神経ネットワークの特徴は、1997年にエリクソンらによって発見されたが、それ以前は、脳は30代になると、新しい神経細胞は生まれないというのが通説であった。
 とはいえ、30代を過ぎれば、何の訓練もしなければ、脳機能は低下を始める。しかし、通常の人が低下を感じて、自分も年を取ったと感じ始めるのは、40代ごろからだとされる。また、仏教の悟りの修行などの訓練をしない場合には、感情を制御する能力(EQ)は、経験の力を含めて、40歳前後が最高であるといわれる。しかし、本論でも述べたように、さまざまな困難を乗り越える中で鍛えられる場合は、老年的超越現象から明らかなように、超高齢期に第二次心理的発達ともいうべき、脳の感情制御等の機能の向上が生じる可能性がある。
 2500年前の人であるから、現代人と同列には扱えないかもしれないが、釈迦牟尼は、30代で修行に入り、35歳で悟ったとされる。これは、修行者ではなくても、脳機能が最も高い年代であるということができるかもしれない。また、個人的な見解であって、十分な根拠・データがあるわけではないが、20代は若さのままに生きて、30代になって自分の生き方において何らかの挫折を経験し、それから生き方を変えていくということはあるかもしれない。まだまだ、気づかないうちに親・親族・教師などの影響を受けて生きる20代の若い時と異なり、自分なりの経験の結果、自分の生き方を定めるのは40代かもしれない。
 年齢年代別の生き方の変化に関して、参考になるのは孔子(儒家の始祖)の言葉だろうか。「子(し)曰(いわ)く、吾(われ)十(じゅう)有(ゆう)五(ご)にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳(みみ)順(したが)う、七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず。」というものがある。意味としては一般的に、「私は、十五才で学問を志し、三十才で自立(独立)し、四十才で迷うことがなくなり、五十才には天命(自分の人生の意味)を知り、六十才で人の言葉に素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れなくなった」といったほどのものである。
 私個人の場合は、30代で世の中に知られたが自立したとは言えず、40歳を過ぎてアレフを脱会してひかりの輪を設立して独立したということができるかもしれない。しかし、その後の、40歳で迷うことがなくなることと、50歳で天命を知ることの違いは、個人的に言えば、自分の歩む道の方向性が定まるのが「迷わず」であり、具体的な目標地点=成し遂げるべき自分の役割がわかるのが、「天命を知る」ということだと思う。自分の場合は、40歳+10年で、ひかりの輪を今現在の通り、宗教ではなく、思想哲学の学習教室に改編・改革した。50歳+10歳の今は、ある意味で天命=自分の人生の意味、すなわちなすべきことを理解したようにも思う。それは今回の特別教本のメインテーマであるが、21世紀に初期仏教の思想の創造的な再生を行って普及し、我欲・競合的幸福の追求を超え、智慧と慈悲=協調的幸福の体得=悟りを目指すとともに、分断と紛争が続く人類社会の調和の実現に貢献することである。こうして見ると、孔子よりも10歳ほど遅れているのかもしれない。
 60歳にして耳(みみ)順(したが)うとは、慢心がなくなり謙虚になったという意味で自我執着が緩和され、70歳で人の道を外れなくなったとあるが、これは行動の制御ができるようになったということだから、行動をもたらす心の制御の一定の完成を思わせ、一種の悟りの達成を意味しているようにも思う。孔子が70歳にして一定の悟りを得たとすれば、一種の老年的超越のような境地を得たのであろうか。
 また、孔子のように生きる道・道理を探求し続けていれば、こうして年齢を重ねるにつれて悟りに近づいていくだろうが、同じ儒家(儒家ではないという異説もある)の別の言葉には、「少年老い易く学成り難し」という有名な言葉がある。
 そこで、本論でも述べた、老年的超越とは対極ともいえる、認知症の問題に戻りたい。認知症の罹患率は、高齢期に年齢とともに急速に高まることが知られている。65~69歳では、男性2.8%、女性3.8%、70~74歳で、それぞれ4.9%、3.9%、75~79歳は11.7%、14.4%、80~84歳は16.8%、24.2%、85~89歳は35.0%、43.9%、90~94歳は49.0% 、65.1%、95歳以上は50.6%、83.7%である(参考資料:https://www.tmghig.jp/research/topics/201703-3382/)。
 また、これも本論で述べた健康寿命についてであるが、健康寿命とは「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」を意味するところ、2019年で男性72.68歳、女性75.38歳となっている。
(参考情報:https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/hale/h-01-002.html)。
こうして見ると、75歳以上になると、男女とも1割以上が認知症となり、健康寿命は尽きることがわかる。この75歳とは、1950年代生まれの団塊の世代が75歳に到達する「2025年問題」でも出てきたように、私の知り合いの話を聞いても、この年齢の前から生き方を変え始めている人は問題がないが、この年齢になった後に生き方を変え始めようとすることは、一般的にはかなり難しいと思う。しかし、経典には、この年代に初めて仏法に巡り合って真剣な修行を始めて悟りに達したという話もある。
 一般的にいえば、60代からは始めたいところだと思う。また、悟りにも関係する健康管理・生活習慣の改善に関していえば、60代から始めるより50代から始める方がずっと容易であることは、いろいろなところでよくいわれているように思う。また一般の日本人、特に男性にとっては、50代というのが最も幸福感が乏しく、自殺率が高いという意味で、苦しみが多い危機の年代といえるかもしれないが、それは同時に、その苦しみによって、競合的な幸福から協調的な幸福へ、慈悲の悟りへと価値観を転換するチャンスでもあると思う。

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