仏教思想
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仏教・ヨーガを科学する

脳科学と祈りと宗教

以下のテキストは、2021~22年 年末年始セミナー特別教本『最先端の脳科学が説く幸福の道 脳科学と宗教思想』第3章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

 

 1.脳科学が見直す祈りの効能

脳科学者の中野信子氏によれば、脳科学の研究の中で、祈りというものの効果が見直されてきているという。ただし、それは、自分や他者のことを神仏に祈って、神仏の超自然的な力によって、それが叶うというものではない。ある種の良い祈りが、祈っている人自身の心身の健康・知性の向上・人間関係の改善などに役立ち、結果として、その人が幸福になり、祈りが叶ったと思える状況が出来やすくなるといったほどの意味である。本稿では、祈りの効果に関して、この視点を中心として述べたいと思う。

一方、科学者によって、例えば、誰かの祈りによって他人の病気が治るというような祈りの効果、すなわち、現代科学ではその因果関係を説明できないような効果があるか否かの検証実験も、ある程度は行われているから、その状況についても、最後に報告したいと思う。


2.祈りの種類に関して

まず祈りとは、一体何か、どんなものをいうのかといえば、祈りの対象、祈りの目的や意味、実践の形態などにおいて、実に様々なものがあって、それ自体がそれぞれの宗教の教義を反映しているから、その説明をすれば、きりがない。

しかも、現在の日本社会で、お祈りといえば、年賀参拝などの節目の時に、特定の宗教に所属していない人が、神社や仏閣で何かの実現を祈って願うことなどが、最も一般的なものであろうし、もう少し頻繁に行う人の場合は、自宅近くの寺社を定期的に参拝するとか、家の仏壇の前で先祖を含めて手を合わせて祈るといったことがあると思う。

その中で、脳科学的な視点から見た良い祈りを考える場合は、誰の何を祈るかという点が非常に重要になるので、以下のように、祈りを分類したいと思う。

1.これまでの幸福に関して感謝する
2.今後の自分だけの幸福を祈る
3.今後の他の幸福を祈る(自他双方の幸福を祈る)
4.今後の他人の不幸を祈る=呪い


3.脳科学の視点からの良い祈り

まず、祈りというと、一般的には、今後の自分か他人の幸福を祈るということに偏りがちであるが、宗教的な実践の中には、これまで自分に与えられた恵みに関する感謝をする祈りがあることが重要である。

そして、脳科学の視点から見ると、前章までに述べた通り、感謝の気持ちを持つことで、エンドルフィンという癒しのホルモン(神経伝達物質)が分泌されることがわかっている。それは、モルヒネの6.5倍の鎮痛効果があるので、痛み・苦しみを和らげ、免疫力を高め、抗癌作用もあり、身体の修復を進め、活性酸素を撃退して体調を改善し、より健康的で若々しくなる効果があるという。すなわち、心身双方の癒しのホルモンということになる。さらには、記憶力や集中力も改善し、知力も高めるという。

また、感謝の心は、他者への愛とそれに基づく利他的な行為に結びつくことが多い。感謝とは、自分は幸福であって、その幸福は他者のおかげという認識に基づいた、他者に対してポジティブな心の働きである。それゆえに、他者への愛が強まるし、感謝から来る自然な心の働きとして、何らかの恩返し=幸福の分かち合いをしようという意識も強まる。実際に、利他的な行動、他者・社会への貢献、慈善・ボランティア活動に励む人は、感謝の気持ちが強いともいう。そして、こうして利他的な心や行為によって、後で述べるオキシトシンという物質も分泌されるが、これも心身の状態・知力を改善するものである。


4.感謝を深めるコツ

ところが、私たちの普段の心の働きとしては、感謝よりも、様々な不満・怒り・妬み・嫉み・憎しみ・恨み・怒り・後悔・自己嫌悪・卑屈といった否定的な心の働きが生じやすい。自分達自身から見れば、自分自身に、不満・嫌悪(コンプレックス)が何かしらあるし、自分に対する、周囲の他者や社会の扱いにも不満・怒りがあるし、そのために誰かに妬み・やっかみの心を持ち、誰かに恨み・憎しみ・怒りの心を持ち、誰かには蔑み・見下し・軽蔑・迷惑感などを抱いている。

しかし、視点を変えてみれば、それは前章で述べた通り、人はなかなか「足るを知る」、満足するということができず、際限なく喜びを求める性質があるためだともいうことができる。神仏のような宇宙的な視点から見れば、地球の生命が39億年前に誕生して以降、生まれた無数の生き物の中で、人間に生まれることは、実に奇跡的なことである。もし、動物に生まれれば、衣・食・住の保障はなく、絶えず天敵の恐怖に脅かされ、暑さ寒さに苦しみ、飢えや渇きと戦わなければならなかっただろう。

さらに、20万年前に誕生した現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)の中でも、21世紀という人類史上最も恵まれた時代に生まれたこと、しかも現在の80億人近い世界人口の中で、世界で最も長寿で、有数の経済大国の豊かさを持ち、先進国の中でも突出した安全性を持つ日本の1億3千万人弱の一人に生まれて生きていることも、奇跡的な恵みといえるだろう。

こうして、自分中心の際限のない欲求から見るのではなく、地球全体の視野から見るならば、我々が今の条件で、日々を健やかに生きることだけでも、奇跡的なまでに大きな恵みであると考えることができる。

もう少しわかりやすくいえば、普段の私たちは、気づかないうちに絶えず、「今よりもっと」「他人よりもっと」を求める心の働きがある(前章のドーパミン神経回路の働き・性質を参照)。よって、自分とともに、友人・知人も得ている恵みに関しては、当然のことだから、感謝の対象に入らないのである。

しかし、逆に言えば、「当然のことだ」と思っても、「与えられている恵みは、与えられている恵みとして感謝しよう」という視点に立つと、先ほど見たように、奇跡的なまでに膨大な恵みが与えられていることに、気づくのである。よって、感謝の心を持つためのコツは、まずは、他者と比較をしないこと(しすぎないこと)、当然だと思うことにもありのままに感謝すること、大きな視点・俯瞰的な視点・客観的な視点から、自分の境遇を見ることである。

その次に、その恵みを支えているものは誰かを考える。ありのままに見るならば、それは他者・万物である。人は、一人では一秒たりとも生きることはできず、様々な生物と非生物が一体となって存在する地球の生命圏の一部として、他者万物に支えられて生きている。その地球は、太陽系に支えられ、太陽の光の熱によって生命をはぐくみ、その太陽は、銀河系に支えられて存在している。


5.万物への感謝と汎神論(はんしんろん)

ここで、万物が感謝の対象であるとしたが、これとよく合致する宗教的な思想が、「汎神論」である。すなわち、この世界の万物が神である、神の現われであるとするものである。神道にも「八百万(やおよろず)の神」という思想がある。水も、草も、木も、石も、山も、動物も、人間も皆が神であるという思想だ。

この思想は、神道に引き継がれた、縄文時代の原初的な自然信仰である精霊信仰(万物に精霊が宿るという信仰)の遺産ではないかとも思われる。実際に、縄文人やその文化との関係が深いといわれるアイヌ民族では、植物も動物も太陽も地球も人間の作った道具も含めた万物を「カムイ」と呼んで、精霊が宿るものとして神と見なす信仰文化がある。

なお、「アイヌ」とは、カムイの恵みを得て生きる「人間」を意味し、カムイの恵みに対するアイヌ(人間)のお返しの品を「イナウ」と呼ぶという。私は、北海道にある「ウポポイ」と呼ばれるアイヌ文化に関する国立の博物館で、これに関係する展示物をつい最近見学したことがある。

この自然万物を神と見て感謝するという思想は、現在の日本人のメンタリティーにマッチするかもしれない。というのは、NHK等の意識調査によると、日本人の場合は、特定の宗教に所属している人は少ない一方で、大自然の大きな力に畏敬の念を感じる人は、逆に過半数を超えており、日本人らしい柔らかな宗教観を有しているという。

実際に、世界の万物を神仏と見なすことは、何か特定の信仰対象を持って、それ以外の物を否定する行為ではなく、特定の宗教を盲信するゆえの危険性はないと思われる。むしろ、こうした考え方は、自分達人間が地球や宇宙の支配者であるかと錯覚するような人間中心主義的な驕り・傲慢から離れて、自分達人間が、実際に一体として機能している世界の万物に支えられて生きているという重要な事実を謙虚な心で受け止め、それに感謝した場合に生じる純粋な感覚ということもできるのではないかと思う。

万物を神仏ととらえるならば、神仏とは何かが、よくわからなくなるかもしれないが、古来、人は、人に命を与えるものを神と解釈してきた。「命」という漢字の語源を見れば、神のお告げとの意味があり、命は神のお告げにより与えられるものとの解釈ができるという。そして、人間の生命を支え与えているものは、事実として、この世界の他者万物・自然万物なのだから、万物が神仏と考えることは合理的ではないか。

また、この考え方は、特定の宗教の神を盲信することによる弊害もなく、先ほど述べたように、論理的・合理的・理性的な思考とも矛盾しない。他者万物と自分の関係を、謙虚で純粋な視点から見た場合の解釈であるといえるのではないだろうか。


6.不満・怒り・他者への敵対的な感情のデメリット

ところが、不満や怒りといった、他者に敵対的なネガティブな心の働きが強いと、前章で述べたアドレナリン・ノルアドレナリンや、コルチゾールといったホルモンが過剰に分泌され、加えて、交感神経が過剰に優位となってしまう。

アドレナリンが過剰に分泌されると、高血圧・高血糖(糖尿病)・血液のドロドロ化・動脈硬化・心血管系の老化が進み、脳卒中・心筋梗塞のリスクが2~4倍増え、不整脈や狭心症のリスクも高めるという。

そして、コルチゾールが分泌過剰となると、免疫力の低下、血圧・血糖値の上昇、脳の海馬の萎縮、糖尿病、肥満、高血圧、癌、感染症、骨粗しょう症のリスクを高め、うつ病、その他のメンタル疾患とも深く関係しているという。

さらに、自律神経の交感神経が過剰に優位となり、睡眠障害(不眠)、身体の回復・細胞・臓器の修復がしづらくなり、免疫力が低下する。不眠がもたらすリスクについては、癌は6倍、脳卒中は4倍、心筋梗塞は3倍、高血圧は2倍、糖尿病は3倍に、それぞれ増大させるという。


7.自分だけの幸福を願う祈りの裏側にあるもの

さて、先ほどは、祈りのタイプに、自分だけの幸福を祈るものと、他の幸福(自他双方の幸福)を祈るものがあると述べた。

まず、単に自分の幸福を願う祈りと、自分だけの幸福を願う祈りの違いは何か。ふつう我々がなす祈りは、例えば、他との競争の勝利であったり、他と比較して自分が優位になることであったりすることが少なくない。これは、自分が明確に意識していないうちに行われる。言い換えれば、それを自覚することは、非常に大切なことになる。

まず、例えば、合格祈願をする場合に、なぜ祈願するのかといえば、皆が合格できるのではなくて、合格できない者がいるからである。合格を完全に確信できる状態ならば、ないしは裏口入学などの不正を行い合格することを事前に知っているなどすれば、祈願をする必要性は感じないかもしれない。よって、自信はあっても、何か確信できないからこそ祈願するのだろう。

だとすれば、合格祈願するということは、自分の合格の代わりに、他者の誰かが不合格になることを神仏に願っていることになる。自分の幸福とともに、誰か他者が不幸になることを願っているのである。「お金持ちになりたい」、「名誉・地位を得たい」といった願いも同様である。多かれ少なかれ、そうした幸福は、他との競争、いわゆる奪い合いの部分がある。

お金持ちになりたいという願いの場合も、お金持ちとは、友人・知人に比較してお金を持っているという状態であって、比較の問題であるから、これ以上お金を持っているから絶対的にお金持ちであり、これ以下ならばお金持ちではないという境界は厳密にはない。自分の財産が増えても、皆が自分以上にお金持ちになったら、自分はお金持ちにはなれないのである。すると、お金持ちになりたいという願いは、それが実現すれば、自分は幸福になっても、自分より財産が少ない状態になる他人は、自分と逆で不幸になるということだ。

その他、この世の幸福は、自分の幸福の裏側に他人の不幸がある場合が多い。異性を得るにしても、同性との奪い合いの側面がある。おいしい食べ物も、その原料は、他の生き物の犠牲の結果である。名誉・地位こそ、万人が得られず、得られる人が少数だからこそ価値がある。すべての競争の勝者は、同時に敗者がいるからこそ存在する。すべての人々が五輪の金メダリストになったら、金メダルの価値は暴落し、それを売った時にいくらになるかという話と等しくなるかもしれない(10万円の給付金とどちらが価値があるか)。

これが、自分の幸福ではなく、自分「だけ」の幸福とした理由である。その願いの裏には、無意識のうちに、自分の代わりに、誰かが不幸になることを願う意識がある。


8.他人の不幸を願う心・呪いの弊害

もちろん、無意識ではなく、明確にそうである場合もある。スポーツ等の競争の相手には、激しい敵意を感じ、「やっつけてやりたい」、「打ち負かしたい」、「負かして苦しむ姿を見たい」と思う相手がいるかもしれない。そして、打ち負かした相手が苦しむ姿を見て、「かわいそうだ」と思うことなど微塵もなく、勝利の歓喜に浸ることもあるかもしれない。

しかし、そうしたことを絶えず念じたり、祈ったりしている場合は、先ほど述べたアドレナリン・ノルアドレナリン・コルチゾールの弊害が出てくる可能性がある。それは、自分の心身の健康・知力を損ない、競争に勝つ能力を逆に減じてしまうことになる。すなわち、「人を呪わば穴二つ」という格言は、脳科学的に見れば、真理なのである。

そして、先ほど、祈りのタイプの最後として、他人の不幸を願う行為、すなわち呪いと呼ばれるものを挙げた。これは、他人を害しようという意識であるが、脳科学的にいえば、先ほど述べたように、それは、自分の心身・知性を損なうことになる。そういう心の傾向・性格の人は、人間関係も損なうだろう。だとすれば、自分の願いがかなう可能性も少なくなるのではないか。


9.自分の幸福を祈る時も他の幸福を併せて祈る

だとすれば、自分だけの幸福を祈る時も、単にそれだけではなく、例えば、自分が合格した場合に、それを自分だけの喜びに留めずに、合格後の自分の精進を誓い、何らかの他者貢献、社会貢献を誓うことを併せて行う方が、脳科学的には良いということになる。

そして、他者への愛情・親切・慈しみ・慈悲を持つときに分泌されるのが、オキシトシンという神経伝達物質である。オキシトシンの分泌は、人への親近感・信頼感が増し、ストレスが和らぎ、幸福感が高まる。また、血圧を抑制し、心臓の機能を改善し守り、長寿になるといった効果があるという。

また、オキシトシンは、不安の原因となる脳の扁桃体の興奮を鎮静化する作用があり、不安を取りのぞいて、「安心をもたらすホルモン」ともいわれる。さらに、交感神経が過剰に優位になっている状態を和らげて、逆に副交感神経を活性化して、自律神経のバランスをとり、不安の軽減、免疫力の改善、身体の休息と回復の促進をもたらすという。

さらに、エンドルフィンとオキシトシンは、免疫とともに、脳の海馬が司る記憶力や集中力を改善するとされる。この海馬は、先ほど述べた通り、他に対するネガティブな心の働きがあると、過剰に分泌される恐れがあるストレスホルモンのコルチゾールによって、委縮していくことが知られている。

さらに、この海馬の機能は、単に過去の出来事の記憶力を改善するだけではなく、展望的記憶というものを改善するという。これは、未来に行う予定の記憶であるが、単に明日やる予定のことを忘れずに実行するといったことだけではなく、数十年先までの自分の未来のヴィジョンを思い描き、目標を立てて、地道な努力を積み重ねることと、そしてその意欲に関係するという。

すなわち、海馬の活性化は、自分の願いをかなえるために必要な努力を実行する上で、非常に重要である。もちろん、その人の願い事が「宝くじに当たりますように」といったようなものの場合には、あまり意味はないだろうが、その願い事が真面目で真剣なものであり、自分の努力で一歩一歩実現していくようなものであれば、その願望の成就には、極めて重要になるだろう。

これから見ても、感謝や利他の祈りは、脳科学的に見れば、心身の健康・知力・実行力の向上・人間関係の改善をもたらして、その人の願いをかなえることを助ける。一方、同じく脳科学的に見れば、他の不幸を願う・呪うようなネガティブな祈りは、その逆に、心身の不健康、知力や実行力の低下、人間関係の悪化などによって、その人の願いはかないにくくなるばかりか、様々な意味で不幸をもたらすということになる。


10.自他双方の幸福の祈り--利他こそ利己、自と他の幸福は一体

さて、これまで見てきた脳科学と仏教の見解の共通点として、利他の心・感情は、自分こそを利するということがあると思う。仏教開祖の釈迦牟尼も、仏教の主要な利他の瞑想として、四無量心という瞑想を説いたが、弟子に対して、その瞑想によって、自分の苦しみの原因となっている悪い心の働き(煩悩)が浄化されると説いている。

そして、仏教では、自と他を間違って区別する無智に基づいて、自己を間違って偏愛する結果として、人は苦しむと説く。逆に、自と他とその幸福の一体性を悟る智慧を磨いて、自他双方を平等に愛する広い心(大慈悲)によって幸福になると説く。

こうしたことからも、私は、釈迦牟尼は、2500年前の脳科学者、心理学者といえるのではないかと思う。釈迦牟尼はMRIなどの高度な脳の観察技術は持っていなかったが、自分が、自分や他人に経験する心の働き、行動、その結果の幸福や不幸などの正確な観察を通して、現代の脳科学者と同じ趣旨の結論を導いたのだと思う。

さて、他の幸福を願うことが、自分に幸福をもたらすことである以上、その人は、自他双方の幸福を願っていることになる。ならば、祈る時に、他の幸福を祈ると意識するよりも、素直に、自と他双方の幸福を区別せずに祈り、自と他を含めた皆の幸福を祈るということでいいのではないかと思う。

 

11.継続的な祈りの重要性

さて、良い祈りが脳科学的にも人に幸福をもたらすと述べたが、それには、もう二つほど条件があると思う。一つ目は、継続的に祈ることの重要性である。

良い祈りによって、良い神経伝達物質が出て、心身の健康・知力・実行力が改善すると述べたが、そのためには、なるべく継続的に行われることが望ましいと思う。一日の良い祈りによって、とたんに良い神経伝達物質がどんどん分泌され、心身の健康・知力・実行力が改善するかというと、必ずしもそうではないと思われる。

例えば、怒りが強い人は、これまで繰り返して怒ってきたために、アドレナリンが分泌されやすい神経回路ができている(言い換えれば、怒りやすい脳になっている)。これは、悪い心の働きが繰り返される中で、脳細胞の状態が徐々に悪い方向に変化してきたということである。

これとは逆に、良い祈り・良い心の働きも、それが繰り返される中で、エンドルフィン・オキシトシン・セロトニンが分泌されやすい神経回路が徐々にできていくと考えられる。また、記憶力が実行力に関係する海馬の機能の改善を考えても、これまでコルチゾールで委縮してきた海馬に対して、良い祈り・心の働きによって、それを再び活性化していくためには、一日だけの良い祈り・心の働きでは、大きな変化を期待するのは、無理があるように思われる。

これは、脳ではなく、体の筋肉のトレーニング(筋トレ)と似ていると思われる。一日だけ猛然と筋トレをやっても、あまり効果がなく、焦って無理せずに継続的に鍛えることが、結果が出るやり方であろうと思われる。脳も、筋肉と同じ、人間の体の一部であり、細胞からできている。

そして、人間の体の細胞は、平均して3カ月で入れ替わるという(3カ月よりも早い器官もあれば、遅い器官もある)。脳の神経細胞は、成人後も新しい細胞が生まれて、適切な刺激を与えれば、それが生き残ることが発見された。そして、毎日少しずつ新しい神経細胞ができる中で、それが毎日正しく刺激される(正しく訓練される)ことによって、良い形で生き残って機能していくことになるのではないか。

以上から考えると、1日や2日では、全く効果がないとはいわないが、三日坊主はダメだというように、脳の機能の場合も、それが大きく変化するとしたら、数カ月程の継続的な実践を要すると考えられるのではないだろうか。

なお、体の細胞は、平均して数カ月で入れ替わるというが、細胞を構成する分子がすべて入れ替わるのは7年ほどかかるともいう。今から7年経つと、現在の貴方は、分子レベルで見れば、何1つも維持されていないことになる(もちろん、DNAなど遺伝子配列はコピーされるので維持される。一方、脳の記憶の仕組みはわかっておらず、記憶は何らかの形でコピーされていくが、その際に正確にコピーされるとは限らないという推測がある。これが、記憶が時とともに衰えたり歪んだりする一因ではないかともいわれている)。


12.誓願の重要性:過剰な依存に陥らない

宗教やお祈りというと、その悪いイメージとして、神仏や教団・教祖に過剰に依存するという懸念がある。そこで、私は、祈りは、自分の努力の誓いとともに行われるべきだと思う。誓いと願いを合わせると、誓願ということになる。

脳科学的に見ても、自分のなすべき努力を誓うことなく、単に依存的に祈っただけでは、その幸福に向けて努力する方向に脳を働かせることにはならない。先ほど述べた、願いの実現に重要である展望的記憶を司る海馬を働かせて活性化し、訓練することにはならない。

それに、皆の幸福を祈る中で、そのための努力を自分がする場合と、何もしない場合とでは、そもそも他の幸福を祈る気持ちの強さ=愛の強さに違いが生じるのではないかと思う。当然、前者の方が強いのではないだろうか。

さて、ここまでの良い祈りをまとめてみると、①感謝、②自他双方の幸福、③継続的実践、④誓願ということになる。


13.宗教と脳の関係:宗教は人の脳の産物か

よくいわれることは、宗教は、現実としては、人が作ったものではないのかということがある。これに対して、宗教者によっては、宗教は断じて、人が作ったものではなく、人や宇宙が存在する前から存在する超越的・絶対的な存在こそが、人や宇宙の万物を創造し、その上で、人に宗教を与えた(啓示した)と主張するかもしれない(主張するだろう)。

しかし、合理的に考えれば、どんなに人が「神仏を見た」、「声を聞いた」、「その奇跡を見た」と言っても、それは、人が体験したことであり、そもそも、人が体験していないものは、宗教として、人によって説かれることはない。そして、人の体験は、人の脳内の情報の体験であることは、科学的な視点から見れば、揺るがしがたい事実である。

私たちの意識は、外的な世界を直接見た体験などは、全くしていない。五感を通して外から得た電磁波や空気の振動といったわずかな情報に基づいて、私たちが自覚しない無意識の脳活動が、おそらくは自分達の個体の生存のために役立つような壮大な三次元立体映画を作って、私たちの意識に見せているにすぎない。このことは、様々な研究によって、脳科学や認知心理学においては通説である。

例えば、色は、外界には存在しない。外界にあるのは、電磁波にすぎない。その情報が網膜を通して脳に送られると、電磁波の振動数に応じて、脳が作る三次元立体映像の各パートに、自分勝手に様々な色のペインティングをしているだけである。二つの目の網膜が、脳に送ってくるのも、三次元立体映像の情報ではなく、二つの二次元の電磁波の情報のセットだけである。それに基づいて、脳が三次元立体映像を制作しているだけである。繰り返しになるが、私達が見ている世界は、断じて私達の体の外にあるものではなく、私たちの目の奥にある脳が作った映画にすぎないのだ。

ただし、これは、宗教をすべて否定する思想では必ずしもない。なぜならば、仏教やヨーガの思想では、人間の中に未来に仏陀になる可能性である仏性(ぶっしょう)が宿っていると説く。釈迦牟尼は、万物を創造した絶対神を説かず、生きた人間である自分が悟った(ブッダになった)と説いたが、その釈迦牟尼は、(おそらく)私たちと同じ脳と体の構造を持った現生人類の1人であることは確かだ(仏陀を象徴する特別な特徴を持った身体だという信仰はあるが)。

ヒンドゥー・ヨーガの思想も、すべての人々(生き物)は、真実の自己として、自分の本質として、真我を有していると説く。これは、「自分の中の神」ともいうことができる存在だと説く人もいる。そして、ヒンドゥー教の主流の哲学派であるヴェーダーンタ学派は、宇宙のすべての源であり、宇宙の根本原理であって、全宇宙に遍在している存在としてブラフマンを説くが、そのブラフマンと真我(アートマン)は本質的に同体・一体だという(梵(ぼん)我(が)一如(いちにょ)・不(ふ)二(に)一(いち)元(げん)論(ろん))。

こうした「自分の中の神仏」という概念を宗教自体が説いているとすれば、人の心の働きと密接不可分に連動する脳の機能の中に、宗教が神仏と説いている存在の源となるような何かが、未発見のまま存在していると考えることはできないだろうか。


14.真我の思想と最新の認知心理学の意識の概念の類似性

そして、この真我自体は、思考や感情は有さない。しかし、物心双方の源である自性(じしょう)と、真我の相互作用が起こると、自性が転変して、様々な精神的・物質的な存在がこの世に現れる。それを照らして観察するのが真我だという。真我は、万物を観察する純粋な意識であり、主体の中の主体であり、観察する側であり、観察される側の客体ではないという。

こうして、真我は、この世界で自分や他人などと呼ばれる心や体のいずれでもない。一方、自分や他人などと呼ばれる登場人物を含んだ三次元立体映画があり、それは、自性を転変させることで神様が作ったものであり、真我は、それを見る観客のような存在である。

ところが、ヨーガ行者の真我も、修行によって解脱するまでは、その映画の中の自分と呼ばれる登場人物を自分だと錯覚・混同しているという。これは、映画館の観客が、映画の主人公に強い思い入れを持つあまり、主人公と精神的に一体化してしまい、主人公と共に喜んだり苦しんだりするのと似た状態であるというのだ。

そして、この錯覚を取り除くために、ヨーガの修行は、心の働きを止めることを目的とする。「自分」と呼ばれる映画の登場人物の心の働きが完全に止まれば、その心の働きを自分だと錯覚・混同していた真我は、自分1人だけになるため(真我独存位)、自分自身の本来の状態に立ち戻るというわけである(解脱)。

そして、この真我の思想は、最新の認知心理学の意識のあり方と、よく一致する部分がある。というのは、認知心理学者の中にも、人が自覚している自分の意識は、実際には全くの傍観者であって、自覚していない無意識の脳活動が、思考や感情・欲求や行動の意思決定等を行っているが、実際にはそれを見ているだけの意識は、それらの思考・感情・欲求・意思決定を自分のもの(自分が作ったもの)と錯覚・混同しているというのである。完全にヨーガの真我の思想とイメージが一致するではないか。

これは、にわかには信じがたい理論であるだろうが、様々な実験・研究の結果に基づく推測であるから、その詳細は、別の機会に紹介したいと思う。

 

15.自分の中の裁きの神

また、脳科学者の中野信子氏によれば、仏教が説く裁きの神である閻魔様や、それに仕える同名天(どうみょうてん)や同生天(どうしょうてん)という神様と、よく似た性質を持つ「社会脳」と呼ばれる機能が、人間の脳にはあるという。

具体的には、脳内の内側(ないそく)前頭(ぜんとう)前野(ぜんや)という部位が、自分の行為を絶えず監視し、それが利他の行為・社会性を持った行為であると判断すれば、線条体(せんじょうたい)と呼ばれる快感を生み出す脳の回路の一部が活動して脳に喜びを与えるという(社会的報酬)。一方、それが、過剰な怒りや妬みや不安・恐怖のように、他を害する、社会的に良くないものであれば、ストレス物質であるコルチゾールが分泌されるという。

一方、仏教での同名天と同生天とは、ある人間と同じ名前と同じ人生を送る神といったような意味であり、男女一対の神で、その人間の肩の所にいて、その行動をすべて記録し、その人間の死後に、閻魔様にすべてを報告して、裁きを仰ぐ役割を果たすという。

細かい部分は別にして、宗教が説く神の裁きとは、要するに、他人に見られていなくても、神は人の悪業を見ており、その裁きがあるという概念であろう。それは、人間の社会脳の存在を経験的・直感的に把握した宗教者が、それを自分の脳の中の機能だとは表現せず(とは気づくことができないで)、自分の外の存在だと表現した(錯覚した)結果であるとは解釈できないだろうか。

また、深層心理学者のカール・ユングは、すべての人の無意識の中心に、人に(自分に)試練を与えて精神的な成長に導く「セルフ」という存在があることを提唱した。自分の無意識の根源にあるものが、自と他の区別を越えて、意識と無意識を統合することに向けて、自分(の意識)に働きかけるというのである。これも、「自分の中の神」という宗教的な概念と非常に近いイメージである。

仮に、ユングの提唱したセルフという存在が、未発見の(=無意識の)脳の活動の機能の一部を現したものだとしたら、これもまた、自分の内外にかかわらず遍在すると宗教が説く神仏というものが、人類がまだ解明していない脳の働きを投影したものであるということができるかもしれない。


16.二つの未知のフロンティアに想定される神的な存在

本稿の冒頭に、人類には、「外的宇宙」である「大宇宙」と「内的宇宙」ともいうべき「脳」という、二つの人類最後の未知のフロンティアがあるという見解を紹介した。この二つに関しては、人類の知識は、まだほとんどないといってよいからである。

外的宇宙は、現時点では、その全容を知るには、あまりに大きすぎて遠すぎる。そもそも全体の大きさがわからない(少なくともこれ以上の大きさということはわかっているが、大きさが無限なのか有限なのかさえわからない)。光の速さを越える何かがなければ、全体を把握することはできないだろう。

一方、内的宇宙に関しては、大きさは片手で持てるほどで、重さは1300グラム程度しかないが、現時点では、その全容を知るには、あまりに微細で複雑である。最終的には、脳に関する最大の謎、「意識」とはいったい何かを解明する必要がある。そうなれば、少なくとも、物質の最小単位の量子などのいわばミクロ宇宙への探求が必要となってくるだろう。

また、我々の銀河には、数千億個の恒星があるといわれるが、内的宇宙の脳にも、一千億個のニューロン細胞があって、それが縦横無尽につながって膨大な情報伝達ネットワークを形成している。その様を、あたかも銀河連邦共和国のようだと表現した人もいる。

そして、この二つの未知のフロンティアは、本当の意味で、人類の最後の未知のフロンティアである「神」と呼ばれる存在への扉を開く可能性があるかもしれない。

外的宇宙に関しては、地球外知的生命体探査(Search for Extra Terrestrial Intelligence)というプロジェクトが世界中で行われている。これは、地球外知的生命体による宇宙文明を発見するプロジェクトの総称である。この目的・利益の一つとして科学者が主張していることは、人類よりはるかに知的に進んでいる生命を発見できれば、人類のすべての問題を解決する知恵を得ることができるだろうというものである。

これを宗教的な表現で言い換えれば、宇宙人の発見こそが、人類すべてを完全に救済する神の遣わす救世主との遭遇ともいえるかもしれない。ところで、欧米の新興宗教団体の中にも、聖書などが説く神の正体は(地球に飛来した)宇宙人であると説くものがある。私は到底信じていないが、普通の目に見えない神を説く宗教と比べれば、発想が科学的に思えて面白いと思う。

ただし、仮に地球人よりはるかに進化した宇宙人がいたとしても、私が宇宙人ならば、地球人類に介入はせずに、自分の存在を悟られずに見守ると思う。彼我の差は、例えれば、人間と虫ほどに大きいかもしれないから、彼らにとって、こちらに接触する利益は全くないだろう。

一方、地球人類が、人類滅亡を可能にするほどの核兵器を有して、その扱いに困っており、世界中で依然として対立・紛争が続いているのを見れば、宇宙人の科学技術は、「気違いに刃物」になりかねないから、その精神的な進化を今しばらく待つことが賢明ではないか。

最後に、外的宇宙と内的宇宙である脳は、実はシンクロしているのかもしれない。その前に、厳密にいえば、人間の体は小宇宙であり、宇宙とシンクロしているという思想が、以前からヨーガやニューエイジの思想にはある。シンクロしているというのは、大宇宙全体と人体の小宇宙が、密接不可分に相互に交流・連動してつながっているといったほどの意味である。

なお、人間の体の中で、脳と脳以外の部分を厳密に区別する境界は存在しないという見方がある。脳だけでなく脊髄の中枢神経にも、自律神経にも、体中に張り巡らされた末梢神経にも神経細胞はある。脊髄反射のように、脳からの神経信号なしに体が動く場合はあるし、最近は、腸が第二の脳というほどに神経(しんけい)叢(そう)が発達し、脳から独立して活動する面もあるとわかってきた。そもそも、仏教やヨーガの思想は、クンダリニー・ヨーガや密教の思想を見ても、心身は一体であり、人の感情・煩悩も、体全体(に流れる気道の中の気の状態)が作り出しているという思想だ。

さて、最後に、内的宇宙の最大の謎である「意識」とは何だろうか。意識に関しては、例えば、それは何でできているのか(そもそも、そうした物理的な概念のものではないのか)を含めて、その正体は全くわかっておらず、現段階では、まだお手上げ状態のようである。その中で、人体や脳において、意識がどんな役割・機能を持っているかに関して、上述したように、ある程度推察しているぐらいではないかと思う。だからこそ、私達の中心である「意識」が、「宇宙の根源」と同一であると説く、前に紹介した思想は、非常に興味深い。

 

 

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