仏教心理学の精髄:心の三毒と、智恵と慈悲
以下のテキストは、2015年夏期セミナー特別教本『仏教の心理学』第1章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。
1 心の三毒とは
仏教は、心理学の要素がある。そして、人の心の働きを論理的に分析し、すべての煩悩と苦しみの原因として、(心の)「三毒」というものを説く。これは、すべての煩悩の根本となるものであり、そのために、すべての苦しみの根本原因と考えられている。
三毒とは、貪り・怒り・無智の三つの心の働きである。仏教用語では、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)と表現する。貪=貪り、瞋=怒り、痴=無智である。そして、この三つの中で、無智が根本であり、無智が原因となって、貪りと怒りが生じているとされる。
2 無智とは何か
無智とは何か。これは非常に奥が深い。これを理解することは、仏教の精髄を理解することに等しい。仏陀とは、無智を超えて、智慧(智恵)を得た者とされる。よって、無智と智慧は対極的な概念であり、この二つを理解することは、仏陀とは何か、その悟りとは何かを理解することでもある。
無智を一言で説明することは難しい。一言で説明してしまうと、逆にそのエッセンスが理解できない面がある。よって、本書では、無智を説明するために、様々な表現を使う。しかし、その表現はすべて同じことを意味している。
3 伝統仏教の無智の説明
まず、無智とは、物事をありのままに(正確に)認識することができないことをいう。ではありのままに、正確に認識できないというのは、どういうことであろうか。
伝統的な仏教的な表現をすると、たとえば、無智とは、仏教の根本哲学である縁起の法を理解できず、それに基づいて事物を理解できないことと表現できる。なお、縁起の法とは、あらゆる事物が、他に依存し、相互に依存し合って存在しているというものである。
また、無智とは、同じく仏教の根本哲学である空の思想を理解できず、あらゆる事物が空であることを理解できないこととも表現される。空とは、固定した実体がないことという意味であり、仏教(特に大乗仏教)では、あらゆる事物は固定した実体がないと説かれる。
この縁起と空の二つの思想は、本質的に一体であり、同じことを言っている。なぜならば、縁起の法が説くように、あらゆる事物が他に依存し、相互に依存し合って存在しているならば、あらゆる事物は、他が変われば自分も変わり、自分が変われば他も変わるという関係にあり、その結果、空の思想が説くように、あらゆる事物は、固定した実体がないという結論となるからである。
逆に、仏陀の智慧とは、あらゆる事物が縁起(相互に依存)しており、空である(固定した実体がない)ことを理解する強靱な認識力であると表現されることがある。
4 簡明な無智の説明 (1) 自と他の区別
このように無智を説明したとしても、皆さんの日常生活に役立つ智恵にはならないだろう。そこで、上記の意味をより噛み砕いた形で、無智の意味を説明した表現を紹介したいと思う。
そうした無智の説明としては、「自と他の区別をする無智」というものがある。これは、人が、自己と他者・外界、例えば、自分と他人が、本質的には繋がっているにもかかわらず、それを別のものだと錯覚することを意味している。本当は一体なのに、別のものだと錯覚することを無智と言っているのである。
その当然の結果として、この無智の状態にある人は、他人よりも自分に執着する状態に陥る。これが自我執着などと呼ばれている。具体的には、自分自身に加え、自分の物に執着するのである。
なお、この応用編として、本当の自分は、自と他が繋がっていると認識しているのだが、その本当の自分を見失ってしまっていることを「根本的な無智」という場合がある。これは、まず、本当の自分を見失う根本無智があって、そのため、次に、自と他を区別する無智が生じるという理論である。
さて、この自と他を区別する無智は、自と他の幸福を区別する心に結びつく。わかりやすく言えば、自分と他人の幸福は一体ではなく、別のものであるという意識である。自分の事だけを考える、エゴの心の働きである。
5 簡明な無智の説明 (2) 目先の楽へのとらわれ
また、別の無智の説明としては、「目先の楽を求める心の働き」という表現もある。これは、実際には、目先の楽の後には苦しみがあるにもかかわらず、その楽の部分しか見えず、裏の苦しみの部分がわからない心の状態である。
これは、仏教が説く、苦楽表裏という思想と繋がる。すなわち、楽の裏には苦しみがあり、苦しみの裏には楽がある、という思想である。この視点からは、無智とは、苦しみを伴わない楽があるという錯覚(および、楽を伴わない苦しみがあるという錯覚)のことを言うのである。わかりやすく言えば、(人生は)楽があるから苦があって、苦があるから楽があるということである。
以上の二つの簡明な無智の説明は、両方とも縁起の法と合致する。自と他を区別する無智は、自と他が相互依存の関係であることを理解しない状態である。楽があるから苦があり、苦があるから楽があることを理解しない無智は、楽と苦が相互依存の関係であることを理解しない状態である。
6 簡明な無智の説明 (3) 今の自分さえよければいい
さて、さらに噛み砕いた無智の説明をしたいと思う。それは、「今の自分さえよければいい」という心の働きである。
前項で述べたとおり、自と他を区別する無智は、他よりも自分に執着する自我執着をもたらし、自分と他人の幸福を区別することにつながる。これをわかりやすく言えば、「自分さえよければいい」という意識である。
次に、目先の楽にとらわれる無智とは、わかりやすく言えば、「今さえよければいい」ということである。よって、この二つの無智の説明を組み合わせて、わかりやすく表現すれば、無智とは、「今の自分さえよければいい」という心の働きと表現できる。
このように無智を理解することは、人の様々な心の問題・煩悩・苦しみの根本原因を理解する上で非常に役立つので、ぜひ頭に入れておいていただきたい。
7 簡明な智慧の説明
それでは、無智の簡明な説明に基づいて、仏陀の智慧(智恵)というものを簡明に説明するとどうなるか。それは、「今だけではなく、長期的に(全体的に)、自分だけでなく、他と共に、幸福になることが、真の(自分の)幸福である」と理解している意識ということになる。
これを噛み砕いて表現すると、第一に、目先の楽だけではなく、後先を見渡した長期的・全体的な幸福が重要だと理解していること。第二に、本当の(自分の)幸福とは、他人と共に幸福になることで、自と他の幸福は、本当は一体であると理解していることである。
しかし、我々は、なかなかこのように思えないし、仮に頭ではわかっていたとしても、実際には、なかなか、このようには行動できないものである。そして、それは、無智が心を覆っているからだと仏教は説くのである。
8 智慧と慈悲の一体性
そして、智慧が生じるならば、慈悲が生じる。なぜならば、智慧とは、自と他の存在を一体と見て、自と他の幸福を一体と見る意識状態であるから、自ずと万物への愛が生じるのである。
さらに、目先の楽にとらわれず、長期的な幸福を考えるため、他と共に幸福になる道をコツコツと地道に歩んでいこうとする。仏陀・菩薩は、すべての人々・生きものを救うために、延々と利他の実践に励もうとすると説かれているが、それは仏陀・菩薩の智慧から生じた慈悲であり、別の言葉では、菩提心と呼ばれている。
9 無智から生じる貪り
では次に、無智から生じる貪りについて説明したい。これは、自分にとって好ましいと感じるものを求める心の働きである。
一見して、これは問題がないように思えるかもしれない。しかし、なぜ問題かというと、先ほど述べたように、目先の楽の後には苦しみがあり、自分にとって好ましいと思っても、それにとらわれて求め過ぎると、苦しみを招くからである。
よって、より正確に言えば、貪りとは、単に自分に好ましいと感じるものを求めることではなく、それにとらわれて、生きていくに必要以上に貪り求める状態ということができる。そして、実際に、人は、この貪りの状態に非常に陥りやすい。
たとえば、財や富、名誉や地位といったものへの欲求は際限がない。いくら得ても、もっと欲しくなる。そのため、求めて得られない場合の苦しみ、得たものを失う苦しみや不安・恐怖、さらに、他人と奪い合うことによる怒り・憎しみ・妬み・不安・恐怖といったものが生じる。これらの苦しみは、得れば得るほど逆に大きくなるのである。
よって、仏教では、苦楽表裏と言う。得れば得るほど苦しみも増える。すなわち、楽の裏には苦しみがある。すなわち、多くを得た者の重たさ・苦しみである。逆に、それほど得なければ、そうした苦しみは生じない。すなわち、得ていない者の気楽さである。
こうして、貪りは苦しみを招くものとされる。
10 無智から生じる怒り
さて、無智から生じる怒りとは、ある意味で、貪りとは正反対のものである。すなわち、これは、自分にとって好ましくないと感じるものに対する心の働きである。まとめれば、好ましいと思う(錯覚する)ものに対する心の働きが貪りであり、好ましくないと錯覚する者に対する心の働きが怒りである。
なお、この怒りは、よりわかりやすく言えば、嫌悪と言った方がよいかもしれない。好ましくないと感じるものに対する嫌悪である。ただ、伝統仏教の表現では、瞋=怒りと訳されることの方が多い。
この怒りも、一見して問題がないように見える。好ましくないもの、苦しみだと感じるものに対して嫌悪する、怒るのは当然ではないかと思うかもしれない。
しかし、貪りの問題と同じように、好ましくない、苦しみだと感じるものの裏側に、好ましい要素、喜びの要素があるのである。よって、怒り・嫌悪が強いということは、苦しみの裏側にある喜びには気づかないということなのである。
ここで、「仮に、苦しみの裏側に喜びがあっても、苦しみもある以上は、それは要らないから、苦しみをもたらすものに対しては、私はやはり怒るのだ」と考えるかもしれない。しかし、実際には、それでは苦しみが消えない場合が多いのである。
たとえば、逃げ切れない苦しみである。どんなに怒り・嫌悪しても、それから逃げられない苦しみがある。たとえば、人間関係の苦しみのほとんどは、家族や、学校・会社の友人・知人など、嫌だからといっても簡単に離れられない人との間に生じる。
さらに、この怒りは、貪りの対象と共に生じることが多い。そのため、貪りを捨てなければ、どんなに怒っても苦しみは続くのである。先ほど述べたように、何かにとらわれ、貪り求めれば、求めても得られない場合や、得た者を失う場合や、他と奪い合う場合に、苦しみが生じる。そして、この苦しみと共に怒りが生じるが、この苦しみは、どんなに怒っても、貪りを和らげなければ解消しない。
11 苦の裏の楽に気付いて怒りを超える
そこで、仏教は、こうした苦しみには、悪いことばかりではなく、良い面があると説くのである。
例えば、こうした苦しみの経験によって、人は、過剰なとらわれ・貪りを解消する方向に導かれるという。それが解消できたならば、より自由な幸福な心の状態になるのである。
また、こうした苦しみによって、人は、貪り奪い合うのではなく、他と分かち合うことこそが、真の幸福であると悟る時が来るという。
こうして、苦しみの裏側には、自分にとって好ましい面、喜びがあると気づくならば、苦しみと怒りが和らぐことになる。
12 仏陀・菩薩の広い心、平等心
一方、無智を超えて、智慧を有する仏陀・菩薩とは、特定のものに対する過剰な貪りや、特定のものに対する過剰な怒りを超えて、万物への愛(大慈悲・菩提心・博愛)を有している者である。
この心の働きは、万物を分け隔てなく愛することができるという意味で、平等心と呼ばれることもある(仏教用語では捨の心ともいう)。言い換えれば、非常に広い心、究極的には、世界・宇宙全体に広がった、広大無辺な心である。
この象徴として、仏教には、宝生(ほうしょう)如来という仏がいる。平(びょう)等(どう)性(しょう)智(ち)という智慧を持っているとされる仏で、万物の平等性を悟っているとされる。また、阿弥陀如来にもそのイメージがある。南無阿弥陀仏の念仏や、世界遺産の宇治平等院で祭られていることで有名だ。その念仏を唱えるならば、悪人さえも救うといわれる。
阿弥陀如来の化身とされる有名な観音菩薩も同様である。観音菩薩は、別名を観自在菩薩といわれる。そして、千の手を持つ観音菩薩は千手観音といわれるが、その千の手には千の目があり、すべての生き物を見守っているという。
13 目覚めた人・仏陀
こうした仏陀・菩薩は、まさに仏典の物語に出てくる(おそらく架空の)超人的な存在であって、私たち人間の手の届く境地ではないだろう。しかしながら、私たちも、自分だけのことばかり考える心の働きを乗り越えるならば、自分の身の回りの人から、友人・知人、さらには、その他の多くの人や生き物の苦しみを思うことは可能である。
特に、情報通信技術が飛躍的に発達した現代では、昔の人から見るならば、私たちは、千の目を持っている存在といえるかもしれない。問題は、それを持ちながらも、毎日、自分のことしか考えていなければ、目が開いておらず、眠っているのと同様である。
仏陀という言葉は、覚者とも訳されるが、サンスクリット語で「目覚めた人」という意味だ。仏陀でない普通の人は、夢者とも表現される。自分のことばかりにとらわれていれば、体の目は持っていても、実際には世界のほんの一部しか見ることはないから、事実上、眠っているのとほとんど同じであろう。体の目に加え、心の目が開かれてこそ、真に目覚めた人になるのではないだろうか。
14 仏陀・菩薩の息の長い努力
前に述べたように、目先の楽に偏らず、苦と楽が表裏であることを理解する仏陀の智慧は、息の長い努力をする特性がある。
目先の楽の裏側には苦しみがあり、苦しみの裏側には喜びがある。ということは、真の幸福は、さほど簡単に得られるものではなくて、コツコツとした地道な長期的な努力によって得られることを示している。
そして、仏陀の智慧とは、「今の自分さえよければいい」という無智を乗り越えて、「長期的に、他と共に幸福になることが、本当の幸福である」と理解している。非常に広い心を持って、皆と共に、息の長い努力によって、幸福になろうとする心構えである。
伝説の弥勒菩薩などは、地球のすべての人々を救済するために、何十億年も修行するといわれている(一説に56億7000万年)。あえて身近な格言で表現すれば、これでは足りないかもしれないが、「ローマは一日にして成らず」ということだろうか。
しかし、我々には、「すぐに幸福になりたい、成功したい」、という気持ちが起こりやすい。言い換えれば、「楽して幸福になりたい、努力はなるべくしたくない、怠けたい」という心の働きである。格言で言えば、「急いては事をし損じる」である。
巷には、すぐにでも幸福になれる、誰もが成功するなどと宣伝し、多額の料金を取るものもあるが、これらは、目先の楽に飛びつく私たちの無智の煩悩を利用している商売のようにも思える。
15 真の力は、破壊力ではなく継続力
そして、長期的な地道な努力こそが、真の力ではないかと思う。つまり、忍耐力・継続力である。よく「継続は力なり」といわれる。
一方、力には、いろいろな種類があって、人によっては、怒りの力とか、攻撃力・破壊力の方を重視するかもしれない。
怒りにもいろいろあり、すべてを否定するつもりはないが、悪い意味での怒りは、忍耐力・継続力と対極にあるものだ。怒りを乗り越える力が忍耐力であり、怒りでキレずに辛抱強く努力し続けてこそ、継続力に繋がる。
そして、前に述べたように、悪い意味での怒りは、苦しみに対して、その裏側に喜びがあることを理解できずに生じる心の働きである。
逆に、その裏側の喜びを理解すれば、今の苦しみに忍耐することができる。そして、地道な継続的な努力によって、苦しみの裏側の喜びを引き出していくことができる。無執着や慈悲といった悟りの境地は、そうした努力によって実現されるものだろう。
これは、世俗の世界にも通じる真理ではないかと思う。たとえば、戦国の覇者でいえば、織田信長は、破壊力に長けていたと思う。今川を破った衝撃的な桶狭間の急襲、武田を滅ぼした革新的な三千丁の鉄砲隊。
しかし、最後に天下を手中に収めたのは、辛抱強さ・息の長い努力に優れていた徳川家康だった。気性が激しいといわれる織田信長らは、その性格からか、家臣の謀反で絶命した。信長を引き継いで天下を統一した秀吉も、寿命が足りず、自分の子孫は続かなかった。
一方、家康は、その名の通り、健康によく留意し、辛抱を続けた。そして、49歳で没した信長や62歳の秀吉と異なって、76歳の天寿を全うし、徳川幕府は世界史で他に類を見ない、260年の長き太平の世を実現した。その寿命の違い、忍耐力・継続力の違いが、三人の命運を分けたのではないだろうか。
怒りの力と関係する破壊力・攻撃力は、ある意味で、瞬間の力、一瞬の力である。一方、忍耐力・継続力と関係するのは、「時」というものの力である。時と共にすべては移り変わり、大器は晩成するという。その意味でも、それは大きな力ではないかと思う。
16 広く長い心:時空間に広がる仏陀の心
こうして見ると、仏陀の智慧・慈悲とは、世界・宇宙全体(の生きもの)に広がった心を持って、一生の間(ないしは未来永劫ともいうべき)息の長い努力を続けようとする心の働きということができると思う。短くいえば、空間と時間全体に広がった心、時空間一杯に広がった心である。
私たちがこの境地に到達することは到底できないだろうが、できるだけ広い心を持って、一生の間努力し続ける心構えは重要である。それは、怠惰や焦りから解放された、広くて、どっしりとした心の状態であろう。
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