【3】新団体の理念を説いた2007年以降の上祐の講話等の概要
(2019年2月28日)
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【3】新団体の理念を説いた2007年以降の上祐の講話等の概要上祐らは、2007年(平成19)年3月にAlephを脱会し、同年5月に被控訴人「ひかりの輪」を発足させたが、その前後に、上祐は、各地での多数の説法で、オウム事件及びテロ・犯罪を否定し、麻原をはじめとする個人崇拝及び絶対的帰依を否定し、オウム・Alephに対する全般的な批判をし、当時の被控訴人の象徴物・シンボル(三仏など)は麻原とは違うことを含め、麻原・オウム信仰から脱却して辿り着いた新しい思想を述べており、麻原オウム信仰から脱却していることがよく分かる内容となっている。
この点、控訴人は、上祐の説法の一部を抜き取って、全体の趣旨を歪めて証拠にすることが多いが、説法全体を見るならば、上祐・被控訴人の脱麻原・麻原否定の真実が明らかとなる。そこで、上祐の2007年前後の各地での説法やメッセージの引用集(※下記参照)を(引用前の原本と共に)証拠提出する。
さらに、加えて、2007年前後から現在2018年に至るまでの上祐の特別教本などの内部向け教材からの引用も、原本と共に証拠提出する。
最後に、以上の被控訴人の発足までの経緯は、被控訴人が2008年に作成した観察処分取消請求書にも、そのさらなる詳細を示した通りである。
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※提出した証拠(上祐の2007年前後の各地での説法やメッセージの引用集)
麻原・オウム・アレフとその教えを否定する
上祐の説法・特別教本等からの抜粋
目次
(1) オウム事件及びテロ・犯罪の否定・・・ p2
(2) 麻原をはじめとする個人崇拝及び絶対的帰依の否定・・・p12
(3) オウム・アレフに対する批判・・・p35
(4) 三仏と麻原は違うこと・・・p45
ひかりの輪
2018年2月14日
(1)オウム事件及びテロ・犯罪の否定
①2007年3月4日・東京での講話(甲140)
・P15
◎終末予言を外界の戦いととらえず、自分の心の中の善と悪の戦いを解釈すべきである
「しかし、われわれが光の神の側に立って、そして、社会は闇の側であって、だから社会を壊さなきゃならないとか、社会をかえ、に打ち勝たなければならないとなったならば、それは全く違う意味を持つというふうに思うんです。
ですから、そういった善と悪の戦いが心の中の戦いなのか、外界の社会における戦いなのか、これに関して取り違えたらば、それは旧教団のようになるし、取り違えないならば最高の教えにもなるという意味で、ゾロアスター教や、それからキリスト教のヨハネ黙示録や、カーラチァクラ・タントラのシャンバラ預言ですね、そういった善と悪の戦いを説いている法則自体が悪いんではなくって、それを解釈する側が、それを心の中の戦いと思うか、外側の戦いと錯覚してしまうかに問題があるんだというふうに、正確には言うことができると思います。」
②2007年3月25日・東京での講話(甲142)
・P26
◎オウムの失敗の過去を未来の教訓としたい
「過去の失敗を一つの糧にして我々が新しい世代を吸収するということは、新しい世代に共産主義や、オウム真理教や、大日本帝国と同じ間違いをさせない智慧を与えながらそのエネルギーをいい方向に使うという意味があるんだろうなあと思います。(中略)オウム真理教にしても、多くの若者を惹きつけ、一定の世間の評価を得たあと、どんどん突っ込んでいくのは、そこに何かの知恵が欠けていたんだろうと、明治維新以来の知恵無き力による繰り返してくる、この日本の思想が、初めて智恵を伴った力となって世界に貢献できるかというのが今後の新団体の意味だと思います。(中略)二元的な思想に共産主義の学生や、オウム真理教の若者が巻き込まれたようなことをしないような形で、我々の経験と若い力を合わせて導いていくという延長上に、その21世紀の最大の問題という宗教テロリズムの解決と、これはもちろんあるわけです」
③2007年5月5日・東京での講話(甲146)
・P3~5
◎自己の宗教を他に強いて争うこと、軍事力・ヴァジラヤーナ的な活動はいけない
「宗教は、今までの人類の歴史を見ても旧教団を見ても、自己の真理というものを世界に広め、それによって世界をすべるという視点から、自己の教義を強いて、そして、その障害に対して争うという傾向があったと思います。それに対して我々はどのように変えていけばいいのか、どういった心構えで変えていけばいいのかということは、それは、信じて待つ以外にはないのではないかな、そういうふうに思います。(中略)旧団体においては(中略)その手段としてそれが為に強いて争うということをしてはいけなかったのではないかと自分は思っているわけです。また歴史を振り返りますと、いわゆるキリスト教が植民地侵略をしたときに、キリスト教の牧師は、植民地侵略をする軍隊とともに、それが神の明白なる天命であるということで、いわゆる、客観的にいうと侵略戦争に同行した形になりました。
(中略)力を持って選別する、排除するという考え方は、アフガニスタンを経てイラクに至って、今現在アメリカの国内においても支持を受けていないという現実、これからも深く学ぶことができますし、それは当然、旧教団が行ったシャンバラ化計画の中で、力をもって、軍事力をもってヴァジラヤーナ的な活動によって理想郷を実現しようという考え方も似ているのではないかなと思います。(中略)力を行使する、暴力を行使して問題が解決するかどうかということについては、それこそが旧団体の一連の事件や最近のテロ事件の全体を見て、我々が学ぶべき、学ばなければならない、一番重要な教訓なんだろうなあと思うわけです。」
④2007年5月20日・大阪での講話(甲147)
・P18
◎社会を壊すことを否定する
「教団と、宗教と社会との関係は敵対的になる、宗教が社会を壊すような部分がある、これも出てくる。ないしは他宗派を壊すというような部分も出てくる。これを我々は否定したわけです。」
・P21~P22
◎力を行使することはしない
「(中略)それを力ずくでやろうとしたら結果どうなるかというと、自分も同じ穴の狢になってしまうのではないかという部分に気付かなければならないということです。力を行使すれば力を行使されますから、そこには闘争の血みどろの世界が生じて、結局目的を果たすのではなくて、やはり殺し合いを増やしてしまう、闘争を増やしてしまうのではないかということです。」
・P23~24
◎ヴァジラヤーナ活動は間違い、賠償と松本の教材の破棄は徹底し、協力しなければ除名する
「一連のヴァジュラヤーナ活動というのは間違いであったという点は鮮明に認めながらも、だからといって社会が今後私たちのような消費主義や物質主義を超越しようとするような団体や宗教が必要でないというわけではないんだということは、やはり主張し続けなければならない。
(中略)過去の一連の事件のような手段は全く間違っていると思いますので、賠償の継続や松本氏の教材の破棄は徹底してやって、それに協力しない人は除名します。」
⑤2007年5月26日・名古屋での講話(甲148)
・P10
◎他を力ずくで変えようとすることは善悪二元論
「旧教団も、その巨悪っていうのを認識して、社会を悪と見て、自分たちを善と見た段階で、どういった問題がおこったか。それは、力ずくで変えようとしても変えられないようなものに対する闘争、これを実行しようとしたっていうふうに、総括することができる。そういった形で大きな悪、これを見たときに、それを自分と区別して力ずくで変えようとする場合、いや力ずくで変えようと発想すること自体が、こういった善悪二元論に基づいたものの可能性がある、ということです。(中略)新団体が説く社会の融和っていうのは、社会を力ずくでは変えません。社会と敵対して、破壊して、それで、社会を変えようとか、自分たちの思想を実現しようとすることはありません」
・P15
◎麻原の予言は無知、現実をありのままに見ていない
「旧団体というのは、(中略)20世紀の末に1990年代に、ハルマゲドンが起こって、キリストが登場して、そういう国が生じるんだ、そういったものの考え方をうみました。これは先ほどの考え方からすれば、無智ですね。現状をありのままに見ていない。でそれを実現するために自分たちの教団を武装化しようとした。それによって解決しようとした。これも同じく無智になると思う。」
⑥「上祐史浩からのメッセージ2007」(甲168)より
(※アレフ脱会直前に書いた、アレフの問題点を指摘する内容)
・P11
◎社会の誤解だけでなく、自分達側の問題を謙虚に考えるべき
「こうして、外部社会が、元代表の指示がなくても、同じような事件を起こす可能性がある、と考えることについては、単に社会が誤解している、とばかりに考えると、問題はなかなか解決しません。
それは、私たちのカルマであり、そう思わせる要因が、自分たち側にあるのではないか、と謙虚に考えることが、自分たちの将来の問題を解消し、かつ、社会の不安を除去する道だと思います。」
・P13~14
◎生き返らせることが出来ない麻原のポアは間違い
「ナローパは、「生き返らせることができる能力がなければ、人の生命を奪うことはしてはならない」と説いている、と言います。(中略)もし、殺しても、生き返らせることができるならば、実質上は殺してはいないことになりますし、(中略)生き返らせることができないのに、他の生命を奪えば、その直接の被害者に加えて、社会秩序が乱れ、犯罪が増大する結果を招くでしょう。この点に関して、教団では、元代表はポワをすることができるから、他の生命を奪っても良いのである、という考え方をしてきた人がいると思います。(中略)グルがポワできるだけで、生き返らせることができないのに、他の生命を奪って良いという法則があるか、ということが問題です。」
・p14~31
◎オウムのヴァジラヤーナの五仏の法則の解釈は間違い
「(中略)私たちが、グルの指示で、人の生命を奪ってよい、という理由はない、と考えるべきではないでしょうか。(中略)一連の事件を肯定するように解釈された密教の法則として、ヴァジラヤーナ五仏の法則があります。(中略)法王は、密教の経典の中には、「文字どおりに受けとめるべきではない教えがある」と説いています。そして、これに、五仏の法則が含まれるのです。」
(中略)武力で仏教が滅ぼされる、という時代においては、いかに不殺生を説く仏教であっても、イスラム教徒と戦うことが、現代的にいえば正当防衛であり自然なことだった、という解釈が成り立つと思います。しかし、そのような時代ではなく、自分たちを現実として滅ぼす軍事的な勢力がいない状況下において、同じ法則を当てはめるならば、これは大変なことになるのではないでしょうか。
(中略)自分の帰依の修行のために、他の人の生命を奪って良い」と考えることは、それ自体が、客観的に見れば、非常に自分勝手な行為であり、自分が特別であり、何か特権を有する、と錯覚している者たちの行為、ということができるでしょう。
(中略)元代表(麻原)や旧教団(Aleph)には、人を殺すまでのことを正当化する根拠はない、と思います。」
※脱会直後のため麻原を元代表、Alephを旧教団と呼んでいる。
⑦「上祐代表書き下ろし講話集① 2007年」(甲169)より
・p3
◎オウムはテロ組織であったことを懺悔して、反省して生まれ変わるべき
「私たちは、客観的に見れば、まぎれもなく宗教的なテロ組織でした。それを懺悔して、新たに生まれ変わる、ということ。宗教は、自己の絶対性を生命線としがちです。また、テロリストが反省して、変わる、ということも極めてまれです。その意味で、私たちは、生きながら、一度死んで、生まれ変わろう、としています。」
・p4
◎麻原とオウムを乗り越える新しい思想を目指す
「私たちの過去には、乗り越えるべき、松本氏、旧教団の一連の事件があります。(中略)その元代表と旧教団の私たちは、多くの人を傷つけてしまいました。そして、今も、世界で、様々な宗教的な対立で、血が流れています。この宗教のはらむ矛盾を乗り越えた、新しい宗教、思想を創る。これが、私たち、新団体が目指す、理想の一つです。」
・p21
「私は、地下鉄サリン事件の起こした波が、ついには世界全体に広がっていた、と感じています。そして、2007年になった今は、教団の起こしたサリン事件などの余波が、イスラム原理主義のテロだけでなく、それを受けた、アメリカの対テロ戦争にさえも、影響を及ぼしていったようにも、感じています。それは、アメリカのイラク戦争の結果を見て思いました。」
・p22~47
◎オウムの事件は、善悪二元論の教義に一因があると総括して、それを乗り越えるべき
「旧教団と日本社会の関係において、旧教団は、そのテロ事件によって、日本社会を善悪二元論に巻き込んでしまったのではないか、と私は思います。(中略)その意味で、旧教団の強烈な善悪二元論が、その大事件によって、日本社会から世界全体まで、その善悪二元論に巻き込んでしまい、闘争・紛争を増大させてしまった面がある、と思います。
(中略)私たちは、旧教団の事件が、その宗教教義に一因があったということを深く受け止め、オウム真理教の宗教教義の総括だけでなく、カルト教団を宗教的な構造から、従来の宗教全般にわたる問題までを分析・検討して、そういった従来型の宗教を乗り越えた新しい宗教ないしは思想を実践しようとしています。
(中略)自分たちの宗教が絶対となると、他の宗教や無宗教の人を否定する結果となり、それが著しくなると、自分たちの宗教を他に強制し、他の宗教や無宗教の人との争いが生じる。しかし、本質的に、人の心は強制によっては変化せず、強制的な行為は、長期的には破綻する。
(中略)ひかりの輪が目指すところは、一連の事件に行き着いたオウム真理教のものとは違い、オウム真理教の経験を教訓とし、かつ、今の新しい時代に合わせた新しい展開です。
(中略)宗教が、「これしかない」という固定観念や、それに基づく他の排除や闘争を続けるならば、科学が進む21世紀において、ますます宗教に対する否定的な見方が広まるでしょうから、それを乗り越える必要があると思います。」
⑧2008年5月25日・東京での講話(甲164)
・P16
◎本来は武力行使に走る麻原を対決するために警視庁に飛び込むべきだった
「しかしながら、一教団がそれを武力をもって行なうっていうようなことは、自分としては合理に考えると、それは、狂信的ではないかというふに思いました。それは失敗するんじゃないかと。しかしながらあの当時はもと教祖の絶対性を信じていたというか、そういったことがあって自分にはそれが完全に否定することが出来なかったんですね。(中略)これは私のエゴだと思います。で、本来ここでなすべき正常な行動は要するに教団を飛び出して警視庁に飛び込み、そして松本氏と雌雄を決するってことだった。」
⑨2008年3月23日・大阪での講話(甲160)
・P13~22
◎オウムのポアや自爆テロなどの宗教テロリズムから脱却すべき
「たとえばオウム真理教では、来世がある、だから今生を殺してしまっても来世を幸福にすればいいのだ、そういったことでポアを行いました。(中略)来世という話が中心に来て、絶対になってしまっているから、輪廻転生、来世の思想の奴隷になってしまって、それによって自分が幸福になる、悪業を為さないようにするのではなくて、ポアをしたり、他人が迷惑を被ったとしてもある特定の人物に帰依したり、または自爆テロをやって天界に行こうとする、そういったこともあるわけです。
(中略)そして宗教の害悪が、テロリズムやその他で、または民族紛争で、起こっているこの時代の中で、宗教が脱皮しなかったら、21世紀以降に宗教というのは若者からはだんだん見捨てられ、そして国際紛争の原因ばかりになって、何か依存性の強い中毒性の強い人たちが寄り集まる、なんと言うか、手に負えない集団の、象徴のようになってしまうかもしれません。」
⑩「上祐代表書き下ろし講話集② 2008年」(甲170)より
・P3~13
◎オウムの独善的な教義の苦い教訓に基づいて、それを越えていくべき
「それは、脱会したオウム真理教において、自分たちの教団がキリストの教団であり、唯一絶対のものである、という考え方によって、社会や他の宗教と対立し て、一連の事件が起こったという苦い教訓に基づいています
(中略)ひかりの輪は、去年発足の際に、教団と社会を区別する善悪二元論を超え、更には、宗教・宗派の対立や戦争、人類と自然の対立という地球環境の問題を超え る、21世の新しい宗教・思想を創造するという目標を掲げました。」
・P31
◎自分たちが最高で唯一絶対という考えはオウムを破綻させた間違った考えである
「自分の宗教が最高であるから、ないしは、唯一絶対であるから、すべての人が、自分の宗教に入るべきであると考えたり、強弁したりすることは、果たしてどうかと考えます。そう考えるが故に、宗教の間には、延々と闘争が続いてきたように思いますし、そして、自分の宗教が唯一絶対である、という考えが、あまりに強ければ、 オウム真理教のように、武力革命を持っても、すべての人たちを信者にしようとして、その結果、信者を巻き込んで、破滅するでしょう。」
⑪「上祐代表書き下ろし講話集③ 2008年」(甲171)より
・P6~7
◎将来の犯罪の抑止の活動が私たちのオウム時代の贖罪である
「私たちが旧教団の実践を真剣に反省したならば、その贖罪として実践すべきは、単に過去の事件の賠償支払いだけではなく、将来の犯罪の抑止であろう。」
(中略)旧教団の経験から、極端な善悪二元論型の思想に基づく集団の犯罪・テロリズムや、人格障害型の無差別殺人犯罪などを抑止する活動が考えられる。そのためには、日本の無差別殺人の流れの始点となった旧教団での自分たちの経験を一つの土台として、最近の犯罪の潮流を分析・研究し、その原因を洞察して、解決策を検討し、それをHPなどで公表することが考えられる。
(中略)外国の国家機関の国防担当者の中で、今後のテロ防止のための研究をしている人たちなどに対して、広報部や代表が情報提供などで協力した実績がある
(中略)ひかりの輪は、オウム真理教の活動の反省に立って、「未来のテロ・犯罪を抑止する」という目標を持っている。
(中略)私たちはオウム真理教の元信者として、日本人として、イスラムをはじめとしたテロ活動がなくなっていくように、何かをする義務があるのではないか」
・P11~12
◎オウム時代を深く反省しなければならない
「ひかりの輪としては、松本氏の被害妄想的な日本社会や米国への敵意と、その結果のテロ行為は、深く反省しなければならないことは言うまでもない。(中略)私たちは妄想的な予言や世界観と犯罪行為といった、オウム教団のさまざまな問題点を十分に反省しつつ」
・P76
◎オウムのマハームドラーの教義は間違い
「オウムの「マハームドラー」のような間違いを犯すことなく、合法的で社会的な活動の範囲の中で、どのように、試練に耐えることによる悟り、というものを追求していくべき」
・P157~166
◎オウムの地下鉄サリン事件はイスラムの同時多発テロに影響を与えた、その贖罪をすべき
「それは、「過去のテロの贖罪」を行うことでもある。(中略)旧団体では、本来、ヴァジラヤーナの教えは、自と他の区別を越えた、智慧と慈悲に基づくべきところ、教団を「善」、社会を「悪」とする、「妄想的な善悪二元論」に基づいて、無差別な大量の殺人に至り、それは、結果として、イスラムのテロや国内の犯罪に影響を与えるに至った。
(中略)テロや犯罪抑止に関する社会貢献に関する考えを簡潔に述べたいと思う。イスラム原理主義などの国際的テロリズムの問題については、①イスラム社会との融和を促進し、未来のテロを抑止する、とともに、どうしても、②米国などの先進国の国際テロ活動防止活動への適切な協力が重要ではないか、と思う。この、「米国などへの協力」というのは、当然、オウム真理教時代の情報提供などが含まれ、すでに米国専門家に対する協力が広報部などを通して行われている。アルカイダは、オウムと同様に、炭疽菌などの生物化学兵器を作ろうとした経緯がある。(中略)オウム真理教の活動の反省に立って、「未来のテロ・犯罪を抑止する」という目標を持っている」
・p189~196
◎一連のオウム事件は仏教教義上の悪業である
「一連の事件は、十悪の中で最初に説かれる、殺生・暴力の悪業である。一連の殺人・傷害事件は、多くの生命の損失と、身体の障害をもたらした。それは、殺生・暴力を否定する仏陀の教えに反している。」
(中略)殺人・傷害事件に伴って、被害者・遺族には、経済的な損失(収入の損失)が生じる。この経済的な損失が、賠償の額の算定根拠にもなっているが、これは、殺生に伴い、他の経済的な利益を奪った行為であるから、偸盗と同じ悪業を構成している。
(中略)一連の事件は間違っていた、これからはやりません」
『2010-11年末年始セミナー特別教本《改訂版》』(乙D245)p55
◎慢心の宗教によるテロ・戦争の否定
「神仏の存在を信じる中で、「神仏を信じる自分は、信じない人より優れているのだ」とか、「自分が信じている神仏こそが真の神仏なのだど」と錯覚すれば、神仏を信じない人や、他の神仏を信じる人を強く見下すようになり、逆に傲慢・誇大妄想を増大させる可能性があります。実際に、その結果、過去に多くの宗教を原因とした争い・戦争・テロも起こってきました。こうしたことには、十分に注意する必要があるでしょう。」
同上p58
◎盲信による宗教戦争・テロの否定
「こうした妄信的な信仰者には、自分では気づかないうちに、さまざまな苦しみが生じます。それは、本来は自分の幸福のためであった信仰に、自分が逆支配されるといってよいかもしれません。例えば、自分たちの信仰を否定する人たちと、単に意見が対立するのではなく、お互いの存在を排除・抹殺するために、戦わなければならない場合もあります。このひどい場合が、宗教戦争・宗教テロであり、多くの血が流されてきた原因です。」
『2013年GWセミナー特別教本《改訂版》』(乙D252)p6~7
◎オウム事件の謝罪・賠償契約の締結の回顧
「99年末の出所は、社会全体の大変な喧騒・圧力・監視の下となり、出所後も、前と同様に、一歩も自由に外出できない期間が、2000年以降も数年続いた。その中で、私は、自分が主導して、教団名をアレフに変え、過去の事件の関与を認め、謝罪を表明し、被害者賠償契約を締結するなどして、社会との摩擦の緩和に努めた。」
『2014年GWセミナー特別教本《改訂版》』(乙D255)p17~18
◎オウム事件の回顧と反省
「宗教を否定したソ連邦の崩壊の後に、世界の各地で、宗教が活発化した。宗教は、それを信じることで、世界の中でも、自分が価値のある存在であると感じることができる。日本で言えば、それはちょうど、バブルの絶頂期、ないしはその崩壊が始まる前後である。
具体的に言えば、日本の新々宗教のブーム、アメリカのキリスト教保守主義の増大、南米国やアフリカでのカトリック教会の増大、イスラム教の復興などがあった。しかしながら、これらの中には、日本のオウム真理教、ブランチ・ダビディアンなどのアメリカの極右系のキリスト教集団、イスラム原理主義など、米国を中心とした既存の権力と対立し、テロや刑事事件に至るものも現れてしまった。」
(2)麻原をはじめとする個人崇拝及び絶対的帰依の否定
①2007年3月4日・東京での講話(甲140)
以下は、上祐らが脱会する際の新団体の設立の説明会での発言である
・P8
◎Aleph・オウムの五仏の法則、絶対的な帰依、グルの殺人の肯定は、密教の間違った解釈である
「すなわち、その経典の言葉をそのまま文字通り解釈してしまって、五仏の法則とか、仏陀を殺せといった法則をそのまま当てはめてしまって社会に適用すれば、それはとんでもないことが起こる。そういったことが、密教、大乗経典にはたくさんあります。そこは、自分で論理をもって判断するしかない。
しかし、五仏の法則、それからグルに対する絶対的帰依といった法則が、もう、そのままむき出しの状態で、ある意味じゃ、原理主義的に適用されていて、で、今でもその状況が一部では継続しているんではないかなと、自分はそういうふうに考えます。
また、グルに対する絶対的な帰依ということで言えば、チベット密教の伝統的な考え方は、弟子のエゴを弱めるためにグルを絶対的にみなすという法則がありますが、グルが絶対的であるという客観的な事実を主張してはいません。例えば、ダライ・ラマ法王は絶対的で、全知全能である。だから、ダライ・ラマ法王は人を殺してもいいのである、サリンを撒いてもいいのであるって、そんな法則は全くありません。 それは弟子とグルの関係の中で、弟子のエゴを弱めるために行なわれることで、ある意味じゃ、その個人的な心の中の実践としてそういうことが行なわれても、しかし、第三者を巻き込んで、その生命を奪うときにまでグルは絶対的だからやってもいいんだっていう考え方になるのは、密教の法則ではないというのが、正確な密教の理解だと思います。
しかし、この教団(Aleph)においてはグルは絶対的、グルの絶対性、グルには何か深いお考えがあってということで、もう、貫き通してしまって、そういった密教の伝統の解釈をはるかに突き破ってしまってこういった状態が起こった。それに対して、充分な対応ができない状態が95年以降展開したんではないかなと、そういうふうに考えています。」
・P9
◎Alephの五仏の法則・絶対的帰依・グルの絶対視・ポア・殺人の肯定は、密教法則の間違った解釈
「五仏の法則を文字通りに解釈してしまったり、グルへの絶対的な帰依を、その目的が分からず、方便だっていうことが分からず、グルの絶対性、グルは絶対だという事実にしてしまったり、それからポワの教えを、人を殺してもいいんだっていうところにもってってしまったりする。そういった、密教の法則のかなり大幅な誤解っていうものが、この教団には、伝統の密教の宗派からみると、あると言わざるを得ないと思います。」
・P13
◎ひかりの輪は、麻原だけを神の現れと見ず、全ての人から学ぶ思想
「教師や反面教師として、仏陀が、神がわたしに与えてくれたものだというふうに他人を見ようというふうに考えるわけです。そうなると、全ての人々が仏陀の与えたグル、全ての人がグルというふうになる。ここに新団体の帰依の対象の変化というものがあるわけです。すなわち、元代表だけを神の現れと見るんではなくて、全ての人から学ぶ、全ての人を導き手とするという、帰依の範囲の拡大と言うのかな、神と神聖に見る範囲の拡大というのが生じているっていうのが、新団体のカルマ・ヨーガの特徴です。」
・P19
◎ひかりの輪は特定の人を神とする考えを越える
「人を神にしたときから戦争が起こるということについて言えば、旧教団において、元代表がキリストになってから事件が起こったことは全く符合しますが、われわれはそういった、要するに人と大自然の関係の中で、人に神を置く宗教がどういった展開を示してきたか。この三千年の間にどういった展開を示してきたか。
わずか、二十年の間に、ある意味じゃ、如実にそれを経験したということができるかもしれません。そういったことですから、新団体のものの考え方、大自然と人の関係においては、一元論的に考えたい、大自然の一部として人がいて、大自然全体に神があって、特定の人だけに神がいて、その周りの信者とそうじゃない非信者を区別して分けてしまうという考え方を超えていきたいということがあるわけです。」
・P19
ひかりの輪は、宗教の崇拝対象を絶対視せず、象徴として位置付ける
「この一元論的な崇拝対象っていうのは、宗教における崇拝対象っていうのは、それぞれの人の中に内在している、神性を引き出す象徴物にすぎないと。つまり、自分の中に神性、清らかな心があって、何かを見たりするときにそれが引き出されるとすれば、それだけであって、その何かを見た、その見た対象に絶対性があるんじゃないっていう考え方です。
例えば、ある人は霊験あらたかな仏像を見ると神聖な気持ちになり、ある人はイエス、ある人はマホメッド、ある人はほかでもいいんですが、その場合イエスやマホメッドや、その仏像に絶対性があるんではなくって、それは自分たちの中の神様、神聖な意識を引き出すきっかけ、呼び水にすぎなくって手段であって方便であって、それ自体が目的じゃないんだっていう考え方です。」
・P20
◎麻原・オウムのイニシエーション・グルのクローンになる考えは正当な密教の教えと違う
「これは、元代表と交流のあった中沢新一氏、チベット密教の日本の権威ですけど、彼も言っていることですが、この教団、旧教団の特徴は、そのイニシエーションの特徴がグルのクローンになるような感じであると。どう、いろいろ教学してもそうだと。
しかし、チベット密教は、グルは呼び水であって、弟子の中の仏性を覚醒させるってとこで微妙に違うのであると。(中略)本来は弟子それぞれに仏性があって、グルの呼び水とするグルのデータや、その他のイニシエーションによって弟子の方の仏性が覚醒していかなければならない。だから、当然、何て言うか、弟子が中心であって、グルはその補助なんだっていう考え方ですね、これは。そういったものの考え方が、要するに、一元論的な考え方だと言うことができます。
しかし、旧教団のニュアンスは、強調された点は圧倒的にグルのコピーになる、クローンになるというとこではなかったか。そこが、先ほどから繰り返している伝統的な密教宗派と旧教団の違いなのだということだと思います。一方、一元論的な教えになると、ここに書いてありますように、信者の仏性の投影としての崇拝対象が存在すると。よって、信者の仏性の覚醒が、これが目的ですね。ですから、崇拝対象はその呼び水と位置づけられるということになるわけです。」
・P21
◎ひかりの輪は唯一絶対の崇拝対象を置かない
「しかし、旧教団はこうではなかった。元代表を信じない人たちの存在を悪業多き魂として認めなかった。現実的にそういう部分があった。これがいいかどうか、それを考えなければならないんだと思うんです。新団体はそれを転換して、やはり、心理学的にも、つまり、科学的にも、歴史を見ても、要するに、ある宗教が、その崇拝対象が絶対で、唯一のものだとすることはおかしいと。
(中略)新団体の崇拝対象の考え方を少しまとめてみますと、ここに書いてあるように、唯一絶対の崇拝対象はない。これは、この数千年間の人類の格闘がその教訓を残してる。二つ目に、人それぞれのカルマに応じて、多様な崇拝対象があってよいと。よって、宗教・宗派は互いの崇拝対象を認め合うべきで、自己の唯一絶対性を主張し他と争うべきではないと。
これは、教団と社会、そしてA派、M派、中間派の中での問題を、かなりこの問題に関係してくる。自分たちが信じるもの、神聖だと信じるものが、時によって、人によって、分かれてしまうことを許さないという硬直した考え方は、必ず、闘争、奪い合い、そして、対立、分裂、崩壊、これに至るんではないかなと自分は思うわけです。」
・P22~23
◎ひかりの輪は、殺人を弟子に強いる麻原のグルイズムを越える思想を創造する
「グルイズムでのグルというのは、一つの仏性の象徴物にすぎない。これが、密教の、仏教の考え方だと思います。ですから、元代表に帰依しないと誰も解脱できないわけじゃなくって、(中略)元代表が唯一のグルであるとかいうことはないだろうと。または、グルへの帰依というのは、弟子のエゴを弱めるための方便だから、元代表の指示があったら人を殺さないと解脱ができないなんて道理があるわけはない。」
(中略)そして、旧教団で言えばサリン、撒きたくない、だけど、グルの、グルへの帰依のためには、結局は自分のためですが、グルに帰依したいという。そういった気持ちで、撒きたくないけど撒いてしまう。宗教が人の良心に反して、または人の本質的な幸福への希求に反して何かを強要するようなことがある。こういった状態を超えなければならないとしたならば、われわれは非常に大きな勇気と智慧をもって、新しい宗教思想の創造に取り組まなければならないというふうに思うんです。」
・P29
◎釈迦は人を神格化しないための象徴である
「中心に釈迦を置いてるのは、人を神格化しないために、釈迦がそう言ったから。そして、いろんな教えを人のために説くために、釈迦がそうしたから。そういった意味で釈迦を置いているんであって、釈迦が唯一絶対の崇拝対象になるべきだというのとは逆さまの理由で置いていて、」
②2007年3月25日・東京での講話(甲142)
・P2~5
◎ひかりの輪は特定の絶対的な対象は設けない
「新団体というのは昔のように、単一の特定の絶対的対象を設置して、それを推進していくということはしません。
(中略)誰か特定の人に自己を投げうって没入して行くっていうんじゃなくて、入ってくる人たちを神聖なものとみてそこに奉仕していく、その奉仕のあり方がその人の心身に浄化、癒し、そして強化といったもの、これを中心にしたものにしなくてはいけないんではないかというふうに思うようになりました。」
(中略)松本氏によるヒーリングの場合は松本氏に自己を投げ打たなければならなくて、その過程でそのプロセスとして事件が起こってしまった、という解釈もできる、そういった投げうつような、誰か特定人物に対する無思考的な帰依というものは無くして、一方的に団体の方がサービスしていく、奉仕していくというような形、これをとっていかなければいけないかなあと、そういうのが道かなあと徐々に徐々に考えつつあります。」
③2007年4月7日・船橋での講話(甲143)
・P5
◎ひかりの輪は特定の信仰対象・絶対視の対象を設けない
「人間とは別の特定の信仰の対象、これを絶対と考えて、そこに没入していくっていうんじゃなくて、すべての人々の中に神聖なもの、仏性、真我といったものを認めて、それに対して奉仕していくという考え方です。
前者の従来型の宗教団体の考え方になると、信者が特定の対象に奉仕するっていう形になります。その極端なものが、その特定の対象のクローンとなるというかな、ロボットとなる形だったではないかと思うのですが。
といった旧団体の傾向とは逆転して、すべての人々に対して団体側が奉仕をするっていう、そういった性格の団体に新団体は軌道修正していこうとしています。
ですから、新団体においては特定の信仰を絶対視して信奉するっていう従来型の宗教的実践は行わない予定で、新団体としては逆に人々の心身を浄化する、癒す為の奉仕をする為の団体というふうに位置づけたいと思います。そして、その手段として様々な宗教的技法や非宗教的技法を用いることを考えている訳です。
従来の宗教団体には単一の崇拝対象や教義、これを信じなければならないという特徴があります。新団体は万人に共通した、唯一絶対の崇拝対象や教義等はない、必要ないっていう考え方で、それぞれの人にあったものを、それを実践すればいいというふうに考えている訳です。」
・P6
◎釈迦三尊像(三仏)は、釈迦などを崇拝するためではなく個々の人を重視する思想のため
「新団体の祭壇には釈迦三尊像を掲げていますが、釈迦を崇拝する為ではなくて、さきほど言いました様に、釈迦自身がシャンカラやラーマクリシュナと共に、その銘々の、個々人の中に最も大切なものがあると説き、また、且つ個々人にあった法則を柔軟に説いたという、そういった経緯がある為、その釈迦の考え方が新団体とマッチするが故に、その釈迦の精神を尊重する為に掲げている訳であって、釈迦自身を釈迦の意志に反して、崇拝する、拝む為にある訳ではないということをお話しておきたいと思います。」
④2007年4月15日・大阪での講話(甲144)
・p6~7
◎日本人の宗教性は、特定の絶対神や教祖ではなく、万物に自然に神聖を見いだすもの。
「日本は、日本人はもともと木とかそれとか石とかそういったものに、まあ、神様を感じてきたわけです。日本人はもともと自然に神様を感じてきたわけです。これが要するに西洋の文化と違います。(中略)まあ、要するに簡単に言うと水とか山とか、それとか海とか、川とか、石とか木とかいった大きくてどっしりとして、寂静の状態にあるようにみえるもの、これに神聖を感じてきたわけです。
これは全然違いますね。ある特定の、まあ、絶対神を持っていて、で、それを語る開祖がいてそういった感じの宗教性ではなくて、万物に自然に神聖を見出す。特にそういった大きなものというか、長く続いているもの、動かないもの、そう、動かないものといったものに神聖を感じてきたという歴史があります。」
・P1~9
◎ひかりの輪が釈迦を祭壇に飾ったのは、釈迦の崇拝のためではなく、特定の絶対者を設けない思想の象徴
「人類の宗教の歴史の中で新団体が祭壇に飾っている釈迦牟尼の開いた仏教というのは、一種、独特の性質を持っています。それは他の宗教、すなわちイスラム教、キリスト教、ユダヤ教に対して、まぁ、そういった一神教に対して仏教というのはなにか特定の絶対神を掲げ、ないしはその開祖である釈迦自身を拝ませるということがなかった。
(中略)これを仏性といいます。これを最大の、ある意味じゃ拠り所、帰依の対象とします。崇拝の対象とするわけです。釈迦は自分さえ拝むなといいました。私は、私の体は老い病み死ぬ、要するに朽ちていく、あの、存在であると、私を拝んで何になろうという、あなた方は自分の、自分自身を拠り所として法を拠り所としなさい。
(中略)新団体が釈迦を掲げているのはそういった意味で釈迦を崇拝する為じゃなくって、皆さんの中の仏性、あの、さっきいった妄想、マーヤを静めたときの神聖な意識、これを一番重視した、その釈迦の精神を重視するためにあります。ですから、釈迦に、崇拝対象が釈迦になるんじゃなくって、この釈迦的な考えを最も重視しようという考え方でここにだしています。
⑤2007年5月5日・東京での講話(甲146)
・P7
◎ひかりの輪は、麻原・オウムの神の代理人による裁きの思想を否定する
「旧教団の宗教性というのは、まさに裁きの神の代理人であるというように松本氏は自己を位置づけたわけです。悪業をなしている多くの魂に対して、自分がそれを裁くと、そのカルマを精算するのであるというふうに説いたわけです。それが慈悲なのであるという考え方です。
それに対して、今新団体がやっていこうとするのは、それに対して怒らずに感謝するという考え方、ないしは許して裁かずという考え方です。
ここで非常に重要なのは、要するに裁くべきものは誰かということです。人が人を裁いてよいか、それとも裁きは神にゆだねるかということ、これが非常に重要になってくるわけです。宗教的には、要するに多くの人間が自分の信仰を土台にして、自分を神の僕として、自分が他を裁く権限がある、そういうふうに認識しました。これが最大のポイントなんですね。自分は人間であって不完全であるから、神ではないから裁く権利はないと考えるか、それとも、自分の信仰の果てに、神の裁きを自分が代理して行うか、これが人類の宗教的な歴史、それは旧教団を含めてそうですが、人が要するに選択を迫られるところだろうなというふうに思うわけです。
新団体はどのように考えているか、つまり、自分たちをどのように位置づけているかということについて、この点について考えなければならないわけですが、要するに新団体においては、人が絶対神を語ること自体に論理的矛盾があるというふうに考えています。人が不完全であれば、絶対神を語ること自体がおかしい。絶対神の絶対の化身でないとき、つまり絶対者でない限り、絶対神を語ることはできないであろうと。全知全能でない限り、全知全能の者を語ることはできないであろうと。
人間という不完全な存在が、絶対で完全な神というものを語ってよいのか、神の意思というものを決めてよいかというところについて、我々は、宗教家として思想家として極めて謙虚に、自分の位置づけというのを世の中に定めなければならないというふうに思うわけです。」
・P8
◎ひかりの輪は、絶対神を説かない、強制しない
「新団体の神様というものに対する考え方、これは二通り、これが可能であろうと。
ひとつめは、昨日もお話しましたが、ひとつめはまず絶対神を語らない。絶対神というのを自分にとって位置づけない。ふたつめは、絶対神を自分にとって位置づけないことはしないけど、それを他に強制しないという考えです。他に強制しない。それは事実上、その絶対神というのは、唯一絶対の神ではなくて、自分にとって向いている絶対神の一種、なんていうかな、イメージといったようなものではないかなあと思うんです。」
・P8
◎三仏(釈迦・弥勒・観音)は絶対ではない
「釈迦・弥勒・観音というのは、自分の神聖な意識を引き出すに自分には合った存在であるが、それが他人にそのまま当てはまるかどうかはわからないといったような謙虚な姿勢が必要であろうと思うわけです。」
・P9
◎ひかりの輪は、唯一絶対神を設けない
「新団体において、21世紀の宗教が可能なふたつのパターンは、ひとつめは絶対神を全く語らないこと、ふたつめは、絶対神という言葉は使うが、それを自分の、自分個人の個性として位置づけて、他の人には、他の人の絶対神のイメージがあって良いというふうに位置づけるかだと思います。ともかく、唯一絶対の、従来型の意味での絶対神を設けない、これが新団体の教義の特徴であろうと思います」
・P14
◎オウム真理教の布教の在り方は、貪り・慢心
「旧教団においては、要するに、松本氏を信仰する者を世界の全体に広げたい、そういった気持ちがあるのは、我々の貪り、そして貪りと関連する自己存在意義の極限、すなわち慢というものがあったと考えざるを得ないと思うわけです。
そういったものを、我々は超えていかなければならない。超えていかなければならない、それは、どういうふうにやっていかなきゃいけないかというと、感謝と奉仕という考え方だろうなあと思うわけです。」
⑥2007年5月20日・大阪での講話(甲147)
・P7
◎ひかりの輪は特定の人物に帰依しない
「新団体において目指すところは、ある特定の人物に帰依する自分といったものになることではありません。旧団体においては、もちろん悟り、解脱が目標でしたが、その実践課程でみなさんが意識したことは、自分がいかに特定の人物に対して帰依することができるかということだったかもしれません。」
⑦2007年8月25日・大阪での講話(甲150)
・P23
◎オウムの密教的な解釈は特殊である。
「そういった密教的修行とは何かというと、ひとりひとりの修行者がグルと合一するんじゃなくて、ひとりひとりの修行者が大日如来、仏と直接的に合一する、むしろ、こういった密教のほうが普通なんだと。(中略)ある人間に合一することを以て、仏様と合一するんだという考え方は、仏教、密教史上においては、それはむしろ特殊なことだと。」
⑧2007年8月26日・東京での講話(甲151)
・P12
◎オウムの現人神信仰は危険であり、ひかりの輪は脱却した
「ともかく、要するに信仰の対象はなんなのか。それは偉大な人間を信仰の対象として、その考え方と一つになっていくのか。でもこのプロセスは先程言ったような危険性がある訳ですね。ようするにこの人が「サリンを撒け」と言ったら撒きましょうという話になる。どんなに嫌でも撒きます。そうじゃないと偉大な人と心が一つにならない。一体になれない、合一できない。だから解脱できない、悟れない。みなさんはそういったことから脱却してひかりの輪にいます。」
⑨2007年11月25日・東京での講話(甲156)
・P8~17
◎釈迦は自己を絶対視させなかったが、オウムを含めたグルイズムは問題がある
「釈迦というのは、--これは彼の言葉そのままではありませんが、わかりやすくすると、イエス・キリストやマホメットなどにキリスト教やイスラム教が与えているように、絶対神の唯一ないし最高の代理人というような位置づけを自分自身に与えなかったという点で、世界における自分の位置づけを全く与えなかったという点で出色の宗教家、というか開祖であると。
(中略)こういったキリストイズム的な、ないしはグルイズム的な宗教は、イスラム教にしてもキリスト教にしても、最近においては旧教団の元代表にしても、アメリカのバグワン・シュリ・ラジニーシにしても、他のグルイズムにしても、必ず社会の中でそれを信じる人と信じない人の対立、摩擦っていうのが不可避的に起こってしまうという問題を持っているわけです。
(中略)旧教団の流れに馴染んだ方にわかりやすい表現で言うならば、ある特定の人を神の表れと見る代わりに、法を拠り所とすることによって、すべての人を神の表れと見る信仰のタイプがあるのだということです。それは、精神を統合する、そして世界を統合する方向に行くが、特定の人を神の表れと見れば、精神を分裂させ、世界を分裂させる方向に行くということがあるのだと、そう言うことができます。」
⑩2007年11月23日・小諸での講話(甲155)
・P1
◎釈迦の教えは、特定の人間を拝まない教えである
「釈迦の直説を伝えているのではないかと思われる初期の経典においては、開祖を神の化身とする宗教に慣れた我々にとっては非常に衝撃的な言葉が語られているわけです。(中略)有名な言葉の中には、「私の肉体は無常で朽ちるものだから、私を拝んではならない。あなたがたは、自己を帰依処とし、法を帰依処としなさい。そうする者が、私の最高の法友である。」
・P3
◎特定の人を神と見るとオウムのような問題が起こる
「神の現れとされる特定のひとりの人と、それを信じる人と、それを信じない人と、さらには信じないどころか、神の現れと信じられている人に対してそれを傷つける人、すなわち悪魔と認識される人に世の中が分裂していきます。よって、信者、非信者、聖と、そして悪魔というものが分かれてきて、そこから数千年間、宗教は戦争を為してきたと自分は考えているわけです。
(中略)旧教団の元代表であろうと、アメリカで布教したバグワンであろうと、またはその他のヒンドゥーイズムのグルであろうと、特定のひとりの人を神の化身とし、そしてその結果、それを信じる人と信じない人の間で社会的に摩擦が起こるということを経験、繰り返してきたわけです。
(中略)それはキリスト教でもイスラム教でも、それだけに限らず、特定の人を神と見て、自分の宗派だけを正しいと見たときに生じる宗教の中での問題、そして宗教と宗教の間の分裂、対立といったようなものでしょう。」
⑪「上祐史浩からのメッセージ2007」(甲168)より
(※アレフ脱会直前に書いた、アレフの問題点を指摘する内容)
・p2~
◎麻原を絶対と見る教えは間違いである
今回は、まず、「元代表に対する帰依」という問題について、私がどう思っているかについてお話しします。(中略) チベットなどの伝統的な密教の教えは、グルが本当に完璧である、絶対的である、と説いてはいません。それは、「弟子のエゴを弱めるために、グルを完璧・絶対と見なす、考えるようにする修行法がある」ということです。
ですから、「弟子が自分のエゴを弱めるために、グルを完璧・絶対と見なす修行法を実践する」ということと、「グルが完璧・絶対である」という事実とは、近いようで、非常に大きな違いがあります。
この点をわかりやすくするために、旧教団の一連の事件の問題を例にして取り上げます。「グルが完璧、絶対である」ならば、一連の事件について、「グルがなしたことだから、正しい」、「グルがなしたことだから、何か深いお考えがあって」として、その事件を否定しない、総括しないことが正当化されます。
そして、その延長上に、「将来、グルに指示されたら、事件を行うか」と問われたときに、「私は帰依の実践として、事件を行う」、「帰依を損なうから、事件を行わないとは言えない」と考えることになります。
昨年の新団体の説明会でも、A派の中にこのような考えにとらわれているサマナの方がいましたが、そのサマナの方は、「人を殺したい」と全く考えてはなく、本来はとても優しい人であり、私の代表派と、非代表派との対立の中でも、自らは、非代表派に身を置くものの、私に対する嫌悪も全く感じませんでした。
では、なぜ、自分では「人を殺したい」などとは毛頭考えないような、とても心の優しい彼が、この教団において、「帰依の実践を考えると、場合によって人を殺さなければならない」と考えて、ひどく思い悩まなければならないのでしょうか。
元代表をグルとして絶対とした以上は、自分が嫌でも、人を殺し、多くの被害者が出て、教団と社会が対立するような状況にならなければ、帰依にならず、解脱できないのでしょうか。それが本当に真理なのでしょうか。
◎オウムの密教の法則の解釈は間違っている
しかし、繰り返しになりますが、伝統的な密教の教えは、「グルが本当に完璧である・絶対的である」と説いているのではなく、「弟子のエゴを弱めるために、グルを完璧・絶対と見なす、考えるようにする、修行法がある」というものです。
だとすれば、弟子が自分とグルの個人的な関係の中で、すなわち、自分の心の中で、グルを完璧と見るように努めることは良いとしても、第三者を巻き込んで、グルを絶対として、第三者を殺すことは正当化する教えではない、と解釈するべきでしょう。
そうでなければ、自分の帰依の修行のためには、第三者を犠牲にして良い、ということになり、弟子のエゴを弱めるどころか、逆に、エゴを増大させるのではないか、ということになると思います。(中略)しかし、自分の修行のために、他の生命を奪ってもいい、と考えること自体が、外部社会から見ると、極めて自己中心的で、傲慢の極みと考えられる、という視点を、勇気を持って考えなければならないと思います。
さらに、私たちが、グルを絶対・完璧である、と考えるならば、その瞬間から、私たち自身を、グルの指示があれば、この世の中で、殺人を含めて、何をしてもいい存在にしてしまうことも事実です。
皆さんの感覚では、絶対であるグルには、私たちにはわからない深いお考えがあってのことだから、と考える場合があることは私もよく承知しています。
しかし、元代表を絶対だとすること自体が、外部社会から見れば、信者が自分たちで勝手に決めてしまったことで、信者にそのような権限も能力も認めない、という視点も、また勇気を持って考えなければならない、と思います。
そして、外部社会から見れば、私たちが、
グルに帰依しているとか、グルを絶対としている、というのではなく、
「私たち=信者自身を絶対化している」
というように映ることでしょう。
事実、私や広報担当者が一般の人たちと触れたとき、常々言われることが、
「教団の信者が傲慢である」
ということです。
彼らがそう思う理由は、簡単明瞭で、「サリンによって、虫けらのように、人々を殺しながら、何の反省もしない」からです。
・P5~
◎オウムのグルの絶対視は間違いである
「さらに、私たちが、グルを絶対・完璧である、と考えるならば、その瞬間から、私たち自身を、グルの指示があれば、この世の中で、殺人を含めて、何をしてもいい存在にしてしまうことも事実です。」
(中略)まず、密教が説くのは、グルが絶対で完璧だ、という事実ではなく、あくまで、弟子である自分のエゴを弱めるための修行法として、そのように見なすことである。
(中略)「弟子がエゴを弱める方便として、「グルを絶対とみる」という修行法があるということです。しかし、それが、グルが絶対であるという事実と取り違えられ、グルの絶対性とか、グルは絶対である、という言葉が教団で使われたのは、経典の言葉を文字通りに解釈してしまった結果ともいうことができると思います。
(中略)「元代表を含めて、ある人が、絶対で完璧だ、と判断できるとすれば、そう判断できる人自身が、絶対で完璧でなければならないでしょう。絶対でも完璧でもない人(=私たち弟子)が、どうして他人(=元代表)を絶対・完璧である、と判断することや、そうだと知ることができるでしょうか。
(中略)依然として「グルは完璧であるから、救済は成功する、成功している」と考えることは盲信だと思います。また、犯罪の指示であっても、「それに従わないと、解脱ができない、グルとの縁を傷つける」と考えることも、盲信だと思います。」
・P48~49
◎釈迦は、自分を含め、特定の人を崇めることを否定した
「釈迦牟尼は、「釈迦牟尼を含めて、人を崇めることを否定する教えを説いた」ということが、仏教研究上は、広く認められている事実です。弟子たちに、「めいめいの自己と法則を帰依処とするように説いた」ということです。ですから、「グルがいないと修行できない」というのは、「グルイズムが強調された、この教団の一種の固定観念である」というくらいに考えることができます。」
(中略)次に引用する経典では、釈迦が、「私(釈迦)を仰いでも何の意味もない」と言明する部分があり、釈迦牟尼個人を崇拝してはならず、崇拝すべきは法であることを示している経典として、有名なものです。
・P50~51
◎グルなしで修行ができる
「グルイズムを非常に重視してきたチベット密教において、その最高指導者であるダライ・ラマ法王が、「師ではなく、教えに対する信」を強調していることは、非常に興味深いことだ、と思います。」
(中略)密教とならんで、グルイズムが重視されているのがヨーガですが、それでも、ヨーガ根本経典においては、グルのいない場合の修行の方法が説かれています。」
・P51
◎ひかりの輪は、麻原の信仰はせず、何の位置づけも与えない
「最後に確認となりますが、代表派が予定する新団体では、元代表には特に位置づけをもうけず、元代表への信仰を推進することはありません。元代表の信仰ではなく、多くの人々と分かち合える教えの実践を推進することが、新団体の目的です。」
・P52~53
◎オウムは麻原を神の化身としたことが間違いだった
「旧教団では、元代表を神の化身とすることで、それに従わない社会は、否定されることにもなりました。また、今現在の教団の分裂においても、元代表の過去における言動を絶対とすることに加えて、元代表がいない中で、誰が元代表の代わりの神なのか、誰が一番正しいか、という視点から、多くの人がものを考えているように思います。
(中略)冷静になって考えてみれば、どんなに優れた人でも、人は神ではなく、あくまでも人であって、特定の人を全知全能であるとか、神の化身である、と考えること自体が、もはや盲信であり、誇大妄想である、と言うことができるかもしれません。」
(中略)各々の宗教の信者たちが、自分たちの信じた宗教や教祖を世界の救世主にしようとして、勢力争いを行い続けている、という悲しい宗教的な闘争の歴史だけです。そして、元代表を日本や世界のキリストにしようとして日本社会と戦った旧教団も、その例外ではありません。
(中略)二元論的な宗教は、特定人物を絶対者・絶対神の化身とし、それを信じる自分たちを聖とし、そうしない他を邪とする傾向があります。そして、そういった世界観は、たぶんに、実在しない悪魔や聖者を妄想して、誇大妄想や被害妄想を引き起こし、狂信・盲信となる側面がある、と思います。例えば、イスラム原理主義者が、アメリカがイスラム世界を乗っ取ろうとしている獣である、と考えて、アメリカを攻撃しているのも、そうだと思います。
(中略)グルイズムが目的となり、慈悲の獲得が損なわれてしまえば、それは、本当の意味で仏教ということはできない、と思います。
(中略)グルを完璧と見なす、人と見ないで神と見なす、という密教の修行法の意味を誤解して、松本家の人たちを本当に完璧であり、神である、と考えてしまうことであり、この考え方が続く限りは、一歩間違えば、神とされた人の指示で、非常にラディカルな行動に出る可能性を完全には排除できない、という問題がある、と思います。」
⑫「上祐代表書き下ろし講話集① 2007年」(甲169)より
・p8~
◎ひかりの輪は、オウムの麻原信仰とは大きく違う
「一元論の教えは、旧教団の思想と対極をなします。旧教団は、麻原元代表という特定の教祖だけを世紀末ハルマゲドンの際に現れるキリスト、神の化身と見て、世の中を聖である教団と邪である社会に分ける、善悪二元論の思想がありました。
(中略)新団体の崇拝の対象は、一人ではなく、すべての存在です。すべての人々、生き物、そして、大自然、大宇宙全体です。特定の一人から、すべての存在への大転換ですが、ある意味で、一人か、すべてしかない、とも感じます。
(中略)こうして、元代表のみを師としていた私たちにとって、元代表に代わる新しい師として、立ち現れてきたものがありました。それは、すべての人々であり、すべての生き物であり、大自然であり、大宇宙のすべて、でした。
(中略)旧教団も同様で、日本の中に、日本国家の権威を否定する、元代表という王を信者が認めたとき、さまざまな事件が起こりました。」
・p17
◎ひかりの輪は、いかなる宗教の崇拝対象を絶対視しない
「各宗教で絶対視されている崇拝対象は、その信者たちの中において、神聖な意識を引き出す「象徴(シンボル)」であって、その信者の輪を超えたところでは、象徴・シンボルにならない=絶対ではない、と思います。」
・p18~19
◎オウムのグルの絶対視は間違い
「チベット密教でグルを完璧と見る、という修行があり、それが旧教団に取り入られましたが、これについても同じことができると思います。チベットでは、弟子が自分のエゴ・慢心を弱める手段として、指導者に対する高い尊敬を持つようにしました。しかし、グルと弟子の個人的な関係を超えて、第三者を巻き込んで、グルを絶対者として、グルの指示があれば、第三者の生命・財産を奪っても良い(ないし、奪わなければならない)と考えるならば、逆に、大変な傲慢さをもたらす、と思います。」
(中略)旧教団(オウム)では、そもそも、本来は、誰も弟子は、人を殺したいなどとは考えていないのに、自分の信仰上の義務のために、(教団で言えば、松本氏への帰依のために)、そうしなければならない、と考える信者が出てきてしまったのです。その意味では、私は、本当の意味で、人のための宗教を創造したい、と思います。人のためにはなるが、人を振り回すことのない宗教です。(中略)各宗教・宗派が、自分たちの崇拝対象や教義について絶対化することなく、多様な崇拝対象や教義を認める必要があります。」
・p25
◎ひかりの輪は、人を神としない
「(1)宗教とは実際には人間が作るものであり、開祖である人が完全に神や神の化身であることはない。(2)通常開祖になる人は、通常の人間を超えた霊能力があったり、時には奇跡的な現象を起こす場合が多いが、そうであっても、開祖は人間であって、 神ではなく、不完全である。開祖の語る神も、客観的には、開祖の神体験であって、それが絶対神であるという完全な証拠はない。よって、自己の宗教が絶対に 正しいと考えることは、本質的に、矛盾であり、過信である。」
「(1)人を神としないこと。特定の人間を神ないし神の化身として絶対視しない。一般でいう開祖・教祖を設けない。例えば、新団体の代表は、団体構成員の先輩・先達であり、あくまで不完全な人間である。
(2)各人にあった実践を認めること。人間を神としないだけでなく、観念上の崇拝対象である神格や、実践する教えについても、唯一絶対のものは設けず、人それぞれが自分にあったと思うものを 実践、利用すればよい。よって、表現としては、崇拝対象というよりは、神聖な意識を引き出す象徴物と位置づけて、教えも、その人にあった方便・手段と位置づけるべきである。」
・p32
◎ひかりの輪はグルイズムは行なわない
「まず、オウム真理教の特徴として、一連の事件の主たる原因ともなった程に、強い「グルイズム」であったと思います。それは動かせない事実であり、ひかりの輪は、その現実を直視し、新しい道を切り開こうというものですから、そのような関心のある方に、以下の点を理解していただければと思います。
おおざっぱに言えば、過去の教団の一連の事件を見ても、今現在の松本氏が置かれている状況(死刑判決の確定に基づく死刑執行の見通し)からしても、オウム真理教のように、ひかりの輪が、その修行を「グルイズム」に頼っていくことはしません。」
・p33~38
◎ひかりの輪が、釈迦を重視した理由=釈迦を絶対視していない
「このような思想を持ったひかりの輪が、なぜ釈迦牟尼を重視することになったのか、その関係について説明したいと思います。その一つの理由としては、釈迦牟尼自身が、実は、信者が釈迦自身を崇拝することを否定し、修行者が、自分自身と法則をよりどころ(=帰依処)にすることを説いた宗教家であったということです。(中略)次に引用する経典では、釈迦が、「私(釈迦)を仰いでも何の意味もない」と言明する部分があり、釈迦牟尼個人を崇拝してはならず、崇拝すべきは法であることを示している経典として有名なものです。
(中略)ひかりの輪が釈迦牟尼を重視する動機は、松本氏に代わって、釈迦を「完全者、絶対者、新たな絶対的なグル」として崇めるためということではありません。(中略)第一に、先ほども述べましたが、釈迦牟尼は、自己を拝ませたり、自己を神格化することがありませんでした。さまざまな宗教の教祖と比較しても、自己を絶対者、唯一無二の者とは位置づけなかった度合いが、特徴的であるといわれています。これは、ひかりの輪が、「一連の事件の原因となったグルイズム中心のオウム真理教を超えていこう」という目的と合致しています。
(中略)この教えの特徴をわかりやすく表現すれば、オウム真理教が「一人のグルに対する絶対的な帰依」が特徴であるのに対して、ひかりの輪は、すべての衆生の仏性に奉仕するという意味で、「すべての衆生に対する帰依」が特徴ということになります。そして、実践の中では、オウム真理教が、グルとされる特定の人物のときどきの考えを絶対とするのに対して、ひかりの輪は、教え・法則を重視することになります。(中略)釈迦自身を崇めることを否定し、「自己と法則をよりどころとせよ」と説きました。これは、釈迦が、自分自身を仏陀の象徴と位置づけなかったと解釈することができます。
・p35
◎グルイズムの密教が最高の教えなのではない
「たくさんある仏教の教えの中で、今までの教団の慣習から、「グルイズムなどを強調する密教の教えの実践が最上である」とはたから決めつけてしまうのは、これまでの教団の流れ(過去の一連の事件等)を考えても、今後のひかりの輪の見通しを考えても、不適切だと思います。
(中略)一連の事件を含めたオウム真理教の流れや、現在の教団内部の分裂、そして、今現在の世界の宗教的な対立を考えると、その原因が、「自分たちの宗派ないしは、自分たちの宗教的な考え方が、唯一絶対のものである」と考えることから来ている面が多々あると思います。択法覚支とは、これを乗り越えることができる教えであり、修行上の本質的な目的を重視して、単一の法則を絶対視せずに、時と場合に応じた実践をすることだと思います。この点に関連して、本来はグルイズムを非常に重視するチベット密教の総帥ダライ・ラマ法王自身が、その著作の中で、師ではなく教えに対する信を強調していることを紹介しましょう。」
・p42~44
◎グルを実際に絶対・完璧と見るオウムの思想は間違い
「本来のグルイズムの意味合いです。それは、密教には、確かにグルを絶対・完璧と見るという修行がありますが、それは、「グルが絶対・完璧である」と主張しているのでは決してなく、「グルを完璧・絶対と見ることで、弟子が自分のエゴを弱めるという修行法がある」ということです。すなわち、現実にはグルは人間であって、仏陀そのものであったり、完全無欠ではないものの、弟子の修行のためにグルを仏陀と見るという修行法・手段、一種の方便があるということです。」
(中略)グルとされる存在は、現実は生身の人間であり完璧ではないが、密教においては完璧と見なされる対象にさえなること。これについては上記に述べたとおりですが、20世紀までの宗教の歴史を見ると、現人神〔あらひとがみ〕などの神格化された人物や、その権威の活用によって、戦争までが起こることがあるということがよくわかります。(中略)
神の代理人としての権能を得た聖職者がいれば、それによって、特にその宗教に属さない人たち、他宗教の人たちの生命・財産を奪うことが少なからず頻繁に起き、その結果、21世紀の今日までも宗教的な戦争が絶えません。
こうして、宗教的な勢力や宗教的な国家のトップに、絶対神の化身・現人神を抱くことは、信者にとって素晴らしいことであると思われる一方で、その裏側に、人を罰することができるのが神ですから、その神の権能として、多くの人の生命を奪うという問題が起こり、そのために信者たちは、非信者たちと延々とした紛争・対立関係に入っていくことになります。」
⑬2008年2月17日・大阪での講話(甲158)
・P7~12
◎何人も神ではなく、グルイズムは過剰な依存と傲慢である
「そもそもは人は神ではありませんから、他の人を神だと判断する能力はありません。人は神ではありませんから、何かの宗教が絶対だと判断する能力はありません。
(中略)
「過剰な他に対する依存、これを戒めたということだと思うんです。先程申し上げましたように、釈迦の時代はすでに自分と他人を区別して絶対神に依存するような、そういった宗教がだいぶ流行していた、隆盛していたと思います。そしてそれは、この21世紀まで続いてきていますね。それに対して釈迦は、自分を拝むなと言った。
(中略)グルイズムの傲慢。それは、自分が神ではないのに他人を、すなわち教祖を絶対と、神であると、そういうふうに信じ込んでしまうのもひとつの傲慢であろうと。信じる側が安直に信じるという意味で、傲慢であろうと。」
⑭2008年7月13日・大阪での講話(甲166)
・P5
◎何人も神ではなく、絶対的な帰依の思想は自己絶対化であり、おかしい
「これは要するに人は神じゃない、つまり誰かを神とするてことは、そこに、まだ要するに、その人に頼って自分も神に近づきたいという誇大自己が残っていて、誇大自己に基づいて、それを、安直に満たしてくれる、なんか、絶対的な対象これを求める心があるそれを こうー 根底から防ぐには、まず、自分も他人も人は神じゃないんだと、いう前提が必要です。」
(中略)
「絶対的帰依をしているっていうのはどうしておかしいの、それは自分が信じたグルをもともと、安直に絶対だと信じるということは、自分の判断能力を絶対と見てるんじゃないか、という話を皆さんにしたことがあると思うんです。だから他人を絶対化するということは、自分を絶対化してるんじゃないか、そういったことをお話ししたと思うんですね。」
⑮2008年2月9日・船橋での講話(甲157)
・P16~17
◎グルイズムの問題
「ただここで、グルというものをそこに置くとですね、そのグルというのを、グルがまさに神なんだ、仏なんだという考え方に陥ると、大変なことになるわけですね。そうではなくて、自分が修行したその蓄積をグルが手伝って、自分の仏性を覚醒させてくれるんだという考え方、これが正しいグルと弟子の関係です。チベット密教などでは、グルのイニシエーションというのは、弟子の仏性を引き出す呼び水であって、決して弟子は汚れていてグルの仏性を移入、コピーするんだという、プリントするんだという考えはありません。ただ、旧教団(オウム)では一時期、後期においてちょっとそういった考え方に偏ったかなというところがあって、その点は気をつけなければならない。
(中略)そしてそれが人だった場合はその人を絶対視しますから、ここで旧教団(オウム)のようなグルイズムの問題というのが出てくるわけです。」
⑯「上祐代表書き下ろし講話集② 2008年」(甲170)より
・P50~51
◎オウム真理教の傲慢の反省
「旧団体の反省として、「自分たちの教祖が世界のキリストであり、自分たちだけが救済する集団である存在である」という思考があった。(中略)旧団体のように、「自分たちこそが正しい」「自分たちだけが正しい」という意識が強まり、その結果、「他者との闘争」「他者の否定」が激しくなる。私はこういった思考の結果として、「原理主義者」「過激主義者」「テロリスト」「好戦的」と呼ばれる人たちの中には、その全体ではなくても、少なからずこういったタイプの人たちがいるのではないかと思う。」
(中略)人は皆長所・欠点があり、地球の中の何者かが「神」の使者で、何者かが「悪魔」の権化であるというわけがない。ここには、自分たちに対する「過信・誇大妄想」、他人対する「不信・被害妄想」の問題が生じる。そして、この考え方は、「悪」を打ち倒すという好戦性につながる。イスラムとアメリカは、互いを「悪魔」と見て、自分たちを「神」の意志を行うものと見て、現在、紛争・戦争を続けている。そして、彼らには、いわゆる聖書の終末思想、すなわち「善と悪の戦い」の世界観の影響もあるとよくいわれている。」
・P88
◎オウム真理教のマハームドラーの思想は傲慢であり間違っている
「オウム真理教の「マハームドラー」の前提には、松本氏は、絶対神の化身であり、その意味で、絶対善である、という「思い込み」がある。これは、弟子が松本氏に、たとえば批判されたりして、いじめられて苦しみを感じたときに、松本氏を悪として、批判を返すことをせず、自分の内面の業、精神の弱さを内省するためにはよいかもしれない。
しかし、松本氏が犯罪行為を指示した際まで、松本氏を悪と考えずに、それに従ってしまえば、明らかに「行きすぎ」である。それは、自分の修行のために、松本氏を信奉していないどころか、知るよしもない第三者を巻き込むという、非常に「尊大で傲慢」な行為である。
しかし、客観的には「尊大で傲慢」な行為だが、前提として、松本氏が絶対神の化身であり、日本・世界のキリスト(となる人)である、と「思い込んで」いる信者にとっては、本来は、師と弟子の二人の「個人的な世界の中のしごき」のレベルにとどまるべき修行が、それを大きく逸脱して、社会全体を舞台にした犯罪行為に及ぶことになる。」
・P106
◎麻原は傲慢だった
「元教祖は、「自分は傲慢になりやすい性格であり、自分の考えが正しいと思いこむ傾向があったので、カルマ・ヨーガの実践を行った」と書いている。たしかに、カルマ・ヨーガは傲慢を静めるためのヨーガだと思うが、その後の元教祖も、自らをキリストとして、一般人を悪業多き魂として、一連の犯罪行為を行うという、紛れもなく「傲慢、独善、誇大妄想的な思想と実践」に陥った。」
・P110~114
◎オウムの問題は、麻原を神としたこと
「オウム真理教では別の問題が起こったのである。それは、人はあくまでも「不完全」であり、神の意思を完全には知り得ないという事実に気づかずに、人であるグルを神の完全な化身として、グルの意思=神の意思としてしまったことだ。
すなわち、松本元教祖を、最終解脱者であって、絶対神のシヴァ大神の意思を(完全に)理解すると位置づけ、その指示は絶対神の指示であって、まったく間違いがなく、それがたとえ犯罪行為であったとしても、グルと違って神の意思を理解できない弟子たちは、自分の善悪の判断をせずに従わなければならないという構図ができてしまったことである。しかし、人はあくまでも「不完全」であり神ではない。」
(中略)自分の信じたグルや教団が絶対であると思いこむ背景には、「傲慢と(グルへの)依存=怠惰」があるが、自分は誰からも学ぶ必要がないと考える背景にも、別の意味で「傲慢と怠惰」がある。」
・P123
◎オウムが説く、グルの絶対視は間違い
「チベット密教が説く、グルを絶対的に見る教えは、他から学ぶ上での謙虚さを養い、自己のエゴ・傲慢を静める「方便」である。すなわち、実際に、グルと呼ばれる人が絶対で、完全無欠なのではない。この観念が行き過ぎれば、盲信・狂信になって、詰まるところ、自分自身が信じたものは絶対であると考える、という「傲慢」にもなる。」
・p179
◎ひかりの輪は、盲信を避けなければならない。釈迦も弥勒も神ではない
「われわれは、「偉大なる存在」「神仏の存在」について、旧来のような盲信・狂信は避けなければならない。
・p216~217
◎釈迦も弥勒も神ではない
「私たちは、釈迦牟尼が説いた縁起の法を悟りの教えの中核として、人を神としない原則に基づいた菩薩道を歩んでいる。(中略)弥勒菩薩は修行中の未完の菩薩とされ、人が、自己を神と錯覚しないために非常に重要である、謙虚さと努力の象徴である。」
・P274
◎全ての人に神仏を見る思想は、オウムのような傲慢の問題を回避できる
「すべての人に神仏を見て、感謝するならば、おのずと、自分たちだけを聖とし、他を邪とするような世界観は滅し、オウムのような問題は起こりようがない。そもそもが、すべての人が帰依の対象であることが、オウムのように、唯一の人物を帰依の対象であることと完全に矛盾する。よって、この教えは、傲慢からくる魔境を、完全止滅させることができる。
(中略)「20世紀までの間違った布教は、その教祖が自分こそが唯一絶対の神の化身であるという傲慢のスタイルで、同じような傲慢な人間を集めて、自分たちの集団を、外部よりも上に位置づける形で行われた。(中略)これまでの宗教は、イエスにしても、マホメットにしても、誰か特定の存在を神の現れと信じるものがほとんどであった。その中には、それが唯一絶対の信仰であると盲信・狂信することで、他宗教・他宗派・一般社会と対立し、時によって激しい紛争に至るものであった。」
『2010-11年末年始セミナー特別教本《改訂版》』(乙D245)p59~60
◎自分の崇拝対象を絶対とすることの問題
「従来の宗教の信者は、自分の崇拝対象を信じていくうちに、それが絶対であると(あたかも知っているように)思うようになります。そして、自分の崇拝対象を否定する者が現れると、絶対・完全な存在を否定する者として、「真実を知らない愚か者」と軽蔑するばかりか、場合によっては、「他の何よりも悪いことをしている者だ」と思うようになります(そのように教えられることもあります)。わかりやすく言うと、神・仏を否定しあらがう、悪魔・魔となるのです。
典型的な例が、その宗教で、「その崇拝対象が唯一絶対のもので、他の(宗教の)神は邪神である」とされている場合です(これを唯一神教というのでしょうか)。また、現代社会でよく見られるのが、特定の人物を神と見る場合です。この場合、その人物を神と同等と信じる信者と、そう信じない外部社会の間で、対立が起こる場合があります。
それは、信者は、その人物を「神の化身」などと感じられるのに対して、外部社会には、「神ではない人間」としての色々な疑惑が感じられる場合でしょう。この場合、信者には、「その外部社会の疑惑は、事実無根(の陰謀)である」とか、「全く無視するように」と教えられます。そして、ご存じの通り、いわゆる「カルト宗教」とされるものに、このタイプのものがよくあります。
同上p62
◎オウムのグルイズム、グルを殺人をしてよい絶対的な存在と見なすのは間違い
「チベット仏教が説く、グルを仏の化身等として絶対的な存在と見なす修行は、オウムで信じられたように、グルが他人の生命を奪ってもよい絶対的な存在であるということを意味しているのではありません。そう考えることによって、グルを自分の仏性を引き出す象徴とするものだと思います(他にも、グルに対して謙虚になることで、弟子が自己のエゴを弱める手段とすることもあると思いますが)。」
同上p63~64
◎釈迦は自分を含め人を神としなかった
「釈迦牟尼は、弟子に自分(=釈迦牟尼)を崇めずに、自己と法を拠り所にすることを強調した。いわゆる「自灯明・法灯明」ともいわれる。これは、ひかりの輪の「人を神(=絶対)としない」という原則に一致する。
p65
◎自分の教祖を絶対視するのは過ちの背景、オウムの過去の経験からも
「盲信の背景にある「虚栄心」について考えてみたいと思います。万人が認めない教義を自分たちだけが絶対真理と信じる(盲信する)人には、自分たちが優れているために、他人が信じていないものを信じることができる、という心理が働くことが多いと思います。これは、慢心・虚栄心のエゴだと思います。
そもそも、客観的に見れば、人間は誰しも不完全であり、不完全な人間である信者が、ある宗教やその開祖を完全であると判断する能力があるとはいえないでしょう。にもかかわらず、それらを完全と考えること自体が、すでに慢心・虚栄心が生じているおそれがあるわけです。
しかし、自分の信仰を絶対視するようになった信者は、この単純な事実に気づきません。「他人が理解できない絶対真理を自分は見つけた、理解できた」という思考パターンになることが非常に多いと思います。しかし、客観的には、万人が信じない理由は、誰もが認める客観的な根拠に基づいていないからでしょう。キリスト教が人類全体を信者にできなかったのも、イエスの復活が客観的な事実とは言えないからでしょう。
そして、「自分たちが信じているものは絶対真理」と考えるうちに、自分たちでも気づかないうちに、「自分たちが絶対真理である」という心理が働き始めるおそれがあります。こうして、盲信的な信者は、自分の宗教の神や開祖を絶対と信じる中で、気づかないうちに、「自分自身を絶対化」していくおそれがあるのです。
私の過去の経験からしても、「自分が重要な存在になりたい」とか、「他より優れた存在になりたい」という欲求が、こうしたタイプの信仰にはまり込んだ一因だと思います。そして、これはエリート・勝ち組と呼ばれる人にも、負け組と呼ばれる人にも、その双方に起こります。エリートは、「さらに勝ち組になりたい」という欲求があり、負け組は、「挽回したい」という欲求があるからです。」
同上p68
◎自分の開祖などを絶対視するのは、傲慢による過ち
客観的に見れば、不完全な人間である信者が、開祖を含めた何者かを絶対視する、すなわち、絶対だと判断する能力があると考える方が傲慢であり、さらには、自分の信じた開祖を絶対と見ることで、ついには自分自身を絶対と見る思考パターンに陥るということがあります。
この傲慢には、妄信的な宗教とその信者は気づかないと思います。こうして、信者は開祖やその宗教に対しては謙虚に振る舞いつつ、自分では気づかない傲慢を形成します。それは、主に、先ほど述べたように、信じない人たちを強く見下す傲慢となって現れます。
『2017年夏期セミナー特別教本』〈甲137〉P56
◎オウム事件の再発を防ぐのに必要な心の姿勢
特定の教団・宗教宗派を信じる信者は、自分たちが、非信者よりも聖なる存在(来世幸福になる)と考える慢心・独善・善悪二元論の傾向に陥ることがあるが、これに加えて、自殺や他殺をしても、来世があると考える場合に、今生の命・現世を軽視する可能性、例えば、聖戦を肯定する問題が出てくる(例えば、イスラムの自爆テロ・オウムのポア・その他の宗教戦争)。
これを防ぐには、①妄信・過剰な依存を避けること、②慢心・独善・善悪二元論を避け、合理的・客観的で謙虚な物の見方・姿勢が必要である。
(3)オウム・アレフに対する批判
①「上祐史浩からのメッセージ2007」(甲168)より
(※アレフ脱会直前に書いた、アレフの問題点を指摘する内容)
・p57~59
◎麻原・オウムの社会観・予言は妄想である
「現象を全くありのままに見ることができない、大きな無智が生じると思います。他の言動を自分の心の現れと見ない中で、しばしば、自分は他に不当に傷つけられている、不当に陥れられている、攻撃されている、という被害妄想が生じます。旧教団(オウム)で言えば、「戦いか破滅か」というスローガンのように、教団は社会と闘わなければ滅ぼされる、という考え。
(中略)実際には、予言は成就せず、事件は陰謀ではありませんでした。この事実を率直に受け止めれば、予言は、私たちの誇大妄想として認識すべきだ、と思います。
(中略) 旧教団(オウム)は、「真理が広まらないのは社会が悪い、社会が教団を弾圧している」と考え、「普通の布教では社会は変わらないから、武力によって力ずくで変えよう」という考えが生まれました。しかし、今から思うと、社会が教団を弾圧しているというのは被害妄想であり、辛抱強く、普通の布教を積み重ねて、時間をかけても、真理を広めていく実践が必要だったように思います。」
(中略)終末思想の予言に基づくヴァジラヤーナ活動を行い、その結果、95年に破綻し、その後の予言が成就しない状況の中で、今の教団には、以前にもまして、非現実的な面、妄信的な面が強まっている、と思います。」
②「上祐代表書き下ろし講話集② 2008年」(甲170)より
・P41
◎Alephは麻原を不合理に神格化している
「麻原元教祖について言えば、世間一般の人から見ると、体も太っているし、多くの女性に子どもを産ませたし、自分に都合の悪い者はポワと称して殺してしまうということで、とても人格者、解脱者には見えないと思います。ましてや、今や、勾留中で、重度の拘禁症である、とされていますから、精神的にも弱い人 だと思う人が圧倒的ではないかと思います。
(中略)私が、一連の事件のことを含めて、麻原元教祖(やその家族)を神格化するのは、不合理である、と主張しても、その主張を受け入れない信者が(Alephには)多くおり、私は厳しく批判されました。」
③「上祐代表書き下ろし講話集③ 2008年」(甲171)より
・P4
◎麻原は人格障害型の無差別犯罪者である
「松本氏が主導した教団の事件と秋葉原の事件は、一見違って見えるが、よく分析するならば共通点があると思う。それは、最近の総括作業の中で行った、元教祖や教団信者の人格分析の結果、見えてきているものでもある。中略)これは心理学的にいえば、自己愛(自己正当化)が強く、他の否定・被害妄想が強い、人格障害と分析されるものであろう。(中略)私はこういった現代の犯罪を「人格障害型の無差別犯罪」と呼んだらいいかもしれないと思う。」
・P12
◎麻原は人格障害である
「オウム真理教のテロの場合は、やはり、それを主導した松本氏が、反社会的な人格を有していたことが原因の一つだった。松本氏の社会に対する認識は、自分が予言されたキリストであって、社会はキリストである自分を弾圧しており、それと戦い勝利しなければならないというものであったが、今になって客観的に見れば、誇大妄想と被害妄想であろう。そして、心理学や精神医学上は自己愛、救世主願望、誇大妄想、被害妄想などが強い人格障害と分類される」
・P76
◎オウムの逸脱したマハームドラーの概念と、誇大妄想と被害妄想の世界観の問題について
「なぜ、オウム真理教で、そういった逸脱した「マハームドラーの試練」という概念が生じたかと言えば、それは、そもそも「オウム真理教の世界観」が、教団が善業多き魂で、社会は悪業多き魂で、教団が不当に社会に弾圧される中で、最後には、教団から現れるキリスト(松本元教祖)が、悪の社会に打ち勝ち、悪業多き魂をポアして、キリストの千年王国を作る、という「世界観」があったからである。」
(中略)「教団の世界観」すなわち、教祖と信者の社会の中での位置づけ自体が、すでに思い上がった「自己中心的」なものであったからだ(ただし、より正確に言えば、教祖と信者本人たちには、自分たちの「思い上がり」や「自己中心」に対する自覚はなく、自分たちはキリストの集団である、という「誇大妄想」と、自分たちは弾圧されている、という「被害妄想」があった、ということができる。すなわち、「狂信・盲信」の結果である)。」
・P108
◎オウムのヨーガ行法は問題がある
「オウムのクンダリニー・ヨーガを含めたヨーガ行法の実践が、かなり荒っぽいものであり、心身を痛める危険性があったのではないかと考えている。」「(中略)松本元教祖も師事したことがあるインドの聖者(パイロットババ師)が、松本氏とオウム真理教に絡んだ問題点として指摘(中略)1.松本氏の修行法は行法(右気道の実践)に偏っており(精神的な実践が弱く)2.特に、アナハタチャクラ(=プライド)でひっかかっており、「私が救済する」というエゴを持っていた。3.行法で一時的に煩悩が浄化された(ような)状態になり、霊的な体験をして悟ったと錯覚する問題があるなどである。」
・P108
◎他人に魔境に陥るなと戒めた麻原自身が魔境に陥った
「松本氏がなした妄想的・独善的な活動を見れば、松本氏は、「他人に魔境に陥らないように戒めながら、自分自身はそれを避けることができなかったのではないか」と判断せざるを得ない。」
(中略)松本氏を分析した人の中に、自ら霊的な修行体験があり、京都大学教授の鎌田氏がいるが、彼はその書籍(『呪殺・魔境論』)の中で、「松本氏は、魔境を経験し、魔境を知っていたが、最初の魔境を抜けた後に、自分が最終解脱したという第二の魔境に入ったのではないか」と述べているが、これは非常に興味深い。鎌田教授と同じような見解を持っていたと思われる人物として、松本氏自身が、その初期の雑誌記事の中で紹介した、雨宮氏という修行者(故人)いるが、彼は、松本氏が最終解脱したと主張し始めた際に、強く批判して「大変なことになる(地獄に落ちる)」と警告したという。
上記のパイロットババ師も、松本氏が最終解脱したと主張した1986年の時点で、松本氏が、師から伝授された修行を適切に行っていないがために、破滅にいたることを警告したという。」
・p189~190
◎オウムは殺人事件以外にも悪業があり、贖罪をしなければならない
「いわゆる重大事件とは別に、教団では、まったくの詐欺的な行為に加えて、ハルマゲドンが起こるなどという、特殊な世界観に基づいた強引な布施集めなどがあったが、これらも、その内容によっては、偸盗の悪業に分類されるものだろうから、自分の行動をしっかりと内省すべきであろう。」
(中略)教団の信仰のために嘘をついた妄語の悪業がある。これは私が偽証罪で捕まったり、広報活動で教団の事件に対する関与を否定したりしたことも含まれる。この悪業は、当時のサマナ・信徒に、導きや事業活動などを含めて、相当広く広がっていたはずだ。真理のためにならば嘘をついてもいい、という考え方である。
(中略)松本氏が関与した一連の重大な事件と、松本氏不在の中で、弟子たちが行った行為がある。例えば、事件化されるほどではなかったにしても、観念崩壊セミナーにおける無理な修行による傷害行為、それから、分派したケロヨングループの傷害致死事件や、その他の部署の詐欺的な行為などがある。
これらの悪業を認識しないと、自己を正当化するために、自分は知らなかったという偽善的な意識が形成される傾向があるので、特に注意を要する。例えば、観念崩壊セミナーなどは、多くのスタッフが見聞きする中で、信仰上の理由で、それを止められなかったものであるから、自分たちが知らなかったでは済まされないものであって、その悪業を認識しなければならない。
(中略)私たちが信じた当時の教団の思想・教えは、社会に対して非常に対立的・闘争的であって、犯罪行為を正当化する過激な内容を含んでいた(中略)一連の事件の行為だけではなく、その背景にある信仰の内容自体に、すでに悪業が含まれていた
(中略)謝罪・賠償・教団改革を、その本来の意味に基づいて行うことである。本来の意味とは、アーレフのような、自己の盲信を社会の圧力から防御するための作戦ではなく、自己の過去の過ち=悪業を認識し、その悪業の精算として行うことである。
(中略)被害者遺族の方々が解散を望む背景には、一連の事件の後から、アーレフ時代までの所行があるだろう。第1に、99年までは形上(かたちじょう)も、謝罪・賠償をしなかったこと。第2に、2000年以降のアーレフ時代も、形上の謝罪・賠償にすぎず、それは教団を社会的に防衛する手段であったこと。そして、その賠償も、契約で約束された額を支払うことができなかったことである。」
『2009~10年年末年始セミナー特別教本《改訂版》』(乙D242)p16
◎オウム真理教などの善悪二元論の盲信の過ち
「欠点と長所を区別する考えが強い、すなわち、善悪二元論の世界観の場合は、自己の欠点に対する嫌悪が強まり、完全無欠の存在を求める傾向が強まる。しかし、自分の力では完全無欠の存在などにはなり得ないから、誰かに依存して、そうなろうという心理が働く。その結果が、例えば、オウム真理教などにも見られる、妄信的な信仰を生み出すと思われる。
この場合は、唯一の人物を神の現れと考える傾向に陥る。そのため、人が誰しも、それぞれに、その欠点の裏に長所を有しており、それは神に与えられた個性であって、すべての人々が神の現れである、という一元的な思考には至りにくい。」
『2010-11年末年始セミナー特別教本《改訂版》』(乙D245)p61
◎オウムの開祖=麻原の陥った慢心の過ち
「霊能力・超能力が強くても、それが優れた人格や真実の悟りとは、必ずしも結びつかないと思います。オウムの開祖は、自分が神の化身であるという慢心に陥って、手段を選ばない布教を正当化し、例えば、隠して薬物を与えることで信者に神秘体験をさせ、それが自分の力によるものだと思わせるといった、いわば演出をしました。」
『2010年GWセミナー特別教本《改訂版》』(乙D243)p34
◎自分達を絶対視した狂信的なオウム真理教お過ち
「強い自と他の区別・善と悪の区別があって、自分たちを絶対視する、いわば、狂信的な宗教や思想である。オウム真理教には、この傾向が強かったのではないかと思う。そして、イスラム原理主義、キリスト教保守主義といった、紛争の原因となっている原理主義的な宗教も、このタイプに属すると思う。」
『2013年GWセミナー特別教本《改訂版》』(乙D252)p6
◎教祖を絶対として狂信的な思想に陥ったオウムの一連の事件の経緯と反省
「教団は教祖を絶対とし、社会を悪魔に支配されたものと見て敵対する狂信的な思想に陥って、犯罪行為を正当化し、実行し始めていた。89年の坂本弁護士殺害事件後には、教祖への盲信などから、自分も同じ間違った思想に陥り、90年にかけて、テレビ出演で公衆の前で教団を守るために嘘の弁明をする緊張した状態を経験した。93年ごろには、一つ間違えば死亡する緊張を伴う生物兵器の製造実験の活動にも参加した。
その教団は、94~95年にかけて、サリン事件などの重大な事件を起こして破綻するに至り、教祖と同僚の高弟たちは、次々と重罪で逮捕・起訴され、死刑が求刑された。」
『2012年夏期セミナー特別教本《改訂版》』(乙D250)p28
◎麻原は誇大妄想・被害妄想
「そして、オウム真理教の麻原教祖は、この誇大自己症候群の典型であろう。麻原の場合は、自分がキリストであるのに、それを認めず否定する社会は、キリストを弾圧する悪業多き魂であり、戦わなければ教団はつぶされる運命であり、戦うならば、一教団にもかかわらず、キリストの集団であるがゆえに、勝てる(可能性がある)という誇大妄想と被害妄想に陥ったのである。
麻原のように重篤なケースは、特に幼少期の親子関係に特に深い傷があるのかもしれない。実際に麻原は視覚障害者であり、自分の意に反して、親元から離されて全寮制の盲学校に入れられるなどして、親への恨みが強かったといわれている。」
『2010年夏期セミナー特別教本《改訂版》』(乙D244)p32
◎オウムのマハームドラーの教義の過ち
「なお、忍辱(忍耐)の実践に関連して、オウム真理教では、マハームドラーと呼ばれるグルが与える試練に耐えるという教義があったが、その間違いについて指摘しておく。
オウムが説いたマハームドラーとは、他者=社会を犠牲にした形で、自己満足の世界の中で、自己放棄の修行をしようとしたことであった。このような他者の犠牲をともなう形での試練を自己の忍辱(忍耐)と解釈するのは、明らかに自己中心的な価値観であって、自と他を平等に尊重する大乗仏教の思想に反するものである。」
『2009年GWセミナー特別教本《改訂版》』(乙D240)p16
◎親子関係の問題を解決せず、悪用したオウム
「ところが、現代では親子関係が歪んでおり、親を尊敬していない子供が多くなっている。よって、この親子の問題を乗り越えなければ、仏教の教えの根幹が損なわれる。
一方、オウム真理教は、この問題を解決せずに、この問題を逆手にとった宗教であると思われる。すなわち、末法の世には悪業多き魂が多いとして、教団を肯定しない親は強く否定し、出家制度によって子供を親から隔絶し、教祖のもとに集中させることで、子供が救われるとし、親をはじめとする社会と敵対し、戦って勝利することを教義とした。」
『2013年 夏期セミナー特別教本《改訂版》』(乙D253)p35
◎麻原は精神病理的な状態とアレフの修行の危険性・過ち
「しかし、そのグルであった麻原自身が、今、精神病理的な状態にある。原因が、逮捕後の社会的圧力や拘禁という物理的な環境条件である可能性もあるが、異常を呈する直前に、クンダリニーエネルギーのコントロールに苦しみ、裁判長に訴えていたことが、裁判記録から明らかなため、クンダリニー症候群である可能性が少なくない。
また、オウム時代にも、全体での割合はごく少ないが、信者の中で精神分裂的な症状を呈する人がいたことは明らかである。私が最初期に参加したセミナーにおいてさえ、そうなった会員がいた。その後に行われた「狂気の集中修行」と呼ばれたハードなセミナーでも同様である。(中略)
オウムの精神的な問題は、麻原に近しい人物や高弟たちにも及んでいる。オウム事件後、統合失調症を呈した者がいたが、これは、事件がきっかけであり、クンダリニー症候群ではないかもしれない。しかし、麻原に近い幹部の女性の中にも、幻聴が聞こえ、通院した女性が複数いる。
最近では、アレフ(旧オウム)の幹部の一人が、麻原の声が聞こえるという幻聴状態に至り、それをきっかけに団体から魔境とされ、教団活動から外され、その後に集中修行に入ったが、再び幻聴が聞こえたので、修行を中止したという事態も発生しているという。
さらに、アレフで問題であることは、①クンダリニー・ヨーガの危険性を全く知らせず、「グル麻原がいるからアレフで行う限り危険性はない」と主張し、②その一方で、クンダリニー・ヨーガのメリットをあまりに誇大宣伝していることである。」
『2008年夏期セミナー特別教本《改訂版》』(乙D237)p59
◎妄想的プライドから武装化や薬物を正当化したオウムの過ち
「宗教の場合は、まず、「自分たちが唯一正しい存在である」という妄想的なプライドを持つ恐れがある。これに基づいて、「多くの人が(本質的には地球のすべての人が)、自分の宗教の信者になるべきである」という意識が働く。
ここではすでに相当の支配欲・権力欲が働いているし、競合する他宗教との闘争心も働いている。そこでは、歴史上、しばしば、強制力・暴力・軍事力も用いられてきた。教団武装化や薬物を使ったオウムも、この一例である。」
『2008~09年 年末年始セミナー特別教本《改訂版》』(乙D238)p8~9
◎オウムの麻原は、間違った依存の対象
「例えば、オウムの元教祖の場合のように、依存の対象が犯罪行為を肯定しているなど、客観的に見れば、大きな問題があるにもかかわらず、一部の信者には、「自分で判断して間違えたくない」という気持ちが極端なまでに強いために、間違った対象に依存し続けてしまう、という場合である。」
『2009年2月セミナー特別教本《改訂版》』(乙D239)p30
◎プライド・虚栄心で暗部を直視しないオウム真理教の問題
「しかしながら、競争社会で育ったわれわれは、自分が他人に対して優位であったり、劣っていたりするといった、自と他の比較について、非常に強くとらわれている。よって、自分の長所と他人の欠点はよく見るが、自分の欠点と他人の長所を見ることは苦手である。
また、特に、宗教の実践者の場合は、オウム真理教での経験でもわかるように、みずからの宗教的な実践を誇っている間に、プライド・虚栄心が増大し、そのために、自分の暗部を直視しないという問題も生じることがある。」
『2010年夏期セミナー特別教本《改訂版》』(乙D244)p31
◎麻原・オウム真理教の被害妄想・誇大妄想の問題
次に、「因果の七つの秘訣の瞑想」は、すべての衆生・万物に対する感謝と恩返しを養う教えである。これは、オウム真理教の際に陥った、社会を善業多き魂である自分たちと、悪業多き魂である他者に分けて、「社会が自分たちを弾圧している」という被害妄想や、「その中でキリストの集団となる」という誇大妄想とは、正反対の教えであることは明らかであろう。
そして、この被害妄想の背景になったものと推察されるのが、元教祖の幼少期における不遇であるが、親や周囲に対する不満・被害妄想といった人格の歪みも、法則に基づいて、感謝の実践を行なうならば解消される。
『2011年GWセミナー特別教本《改訂版》』(乙D246)p53
◎オウムは一時的な成功による慢心がもたらした狂気
宗教界では、オウムこそが、一時的な成功による慢心がもたらした狂気でした。教団を聖とし、社会を邪として、世界を二分化する教義・物の考え方に、慢心が潜んでいました。実際には社会に支えられて教団が成立・成功していたのが実際なのに、その社会を否定・破壊して、理想の社会を作るという誇大妄想を抱いた結果、実際には、社会とともに、自らを破壊した形になりました。
『2014~15年末年始セミナー特別教本』(甲128)p31
◎当たらない予言を断言した麻原のようなタイプは精神病理的な部分がある
「麻原彰晃がそうだったように、当たらないことの方がずっと多いのが実態であって、例えば麻原の終末予言のように、特に大きな物事になれば全く当たらないにもかかわらず、それを断言するので、信者と周囲(そして社会)を混乱させ、傷つけることが多い。(中略)
そうしたタイプの人は、精神病理的な部分があって、(自己を神格化する)誇大妄想と(その偉大な自分が、周囲・社会には不当に認められていないと考える)被害妄想に陥りやすく、その意味で、精神的に不安定で、そのカリスマ性と人格は、まったく一致しない(というより反比例さえする)。」
『2014~15年末年始セミナー特別教本』(甲128)p11
◎オウム事件の背景にあった教祖と信者の集団心理:感性の暴走:盲信
「ひかりの輪」が、反省と教訓の対象とするオウム真理教事件は、教祖と信者が感じた「神のようなもの」が、客観的で合理的な根拠がないにもかかわらず、真理だという集団心理が形成されて、起こされたものであった。
『2016年GWセミナー特別教本』(甲133)P22
◎オウムなどの問題の原因は極端な善悪二元論
「そして、オウム真理教や大日本帝国の思想を含め、宗教・政治その他の思想が極端な善悪二元論に陥ると、巨大な暴力が正当化される。善悪二元論とは、自分・自分の集団・国家だけを絶対善として、他を絶対悪とする思想である。」
『2016年GWセミナー特別教本』(甲133)P39
◎輪廻転生を盲信するデメリット=オウムのポアの問題は信者らの来世エゴが原因
「一方、信じるデメリットとしては、今生よりも来世が重視されてしまい、今生が軽視され、破壊されてしまう場合がある。(中略)また、オウム真理教が取り入れた、一部の密教に見られる度脱・呪殺・ポアの思想のように、他人を殺しても、幸福な来世に導けば救済であるという考えの土台になる可能性もある。これは、突き詰めると、「信者の来世エゴ」ともいうべきものかもしれない。自分の来世の幸福にとらわれるあまり、その宗教の教義に従って、自殺・他殺を行なう結果、実在する今生の他者(と自己)を、いろいろな意味で傷つけることになる。」
『2017年GWセミナー特別教本』(甲136)P50
◎オウム真理教の問題:自己特別視、暴力主義、自滅的な暴走
「その本質において、神国日本を唱えた大日本帝国にしても、共産主義の学生運動にしても、オウム真理教にしても、自己の特別視と、対抗者に対する強い否定を含んだ善悪二元論と、暴力主義的な傾向、そして、自滅的な暴走をして破たんした点などで共通点がある。」
『2017年GWセミナー特別教本』(甲136)P56
◎オウムの終末思想と自己特別視の欲求から生じた自己過信による盲信
「こうして、終末思想に、自己特別視の欲求が加わって、自分たちこそが予言された聖戦を担う者であるという自己過信に基づく盲信が生じる構造があることに、十分に注意しなければならない。」
『2017年GWセミナー特別教本』(甲136)P55
◎オウムの予言経典の解釈は非合理的で成り立たない
「また、オウムの事例では、転輪獅子吼経が説く、人類の寿命が平均10歳まで短くなった時に大戦争が起こるという予言や、シャンバラの王であるルドラチャクリンが地上に降誕して、悪の勢力を滅ぼす聖戦を行うという時輪経典の予言が利用された。
しかし、経典を合理的に解釈すれば、弥勒菩薩が今の時代に降誕するという解釈は、あり得ないだろう。また、人類の平均寿命が10歳前後であったのは、縄文時代の時であって、その後は増大をし続けているのだから、今後大戦争が起こる予言は成り立たない。」
(4)三仏と麻原は違うこと
①2007年3月4日・東京での講話(甲140)
・P26
◎観音も弥勒も、麻原を含めた特定の人物とは無関係であり、実在した人物の釈迦も崇拝しない
「旧教団(オウム)と違って、観音にしても弥勒にしても、われわれはそれが具体的な人物であるとか、誰かこの人が弥勒である、観音であるということは言いません。例えば、ある特定の人物、元代表も含めて、この人が弥勒の生まれ変わりであるとか、唯一の生まれ変わりであるなんてことは主張しません。むしろ、釈迦の教説に忠実に従って、弥勒や観音っていうのはおそらくは想像上の存在であるという考え方です。」
「ここで、われわれが、旧教団(オウム)との違いを鮮明にしておかなければならない立場なので申し上げますが、観音や弥勒というのは、皆さんの仏性を引き出す、皆さんの心の中にあるものではあっても、誰か特定の人物だけが弥勒であるとか、弥勒として降誕した救世主であるとかいう考え方は一切とらないし、その背景として、そういった弥勒や観音というのは、大乗仏教の修行者たちが、それを観想させると意識が引きあがるっていう存在として用いてきた、それは素晴らしいけど、実際に釈迦が直接、五十六億七千万年後に弥勒という人間が現れると説いたわけではないから、それを実際の人物であるというふうにすることは、場合によっては危険であるというふうに考えています。弥勒という言葉に関していえば、弥勒という名のもとで多くの血が流れました。」
「弥勒や観音っていうのは、新団体における位置づけは、皆さんの神性、仏性を引き出す、慈悲の心を引き出すには好ましいシンボルとして、日本や中国やインドで長い間、大乗仏教の中で用いられたものとしては尊重するが、それは基本的にそれ以上のものではない。ある意味じゃ、想像上のシンボルなんだっていう考えぐらいを、適当なとこかなというふうに思っています。」
「むしろ、釈迦を崇拝対象にしないために釈迦を掲げています。それはなぜかっていうと、釈迦の教え自体がね、新団体の象徴物の考え方と非常に一致しているからです。釈迦は自己の崇拝対象、神格化を否定しました。そういった宗教家だったわけです。自分を拝むなと言いました。法に帰依せよと。これが釈迦の教えの特徴です。」
②2007年10月21日・大阪での講話(甲153)「基本用語集の解説」
・P25~31
◎全ての人が観音菩薩であり、弥勒菩薩である
「今、我々にはいろいろな法友たち、友人・知人もいるが、悟った境地から見ると、それはみんな仏様です。それはみんな菩薩様です。すべての人が観音菩薩なんです。
(中略)そういった視点からね、観音菩薩の信仰で、すべての人が観音菩薩であるという考え方が出てきます。(中略)すべての生き物を観音菩薩と観想しなさいということがありました。
(中略)皆さんが未来仏、弥勒と同じように、すべての衆生が未来仏だと信じた時、皆さんは未来仏、弥勒に他ならないということ、これが大乗仏教の教え、すべての衆生に仏性がある、すべての衆生が観音菩薩である、すべての衆生が未来仏弥勒である、少なくともその可能性を宿している如来像であるという教えの真骨頂ではないかと思います。」
③2008年7月13日・大阪での講話(甲166)「誇大自己と被害妄想」
・P11
◎釈迦・観音・弥勒の思想は、麻原を含めた特定の人を神としない思想である
「ひかりの輪では人を神とせず絶対視しない形で学ぶ、ふたつめはすべての人々から学ぶ、そして三つ目は大自然を尊重する融合する、三つの考えかたこれが出てきたわけです でよく考えていただければ釈迦観音弥勒の三つの修行です。人を神とせず自己を帰依所とし法を帰依所としと言ったのは釈迦です。ふたつめ、すべての人から学ぶ、すなわち全ての人は観音菩薩であるという教えこれは観音です。三つ目これは私の感覚ではですね、弥勒の教えってのは、宇宙なんだよ仏って言うのは宇宙なんだよー、これが弥勒の教えなんです。なぜなら弥勒ってのは大乗の象徴物ですべての魂を解脱に導くものである。」
④「上祐代表書き下ろし講話集③ 2008年」(甲171)より
◎全ての生き物が観音菩薩である
・P89「観音菩薩の教えの中には「すべての衆生が観音菩薩である」という考えがある。その発端は、観音菩薩が33の化身を有し、どんな衆生の姿形をとっても現れるから、ということらしい。」
・P200「自他の区別を滅するというのは、イメージとしては、三仏で言えば、観音菩薩の教えである。例えば、すべての生き物を観音様と見るという教えがある」
・P257「すべての人々が観音菩薩である、という信仰も生まれた。普通の人、生き物に見えても、観音菩薩が変化したものかもしれないということだろう」
・P257「すべての衆生は、(将来の)観音菩薩ということもできるのだ」
・P264「観音菩薩は、三十三観音といわれるように、いかなる人・生き物の姿形をとることもできるとされるところから、すべての人々が観音菩薩である、という信仰がある。」
・P276「観音菩薩には、すべての人が観音菩薩である、という信仰や瞑想法がある。また、観音菩薩のマントラは、大日如来の光明真言の短縮形でもあるが、大日如来を説く華厳経は、宇宙が大日如来の現れであり、その一部であるすべての衆生も、大日如来の現れであると説く」
・P278
◎麻原らを弥勒菩薩・キリストとする思想は破綻し、ひかりの輪の思想とは異なる。
「オウム真理教時代に、私には、マイトレーヤ=弥勒菩薩という宗教名を与えられ、しかも、当時の松本元教祖自身が、マイトレーヤであると自称していた。その意味で、自分にとっては、弥勒菩薩というものは、いろいろな意味で因縁が深い。
言い換えれば、自分は、真実の弥勒菩薩とは何かを追い求めてきたのかもしれない。オウム時代は、それを松本氏に求めたが、それは破綻するに至った。そして、その後の葛藤の中で、私がつかんだ真の弥勒菩薩のあり方は、まさにひかりの輪の教えと不可分である。
松本氏は、自分こそがマイトレーヤであり、キリストであると主張したが、ひかりの輪は、すべての人々が、仏の現れ、神の現れ、法(=仏法)の現れであると考えて、奉仕するべきであると説くに至った。特定の人物を神・仏の化身と見る考え方から、すべての人々、衆生を尊重する考えに大転換したのである。そして、私は、これこそが、真実の弥勒菩薩の教えであると確信するに至った。(中略)この弥勒菩薩の教えからすれば、この世界を善業多き教団と悪業多き社会に二分したオウムの考えは否定される。なぜならば、オウムの人が体験するこの世界は、オウムの人の心の現れであり、オウムが善で社会が悪という二分化はありえないからだ。」