オウムの清算
オウム時代の清算についてのコーナーです

観察処分関係

「ひかりの輪はオウム」という公安庁HPの誤り
(2022年4月26日)

  ひかりの輪は、オウム真理教の教祖・麻原から脱却し(「脱麻原」)、オウム真理教や麻原への信仰に反対してきました(「反麻原」)ので、決してオウム真理教ではありません。

   しかし、公安調査庁は、同庁のホームページや、同庁の年次報告書「内外情勢の回顧と展望」において、ひかりの輪をオウム真理教だと位置付けています(「オウム真理教上祐派」と呼称)。 公安調査庁は、その根拠として、以下のことを挙げています。

1,「ひかりの輪」は、平成19年5月、「Aleph(アレフ)」の前身組織である「宗教団体・アレフ」の代表などを務めた上祐史浩が、組織の存続を求めた麻原の意思(※)に従って設立した団体であること。
   ※麻原は、地下鉄サリン事件後の平成7年5月、法務大臣が団体に対して破壊活動防止法の適用を検討する旨を表明したことを受けて、団体が存続できなくなる事態を危惧し、幹部構成員に対して、①団体の危険性を除去したように仮装すること、②組織を分割して、一方の組織の存続が困難となった場合にもう一方の組織がその受皿となれるよう準備することを指示しました。

2,「麻原と関係があるとする仏画」「麻原を投影した仏画」を施設内に掲示し続けていること。

3,年3回の「集中セミナー」などにおいて、「麻原が行った活動の基礎的ないし本質的部分を維持したカリキュラム」「麻原が重要なものと主張したヨーガ行法」を実践していること。

4,「聖地巡り」と称し“麻原ゆかりの地”と独自に位置付けた神社などを繰り返し訪問していること。

   公安調査庁が挙げている以上の根拠は、いずれも完全に事実に反しており、根拠となるものではありません。以下に一つ一つ詳しく反論いたします。


●1,ひかりの輪は、麻原の意思に従って設立された団体ではありません。

  
前記の通り、公安調査庁は、

「ひかりの輪」は、平成19年5月、「Aleph(アレフ)」の前身組織である「宗教団体・アレフ」の代表などを務めた上祐史浩が、組織の存続を求めた麻原の意思(※)に従って設立した団体である

と述べており、さらに、

※麻原は、地下鉄サリン事件後の平成7年5月、法務大臣が団体に対して破壊活動防止法の適用を検討する旨を表明したことを受けて、団体が存続できなくなる事態を危惧し、幹部構成員に対して、①団体の危険性を除去したように仮装すること、②組織を分割して、一方の組織の存続が困難となった場合にもう一方の組織がその受皿となれるよう準備することを指示しました。

と付記しています。

   しかし、ひかりの輪は、麻原の意思に従って設立された団体ではありません。

   現に、2017年の東京地方裁判所の判決は、

原告(ひかりの輪)の設立は、別団体を組織して、別団体との間で役割分担しながら活動することを求めていた松本の意思に従ってされたものであるとまでは認めることができない。

と判示しています。

   確かに、公安調査庁が述べているように、麻原は平成7年(1995年)に、別団体を作るような指示を出したことはありますが、ひかりの輪の設立は、その指示とは全く無関係なのです。

   それは、前記の通り裁判所も認めているとおりですが、麻原の指示内容をよく見れば、ひかりの輪が、麻原が設立を指示した別団体では全くないことが、よりいっそう明らかになります。

   というのも、麻原は、破壊活動防止法の適用によって団体が存続できない非常事態が生じた場合、麻原の家族らとよく話し合った上で、「衣替え」した別団体、すなわちオウム真理教が信仰していたシヴァ神やその化身とされた麻原への帰依を培う別団体を作るように指示していたのですが、ひかりの輪は、その指示に全く反したものとなっています。

   ひかりの輪は、破壊活動防止法の適用の可能性が皆無となっていた2007年に、麻原の家族らとの話し合いなど全くないまま(むしろ麻原信仰を維持しようとする麻原の家族らと激しく対立した結果として)設立されたものであり、シヴァ神や麻原への帰依を培うどころか、正反対に麻原への徹底的な批判を行い、麻原を信じるアレフ信者らを脱会させたり、アレフへの入会を阻止したりする活動を展開してきましたから、麻原が意思した別団体とは到底いえないものなのです。

   その詳細については、こちらの記事をご覧下さい(麻原からのメッセージの原文を付けて詳細に説明しています)。


●2,ひかりの輪は、麻原を投影した仏画など掲示していません。

 
前記の通り、公安調査庁は、ひかりの輪が「麻原と関係があるとする仏画」「麻原を投影した仏画」を施設内に掲示し続けていると主張しています。

   しかし、ひかりの輪は、麻原を投影した仏画など掲示していません。

   では、公安調査庁は何を根拠にそのような主張をしているのかを具体的に見てみます。

◎釈迦牟尼の仏画について

  
第一に、「麻原を投影した仏画」だとして、公安調査庁が年次報告書に掲載しているのは、釈迦牟尼を描いた仏画です。

   ご存じの通り、釈迦牟尼は、世界中の仏教徒から尊崇されている仏教の開祖です。釈迦牟尼を描いた仏画は世界中の仏教寺院にあり、また多くの日本人の家庭にある仏壇にも描かれています。

   にもかかわらず、なぜ釈迦牟尼が麻原を投影したものだと公安調査庁が主張しているかというと、 ①麻原自身が、麻原と釈迦は同一であるという趣旨の発言をしていた。 ②上祐が、「麻原彰晃という名前は『阿修羅・釈迦』という意味である」と説いて、釈迦牟尼と麻原を同一視していた。 という理由を挙げているのです(第5回観察処分期間更新決定取消請求訴訟において)。

   しかしながら、①については、麻原は誇大自己症候群に陥っていたため、自らを釈迦牟尼ばかりでなく、あらゆる神仏に結びつけて話すことがままあったというにすぎません。ひかりの輪では、麻原と釈迦を同一であるなどとは考えていませんし、当然そのような指導を会員等にしたことも全くありません。

   そして、②については、上祐代表が「麻原彰晃という名前は『阿修羅・釈迦』という意味である」と述べたのは事実ですが、これは麻原自身がそう述べていたということを紹介した後で、今後は「阿修羅」の過ちを犯した麻原の要素を取り除いて、純粋な釈迦(オウム・麻原によって歪曲された仏教ではない、純粋な仏教)を実践していかなければならないという趣旨を説いたものなのです。

   上記②の上祐代表の発言については、観察処分取消訴訟において国が提出してきた公安調査庁作成の証拠の中に、その反訳(テープ起こししたもの)が載せられていますが、その発言の後には、上祐代表が次のような発言を続けたということも、きちんと記されています。

・「阿修羅というのは非常に観念的なんですね。で、観念的だから、『自分が正しい。こういうのは間違っている』とすぐ思います。そして、それに基づいて何が起こるかというと、闘争が起こるわけです。」
・「阿修羅というのは(中略)釈迦のような柔軟な知性がない。」
・「阿修羅のもう一つの特徴というのは(中略)危険なわけです。(中略)グルイズムにしても、五仏の法則にしてもそれからシャンバラ予言にしても、通常の小乗や大乗の『殺生してはいけない』とか、そういった戒律を逸脱する部分がある」
・「例えば、一般社会に対して、被害を受けた人に対して、それを『彼らは悪業が落ちた』という考え方をする時がありますね、この(アレフ)教団では。」

   以上から、「阿修羅」とは、釈迦のような柔軟な知性がなく、闘争的で、グルイズム(人間である霊的指導者=グルを絶対視する考え)や五仏の法則(殺人を肯定すると解釈される教義)に傾倒する要素であり、オウム真理教に当てはめれば、一連のオウム事件を引き起こし、事件を正当化して反省しない要素ということになります。

   よって、阿修羅を脱却していくということは、麻原に体現されたこれらの要素を脱却していくこと、すなわち麻原・オウムの危険な要素を脱却して、麻原によって歪められていない純粋な釈迦=伝統的な仏教に回帰するということを意味しているのです。

   さらに、上祐代表は上記の発言の後に、「グルイズムしかないという感じになってくると、それは脱線してしまう恐れがあるのではないかといった考え方があるわけです。そういうことに基づいて、釈迦、弥勒、観音の三尊を重視するという形に代表派の流れとしてはなっている」と発言したということも、公安調査庁作成の証拠には記されています。

   つまり、グルイズムのような個人崇拝は決して行わないという趣旨のことを述べているのであり、このことからも釈迦牟尼に麻原を投影しているということなど全くありえないことが明らかなのです(以上、第5回観察処分期間更新決定取消請求訴訟における公安調査庁作成の証拠「乙F10号証」より)。

   公安調査庁は、同庁自身が提出してきた証拠の中に、このような上祐代表の発言があるにもかかわらず、その点は無視して、一部の発言だけを抜き取って、正反対の趣旨のことを述べているのです。

◎観音菩薩の仏画について

  
第二に、「麻原と関係があるとする仏画」として、公安調査庁がホームページに掲載しているのは、観音菩薩を描いた仏画です。

   観音菩薩も、世界中の仏教徒から尊崇されている極めてポピュラーな大乗仏教の菩薩です。釈迦牟尼と同じく、観音菩薩を描いた仏画は、世界中の仏教寺院や一般家庭に多数見られるものです。

   にもかかわらず、なぜ観音菩薩が麻原と関係していると公安調査庁が主張しているかというと、上祐代表がまだアレフにいた2005年に、「麻原は観音菩薩を(オウムの主宰神であり麻原と同一視されていた)シヴァ大神の化身として特別視していた、麻原は観音菩薩の化身であるダライラマの過去世を持っていると言っていた、麻原は観音菩薩と縁がある」と述べて観音菩薩を麻原と同一視していたからというのです。

   この上祐代表の発言は、麻原への信仰から脱却できないアレフ信者たちを「脱麻原」へと導き、一般的な仏教の信仰へと促していく趣旨で語られたものなのですが、現に、その後の2006年(まだ上祐代表がアレフにいた時)に、上祐代表は、観音菩薩は麻原でもシヴァ大神でもなく、未完成で不完全な存在であって、これから自分達が学んでいくべき謙虚さの象徴であるということを明確に語っているのです。

   この上祐代表の発言については、上記と同じく、観察処分取消訴訟において国が提出してきた公安調査庁作成の証拠の中に、その反訳(テープ起こししたもの)が載せられていますが、それは以下のとおりです。

   観音菩薩の瞑想は残念ながら、残念ながらっていうことはないな。A派の人たち(注:麻原を絶対視する者たち)と違って、麻原尊師を観想するものじゃない。だから代表派(注:麻原から脱却してきた上祐派)は社会的に観想して、これから幅広く受け入れられる教えを展開していきましょうということにもなる。
   観音菩薩、これは菩薩です。菩薩というのは未完成なんです。だから、菩薩の中にも過ちもあります。菩薩は如来ではありません。シヴァ大神でもない。シヴァ大神の化身でもないし、キリストでもない。人間は未完成な上に悪業を含み、日本人であろうが、中国人であろうが、アメリカ人であろうが、イスラム教徒であろうが、そしてオウム真理教の信者であろうがなかろうが、皆、同じように間違いを犯し、悪業を犯し、そこで、反省をなし、成長していくものだと自分は思うんです。菩薩というのはまだ自分が未完成であって、人間であって神ではなく、自分が神や神の民として、他の人々の上に立って行動するべきではないという謙虚さ、そして謙虚さに基づく寛大さ、これを秘めている存在だと自分は思っている。だから、如来の瞑想ではなくて、菩薩の瞑想、これを実践したいなというふうに思っている。 そして、様々な思いがこれからの連休セミナー、その後の行動にもある訳ですが、この自分たち以外の他人を皆人間というのは過ちを犯し、その中で人間として最上の実践をする、それにはどうしたらいいか。それは謙虚さ、懺悔、そして他を許す心、寛大さ、それに基づく慈悲の実践ではないかと思いながら、観音の菩薩、ないしは弥勒の菩薩というものを(聴取不能)。弥勒菩薩、未完の菩薩と言われています。まだ完成していない。しかし完成していないことを自覚している無智の智、謙虚さ、懺悔、これが菩薩の最高の功徳と言えるかも知れない。宗教が自分たちが絶対だと信じ、傲慢と信じ、過ちをおかしたようであっても反省せず、互いが互いを傷つけ合ってきた、この2千年間。
   キリスト教がイスラム教がユダヤ教が大日本帝国教が中国共産党がチベット密教が、誰が正しく、誰が間違っているかということではなくて、人間はみな未完成で、過ちを犯し、互いに傷つけ合うことを自覚して、懺悔して、謙虚になって、他の苦しみを理解して、他の過ちには寛大になって、慈悲をもって生きるべきだということが、菩薩の道ではないかなというふうに思うんです。菩薩は如来になるんだから偉いんだっていうことではなくて、菩薩は神ではなく人間であって、それを自覚をした謙虚さと懺悔。そしてそれに基づく他の過ちに対する寛大性や受容力から本当の如来の道が開ける。だからこそ、菩薩から如来になるんじゃないかという意味合いが未完の菩薩である弥勒ないしは、如来ではない観音菩薩の菩薩という言葉に秘められているんじゃないかと。そういうことも言えるんじゃないかと思います。
(以上、第5回観察処分期間更新決定取消請求訴訟における公安調査庁作成の証拠「乙E58号証」より)

   以上の通り、上祐代表は、オウムの過ちを念頭に置いたうえで、人間は傲慢さから過ちを犯す、それを反省する謙虚さと、謙虚さから生じる他者への許しと慈悲の実践の象徴として、観音菩薩を見るべきという話をしていたのです。

   また、ひかりの輪発足後の2009年にも、次のように述べていたことが、同じく公安調査庁作成の証拠の中に記されています。

   「観音菩薩は過去は正に我々と同じようにシヴァ信仰であって、シヴァそのものだったが、その後、仏の教義にあって改心して、観音菩薩となった」
「観音菩薩というのは昔はシヴァだったけど、それが変わってきたものだととらえる(中略)人は過ちを犯しながら変わっていく。その悪人から善人に変わっていくのだという考え方」
(以上、第5回観察処分期間更新決定取消請求訴訟における公安調査庁作成の証拠「乙F6号証」より)

   このように、観音菩薩のことを、悪人が改心して善人になる象徴として、つまり、大きな過ちを犯したオウム真理教にいたひかりの輪の人々が「改心」していく象徴として見ていくという話をしていたのですから、観音菩薩を麻原と見立てているというような公安調査庁の主張が全くの的外れであることは、いうまでもありません。

   なお、ひかりの輪では、釈迦牟尼や観音菩薩の仏画だけを掲げているわけでもありませんし、両者だけを特別視しているわけでもありません。多数の神仏を描いた絵や、大自然の光景の写真などを掲げており、その中に、釈迦牟尼や観音菩薩の仏画が含まれているというにすぎません。

   公安調査庁は、これら多数の仏画等の中から、あえて麻原等が論及したことがある釈迦牟尼や観音菩薩の仏画だけを取り上げて、麻原を投影した仏画などと決めつけて主張しているのですが、それは不合理な主張というほかないと考えます。

   現に、ひかりの輪では、これらを麻原と見立てるような指導を会員に行ったことはなく、会員もそれらを麻原だと見立てているという事実もなく、公安調査庁もそれを裏付けるような証拠は全く提出できていません。

   あくまで、公安調査庁が一方的に「麻原を投影した仏画」だと想像しているというにすぎないのです。


●3,ひかりの輪は、麻原が行った修行の本質的部分を維持していません。

   前記の通り、公安調査庁は、ひかりの輪が「年3回の『集中セミナー』などにおいて、『麻原が行った活動の基礎的ないし本質的部分を維持したカリキュラム』『麻原が重要なものと主張したヨーガ行法』を実践している」と主張しています。

   しかし、ひかりの輪は、麻原が行った修行の本質的部分などは維持していません。

   では、何をもって本質的部分などと公安調査庁は主張しているかというと、それは、ひかりの輪が危険性のない一般的な仏教・ヨーガを扱っていても、それはオウムもやっていたことだからというのです。

   具体的には、ひかりの輪が「四つの柱」という修行体系、すなわち、①「教学」、②「功徳」、③「行法・瞑想修行」、④「イニシエーション」を有しており、これがオウム真理教の教義と共通しているというのです。

   しかし、これらは、何らオウム真理教に特有のものではなく、日本の内外で一般的な仏教・ヨーガの徳目であったり、またはそもそもそれを公安調査庁が曲解しているものなのです。

   まず、①「教学」については、ひかりの輪の教本の内容に、麻原の説法と類似の内容が含まれているというのですが、それは、たとえば、苦しみを耐えて乗り越えようという、一般的な仏教で重要視される徳目の話にすぎません。

   また、ひかりの輪が「八正道」「四預流支」「四念処」「六波羅蜜」の考え方を説いている点も、オウムを継承していて同じであると指摘されていますが、これらも全て、オウム特有の教えでもなければ、危険な教えでもなく、仏教のごくごく一般的な教義にすぎません。

   麻原も、これらについて説法で触れていたことがあるから、ひかりの輪がそれらに触れれば、それはオウム真理教の教義を実践していることになるという「理論」なのです。

   次に、②「功徳」については、ひかりの輪ではオウム真理教と同じ「功徳」を目的とした出家制度を維持しているというのですが、ひかりの輪では出家制度を採用しておらず、単に経済的理由により生活互助を目的としたごく小規模な集団生活をしているのみであって、それを仮に出家と呼ぶか否かは別としても、「功徳」を目的になどしておらず、それを裏付ける証拠も提出されていないのです。

   そもそも、功徳という概念自体が、一般的な仏教に基づくものであって、オウム真理教特有の教えでもありません。

   次に、③「行法・瞑想修行」についても、公安調査庁が取り上げられているヨーガや瞑想、呼吸法などは、いずれも日本の内外の仏教・ヨーガの世界では一般的なものであって、オウム・麻原特有のものではありません。

   また、「麻原の説法内容の要約」であるひかりの輪の経文を、オウム真理教のマントラ同様に繰り返し唱えていると主張し、その具体例として、麻原も説いていた「感謝」や「愛」が、ひかりの輪の経文に含まれているというのです。

   しかし、感謝や愛の実践を行うことは、オウム真理教特有のものではないことはむろん、一般的な宗教に限らず、ごく当たり前の倫理・道徳として広く社会で勧められていることであって、これをもって麻原の説法と類似しているというのは不合理と思われます。

   最後に、④「イニシエーション」についてですが、ひかりの輪で行っているヒーリングや、神社仏閣・自然の中を訪れる聖地巡りが、オウム真理教において麻原のエネルギーを注入するイニシエーションに当たるものであるとされています。

   美しい鐘の音を聞いてリラックスしたり、一般の神社仏閣や自然の中を巡ったりすることで麻原のエネルギーを受けているということなど、あるはずもなく、これも、全くのこじつけといわざるをえない主張です。

   このように、ごく一般的な仏教・ヨーガの実践をしていても、それはオウム・麻原も行っていたことだからという理由だけで、オウムの基礎的・本質的部分を維持しているといわれているにすぎないのです。

   オウムの本質とは、あくまで、①麻原などの個人(グル=霊的指導者)に対する絶対的な帰依であり、②グルからの指示であれば殺人などの違法行為も容認するという危険な教義なのであって、これらの要素が、ひかりの輪において完全に除去されていることは、ひかりの輪で行ってきたオウムの反省・総括をご覧いただければ明らかです。


●4,ひかりの輪は、“麻原ゆかりの地”への聖地巡りなどは行っていません。

   前記の通り、公安調査庁は、ひかりの輪が「『聖地巡り』と称し“麻原ゆかりの地”と独自に位置付けた神社などを繰り返し訪問している」と主張しています。

   しかし、ひかりの輪は、特定の神社を“麻原ゆかりの地”と位置付けて訪問するようなことなどは全く行っていません。

   では、具体的にどこの神社を指して“麻原ゆかりの地”だとひかりの輪が位置付けているというのでしょうか?

   公安調査庁は、諏訪大社をはじめとする長野県内のいくつかの神社であると主張しています。 諏訪大社等の神社には、ミシャグチ神という、長野県等で古くから信仰されてきた精霊がお祀りされているので、ひかりの輪がミシャグチ神を麻原と見立てて参拝しているというのです。

   何を根拠にそのような主張をしているかというと、上祐代表がまだアレフにいた2002年、アレフ信者らを頑なな信仰から脱却させるために、麻原やアレフが信奉していたシヴァ神への信仰などにこだわらずとも、シヴァ神への信仰を含むあらゆる宗教に共通する神聖なものが存在しており、その一つがミシャグチ神であるという趣旨の話をしたことを指しているのです。

   そこから、「ミシャグチ神をシヴァ神と同一視しているが、オウム・アレフではシヴァ神=麻原だから、ミシャグチ神=麻原となる。よって、ミシャグチ神を通じて麻原を信奉しているに違いない」と、連想ゲームのような想像を公安調査庁は行い、ミシャグチ神を祀っている諏訪大社等のことを“麻原ゆかりの地”と勝手に名づけ(当然ひかりの輪では、そのような位置づけも名づけもしていません)、諏訪大社等を参拝したことを指して“麻原ゆかりの地”を繰り返し訪問していると、単なる想像に基づく主張をしているのです。

   ひかりの輪では、ミシャグチ神を麻原と位置付けるようなことは全く行っていません。 現に、上祐代表がミシャグチ神について次のように述べていることが、公安調査庁が作成した証拠の中に出てくるのです。

  「岩とか木のような所をつたって自然の中からこの人間の世界に下りてくる」   
  「大宗教とは関係なく、この日本の地層の中に、最も古い部分の中に万国共通の神聖な霊体としてのミシャグチというものがあった…(中略)…世界に広がる普遍的な神聖な何か」
  「春に豊作を祈願するためにミシャグチの精霊を、いろんなミシャグチの精霊が降りて来られる」
(以上、第5回観察処分期間更新決定取消請求訴訟における公安調査庁作成の証拠「乙G70-12号証」より)

   むしろ上祐代表は、ミシャグチ神の信仰については、オウム真理教に対する反省という文脈で語っていて、それも公安調査庁が作成した証拠の中に、きちんと記されているのです。それは以下のとおりです。

  「このミシャグチの諏訪の信仰形態は何か団体(※ひかりの輪のこと)の有り様とシンクロしているような」
「忍耐といいますか試練、人が悟る上ではどうしても悪業の清算が必要で」
「諏訪でそういった体験をしたと体験談を語りました宗形さん(※ひかりの輪の役員)もそうですし(中略)相当試練の中でそういった経験をされている部分があって、試練に対する忍耐、ないしは時期を待つ忍耐というのがどうも4つの柱としてあるようだと。そういった意味では聖地と時期を待つ、ないしは苦難に耐える忍耐というものが昔のオウム真理教の時には余り語られなかった部分かもしれません」

   上記の文中にある諏訪での宗形の体験については、以下の通り語られています。これも、公安調査庁作成の証拠の中に記されていることです。

「いろいろ『アレフ』との対立のゴタゴタですとか、『ひかりの輪』になってから、オウム真理教の総括などを行って自分自身が魔境で非常におかしかったということに気づいていくと、段々昔の自分が死んでいく過程で非常に苦しい思いをしたんですけれども、その時に苦しい思いをしながらも、そういうミシャグチとかの自然のそういう波動とかいったものに接していて、その二元的な自分というものと、あとミシャグチの波動は温かく広く本当に一瞬にして、自分がなくなってしまうような、そういった空間だったんですよ、そこが。」
(以上、第5回観察処分期間更新決定取消請求訴訟における公安調査庁作成の証拠「乙G70-12号証」より)

   以上のことから、ひかりの輪におけるミシャグチ神とは、オウムの反省・総括という苦しい試練を克服する象徴だったのであり、オウム真理教(=麻原)に欠落していた「忍耐」というものの象徴として語られていることがわかるのです。

   よって、公安調査庁自身が作成した証拠に記されている上記の上祐代表の発言は、ミシャグチ神を麻原と見立てているどころか、むしろオウムを反省・総括し、麻原を克服する道を歩んできたというひかりの輪の歩みを裏付けるものとなっているのです。

   このように、ひかりの輪では、そもそもミシャグチ神を麻原と見立てていないのですから、諏訪大社等を“麻原ゆかりの地”などと位置付けるはずもありません。

   現に、公安調査庁は、ひかりの輪が諏訪大社等を参拝した際にミシャグチ神を麻原と見立てるようにと指導したという証拠などは、全く提出できていません。

   ひかりの輪では、これまで日本全国の多数の神社・仏閣を訪れてきましたが、公安調査庁は、その中に諏訪大社等が含まれていることをあえて取り上げて、“麻原ゆかりの地”と勝手に名付けて主張しているにすぎないことが、おわかりいただけたと思います。


●5,「国会の公党も危険団体」という公安庁とは

   以上のような、ひかりの輪に対する公安調査庁の見解が、常識的には受けいられないものであることは明らかですが、このような同庁の姿勢は、ひかりの輪に対してだけではなく、市民団体をはじめとする多くの団体に対しても向けられてきました。

   たとえば、公安調査庁は、国会議員を多数輩出している公党である日本共産党ですら、暴力革命を起こす危険性がある団体だとして、いまだに破壊活動防止法を根拠に監視対象に置き、ホームページや年次報告書でそのように主張しています。

   これも、常識とは異なる見解といわざるをえず、現に、立憲民主党の元代表・枝野幸男氏も、日本共産党に暴力革命の可能性は全くないと思うと述べ、もし政権交代が実現した場合は、日本共産党を危険団体視する同庁見解を変更させる可能性について論及しました。

   このように、公安調査庁がホームページ等で公表している見解は、およそ事実や常識から乖離したものが多々見受けられます。ひかりの輪に対する見解も同様なのですが、その背景には、やはり、一連のオウム事件によって、いまだに苦しんでいる被害者の方々がいらっしゃることや、ひかりの輪のみならずアレフも含めた地域の住民の皆さんのご不安というものも考慮した上での「政治的判断」というものも存在しているのだと思います。

   ひかりの輪としましては、今後も、公安調査庁から主張される事実について、事実ではないことは事実でないこととして、冷静に反論していく予定ですが、同庁がこのように非常識な主張をせざるをえない背景事情、すなわち、市民の皆様が抱いているひかりの輪への不安や誤解を払拭していけますよう、今後とも努力してまいります。
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