「水の神」の歌詞とその意味合い 上祐史浩
ひかりの輪で、神々への供養などとして歌われている「水の神」の歌詞の意味合いをご説明します。それは、水を神仏の功徳を現わすものとしてとらえて、その徳性を現したものです。
1)一番の歌詞
水 流れる神
わきおこっては 流れゆく
清らかなものも けがれたものも
川の流れに すべてをつつみ
さまざまに 流れ 大きな海で 一つになる
●水の流動する性質
水は、固定的な形がなく、流動的で、天と地の万物の間を循環し、川や海などにおいて、他の水と合体して、全く一体となります。
この水の特徴は、誰にでもわかりやすいものだと思いますが、正確に観察・思考すると、水だけではなく、私たちの住む世界を構成するすべてのものが、そうであることが分かります。すべては、常に変化し続け、流動しており、世界の中を循環し、何者も他と独立して存在せず、すべては一体となっています。
こうした、すべてが一体であり、流動的な世界の中において、「私」と呼ばれる存在は、川の大きな流れの中に、一瞬の間だけ現れては消える泡のように、実体のないもの、ということもできます。
この教えは、仏陀の説いた「縁起の法」と呼ばれ、「すべてのものは相互に依存し合って存在しており、何もにも実体がない」という教えです。
2)2番の歌詞
水 はぐくむ神
降り注いでは 流れゆく
清らかなものも けがれたものも
すべてを包んで はぐくみ育て
いのちの母の 大きな海で 一つになる
●水の万物を育む性質
よく言われるように、水は万物を育み育てる性質があります。
人の体の大半は水です。そして、「恵みの雨」と言われるように、多くの生命体の成長に必要不可欠な物質です。また、すべての生命の源は、水の集まりである海であり、母親の胎内の胎児を包むのも羊水という水です。
この性質は、心理学的な解釈(ユング派)では、女性原理の性質であって、それは、すべてを包み、育てる性質であす。わかりやすく言えば、包容力・受容力・優しさということができる、と思います。
人間でいえば、我が子の長所も欠点もすべてを受容し、忍耐強く育み育てんとする母性愛ということができる、と思いますが、仏教的には、我が子だけではなく、すべての衆生を慈しむ、仏陀の慈悲と表現されます。
3)三番の歌詞
水 清める神
すべてのものを 洗いゆく
しずくとなって 大河となって
天と大地の すべてを巡り
すべてを清め 大きな海で ひとつになる
●水の万物を清める性質
水は汚れを浄化する性質があります。これは、日常の物理的な洗浄に限らず、宗教的・精神的な意味において、そうです。
神道では、禊ぎ・お清めに伝統的に水を使い、ご神水・聖水・霊水という概念があります。キリスト教の洗礼では、イエスがヨハネから水による洗礼を受けました。
仏教でも、釈迦は悟る前に川で沐浴しました。インド文化には、川で沐浴して心身を清める伝統があります。日本仏教にも水行があります。
また、観音菩薩の象徴である水晶を、すべてを浄化する水の象徴物とし、除災招福の御利益がある、と信じる考え方もあります。
さて、清める、浄化する、という性質は、心理学的にいえば、すべてを受容・包容する女性原理の性質に対して、浄・不浄を峻別し、汚れを浄化(捨断・除去)する、という男性原理の性質である、ということができます。
ここで、慈悲・愛の実践というものを考えると、対象の善業・長所も悪業・欠点もすべてを含めて受容しつつも、対象の条件に合わせて、適切な法を説いて、悪業・欠点を戒めていかねばならない ことが分かります。すなわち、愛には優しさと厳しさ、柔らかさと強さの双方が必要だと思います。
そして、心理学上は、この女性原理と男性原理の統合が、人間の人格の成熟・完成を意味する、と解釈できます。
なお、男性原理と女性原理の統合を最高の物とするという考えは、ヒンズー・ヨーガ・タントリズム・密教にも見られる考えです。密教では、男性原理を方便、女性原理を智慧とし、智慧と方便を一体として併せ持つことを解脱としています。
仏像における仏陀のイメージにおいても、観音菩薩・弥勒菩薩などに顕著に見られるように、男性的でも女性的でもなく、男女両性・中性的なイメージのものが多くあります。