瞑想法
ひかりの輪で行っている瞑想法のコーナーです。仏教的瞑想法、瞑想用の聖音・お香・音楽などをご紹介。

瞑想法の教本のご紹介

仏教の無我の思想・四念処(しねんじょ)

以下にご紹介のテキストは、「2019年~2020年 年末年始セミナー特別教本『最新科学が裏付ける 仏教・ヨーガの悟りの思想』」第1章として収録されているものです。

教本全体にご関心のある方はこちらをご参照ください。


1.無我の思想

無我は、仏教の開祖である釈迦牟尼の中心的な思想である。サンスクリット語では、アナートマンである。釈迦牟尼によれば、その基本的な意味は、私ではない、私のものではない、私の本質ではない、といったほどの意味になる。

なお、釈迦牟尼の死後、無我は、永久不変の本質がないという意味に解釈されるようにもなったという。この場合は、固定した実体がないという意味である空(サンスクリット語ではスンニャ)の思想とほぼ同じ意味ともいわれる。

釈迦牟尼は、無我の思想によって、人が普通は「自分・自分のものだ」と考えて執着する自分の心や体を含めた一切のものに関して、「真実は自分・自分のものではない」と瞑想して悟るように説いたといわれる。これは、自分へのとらわれ(仏教用語では我(が)執(しゅう))、自分のものへのとらわれ(仏教用語では我(が)所(しょの)執(しゅう))を捨てさる目的があるとされる。いわゆる自我執着の放棄である。


2.四念処

釈迦牟尼が最初に説いた教えは、四(し)諦(たい)八(はっ)正(しょう)道(どう)である。

その八正道の中で、正念という教えがある。これは、教え・法則を絶えず思うこと、記憶して忘れないことといった意味がある。

そして、正念の具体的な修行として代表的なものが、四念処である(四(し)念(ねん)処(じょ)観(かん)、四(し)念(ねん)住(じゅう)ともいう)。釈迦牟尼の初期仏教の時代から、悟りに至るための最も中心的かつ最重要な観想法である。

その内容は、以下の四つの観想法・瞑想法である。

1.身(しん)念処(ねんじょ):身(しん)不浄(ふじょう):身体は不浄であると観想する

2.受(じゅ)念処(ねんじょ):受苦(じゅく):感覚(感受作用)は苦であると観想する

3.心(しん)念処(ねんじょ):心(しん)無常(むじょう):心は無常であると観想する

4.法(ほう)念処(ねんじょ):法(ほう)無我(むが):いかなる物事も無我であると観想する

 

3.身体は不浄である

身体への執着は、自我執着の土台となる。人はたいてい、身体を自分と考え、その外側を他者・外界と考え、自己と他者を区別し、自己を偏愛する。これが自我執着の基本的な構造である。

よって、自我執着を薄め、自他の区別を超えた広大な意識を培うためには、身体に対する過剰な執着を和らげることが重要となる。

ただし、釈迦牟尼は、快楽主義とともに苦行主義を否定し、中道の教えを説いたとされ、断食などでいたずらに肉体的な消耗を追い求めることは、真の悟りにつながらないとして否定していることに留意すべきである。

よって、身体的な健康を保つことを否定しているのではない。むしろ仏教では、多くの生き物の中から、人間の体に生まれ、なおかつ仏法に巡り合い、仏道修行をなす機会を得ることは、極めて尊いこととされており、その意味で、健やかに生きることを否定するものではない。

しかしながら、人は、身体の本質を悟らず、身体に過剰に執着する傾向があることは否めない。現代社会においても、多大な時間・お金・エネルギーが、そのために注がれていることは明らかである。


4.身体の不浄性1:宿業

身体の不浄性について考えるならば、まずその本質として、身体を維持するためには、どうしてもなにかしら他の生き物を犠牲にする(殺める)必要があるという事実がある。

食事においては、肉魚を食べる肉食を避けて菜食をしても、植物自体が、小さな生き物の住処であるから、食べるために採集する際に、多くの生き物が死に、住処を奪われる。

また、農耕においては、田畑を耕すとき、防虫剤を散布し、収穫の時のいずれにも、大量の生き物が死ぬ。こうして、人は、自分の身体を維持して生きるために、他の生き物を殺すことを避けらない。

なるべく自分が手を下さないようにしたとしても、自分のために、他人が手を下すことになる。また、植物の中にも微生物は存在し、調理をしたり、食べて消化をしたりすれば、その者たちは死ぬことになる。これはどんなに努力しても、生きる限りは避けらない。避けるためには、死ななければならなくなる。よって、これは、避けられない宿命の業という意味で、宿業ともいわれることがある。

こうして、自分の身体は、他の生き物を犠牲にした結果であり、他から奪った体で作ったものであるという側面があることは間違いがない。その意味で、身体は、浄(きよ)いとはいえず、不浄といわざるをえない。

私たちは、普段こうした事実に目を向けない。そしてご飯を単純に「おいしい」と言って食べるばかりである。「いただきます」とは言うかもしれないが、それは、食事を作ってくれた人に対しての言葉にすぎない。昔であれば、お米を食べる時に、お米を作るお百姓さんの労苦を思い、「残さず食べるように」と親に言われることもあったようだが、それでも、自分の食べ物にするために、自分が犠牲にした生き物に向けられた言葉ではない。実際に、私達が「いただいている」のは、他の生き物の命であって、その体であることは間違いない。

繊細な心をもって、こうした事実に目を向けるならば、過食をして自分の健康も損なうことは避けやすくなるかもしれない。また、自分の命を支えてきた多くの生き物・自然万物に対し、感謝の気持ちが生まれやすくなるかもしれない。分業が進んだ現代社会では、お店で食べ物を買う時は、たいていの人が、「お金を払うのだから自分の物になるのは当然である」といった意識で、そうしている。お客様は神様であるということだ。

しかし、狩りをして、自分自身が目の前で生き物を殺めて、その日の生きる糧としていた時代の人間の中には、食べる前に、その死骸を天に捧げる習慣があった者たちもいるという。自分のために他の命を奪うのだから、天から授かったものとして感謝したのか、その生き物の冥福を祈ったのか。いずれにせよ、現代人が忘れている、自分の生の裏側には他者の死が存在するという重要な真実を、よく認識していたのだろう。


5.生と死はセット

こうして、自分の生と他の死はセットである。自分(の体)と他の生き物(の体)の間には、密接不可分の関係性がある。この真実を心に留めておくことは、自我執着を弱めて悟りを深めるために非常に重要である。自我執着とは、前に述べたように、自己と他者を区別して、自己を偏愛する意識である。こうして、自我執着の前提には、自と他の過剰な区別がある。「自我執着が強い」とは、「自他の区別が強い」とも言い換えることができる。

よって、このように瞑想することができる。自分の生は他の死とセットである。自分の身体は(少し前は)他の生き物の身体であったものである。その意味で、他の生き物は今、自分の体の中で生きているのである。(自分の)身体とは、自分だけのものではなく、多くの生き物と共有しているものである。

また、排泄・発汗・呼吸などによって、自分の体から出ていった物(いろいろな有機物や分子)は、自然の循環の中で、他の生き物の体の一部となる。そして、自分が死ねば、その体を構成する分子のほとんどは、自然の循環の中で、他の生き物の体になる(科学者によると、ある生き物の体(の有機物)の99%以上が、その死後に他の生き物の体としてリサイクルされるという)。

こうして、地球の生命圏・自然の循環の中で、私たち生き物は、他から生を奪っては生き、死んでは他に生を与え、他の生き物と生命の与え合い、分かち合いをしながら、生きている。自分の生と他の死はセットであり、自分の死と他の生も同じくセットである。全ての生き物が、自分の身体を構成する分子を、他の生き物と共有・交換し合って、いわば一体となって存在しているのである。

また、皆が生死を分かち合って、一体となって存在している以上は、自分だけが死なないことを望むことは、地球の生命の摂理に反することになる。地球は、多くの生命を生んできたが、それが可能であったのは、多くの生命が死んだからである。地球の資源は有限であり、多くの生命が日々生まれることができるのは、多くの生命が日々死んで、新しい生命のための体(となる分子)を提供するからだ。

例えば、今の人類(現生人類)は30万年程前に誕生したといわれる。それ以来、何人の人間が生まれたか。2011年に行われたある推計では、累計で1080億人であり、今生きている70億以上の人は、その6.5%となるという(「人類、累計で1080億人」2015/2/20付 日本経済新聞・朝刊)。

一方、ある試算では、地球の資源などから見て、地球が養える人類の人口は、現在の3倍くらいまでが精いっぱいだという。それ以上になれば、食料・資源・エネルギーその他の奪い合いで、生存競争の殺し合い=戦争が不可避となるのだろう。これは、20世紀に、ローマクラブという組織が主張した、人類の成長の限界による破局として有名な話である。

こうして、これまでに多くの生き物が死んだからこそ、今私達を含めた多くの生き物が生きることができているのである。


6.縁起と無常の教え

よく人は、「なぜ生まれてきたのに死ななければならないのか」と言う。そして死を恐れる。しかし、これまで見てきたことを考えれば、実際には、死ぬからこそ、生まれることができることがわかる。なんということだろうか。

仮に、死ぬことがない生き物・種が誕生していたら、どのような運命をたどったかを科学的に考えてみよう。その生き物は爆発的に増加する。すると、まもなく自分のための食糧がなくなってしまい、場合によっては共食いに陥るなどして急激に減少する。また、他の生き物には、極めて有害な存在になり、抹殺(駆除)の対象になる可能性が高い。稀にではなく、絶えず異常発生する昆虫のようなものだ。

そして、環境に適した生き物が生き残り、そうでなければ淘汰されると説くダーウィンの進化論によれば、死なない生き物・種は、子供を産まないとか、極めて繁殖力が弱くて極めて静かに生きるのでなければ、仮に生まれても、存在し続けることは難しい。神様が、生き物は必ず死ぬように創造したのか、死なない生き物は地球環境に適合しないので誕生しなかったのかはわからないが。

そして、これは、仏教が説く基本的な世界観・哲学と一致している。それは、縁起・無常・空といった思想である。まず、この世界の万物は相互に依存しあって存在している(縁起の法)。そのため、何かが変われば、それとつながっている他も変わることになり、その結果として、万物は移り変わることになる(無常の法)。

生き物も相互に依存しあって存在している。親が自分の子供を産んで育てるには、他の生き物を殺すことになるが、これも、自分が変わると(=子供を産んで育てると)、自分とつながった他者が変わる(他の生き物が殺される)という法則の一環である。

そして、自分たちが、他者に依存してつながって生きている以上、他者を変えれば(他者を殺せば)、巡り巡って、自分たちも変わること(自分たちが死ぬこと)は避けられない。こうして、万物が相互依存であって無常であるというのが、仏教の基本的な世界観・哲学である。

これに加えて、仏教を生んだインド思想では、他の生き物を殺して生きる宿業を持った人間という生き物は、その業によって、自分も死ななければならない宿命があるということになる。他になしたことが自分に返ってくるという、因果応報の思想である。


7.循環の思想と表裏一体の思想

自分が生まれることと死ぬことはセットなのであると述べたが、これに加えて、先ほどは、自分の生と他の死、自分の死と他の生はセットであると述べた。これらをまとめれば、自分と他者の生と死がセットになっており、循環していることがわかる。

これも、仏教の基本的な哲学である。自と他、生と死、苦と楽という2者は、一見して対極的で別々のものに見えるが、実際には、表裏一体であり、循環しているのである。

これが、ひかりの輪が説く、輪の思想の一部でもある。輪という言葉が、循環の意味を含む。また、仏教を生んだインド思想では、死ぬと新たな生を受けるという輪廻・生まれ変わりの思想を説くので、この意味でも、生と死が循環しているということになる。


8.不浄・無常から無我へ

こうして、身体は不浄であり、無常であることを考えると、次に出てくるのが無我の思想である。人の体は、他の生き物を殺生して自分に取り込んだ結果であると見れば、体は自分の物とばかりいうことができるだろうか。それは、自分の物でもあるが、他の物でもあるのではないか。他の生き物が、自分の中で生きているともいえるのではないか。

また、今は自分の体といっても、その一部は毎日、排泄・呼吸・発汗などで、自分の体の外に出て、他の生き物・外界の一部になっている。生物学者は、人間の体を構成する分子は、数年で全て他者・外界のものと入れ替わってしまうことを発見している。自分だけの体を構成する有機物・分子など一つもないのだ。地球上の生き物は、何十億年も昔から、同じ有機物・分子を共有・交換して生きてきた。体(構成する有機物・分子)を、服にたとえれば、皆で同じ服を使いまわしてきたということもできる。

そして、しばらくすると、自分は老いて死んで、その体を構成した有機物・分子のほとんどは、遺骨になる部分は別として、自然に還って、他の生き物の体の一部となり、無数の生き物を延々と巡ることになる。その意味で、自分の体は、自分の物ではなく、自然からの預かりもの・借り物にすぎないのではないか。人生という旅の宿で借りる浴衣(ゆかた)のように。


9.身体の不浄性2

ここまでは、身体の不浄性に関して、身体は他の生き物の犠牲を伴う宿業の要素を持つという視点から考えてきた。ここからは、それとは別の側面の不浄性を検討する。

まず、第一に、ごく世俗的な意味で、人の身体は、老いれば醜くなるという意味で、不浄である。美しい人もそうでない人も、老いれば皆が醜くなり、大差はない。死んだら皆、放置すれば腐り、感染症の発生源にもなりかねない(だから火葬する)。こうして、身体の不浄性の瞑想の一つは、身体が老いて死ぬという身体の無常性とつながっている。

また、身体の中身を見れば、五臓六腑はグロテスクに見え、不浄である。これは、どんなに(表面的には)美しい人の内臓も例外ではない。

また、その機能は、食べ物を取り込んで、有害物質を含む糞尿を排出する。その意味でも不浄ということができるだろう。ナイーブな男の子が、初恋の女の子が女神のように見えるがあまり、同じように排泄をすることが信じられない(信じたくない)という話を聞いたことがあるが、これにも例外はない。


10.美醜に対する過剰なとらわれを和らげる

こうして、身体の老化、内部、排泄機能に関する不浄の瞑想を行なうならば、人の一時的な表面的な容姿の美醜に、過剰にとらわれる傾向を和らげ、より平等に見る心を培うことができるだろう。

身体に限らず、無常の瞑想は、様々な物事に関する過剰な好き嫌い・とらわれを和らげて、万人・万物を平等に見る心(平等心)を培う手助けとなる。例えば、いくら財物にこだわっても、富豪も庶民も、老いや死は避けられず、死んだら皆、骨になり、財物は他人のものになる。


11.感覚(感受作用)は苦である

次に、四念処の二つ目の瞑想である「受念処:感覚は苦である」について述べる。まず、受とは何か。

受はサンスクリット語で、ヴェダナー(vedanā)。人間の感受作用を意味する仏教用語である。感覚と訳されることもあるが、感覚器官自体ではなく、美しい・醜い、美味しい・不味いといった、(感覚器官で)接触して感じる印象・感覚のことである。

ただし、受は、五感に加え、苦しいとか楽しいといった、意識が感じることも含む。そのため、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚に、意識を含めた六つの要素を含むものである(いわゆる、六識・六根・六境などといわれる)。

それでは、なぜ受は苦しみとなるか。当然のことであるが、感受作用(感覚)には、不快なものもあれば、心地よいものもある。よって、感受作用とは苦しみであるという法則は、全ての感受作用が苦痛であると主張しているのではない。仏典にも、受(感受作用)には、①楽受:楽しいとする感情を生じる受、②苦受:苦しいとする感情を生じる受、③非苦非楽受:楽でもなく苦とも感じない類の受があるとされている。

しかし、不快な感覚に限らず、心地よい感覚を得た場合にも、その先に落とし穴があることが重要である。例えば、心地よい感覚を得た場合、人は、その対象に執着しがちである。一度得ただけでは足らず、何度も「欲しい」と思う。さらに同じものでは飽きが来て、「もっと欲しい」と思う。

こうして際限のない欲求に巻き込まれる。そして、求めても得られない苦しみを経験したり、得て執着したものを失う不安や失う苦しみを経験したり、同じものを奪い合って他者と憎み合う苦しみを経験する。こうして、今感じている楽の裏側には、将来の苦しみの原因が潜んでいるのである。

まとめるならば、感受作用の中で、①不快なものは最初から苦しみであるが、②心地よいものも、それにとらわれれば苦しみに変わる。こうした意味で、受は苦しみというのである。よって、この教えは、快をもたらすものにとらわれすぎることを戒めているとも解釈できる。そして、このために、釈迦牟尼は、執着しないこと、とらわれないこと、際限なく求めず、足るを知り、他と分かち合うことを説いたのである。


12.受(感受作用)は私たちを欺く

さて、人の感受作用に関してよく考えてみよう。仏典においては、五感は私たちを欺くとも説かれている。これはどういう意味だろうか。

仮に、私たちが、五感で心地よく感じるものを際限なく追い求める結果として、本当に幸福になるならばよいだろう。しかし、五感で心地よく感じる物事の中で、一時的には喜びであっても、それにとらわれるならば、長期的には苦しみをもたらすものが多い。だとすれば、五感とは、一時的な目先の快楽によって私たちを騙して、結果としては苦しみに導くものだともいえるのではないだろうか。

例えば、おいしいものは、舌先には快感だが、食べ過ぎるならば、何であっても体に悪い。また、商業主義の現代社会では、味覚には心地よく刺激的だが、体には悪い食べ物に溢れている。ようするに、味覚は、その食べ物が、私たちの心身の健康に良いものか否かを正確には教えてくれない。そこに商業主義の食品産業などがつけこんで、人々の健康を害しながら、お金を儲ける隙が生まれている。

その前に、最新の人間科学・認知科学が明らかにした、より重要な事実がある。私たちの感覚は、美しい・おいしいなどを感じるが、なぜそう感じるのかを考えてみたことはあるだろうか。

普通の人は「美しいものは美しいし、おいしいものはおいしいし、それに理由はない、それがその本質だからそう感じるのだ」というだろう。しかし、科学が明らかにしつつある事実は、感覚的な快不快は、私たちの意識がアクセスできない無意識の脳活動が判断・処理した結果であり、その判断にはその過程と理由があるが、私達の意識はそれを知ることができないというものである。

例えば、私達の視覚が、ある女性を美人だと感じても、その人の人格が良いかどうかはまた別の問題であることは、大体わかるだろう。そして、心理学者の見解では、なぜ男性の目が、グラマーな女性を魅力的だと感じるかというと、私たちの意識が知らない所で、無意識の脳の知覚機能が「グラマーな女性=女性ホルモンが多い=子供をたくさん産むことができる=求めるべき良い女性である」という判断を行って、それが意識に上っていた結果であることが推察されているという。

これは、30万年の長い進化の歴史の中で、男性の脳の機能に、無意識のうちに種の生存に最適な女性を魅力的だと思うプログラムが確立しているということである。確かに、進化論に基づいて考えれば、人間の脳を含めた機能は、人間が生き残り、子孫を残すために進化して作られてきた。

しかし、私たちの意識は、自分が魅力的に感じる女性に関して、なぜ魅力的なのか、なぜ良いと思うのか、という理由は教えられることがない。それは、私たちの意識がアクセスできない無意識の脳活動が担当しており、私たちの意識が知ることができるのは、その活動の結果として、その女性が魅力的か否かという結論=アウトプットだけである。

よって、ある男性が、「子供は欲しくない」と思っていても、彼の脳は、子供を産むために良い女性を自動的に魅力的に感じてしまい、彼の心と体を動かすということが起こる。仮に、男性が、出産能力ではなくて、人格やその他の要素を重視していたとしても、彼の視覚機能はそれを無視して、必ずしも彼が望んではいないタイプの女性が彼にとって良い女性だと宣伝する。しかも、彼にその推薦の理由は教えないのである。

また、同じく最近の認知科学・心理学の知見では、私たちの感覚・知覚は、今日の情報化社会の影響を深く受けている。自分で自覚している五感からの情報・刺激だけでなく、意識では自覚せずに吸収している情報(例えばサブリミナル)が、私たちの無意識の脳活動には深く影響を与えている。メディアなど情報は、私達を画一化し、受動的にし、一定の行動・傾向に誘導する。こうして環境と深く連動した私たちの(無意識の)脳の活動が欲求するものは、私たちを、必ずしも本当の幸福には導かないものとなっていることが懸念されている。

 

13.感受作用は無我

こうして、私たちの感受作用は、環境と結びつきながら無意識の脳活動によって形成されている。私たちは、その無意識の脳活動にアクセスできず、自分の好き嫌い・意志・欲求がどのような理由でどのような過程で形成されたのかを一切知ることがなく、その判断結果のアウトプットだけを経験する。

ここで問題なのは、私たちの意識が、それを何の疑いもなく、私たち自身の感覚・感情・印象だと思い込むことである。無意識の脳活動だから、意識できないし、正体を見せずに自分のすぐそばから、好き嫌いなどの結果だけを伝えてくるから、自分だと思い込んでしまうのかもしれない。

しかし、心理学・認知科学の知見をもってすれば、私たちの中には、無意識というもう一人の私、ないしもう一人の他人がいるといってもよい状態があるのである。そして、2500年前の偉大な心理学者であった仏陀の教えでは、後に述べるように、感覚を含めた一切は、本当の意味で自分・自分の物ではないと説かれる。

厳密に言えば、私たちの脳の中には、無意識(潜在意識・深層意識)と意識(顕在意識・表層意識)というだけではなく、無数のニューロン細胞が形成する多数の情動・考えがあると考えられている。

そして、それが緩やかに一つに連合し、一つの統一された人格として振舞うようになっている。これが連合できなくなると、多重人格障害や統合失調症ということになるが、多様な情動・思考が存在しているという点では、健常者も精神疾患の人も違いはなく、それをある程度統合することができるのが健常者というにすぎない。

こうして、仏陀は、受(感受作用)は、私たちを本当の幸福に導かない側面があるから苦しみであるとともに、厳密には私たち自身ではないから、無我であると説いたのである。


14.心は無常である

三つ目の瞑想は、心は無常である、というものである。まず、仏教用語における心とは何か。

サンスクリット語では、チッタ(citta)である。抽象的な概念であるから、学派・宗派によってその内容は諸説分かれているが、当然ではあるが物質や身体とは区別される。

現代の心理学でも、知覚・思考・感情・意志・欲求・記憶・イメージ等の総称として用いられるが、現代心理学と同様に、仏教においても、意識下の心=無意識・潜在意識・深層心理が説かれる場合もある(唯識思想など)。

さて、心が無常である、という瞑想に関してであるが、心の働きの中で、思考や感情を見てみても、絶えず変化していることがわかる。よって、仏教の瞑想の中で、生じては滅する思考や感情に巻き込まれずに、客観的に冷静に見つめる瞑想がある(念・マインドフルネス)。思考や感情は、空にやってきては去っていく、雲のようなものである。

そして、特に私たちの様々な欲求(煩悩)に関して考察してみると、心が絶えず移り変わる構造を理解することができる。先ほども述べたが、例えば、何かにとらわれると、それを得た場合は喜びがあるが、その喜びはずっと続くことはなく、何度も「欲しい」と思う。また、同じもの・同じ状態では最初はよくても、すぐに飽きが来て、「もっと(刺激的なものが)欲しい」と思う。こうして、欲求には際限がないという構造がある。

しかし、そうして際限なく求めているうちに、「求めても得られないのではないか」という不安や、「得られなかった」という苦しみを経験する。そして、「かつて得て執着したものさえも失う」という不安や、実際に失う苦しみを経験する。さらに、際限なく求めれば、他者と奪い合って憎み合う苦しみをも経験する。

こうして、煩悩的な欲求に関していえば、今はそれを満たして喜びを感じていても、その幸福感はずっと続くことはなく、その裏側・その先には、様々な苦しみが生じてくるような構造になっている。そして、煩悩が強くなればなるほど、逆に心は不安定となり、言い換えれば、無常に移り変わることになる。さらには、老い病み死ぬ中で、人生の終盤の方が、一般的に言って、苦しみの方が多くなる。老化し、心身の機能が衰え、同世代の親族・友人知人を失い、自殺者も鬱病も高齢者の方が多い。

 

15.心は無我である

心は無常であると瞑想することは、自分の意識が心を客観視する効果をもたらし、結果として、心は本当の自分ではない(心は無我)という悟りをもたらす。

仏教の由来のマインドフルネス瞑想は、こうした自分の思考や感情を客観視する瞑想によって、鬱病を治す効果があることがわかっている。

その効果は、自分と思考と感情を脱同一化するものだとされている。抑鬱感情で苦しんでいる心から一歩距離を置いた冷静な意識・視点を培うことで、意識が心の苦しみに巻き込まれないようにするのである。

考えてみれば、私たちは、時々「自分の心を見つめる」と言うことがある。この場合、自分とは、心を見つめている主体であり、心は、自分に見つめられている客体であって、自分ではない。

また、思考や感情がなくなったとしても、すなわち、座禅で言うところの無念無想の状態になっても、意識がなくなるとは限らない。

こうして、私達の認識の主体の中の主体である意識は、思考や感情といった心とは別の物であり、心を認識しているものだと考えることもできる。

この考え方を裏付ける知見が最新の認知科学・認知心理学にはある。それによると、(ほとんどないし全ての)思考や感情は、私たちの意識が制御しているのではなく、無意識の脳活動が司っている。ところが、私たちの意識は、無意識の脳活動から私たちの意識に思考や感情が現れる(立ち上ってくる)と、それを「自分のものだ」と錯覚してしまうのである(ある意味で手柄を自分のものにするのである)。

心理学者の中には、私たちの意識がしていることは、無意識の脳活動が形成したものを後から経験しているだけであるから、意識は「傍観者」であると主張する人もいる。少なくとも、私たちの「意識」は、私たちの中心に存在し、私の心や体を主導しているのではなく、私たちのごく周辺・ごく端(はし)に存在し、その一部を見ているにすぎないという。にもかかわらず、意識は、思考や感情を含めた心を自分・自分の物だと錯覚してしまうのである。


16.あらゆる事物は無我である

四念処の四番目・最後の瞑想は、法無我である。これは、いかなる事物も無我である、という意味になる。

まず、仏教用語の法は、サンスクリット語ではダルマ(dharma)である。これは多義語で、一つ目の意味が、法則・真理、教法・説法などであり、二つ目の意味が、事物、存在などである。ここでは、この後者の意味で使われている。事物は、あらゆる存在、あらゆる思考の対象となる事物のことを指すといわれている。

また、無我は、自分ではない、自分の物ではない、自分の本質ではないといった意味である。ただし、釈迦牟尼の死後は、永久不変の実体がないという意味にも用いられ、空(固定した実体がない)と類似した概念にもなった。

諸法無我ともいわれ、あらゆる事物は無我であるという思想は、仏教の根幹の思想・世界観である。これによって、自我に対する一切の執着を滅して、煩悩を止滅し、悟りの境地(涅槃・ニルヴァーナ)を目指す。


17.ひかりの輪の四念処の瞑想法

ひかりの輪では、漢訳語である四念処の瞑想法を以下の通り、わかりやすい現代の日本語で簡潔に表して、それを繰り返し唱える瞑想を行っている。ただし、これを繰り返し唱える前に、これまでに述べてきた四念処の意味合いをよく学び、自分で考えて吟味し、その意味合い・目的を含めて、十分に納得した上で行うことが重要である。

また、唱えている間も、その意味をよく考えながら、ないしは、それが目指す精神的な境地をイメージしながら、行うことが重要である。

「身体不浄、感覚は苦、心は無常、一切無我」

 

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