瞑想法
ひかりの輪で行っている瞑想法のコーナーです。仏教的瞑想法、瞑想用の聖音・お香・音楽などをご紹介。

瞑想法の教本のご紹介

マインドフルネスと仏教の念の瞑想

以下にご紹介のテキストは、「2017年GWセミナー特別教本『苦しみを滅する仏陀の思想と瞑想 四諦・八正道・四法印 マインドフルネス(念)』」第4章として収録されているものです。

教本全体にご関心のある方はこちらをご参照ください。


1.マインドフルネス瞑想とは

今はやりのマインドフルネス瞑想は、宗教的な目的はなく、ストレス解消・能力の向上・心身の健康に役に立つとされている。マインドフルネスが、仏教の「念」(パーリ語でサティ)の英語訳であり、念の瞑想に由来することは、よく知られている。そもそも、創始者的な存在である米国の学者が、日本の禅に感銘を受けたことが、その始まりになったものである。

マインドフルネス瞑想は、米国を中心に、体の痛みを和らげるため(マインドフルネスストレス低減法)や、鬱病などに対する心理療法(マインドフルネス認知療法)として開発された。その後、病気の人に限らず、一般の人のためのストレス解消・能力向上・健康法に役立つ瞑想法としても広まった。

そこで、自分の仏教・ヨーガの瞑想体験から、現在のマインドフルネス瞑想の主張・流れに対して、共感・同意できることや、誤解されやすいと思うこと、そして、その限界・仏教の瞑想との違いを感じることについて書きたいと思う。

まずは、基本的なことから。すなわち、「マインドフルネス」とは何か。日本人には、これが日本語ではないことが、その理解の上で最初のポイントになると思う。英語圏の人にも、普通の英語の意味でのmindfulness(マインドフルネス)とは、異なった特別な意味がある。

それは、「今この瞬間の(何らかの)現象に対して、その是非・良し悪しを判断せずに、(意図して・意識して)注意を向けること(気づいていること)」というものである。これは、マインドフルネスの始祖ともいうべき米国の学者の定義である。

そして、具体的に、どのようにこのマインドフルネスの瞑想を進めるかは、いろいろな考え方・やり方があるだろうが、だいたい呼吸・身体・歩行の動作などに対して、マインドフルネス状態で注意を向けて観察することが多い。仏典でも、そうした対象に、念を行うことが説かれている。そして、最終的には、思考や感情といった内的・精神的な要素にも行なっていく。


2.なぜ今この瞬間の対象に意識を向けるのか

まず、一つ目のポイントである。なぜ今この瞬間の対象に意識を向けるのか。これには、いろいろな説明が可能である。わかりやすい点から説明すれば、例えば、まず、人の意識は、過去や未来に流され、今この瞬間に向けられることはあまり多くないことがある。人によっては、90パーセントは未来や過去に意識を向けていると主張している。

誰しも、未来には不安がある。「悪いことが起こるのでは」との思いを抱いている。現在の状態に何かしら不満があり、未来が良くなる希望を抱くものだが、「そうならないのでは」との思いも生じる。

そして、今に不満があるならば、過去に関しては後悔や他への怒り・恨みもある。「自分は、こうしていればよかった」とか、他人に関しては「ひどいことをされた」、「こうしてくれなかった」などという思いがある。

こう考えると、今この瞬間に意識を向ける意味がわかってくるだろう。今現在に、意識を向けている間は、未来や過去に関する過剰な思考や感情が、自ずと抑制される。それによるエネルギーの消耗を避け、結果として、雑念も減ることになるのである。


3.なぜ是非の判断をしないのか

次に、二つ目のポイントである。なぜ是非の判断をしないのか。これには、日常のストレス・苦しみを解消するという、心理学的な根拠があるのである。

それは、マインドフルネス瞑想の源となっている「マインドフルネス認知療法」に関係している。そして、このマインドフルネス認知療法は、「認知行動療法」の一つである。

是非の判断をしない理由は、この療法の理論に関係している。その点について以下に説明する。


4.人は、対象に対する見方と感情を条件反射化している

この認知行動療法の理論は、鬱病や過度なストレスを緩和するものである。そして、抑鬱(よくうつ)・不安といった負の感情は、その人の環境や生活条件に問題があるだけでなく、その人自身の不合理な物の見方(=認知)が原因となっている場合があると考える理論である。

具体的には、ある対象に対して、特定の不合理な見方と、それによる特定の負の感情が、習慣となっていて、条件反射のように自動化している場合である。本来は、その対象に対して、別の合理的な見方があって、その見方をすれば、負の感情は生じないのに、特定の不合理な見方が習慣となっているために、その対象を見ると、常に負の感情が条件反射的に生じるということである。

よって、認知行動療法の主旨は、この不合理な見方と、それが作り出す条件反射的な負の感情の存在に、本人が気づいて、それを修正することである。そして、物の見方と感情との間に強い因果関係があることは、認知行動療法の基本であるが、仏教の思想(仏教の心理学)こそが、まさにこの視点に基づいている。

そこで、最初に戻って、マインドフルネス瞑想で、対象に対する是非の判断をしない理由を説明すると、これは、この条件反射的に習慣化・自動化された物の見方と感情の連鎖を、いったん棚上げすることに繋がるということが理解できると思う。


5.自分の思考と感情に距離を置くことが重要

普通、我々は、自分の思考と感情を、自分自身だと思っている。しかし、是非の判断をせずに、自分の思考や感情に注意を向けていると、思考や感情に距離を置いて、それを客観的に観察している「もう一人の自分」「超自分」の意識・視点を培うことに繋がる。

これは、心理学では、メタ認知などということがある。そして、これができてくると、ストレスや鬱症状が和らぐという研究結果があるという。

それはなぜだろうか。これにもいろいろな説明・解釈が可能だと思うが、いくつかのわかりやすい説明をするならば、以下のようになる。

まず、自分の思考や感情が否定的であっても、それと距離を置くことができれば、その影響を和らげることができる。さらに、自分の思考や感情に没入していると、その奴隷になって、その思考の間違い・不合理に気づくことはできないが、自分の思考や感情を、冷静に客観的に見ることができるようになれば、修正をしやすくなる。

こうして、是非の判断をしないことで、自分に存在している可能性がある条件反射的な不合理な見方を棚上げし、さらには、自分の思考・感情を冷静に客観的に見ることができる状態を作り出すことになる。その結果、物事を、以前よりも適切に見ることができるようになるということである。


6.仏教の無我やヨーガの真我の思想

なお、ここで、自分が、自分の思考や感情と距離を置くとは、言い換えれば、思考や感情は自分の本質ではないという感覚を得るということとも表現できる。実際に瞑想をしていると、生じては消えていく様々な思考や感情に対して、一歩離れた所から、自分が冷静に見ている状態になることができるようになる。

これは、仏教の教えそのものである。釈迦牟尼が説いた「心は無我である」という教えである。さらに、思考や感情を客観的に見ている超自分・メタ認知という概念は、ヨーガの思想が説く、「真我」の概念によく似ている。真我とは、自己の本質・本当の自分といった意味である。


7.仏教は、すべての苦しみが間違った見方によると説く

繰り返しになるが、仏教こそが、間違った見方(=無智)が、間違った感情を生じさせていると説く思想である。厳密には、間違った見方である無智が、様々な煩悩という有害な感情を生じさせ、それが人の苦しみの原因となっていると説く。

これは、認知行動療法における認知と感情との間の因果関係と、基本的に同じ思想である。ただし、仏教の方が、その範囲が圧倒的に広い。というのは、仏教は、すべての苦しみが、煩悩によって生じ、その煩悩の根源が、間違った見方(無智)であると説くからである。

だから、仏教の思想を認知行動療法の表現で表せば、精神病の人だけでなく、健常者の場合も、その苦しみは、間違った見方によって生じる様々な煩悩という負の感情が原因であり、その意味で、すべての人は、広い意味で心の病を抱えた存在であるということができる。それを解消する仏道修行は、いわば、「スーパー認知行動療法」であると表現できるかもしれない。


8.仏教における念(マインドフルネス)とは

さて、マインドフルネスは、前に説明したように、仏教の念(パーリ語でサティ〈sati〉)の英訳ともされているが、厳密にいうと、今流行りのマインドフルネスは、仏教の念(サティ)の一部であって、本来のマインドフルネスの一部にすぎない。

本来の念(サティ)とは、「心にとどめておく」、「いつも心に思うこと」、「記憶して忘れないこと」といった意味がある(『岩波仏教辞典』第二版)。今流行のマインドフルネス瞑想の定義である「この瞬間の対象に対して、是非の判断をせずに注意を向ける」とは、だいぶ異なっている。これは、それが本来のマインドフルネス(念・サティ)の瞑想の仕方の一部であって、全体ではないからである。

そもそも、仏教の「念」とは、釈迦牟尼の初めての説法(初転法輪)で説かれた八正道の中の「正念」にさかのぼる。この正念とは、絶えず教え・法則を思念するといったほどの意味であり、特に、仏教の最も重要な瞑想法とされる四念処を(絶えず)修することと解釈される場合が多い。


9.仏教の念(マインドフルネス)の瞑想の全体像

それでは、初期仏教、大乗仏教、密教全体を見渡して、本来のマインドフルネス=念とは、どういった種類・段階のものがあるのだろうか。

これを解説することは、至難の業である。それをあえて、私の研究や体験の範疇で表現するならば、次のようになる。なお、繰り返しになるが、ここでのマインドフルネスは、心理学者による定義ではなく、仏教の念(サティ)全体のことだと解釈されたい。


10.第一のマインドフルネス:是非の判断をしないマインドフルネス
=是非の判断をせず注意を向ける(今流行りのマインドフルネス)


これには、大別すると以下の2種類がある。①より②の方が難しいので、今流行りのマインドフルネス瞑想も、だいたいこの順に練習すると思う。

① 呼吸・身体・動作などの外的・物理的な対象へのマインドフルネス
② 思考・感情など内的・精神的な対象へのマインドフルネス

①のタイプの瞑想に関して多少述べておきたい。初期仏教の代表的な呼吸に集中する瞑想・念=マインドフルネスは、アーナパーナ・サティ(ānāpāna-sati)と呼ばれる。これは、出息・入息への念という意味であるが、文字通り、出入息に注意を向ける。

これは、禅仏教などで行われる数(す)息(そく)観(かん)と共通点がある。数息観は、数を数えながら息を出し入れする瞑想であるが、似た目的・効果と考えられる。


11.ヨーガの呼吸法の特殊な目的

なお、ヨーガの呼吸法(プラーナーヤーマ)となると、少し意味合いが異なってくる。ヨーガの呼吸法は、「調息法」と「調気法」の二つの意味がある。

まず、前者は、古典ヨーガにおける呼吸法の意味合いであり、これは精神集中の訓練という意味合いが強いので、第一のマインドフルネスの目的に近いだろう。

しかし、後者は、新しいヨーガであるハタヨーガにおける意味合いであり、気(=プラーナ)の強化や、その流れを整える意味がある。

この場合、プラーナの取り込みのために、保息=クンバカの実践や、気の流れを整えるために、場合によっては、短く強く出入息をしたり、片鼻ずつ出入息したりする、といったこともある(具体的には、カパーラバーティ調気法、スクハプールヴァカ調気法など)。


12.第二のマインドフルネス:適切な判断をするマインドフルネス
=間違った物の見方による負の感情を修正する

1の段階で、自分の思考や感情に対して、距離を置いた客観的な意識を培ったならば、この2番目の段階では、自分の思考や感情の中にある、苦しみをもたらす間違った思考に気づいて、それを修正するのである。

これは、明らかに是非の判断をする瞑想であり、思考・思索を伴う。言い換えれば、是非の判断をしないで注意を向ける1の段階は、適切に是非の判断をするための準備段階となっている。そのため、是非の判断をしない、考えないのが、マインドフルネスだと思い込み、是非の判断を否定しすぎるならば、本来のマインドフルネス=仏教の念(サティ)の意味・趣旨と矛盾してしまうかもしれない。

さて、このタイプのマインドフルネス(念・サティ)は、かなり乱暴な分類だが、二つに分けられると思う(あえて分けたようなものだから、参考程度に受け止めてほしい)。

① 社会生活に有害な考え方を修正するマインドフルネス

これが、心理療法においては、「マインドフルネス認知療法」と呼ばれるものである。鬱・不安症などは、極端に否定的な不合理な物の見方(認知)、思考に基づいていると考え、それに気づいて、認知を修正する訓練である。以前説明した通りである。

② 煩悩・自我執着とその根源である無智を弱める仏教的なマインドフルネス

これは、自我などに対する執着を否定して弱めたり、その反対の利他心を修習して強めたりする瞑想などである。先ほど述べた、マインドフルネスの由来となった仏教の八正道の修行における「正念」の実践である。

具体的には、「四念処(四法印)」や「四無量心」などと呼ばれる瞑想である。この結果として、無智が取り除かれると、仏教の用語でいえば、智慧・正智・正見が生じ、悟り・解脱に至ることになる。


13.正念は戒律の実践とセットである

さて、上記の②の瞑想は、単に座った時にだけ瞑想するということではない。正念が常に教えを思念することという意味であるように、理想としては、一日中、可能な限り瞑想するということである。

だからこそ、この正念の教えと連動して、八正道では、日常全体の心の持ち方・言動を制御する戒律の実践も説いている。言い変えれば、「日常生活全体が瞑想である」と表現できるだろう。

普通は、日常の中で、間違った見方のために、煩悩が生じ、悪い言動を繰り返す悪習慣がある。よって、絶えず正しい見方を忘れないようにして、悪い心・言動の悪習慣を抑制し、良い習慣の訓練をするということである。

私が出会ったスリランカのある高僧は、「All life is meditation」(人生全体が瞑想である)と語っていたが、仏教本来のマインドフルネス(念)は、日常全体、人生全体で行うものである。


14.学習・教学の重要性

さらに、①の心理療法の場合でも、②の仏道修行の場合でも、その準備として、典型的な正しい考え方と間違った考え方に関する学習をなすことを通常行う。

学習とは、言い換えれば、多くの他の人の経験からの教訓が集約されたものであり、それを基本公式として、自分の問題の理解と解決に役立てるのである。学習をせずにできる天才的な人物もいるかもしれないが、通常の場合は、学習は、解決のプロセスを大いに加速する。

マインドフルネス認知療法の場合は、その土台である認知行動療法の教本などを学び、鬱・不安症などの人が陥りやすい不合理な考え方のパターンを学ぶ。心理学には、精神的な問題をもたらす不合理な考え方の類型に関しては、いろいろな理論がある。

仏道修行の場合は、その経典・教本・指導者からの学習ということになるが、これを言い換えれば、仏教の心理学の学習をすることである。

最後に、ここまでのマインドフルネスの瞑想は、初期仏教に見られるマインドフルネスの瞑想である。これ以下は、大乗仏教・密教の領域に入ることになる。


15.四念処と四無量心の位置づけ

四念処の瞑想は、第一マインドフルネスと第二マインドフルネスの双方に用いられる。第一マインドフルネスの場合は、四念処が説く、①身体、②感受作用、③心、④あるゆる事物といった四つの対象に対して、是非の判断をせずに、ただ観察する。第二マインドフルネスの場合は、身体の不浄性、感受作用の苦しみ、心の無常性、あらゆる事物の無我の性質を観想することになる。

しかし、これは、本質的には、別々の瞑想ではない。第一マインドフルネスの四念処をやっている中で、自ずと、四つの対象が不浄・苦・無常・無我という見解に到達して、第二マインドフルネスの四念処になるということである。

なお、マインドフルネスの話から多少脱線してしまうが、四念処は、止観の瞑想の中では、ヴィパッサナー(観)の瞑想に分類される。そのため、四念処観ともいわれる。一方、四無量心(慈悲喜捨)の瞑想は、サマタ(止)に一般に分類される。

上座部仏教の教えでは、四無量心は、止(サマタ)の対象である四(し)十(じゅう)業(ごう)処(しょ)の一部であり、四(し)梵(ぼん)住(じゅう)・四(し)梵(ぼん)行(ぎょう)とも呼ばれる。釈迦牟尼も、四無量心によって、怒り・残虐な心・不満といった心の働きを静めると説いた。この四無量心に関しては、『2016~17年 年末年始セミナー特別教本「四無量心と六つの完成」』に詳しく解説したので参照されたい。


16.第三のマインドフルネス:肯定型のマインドフルネス
=良い心の状態をもたらす対象を修習する

第三のマインドフルネスは、肯定型のマインドフルネスである。すなわち、瞑想の対象に対して肯定的な意識を向けるものである。これにも二つのタイプがあると私は考えている。

① 一点集中型の肯定のマインドフルネス:象徴物・シンボルの瞑想

ここでの象徴物・シンボルとは、自分の心を静めて安定させる効果を持つものを意味する。宗教においては、象徴物の多くが、崇拝対象として位置付けられている。

しかし、ひかりの輪が採用する宗教哲学や宗教科学という立場で解釈するならば、それらは、崇拝対象という絶対的なものではなく、その人自身にとって、心を静める助けになって、自分の中の神聖な意識を引き出すものという意味で、象徴物と呼ぶことができると考える。

さて、象徴物の具体的なものとしては、まず、視覚的なものとしては、心が落ち着く仏像・仏画・曼荼羅、ないしは、純粋な広大な自然の風景などがあるだろう。言葉や聴覚的なものでは、いわゆる真言(マントラ)・念仏・瞑想音楽・仏教法具の奏でる聖音などがあると思う。

なお、このタイプの瞑想の典型が、弘法大師空海が開いた真言宗の瞑想だと思う。真言と曼荼羅の観想を重視する。なお神聖文字(梵字)を用いた阿(あ)字(じ)観(かん)などの瞑想もある。これは、インドの中期密教のタイプの瞑想である。

こうして、中期密教では、芸術・美術によって表されたシンボルの瞑想が重視されるが、こうした瞑想の補助ツールと位置付けられるものが、法輪、金剛杵、金剛鈴といった各種の仏教法具や、瞑想用の香である。特に、仏教法具の中で、心を静めるのに役立つ神聖な音を奏でるものがあり、ひかりの輪の瞑想修行では、大いに活用している。

そして、これらの念は、大乗仏教・中期密教の思想に関連している。このマインドフルネスは、第一・第二のマインドフルネスと合わせて行うことで、本来の効果が生じると思われる。

② 一切を肯定するマインドフルネス

これは、万物を仏の現れとして、一切を肯定するマインドフルネスである。大乗仏教における究極の悟りの状態に関連する。なお、先ほど言及した曼荼羅の瞑想法は、曼荼羅は宇宙の万物を仏と見たものなので、一切を肯定する瞑想法の準備段階ということができる。

このマインドフルネス瞑想は、第一・第二のマインドフルネスを土台としており、それらなしに行うのは無理があると思う。その意味で、より高度な段階のマインドフルネスだと解釈できると思う。

最後に、ここでマインドフルネスの瞑想のタイプの中には分類しなかったが、「気」の制御を目的とする瞑想がある。チベット仏教での究境次第の瞑想や、クンダリニーヨーガに関係する瞑想である。これは、インド後期密教の瞑想であり、空海や最澄によっては輸入されなかった最後発の密教修行である。

これは、密教の中でも後期密教の瞑想法である。これも通常は、第一・第二のマインドフルネスの土台の上に行われる。宗派によっては、第三のマインドフルネスまでを修めた上で、行うものとされている。この詳細は、その段階に来た人に限るべきだという見解が多いので、ここでは、控えたいと思う。


17.ひかりの輪の「悟りの瞑想ヨーガ講座」のご紹介

ここでは、参考までに、ひかりの輪の「悟りの瞑想ヨーガ講座」の内容をご紹介しておく。

① 事前の準備として、瞑想の場=教室の道場を浄化する。

掃除と換気、象徴物(仏画・自然写真)の用意、瞑想音楽=法具の聖音をかける。瞑想香を焚く、瞑想用のハーブ茶を飲むなど。

② ヨーガ行法を行う。アーサナ、プラーナーヤーマなど。

アーサナ(座法・体位法)は、体をほぐして、座法を組みやすくするヨーガの体操である。各種のアーサナを交えてバランスよく行う。

プラーナーヤーマ(調気法)は、気の流れを整え、心の安定と集中力を高め、深い意識に誘導する効果もある。プラーナーヤーマも各種を行う。集中力の向上に役立つ基本的なものから、気の浄化・教化に役立つもの、深い瞑想状態に誘導するものなどがある。

なお、ひかりの輪のヨーガ行法の詳細は、公式HPや『ヨーガ・気功教本』を参照されたい。

③ ひかりの輪独自の仏教的な瞑想「読経瞑想」を行う

無智によって自と他を区別して自我に執着した日常の現実認識を修正し、万物が一体であり、それゆえに万物を愛するという思想を修習する瞑想を行い、心の安定と拡大を図る。

④ 黙想の瞑想

無念無想で、静まった広がった意識を修習する。
雑念に流されてやむを得ない場合を除いては、なるべく思考しない状態を保つ。

ひかりの輪では、瞑想・禅定を深めるために、連休に5日間ほどのセミナーを行っている。これは、いわゆるリトリート修行である。忙しい毎日の日常の惰性に流されてばかりいると、心が不安定で散乱した状態が続くが、リトリート修行は、それを大きく転換するきっかけとなる。

また、長期間のセミナーではなくとも、休日などに1日リセットする機会を作ることも重要である。日常の氾濫する情報をシャットして、心を安定させ、なるべく深く内省できる状況を作る。一人で静かに自室を浄化した上で籠るか、聖地・自然の中に行くか、ないしは、ひかりの輪の教室の活動などに参加して、自分をリセットする時間を作ることが望ましいと思う。

 

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