2025年4月
2024~25年 年末年始セミナー特別教本 悟りの大衆化の新時代の到来 ゾーンの入り方と心の実態の解明 (2025年4月28日)
2024~25年 年末年始セミナー特別教本「悟りの大衆化の新時代の到来 ゾーンの入り方と心の実態の解明」
第1章 21世紀の意識の革新:大衆が悟る新しい時代の到来
1.はじめに私たちが住む21世紀の先進国社会は、ごく限られた人だけではなく、大衆が、仏教が説いてきた悟りの境地を達成することができる、新しい時代ということができる。
その根拠は、1990年代ごろから、北欧や日本などの先進国の長寿社会で、社会学者や心理学者によって発見された、超高齢者の老年的超越という心理状態である。調査によれば、広くいえば2割ほどの超高齢者が「今が一番幸せ」という至福の心理状態にあり、我欲が抑制され、寛大で、感謝や無償の愛が強くなり、死の不安や孤独を感じることなく、人によっては、仏道・ヨーガ修行者などによって体験される、宇宙と一体となった心理状態を経験していることが判明した。
我々現生人類(ホモサピエンス・サピエンス)が生まれて以来、約20万年がたち、仏教開祖の釈迦牟(む)尼(に)が悟りを開き、教えを説いて約2500年がたつとされるが、いまだかつて、このように大衆規模で、悟りの心理状態が生じたことはなかったということができる。そうした意味で、人類社会が、いまだに各地において、対立・分断・紛争を抱え、今の社会を「生きづらい」と感じている人が少なくない一方で、我々は、静かに、画期的な新しい幸福の時代を迎えている可能性があるのである。
また、この現象が意味するところは、幸福の価値観、人生観を大きく変革するものでもある。まず、幸福の価値観に関しては、老年的超越の現象は、今現在、主流である「競合的な幸福観」、すなわち、「今よりもっと、他人よりもっと」と、財物・地位・名誉・権力・異性を求めて獲得することが幸福であるという、いわゆる我欲・自己中心的な欲求から離れて(足るを知って)、他と共に幸福になる、他と苦楽を分かち合う利他・慈悲によって幸福になるという、「協調的な幸福観」への転換を促すものである。
さらに、人生観に関していえば、「若い人はいいよね」「人生若いうちにバリバリやって年取ったらピンコロで死にたい」といったような「若い時が幸福」というものから、超高齢期を頂点として、「加齢とともに、より幸福になる」という人生観・ライフイメージへの転換を促す可能性がある。人生の幸福は、尻すぼみになるのではなく、尻上がりになるという新しい人生観である。
この章においては、今、いったいなぜ老年的超越の現象が生じているのか、今後はどうなるのか、老年的超越を得るためにはどうしたらいいのか、ヨーガや仏教などの伝統的な悟りの思想から見ると、老年的超越はどのような位置づけになるのか、ということについて深く考察してみたいと思う。
2.老年的超越に至る人に多い特徴心理学者が、老年的超越に達する原因を分析するために、老年的超越に至る人に多い特徴を調査した結果としては、①多難な人生を送ってきた人に多い、②より高齢層に老年的超越の割合が多い、ということが判明している。加えて、田舎よりも都会生活を送っている人に多いといった研究結果もある。この調査研究はいまだに進行中であり、詳しくは章末の参考資料を参照されたい。
なお、この点について詳しく検討する前に、老年的超越者が多いとされる超高齢者とは、具体的には何歳以上であるかというと、「老年医学では、高齢者の定義は65歳以上、その中で75歳以上を後期高齢者、85歳以上または90歳以上から超高齢者とする、というのが現在の考え方であり、また、世界的なコンセンサスである。」とされる(東京大学大学院医学系研究科教授 大内尉(やす)義(よし)、第20回社会保障審議会医療保険部会H17.9.21提出資料 出典:厚生労働省HP https://www.mhlw.go.jp/shingi/2005/10/dl/s1027-5c29.pdf)。
また、日本老年医学会は、65~74歳を准高齢者・准高齢期、75~89歳を高齢者・高齢期、90歳以上を超高齢者・超高齢期と提言している(出典:老年医学会HP https://jpn-geriat-soc.or.jp/proposal/pdf/definition_01.pdf)。
ただし、老年的超越現象が、85歳以上でなければ起こらないかというと、決してそういうことではなく、あくまでもそれ以下の年齢層との比較の問題であり、これについても詳細は巻末の参考資料などを参照していただきたい。
3.老年的超越の背景要因について:多難な人生・人生苦が、幸福観の転換をもたらすさて、老年的超越が超高齢者に生じており、さらに、より高齢層に老年的超越者が多い以上、老年的超越の背景要因としては、先進国を中心とした、平均寿命が80歳を超える長寿化があることは、間違いないであろう。これに加えて、順風満帆(まんぱん)な人生を送った人ではなく、むしろ多難な人生を送ってきた人に老年的超越が多いということが、老年的超越の背景要因を探るためには重要である。
しかしながら、現在の高齢者心理学においては、長寿化がなぜ老年的超越をもたらすかの明確な研究結果は示されていないように思える。その一方で、老年的超越の心理状態が仏道修行者の悟りの境地と極めてよく類似していることから、仏教思想の中に、長寿化が老年的超越をもたらしている理由を求めるならば、そこには、極めて明確な答えがあることがわかる。
まず、仏典では、開祖の釈迦牟尼の教えとされる初期経典においても、悟りに至るためには、一定の人生苦が条件となる、必要であると説かれている。それは、苦しみがあってこそ、仏法に対する真の理解(信)が生じるというのである(章末の参考文献を参照)。なお、仏典の漢訳用語である「信」とは、現代人が、宗教を信じるとか、信仰するという言葉でイメージするものとは異なり、客観的で知的な理解・確信を意味する。さらに釈迦の説いた初期仏教が、宗教ではなく、実践哲学・心理学の本質を持つことは後に述べる。
これは、論理的に考えるならば理解できることだと思われる。というのは、先に述べた、一般的な幸福観・生き方である「競合的な幸福」、すなわち、我欲の追求がなかなかうまくいかずに、多難な人生を経験する者は、その苦しみを解消するために、それとは異なる幸福観・生き方、すなわち、ブッダが説いた、我欲を抑制して(足るを知って)利他・慈悲に生きて悟りの幸福を得る、という新たな幸福観・生き方に転換する動機が生じると思われる(先ほど述べた「協調的幸福」への転換)。
そして、これを裏付けるように、老年的超越の高齢者の心境として、「人生でこれまでにいろいろ(な苦難も)あったが、それには皆(今の幸福に至る上で)意味があった」という趣旨のものがある。これは、「人間万事(ばんじ)塞翁(さいおう)が馬」という諺(ことわざ)や、「苦楽表裏」といった仏教の教えに通じるものであろう。
4.老化がもたらす幸福観の転換また、より高齢層に老年的超越が多いということは、老化自体が、心理的に、この幸福観への転換をもたらす可能性があることを示している。単純に言って、老化自体が人生苦の一つである。競合的な幸福観からしても、以前の若い時の自分と比較しても、若い他人と比較しても、劣っている今の老いた自分を経験するのが、まさに老化である。
そして、他に優って得る競合的な幸福は、加齢とともに、それを追求する意欲も能力も低下してくる。老化とともに、競合的な幸福観に留まるならば、苦しみが増えるばかりとなる。これが、競合的な幸福観に見切りをつけ、協調的な幸福観、利他・慈悲の幸福観に転換していくことを心理的に後押しすることになる。さらに、競合的な幸福観とは、我欲の追求・自己中心的な性質を持つが、老化とは、まさにその幸福観の土台である「自分自身」というものが死に向かって徐々に崩れて消えていくことを感じさせる経験である。これも、競合的な幸福を追求することの空しさなどを理解させ、幸福観を転換する心理的な要因になるだろう。
5.老年的超越を助ける、先進国の社会福祉・長寿社会という環境冒頭において、日本を含めた21世紀の先進国の長寿社会は、人類史上初めて、大衆が悟りを得ることができる時代だと述べたが、ここでは、あらためて、どうしてこの社会が老年的超越(ないしは老年前の超越)を実現しやすいかについて、その要因を述べたいと思う。
第一に、長寿社会とは、人生において、競合的な幸福から協調的な幸福に転換した方が幸福に生きやすい高齢期が長いということである。短命だった時代に比べて、高齢期が長い長寿社会は、幸福観を転換した方が生きやすい時間が長く、転換しなくても苦しみが少ない若い時の時間が、人生全体において相対的に短くなる。
すなわち、「若いころにバリバリやって、年取ったらピンコロで死ぬ」という昔の時代の人生観が通用せず、医療技術の発展のために、悪くいえば、「なかなか死ぬことができず、苦しみの多い高齢期が長く続く時代になった」とも表現できる。これは、現在多くの人が抱く「老後の不安」の背景にあるものだろう。その中で一部の人が、安楽死の法制化を主張さえしているが、暗く長い老後とはいっても、だからといって、その前に自死したいという人は実際には少ない。そのためにも、幸福観の転換の促進、老年的超越の拡充が期待されることになる。
また、この幸福観の心理的な転換には、競合的な幸福観ばかりでは人生が行き詰まってしまうことに気づくために、一定の量の経験が必要であろうし、また、心理的な転換を始めて、それに慣れるための時間が必要だろうと思われる。これらに必要な時間的な余裕が長寿社会にはあるということも、老年的超越現象をもたらしている背景だと思われる。
6.競合的な幸福観の行き過ぎの弊害が強まっている現代社会第二に、長寿化やその高齢期とは関係なく、現代の人類社会全体において、競合的な幸福観は、その弊害が強まり、行き詰まりつつあるという重要な事実があると思う。
まず、人類の歴史を俯瞰(ふかん)すれば、競合的な幸福観は、人類が弱肉強食の原始時代に生きている際には、ある意味でそれに合っていた価値観である。狩猟において獲物との生存競争に打ち勝って、獲物を捕らえて殺して食することで、生きることができ、打ち負けて食べられなければ、飢え死ぬことになる。
また、原始時代の後に都市文明が発達した後も、人類は長い間、頻繁に戦争を行う時代を生きた。日本も欧米も、第二次世界大戦が終わり、核戦争による人類滅亡が懸念されるようになった80年前までは、欧米の植民地侵略も大日本帝国の戦争にしても、国家の基本政策は、戦争に勝って国家・国民が発展して幸福になるというものであった。
そして、その時代は、国内においても、今日のような社会福祉・医療制度などの社会制度は必ずしも整っていなかった。貧困で死ぬ者、病気で短命に終わる者も多く、犯罪を取り締まる治安制度も不十分だった。より強い者、より豊かな者は長生きし、弱い者・貧しい者は短命に終わり、現在よりも、強国と弱小国、富裕者と貧困者の格差の激しい時代だった。その意味では、弱肉強食の時代ほどではないにしても、他に勝ってこそ生きやすく、負けたら生きにくい面が強かった。
しかし、その後、戦争は、核戦争によって人類全体の滅亡をもたらし、勝者を生まず、皆を敗者にする可能性が生じた。戦争の勝利に替わって、各国は経済競争の勝利を国家の発展・国民の幸福の主たる手段だと考えるようになった。国内では、社会の安定のためにも、経済競争の活性化のためにも、全ての国民が文化的な生活をすることを保障する民主主義・社会福祉国家が現れた。その中では、経済競争の勝者(富裕者)は、以前の戦争の勝者と異なり、敗者の全てを奪うことはおろか、逆に敗者(低所得者)のために、より多額の納税をなし、富の再分配のシステムによって、敗者の生活を助けることが義務付けられた。
一方、敗者の方は、戦争の敗者と異なって死んで終わることはなく、勝者に一定の水準の生活を助けてもらう仕組みの恩恵に授かることはできて、身体的な苦しみは和らいだものの、負け組の苦しみ・コンプレックス・勝ち組への妬み・社会への不満や怒りといった、心理的な苦しみ、ストレス、生きづらさを感じながら生きる多くの人を生み出すことになった。
こうして、大衆全体が生きること自体には大きな障害がなくなった今、他人と比較して自分がより恵まれているか否かが、幸福・不幸を大きく左右することになった。自己愛の充足が幸福・不幸を決めるのである(自己愛型社会)。そのため、家族・仕事場・友人・知人との人間関係の問題が、現代人の主要な苦しみとなった。
また、医療技術が進歩した先進国では、身体的な病気よりも、精神疾患の割合が増え、500万人がうつ病と推計され、500万人のニート・引きこもりの問題があり、自殺が依然として高止まりし(日本では依然として年間2万人台)、自殺を上回る孤独死(年間約3万人とも)の問題が発生している。病気に戻ると、メンタル疾患に加えて、心理的な原因のある各種の生活習慣病が目立ち、依存症、人格障害の問題が目立ち始めた。さらに、近年広がる貧富格差・経済中心主義は、欧米社会に見られるように、国内社会の分断・陰謀論の流行などの混乱、反移民政策・反自由貿易・自国中心主義など、民族間・国家間の対立を招き始めている。
こうして、まとめてみると、「他者に勝ってこそ幸福、負けたら不幸」という競合的な幸福観は、その必要性が減少する一方で、心身の健康や人間関係の問題、国内外の社会の分断をもたらし、その弊害が目立ち始めている。
さらに言えば、勝利至上主義の競合的な幸福観は、皮肉なことに、逆に健全な競争を損なっている面がある。まず、勝てなければ、最初から競争(社会)に参加しないで引きこもってしまう人達(日本では500万人のニートが存在する)、次に、勝つ(利益の)ためには手段を選ばずに、不正・偽装・虚言(陰謀論)を用いる個人・企業・政治指導者である。実際は敗北したのに、「不当に敗者扱いされた」という被害妄想・陰謀論は、政治指導者にまで広がり、選挙制度を含めた民主主義の制度を揺るがしている。勝利を絶対とする競合的な幸福観の行き過ぎは、このままでは、健全な競争環境を維持することができずに、自滅する可能性を示し始めたのかもしれない。
7.高齢者に限らず、若年層(ミレニアム・Z世代)が、競合的幸福観から離れていく徴候こうした社会の中で、老年的超越に見られるように、高齢者の一部が競合的な幸福観から離れ始めていることは前に述べた通りであるが、それは高齢者層に限らず、若年層に及び始めている兆しがある。この傾向を若い世代の世代別の特徴と共に見ると、以下のようになるという(出典:https://www.cross-m.co.jp/column/marketing/mkc20240301 (株)クロス・マーケティング)
① ゆとり世代(19歳〜36歳前後)
ゆとり世代は、義務教育が従来の詰め込み型からゆとり教育に切り替わったときの世代。ゆとり教育の影響により、ストレスに弱く、競争意識や上昇志向が低いなどの特徴が見られる。その一方で、合理的な考え方を持つ人が多い。ほかの世代と比べて、周りの人から言われたことを素直に受け入れる傾向も。② さとり世代(18歳〜27歳前後)
バブル崩壊後の不景気の中で育ち、阪神淡路大震災や東日本大震災などの大災害も経験した世代。さまざまな出来事を経験しているため、悟っているような考え方をする人が多く、「悟」世代と呼ばれている。経済状況の良くない時代しか経験していないため、ブランドや名声にはあまり興味を示さない。理想よりも現実を見ており、実利的なものを好み、堅実で安定志向が強め。また、デジタルネイティブといって、生まれたときからすでにインターネットやIT機器が普及。そのため、さとり世代の大半の人はデジタルツールやインターネットの扱いに慣れている。③Z世代(12歳〜28歳前後)
ゆとり教育の影響により、ストレスに弱く、競争意識や上昇志向が低い。その一方で、合理的な考え方を持つ人が多い。Z世代の人は、人により価値観が違うことを強く認識しており、自身の価値観を大切にするのが特徴。その一方で、他者とのつながりを求める傾向もあり、承認欲求が強い人も多い。また、どちらかといえば、論理的なものよりも直感的なものを好む傾向も。
8.次世代は、競合的な幸福観の傾向が弱くなるとの推測(進化心理学)進化論の視点に基づく心理学(進化心理学)の学者によれば、今後は、自と他の比較、勝ち負けを気にしない人が増えていく可能性があるという。というのは、自と他の比較、勝ち負けを気にする親は、自分の子供が負け組になることを嫌い、産む子供の数が少なくなり、それをあまりに気にしないタイプの親が、多くの子供を産む傾向があるからだという。多くの子供を産めば、その子供が社会の中の勝ち組になるために必要な養育費・教育費を賄うことができないということである。実際に、比較の文化が強いといわれる隣国の韓国は、現在急激な少子化の危機に瀕している(日本の出生率(男女のカップルから生まれる子供の数)は1.3人弱だが、韓国は0.7人台)。
そして、心理学的な研究では、人の心理的な傾向は、半分が遺伝で、半分が後天的なものだといわれるが、自他の比較、勝ち負けを気にする親の子供は、親からの遺伝の影響にしても、その親の作る養育環境という後天的な影響からしても、親と似た性格になりやすいと思われる。よって、現在、自他の比較・勝ち負けを気にする親が産む子供が少なく、気にしない親が生む子供が多いということは、次世代の子供たちは、気にしない子供が多くなるということになる。
9.多難な人生が老年的超越につながるのは、依然として少数派さて、老年的超越の現象が現れているといっても、「超高齢者の2割」といわれているように、依然として少数派である。これは、客観的に見れば、長寿社会においては、競合的な幸福から協調的な幸福への幸福観の転換が、幸福になるために重要であると思われても、実際には、なかなかその転換に至らない人が多いことを示している。
また、「多難な人生を経験した人に老年的超越が多い」といっても、多難な人生を経験した人の中には、それに単純に打ちのめされてしまうばかりで、価値観を転換して、それを乗り越えることができる人は、依然として少数派かもしれない。その中には自殺や孤独死などによって、老年的超越が生じうる超高齢期まで生きない人もいるだろうし、自死には至らなくても、人生苦のストレスから病気になって、早死にする人もいるだろう。
さらに、長寿化の中で、日本をはじめとして、高齢者の知的・精神的な疾患が目立ってきているという問題がある。いわゆる、認知症・老人性うつ・感情暴走などである。日本は、認知症大国であるが、95歳以上の女性の8割は認知症であるとされる。超高齢者の2割が老年的超越であるといっても、反対に8割は認知症なのである。すなわち、老年的超越が生じうる超高齢期の前に、老年的超越のような心理的な発達どころか、逆に、心理的に退化してしまう疾患が広がっているのである。
そして、実際には、現在の社会では、こうした高齢者の介護の問題が盛んにいわれる状況であり、長寿が至福の老年的超越をもたらすという側面を、知らない人の方が圧倒的に多いだろう。
10.長寿社会における高齢者の幸福は、個人差が大きい
そして、老年的超越と、認知症・老人性うつ・感情暴走は、心理的には、まさに対極的な状態である。前者は、心理学者によって、人が(超)高齢期に、さらに心理的に発達する現象であると解釈されつつある。思春期に子供から大人になる第一次心理的発達に次ぐ、超高齢期の第二次心理的発達であると主張する学者もいる。一方、後者の認知症等の場合は、わかりやすくいえば、心理的には子供返りをしてしまい、他者の介護なくしては生きることが難しいという状態である。
こうして、長寿社会の高齢者においては、心理的に発達するか、逆に退化するかという二極化の現象があることになる。実際に、老年幸福学の研究者である前野隆司教授(武蔵野大学ウェルビーイング学部長・教授:幸福学など)によれば、調査によれば、一番幸福感が低い年齢層は、高齢者ではなく、中壮年層であるが、高齢者の場合、幸福の個人差が大きいことが非常に重要な問題であるという。
これに関連して、男女とも80歳を超えた平均寿命に対して(2023年で平均寿命は、女性が87.14歳、男性が81.09歳で、女性約87歳・男性約81歳。厚生労働省)、介護を受けたり寝たきりになったりせずに日常生活を送れる期間を示す「健康寿命」は、2022年は男性72.57歳、女性75.45歳(厚生労働省)とされている。
この介護が必要な原因が、身体的な不自由であるケースは、心理状態自体には直接影響がないかもしれない。しかし、先ほど述べた認知症・老人性うつ・感情暴走などの知的・精神的な問題である場合は、現在の男性72歳・女性75歳という健康寿命が意味するところは、多くの人にとって、超高齢期の老年的超越という心理的な発達に至る前の年齢で、知的・精神的な健康を失ってしまい、心理的には、逆に退化する流れに入っていく可能性を示している。
なお、話が多少それるが、平均寿命が男性81歳、女性87歳ということにおいては、実際の感覚とは食い違う部分がある。というのは、現代においても、幼少期に早死にしてしまい、無事成人しない人たちも存在し、その人達を含めたものが平均寿命であるからだ。無事成人した人に限った場合の寿命は「平均余命」といわれ、より正確には、ある年齢の人々が平均的に何年生きられるかという期待値をいうが、厚生労働省の令和5年(2023年)簡易生命表によると、令和5年時点で、65歳の男性の場合は19.52年であり、すなわち平均して85歳以上まで生きると予想され、65歳の女性の場合は平均して24.38年であり、すなわち89歳まで生きることが予想される。高齢者の平均余命は、平均寿命より長く、老後を考える時には、平均余命で考える必要があるとされる。これはまさに、長寿化を示す数値である。
11.老年的超越につながる人生苦とは、相対的な苦しみ
さて、多難な人生を送った人に老年的超越が多いとされるが、ここでいう多難な人生、人生苦とは、具体的には何であろうか。宗教と絡めて、人間の苦しみとして貧(ひん)・病・争という言葉があるが、これを使って考えてみると、①経済問題・貧困、②健康問題・病気、③人間関係の問題・争いや別離ということができると思う。
ただし、老年的超越に至る超高齢者の場合は、経済的問題といっても、長寿社会・福祉国家における経済問題であるから、飢え死ぬような貧困、途上国でいわれる絶対的貧困ではない。経済的困窮者を含めて、すべての国民に文化的な生活ができることを保障する、日本を含めた先進国の民主主義社会・福祉国家では、公的扶助・社会福祉制度がある。よって、この経済問題とは、飢え死ぬような貧困ではないが、お金に苦労したというほどのものだろう。ただし、社会福祉制度があっても、現在の日本社会では、年間数千名の人が経済苦を原因として自殺している。これは、物理的・金銭的に生きていけない貧困にあるわけではないが、経済に関する心理的な苦悩のために、自死を選んだことを意味するだろう。
また、健康問題・病気といっても、実際に、超高齢期まで生きることができたのであるから、途上国のように幼少期に短命に終わるような健康問題ではない。そもそも、先進国社会の長寿化は、栄養状態の改善や高度な医療制度の発達が一因とされており、それに守られた中での相対的な問題である。すなわち、先進国長寿社会の中の平均的な人たちに比べれば、相対的に健康問題で苦労したという意味である。
人間関係の問題・争いや別離に関しても、依然として内戦や他国との紛争が継続していたり、治安状態が悪く犯罪が横行したりしている状態ではなく、日本でいえば、長らく内戦も対外戦争もなく、治安状態に関しては、日本の犯罪発生率は先進国の中でも突出して低い。その中で、人々が一般に経験する人間関係の問題・争いといえば、家族・親族の間や、仕事場などでの不和・人間関係の問題が多い。これに加えて、愛する家族・近親者との死別や別離といった喪失の問題があるが、これも長寿化の中で、以前に比べれば、あまりに早い時期で死別・離別することは減少している。
こうして見ると、老年的超越をもたらす長寿の福祉国家における多難な人生とは、人類社会全体から見れば、「非常に恵まれた社会の中で、他と比較して相対的に恵まれない苦しみ」と表現すべきものではないだろうか。これは、現代の先進国・福祉国家の人々の主な苦しみとは、単純に「生きることができない」という絶対的な苦悩ではなく、「他と比較して相対的に不遇である」という心理的な苦悩であることを示している。そして、それを象徴する言葉が、よく言われることがある、ストレス(社会)、勝ち組・負け組、不満・不安、生きづらさ、生きがいの無さ、自尊感情の不足、自己肯定感の低さ、自己愛(型社会)といったものではないだろうか。
12.負け組から老年的超越が生まれ、勝ち組から生まれにくい可能性がある多難な人生を送った人に老年的超越が多いということは、逆にいえば、順風満帆な人生を送った勝ち組の人からは老年的超越が生まれにくいということになる。この理由を探ってみると、多難な人生を送った人は、高齢期の前から人生苦を経験しており、それを乗り越えるために、先ほど述べた、老年的超越に向かう幸福の価値観の転換(競合的な幸福から協調的な幸福)が、心理的に促されたということができるだろう。
一方で、順風満帆な人生を送った人の場合は、そうした転換を促される人生苦がなかったということである。「苦しみを経験した上での老年的超越が得られなくても、順風満帆で苦しみがなければそれでいいではないか(その方が良いではないか)」という考えがあるかもしれないが、そうした順風満帆の人生を送った人にも、高齢期には皆、高齢期の喪失体験とも呼ばれるさまざまな苦しみが襲うことになる。
健康・体力は衰え、病気は増えてくる。介護が必要になる場合もある。特に男性の場合は、会社を退職して社会的な地位や仕事関係の友人・知人を失い、地域社会などで新たな人間関係を形成することはできずに、人間関係が家族内に限られるケースも多い。子供たちはすでに自立しているために配偶者との関係のみが残るが、(主に妻側からの)熟年離婚の事例も増えている。必要な介護の程度によっては、長年住み慣れた自宅を離れて、老人ホームに転居するように勧められる。
こうして、自分の体、人間関係、環境において、さまざまな喪失を経験する。そして、これは多くの場合、前向きに生きる意欲や、自分の心身を使う=鍛錬する意欲を低下させ、それが老化を加速させるという悪循環が生じ、認知症・老人性うつなどの知的・精神的疾患の背景要因にもなる。心理学者の和田秀樹氏は、「老化は気から」と主張しており、人は、前向きに創造的に生きる意欲がなくなると、それによって頭や体を使わなくなるので、頭や体を鍛錬しなくなって、例えば、記憶力などの機能が落ちるのが老化のプロセスであり、最初から記憶力などが低下するのが老化のプロセスではないとしている。これは、認知症予防には、高齢期にも、例えば、勤労の継続が有効であると一般にいわれることにも通じる。
さらに、順風満帆、勝ち組であった人の中には、喪失の幅が大きい可能性がある。負け組の場合は、高齢期にさまざまな喪失をするとしても、最初から持っているものが勝ち組の人に比べれば少ないので、喪失の程度は相対的に小さいが、勝ち組の人は、持っているものが多いがゆえに、喪失する程度が大きい。木は、高く登れば気持ちがいいが、高く登るほど、落ちた時には痛いのと同じである。さらに、勝ち組の人は、高齢期になる前に、困難を経験していないがために、高齢期の喪失体験に対しては、心理的に慣れがなく、それに対して脆(もろ)い可能性もある。
13.一定の苦しみがなければ悟りに至らない、という仏教の思想
先ほど述べた通り、仏教では、一定の人生苦を経験することが、ブッダの教えを理解する条件となるという思想がある。これを言い換えれば、苦しみが乏しすぎるならば、逆に悟ることができないということである。もう少し全体的に言うならば、仏教の思想では、悟るためには、文明的な生活条件が必要だが、その一方で、快楽が多くて苦しみが乏しすぎても悟ることができないというものである。
わかりやすく言えば、人間ではなく動物に生まれれば、衣食住が保障されない毎日と、悟りに必要な思考力も得られないし、人間に生まれたとしても、飢えや渇き・病気による死や、殺される危険にさらされる毎日では、生き残ることに精一杯で、やはり悟りの修行は難しいだろう。逆に、仏教が説く天界の世界は、人間の世界よりはるかに快適で快楽が多いが、そのために悟りの教えに向かうきっかけがないままに、一生が終わりに近づき、終わりの時点では大きな苦しみが生じるが、その時にはもはや、悟りを得るには間に合わないという。これは、順風満帆の人生だった人が、高齢期になって、急にさまざまな苦しみを経験しても、その際に例えば認知症などですでに知的・精神的能力が低下していれば、幸福観の転換・老年的超越には間に合わないケースと似ているかもしれない。
(※輪廻転生について:なお、ひかりの輪は、大乗仏教等の宗教・宗派ではなく、思想哲学の学習教室であり、来世や輪廻転生については、否定も肯定もしないという立場(中道)である)。
こうして、悟りを得るためには、苦楽の絶妙なバランスが必要である。そのため、先ほど述べた現代の先進国長寿社会において人々が経験している一定の苦しみ、すなわち絶対的な苦しみではない相対的な苦しみとは、老年的な超越につながるもので、必ずしも悪いことではなく、悟り・老年的超越を得る視点から見るならば、非常に重要で、必要で、尊いものであるということができるのである。これは、仏教の教えでは、苦しみを喜びに変えるという教え(忍辱(にんにく))に通じるものである。
14.幸福観・人生観の変革:尻すぼみ型と尻上がり型の人生さて、老年的超越の現象は、これまでの勝ち組・負け組の概念を、大きく変えていく可能性があるのではないだろうか。超高齢期とはいえ、歴史的にはごく限られた人間しか到達しなかった至福の悟りの心理状態に至ることができるとすれば、それ以上の人生の幸福・成功・勝利はあるだろうか?
「ハッピーエンド」というが、「老年的超越」というハッピーエンド型の人生が現れた以上、人生の中盤までに財物・名誉・地位等に恵まれた、いわゆる勝ち組であっても、高齢期の喪失体験を経て心理的には子供返り・退化をして終わるならば、それは本当に人生の勝利者・成功者なのだろうか。
長寿化する中では、人生は、昔のように「若いころにガンガンやって年を取ったらピンコロで死ぬ」ことを理想とするスプリント競技ではなくて、長いマラソンであるとするならば、従来型の勝ち組になっても、老年的超越という心理的な発達に至らず、高齢期に心理的な退化をして終わるのであれば、前半は先頭を走ったが、途中で失速してリタイアしたようなものではないか。一方、老年的超越者こそが、マラソンでは、トップでゴールを切った勝利者・成功者になるのではないか。
こうして、老年的超越現象が周知されていくならば、「何が、人生の成功・勝利・幸福であるか」という概念が変革されるのではないだろうか? それは、人生観の変化であって、若い時がいいばかりの尻すぼみ型の人生観ではなく、加齢とともに幸福が増大していく尻上がり型の人生観である。ライフイメージの変革である。こうして、至福の心理状態である老年的超越の広がりは、幸福観・人生観の変革・革新をもたらす可能性があると思う。
今、負け組のあなたには、昔から「人間万事塞翁が馬」「ピンチの中にチャンスあり」「急がば回れ」といわれるように、それを活用して、老年的超越の勝ち組に至る、逆転勝利型の人生の可能性がある。今、勝ち組のあなたは、昔から「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」「油断大敵」「急(せ)いては事を仕損じる」という警告があるように、それに満足・安住して用心・精進を怠っている間に、人生終盤で、どんでん返しの敗北を経験することになりかねない。
さて、こうした中で、次節からは、負け組も勝ち組も、この老年的超越を踏まえて、今後の人生をどのように送るべきかについて考えてみたいと思う。
15.老年的超越を踏まえた今後の生き方:
「意図的・計画的な老年的・老年前超越」の実現へさて、これまでは、すでに始まった老年的超越現象について述べてきたが、それを踏まえたならば、今後の人生をいかに送るべきであろうか。重要なことは、これまでに老年的超越に至った超高齢者は、老年的超越に至ろうとして至ったのではない。老年的超越の心理状態や幸福観が、仏教の悟りの境地と共通点が多いとしても、彼らは必ずしも仏道修行者ではないし、仏道修行の経験がある人はむしろ例外的であろう。彼らは、多難な人生を実体験する中で、老年的超越という心理的変化を、いわば偶然にも、幸運にも、獲得したのである。同じく多難な人生を送った人の中には、それに打ちのめされるばかりで、老年的超越に至れなかった人の方が多いだろうし、そのために早死にした人さえ少なくない。では、どのようにすれば、老年的超越を得ることができるのであろうか。すなわち、偶然ではなく、意図的・計画的に老年的超越を得ることができないだろうか。
これに関連して、人生で遭遇する困難・喪失・打撃から立ち直る力(レジリエンス)に関する心理学の調査・研究によれば、人によって立ち直る力は異なり、例えば、多様なものの考え方をすることができる人は立ち直りが早く、その経験に逆に喜びを見出し、幸福感が増える場合があることが明らかになっている。そして、そのレジリエンスの心理学が推奨する、立ち直る力を養う方法の中には、仏教やヨーガの修行と共通する内容が少なくない。
また、ユダヤ人強制収容所に収容されて、父母と妻を失い、自らは生還するという極限的な苦境を経験したフランクルという心理学者が、その経験の中から提唱した「ロゴセラピー」という心理療法では、人が幸福になるためには、生きる意味・価値を認識することが重要であり、苦しみの中にあっても、その中を生きる意味・価値を見出すことができれば、それを乗り越えて成長することができることを説くが、これも仏教の思想・生き方と共通点が多い(ロゴセラピーでは、人が苦しみに見出す価値の典型として、それが自分の精神的な成長や他への思いやりにつながることがあるという)。
こうして、偶然にではなく、意図的に老年的超越を得るためには、心理学や仏教の思想などから、人の幸福・不幸に関する奥深い智恵をよく学ぶことが重要であることがわかる。老年的超越の心理状態の特徴が、仏教の悟りの境地とよく共通していることからしても、それを、偶然にではなく、意図的・計画的に実現するためには、仏教の思想・実践や、それとよく共通している心理学の思想・実践の体系を学ぶことが助けになることは、ある意味で当然だろう。
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第1章 釈迦の教え、初期仏教について
1.はじめにここでは、仏教の開祖である釈迦自身が説いた仏教の教え、すなわち初期仏教の特徴について、釈迦後に変質していった仏教(特に大乗仏教)や、その仏教の変質に影響を与えた他の宗教と比較して述べる。これは仏教に限らず、宗教と人類社会の関係において非常に重要な視点であり、今後の人類社会を助けるための思想を考える上でも極めて重要である。
ただし、それについて述べる前に、まずは、初期仏教とは何かについて、なるべく正確に把握しておく必要がある。初期仏教とは、仏教開祖釈迦自身が説いた教えのことである。そして、初期仏教と、それ以降の仏教をしっかりと分ける必要がある理由は、他宗教の影響などを受けて、仏教が、後に大きく変質したからである。さらに、特に大きく変質したのは、日本に伝来した北伝仏教とも呼ばれる大乗仏教であり、日本人の多くは、初期仏教には馴染みがなく、開祖の釈迦が説いた本来の仏教をよく知らない面がある。
さらに、これに関連して、「仏教」や「宗教」という言葉自体が、明治時代にできた英語の和訳の日本語であるということを知っておくことも重要である。それ以前は、仏教ではなく、「仏道・仏法(ダルマ)」といわれていた。「仏教」というと、「宗教」と同じように、仏を絶対者として信じる教えというイメージがあると思う。しかし、釈迦の説いた仏道・仏法とは、釈迦を絶対者として崇拝する宗教ではなく、ブッダとは目覚めた人・悟った人という意味であって、決して絶対者ではなく、仏道・仏法とは、悟った人間になる道・法であって、端的にいえば悟りの道である。
2.「仏教」・「宗教」という言葉自体が本来のものではない一方で「宗教」という言葉も、明治以前には日本にはなく、代わりに「宗(しゅう)」ないし「道(どう)」という言葉が使われた。宗とは、道理・真理といった意味であるから、宗も道も、正しく生きる道・道理といったほどの意味となる。これは、日本の民族宗教を「神教」といわずに「神道」といい、同様に日本の国産宗教である「修験道」などの例があることを思い出せば、理解しやすいだろう。
一方、宗教は、英語のreligionのことであり、欧米キリスト教文化の中では、キリスト教をはじめとする聖書の教えのことになる。そして、religionの原意は、絶対神(God)との再融合といったほどの意味である(『イスラーム化する世界と孤立する日本の宗教』関口義人 彩流社 2022)。すなわち、悪魔の虜となって絶対神から離れてしまった人間が(イエスなどの預言者・神の代弁者への信仰を通して)、絶対神の御許(おんもと)に戻ることを意味している。よって、宗教とは、その原語の英語から見ても、絶対者を信じて救われる教えである。よって、宗教と、日本古来の「道」や「宗」は、その本質的な意味において大きく異なることになる。
問題は、現代の日本人にとって、宗教といえば、仏教も含めて、仏を絶対者として崇拝するかのようなイメージがあることである。そして、その原因としては、仏教が、仏祖釈迦牟尼の死後に、徐々に他の宗教などに影響を受けて絶対神崇拝の思想に変質し、そのタイプの仏教(大乗仏教)が日本に伝来した、という歴史的な経緯にも原因がある。これについては、また後で詳しく述べたいと思う。そして、こうした宗教・仏教という言葉の使い方自体が、釈迦とその思想(初期仏教)の性格を正しく理解することを阻んでいる面がある。
3.釈迦は、自身を神と位置づけず、自身への崇拝を禁じた釈迦は、自分を神と崇めてはならないとし、また自分への崇敬の念によって自分の教えを信じてはならないとしたとされる。教えに対しては、その確からしさをよく吟味し、納得した上で修習(しゅじゅう)するように述べたとされる。
また、絶対神の存在を説いたこともなく、それゆえに自分を、その化身であるとか、神の子であるとしたこともない。彼は、自身を「ブッダ(仏陀・仏)」と位置づけたが、ブッダとは目覚めた人(悟った人)という意味であり、そもそも釈迦だけを指した言葉ではなく、聖者といったほどの意味の普通名詞であった。よって、ブッダとは、神のことではなく、人間として悟りを得た者という意味である。
また、彼の教えの目的は、他の人々を、彼と同様の悟りに導くものであって、その意味で、悟ることができるのは自分だけである、とするものでもない。これを土台として、後世の仏教には、全ての人々が未来に仏陀となる可能性(仏性)を有するという思想も現れるに至った。
4.絶対神(God)という信仰概念ここで、釈迦は自分を神と崇めてはならないと説いたと述べたが、「神」という概念自体が、西洋・聖書系の思想と、東洋の思想では異なる。西洋のGodは、絶対神・唯一神などと言われる。これは、人間や人間の住む世界を超越している存在であり、そのため「超越者」と呼ばれる。Godは、世界や人間を創造した創造主であり、悪魔さえもGodによって創造された。そして、Godは絶対神であるから全知全能であり、死後の世界を含めて一切を知り、一切を司る。
そして、絶対神は唯一神であり、すなわち唯一絶対の神であるから、その言葉は、人類全体に適用される。すなわち、実際には、いろいろな民族がいろいろな神を信じているのが人類社会である以上、人類社会は多神教の世界ともいうことができるが、唯一絶対神を信じている民族・信者の集団にとっては、それは全知全能の存在であって、間違いが一切なく、それと矛盾するものは、邪神・邪教・邪教の信者ということになる。
唯一絶対神という概念は、それを信じる民族を、自己絶対化する側面がある。例えば絶対神が、特定の地域を統べるために選んだ民族を選民(たとえばユダヤ・イスラエル民族)という概念があるが、自分たちが信じる全知全能の絶対神の言葉は絶対の善であり、そのため、時には暴力・戦争で他民族を排除しても、それは神の名において正当化され、聖戦ということになる。
そもそも、絶対神は、全知全能で、この世を創造したものであり、人間を創造したものであり、死んだ者も復活させる力があるため、人間を殺す権利、生殺与奪(せいさつよだつ)の権能があると解釈される。これは、他の神を信じる他の民族から見れば全くの傲慢に見えるが、唯一絶対神という概念は、それを信じる民族を絶対化し、それを信じる民族と信じない民族を善と悪、神側と悪魔側に二分化する排他的な性質を持ち、聖戦という名で暴力も正当化する一面がある。
5.聖書の唯一絶対神の誕生のプロセスユダヤ民族のための神である旧約聖書の神こそが、唯一絶対神の典型であるが、じつはユダヤ民族が最初に信じていた神は、多神教の中の最高神であって、唯一絶対神ではなかったとされる(こうした信仰を拝(はい)一神教(いつしんきょう)などという)。しかし、新バビロニアの王・ネブカドネザル2世により、ユダヤ人たちが、バビロンをはじめとしたバビロニア地方へ捕虜として連行・移住させられると(バビロン捕囚)、ユダヤ人たちは、バビロニアの圧倒的な社会や宗教に囲まれる葛藤の中で、それまでの民族の宗教のあり方を徹底的に再考させられることになり、自分達の中での宗教的なつながり・連帯を強め、律法を心のよりどころとし、ユダヤ教を確立した。
そして、この時期に、神ヤハウェの再理解が行われ、神ヤハウェはユダヤ民族の神であるだけでなく、この世界を創造した神であり唯一神である、と理解されるようになったという。バビロニアの神話に対抗するため、旧約聖書の天地創造などの物語も記述されていった。後のローマ帝国以降のディアスポラ(ユダヤ民族の離散)の中でも失われなかったイスラエル民族のアイデンティティは、こうしてバビロン捕囚をきっかけとして確立されている。それはある意味で民族の存亡をかけたものだったのかもしれない。
この聖書の絶対神は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を通じた神となった。そして、先ほど述べたような性質もあって、ゾロアスター教を起源とする終末思想が聖書でも説かれることになった。それは、世界は基本的に善と悪の戦いであるという善悪二元論の思想であり、神側・救世主側と悪魔側の最終戦争があり、最後の審判で皆が裁かれ、正しい信仰を持った聖徒は神の国に入り、そうでない者は地獄に落ちるという、神による裁きを説くものである。
いっぽう初期仏教では、釈迦は、絶対神の存在も、それによる世界の創造や、最終戦争や最後の審判といった終末の思想も説くことがなかった。そのため、前に述べたように、自らを絶対神と結びつけて、その化身であるとか、唯一の(絶対)神の子などとも説くことがなかった。ところが、釈迦の後の仏教は、絶対神を信じる他宗教の影響などを受けて徐々に変質していったと思われることは、後に詳しく述べることにする。
6.釈迦は原則として非暴力・不殺生(反戦争)釈迦は、戒律として、非暴力・不殺生を説くとともに、他の宗教と異なり、宗教的に正当化される暴力・殺生・戦争・聖戦・最終戦争などの類(たぐい)は説いたことはない。
また、釈迦は、クシャトリヤ=武士階級の一員として、釈迦族の王子として生まれたが、王・武士として、他国との戦争・支配権の争奪・政治に関わる将来を、出家によって捨てて、人間の苦しみを取り除く悟りを得る修行の道を選び、悟った後は、その教えによる衆生済度にあたる道を選んだ。
そして、自分の出身部族である釈迦族が、コーサラ国の王(ヴィドゥーダバ)に滅ぼされようとした時も、繰り返し王を制止はしたが、実力をもって阻止することはせず、ついに釈迦族は滅ぼされるに至っている。詳しくは以下の通りである。
ヴィドゥーダバが8歳になった頃、母親の実家である釈迦族の地へ行って、弓術(きゅうじゅつ)などの修練に励んで来るように王に命じられ、釈迦族の子弟と共に弓術を学んだ。ちょうどその頃、城の中に新たな講堂が完成し、神々や王族などのみが登ることができる神聖な獅子の座に、ヴィドゥーダバが昇り座ったのを釈迦族の人びとが見て、「お前は下女の産んだ子だ。それなのにまだ諸天さえ昇っていないのに座った」と、怒って太子の肘を捕らえて門外に追い出し鞭を打って地面に叩きつけた。ヴィドゥーダバは「我が後に王位についた時、このことを忘れてはいけない」と恨みを懐(いだ)くようになった。(中略)
ヴィドゥーダバは成長すると、波斯(はし)匿(のく)王(おう)の留守中を狙って王位を奪った。ヴィドゥーダバ王は、釈迦族殲滅(せんめつ)を企て進撃するが、それを知った釈尊は、一本の枯れ木の下で座って待っていたといわれる。進軍してきたヴィドゥーダバ王は、釈尊を見かけると「世尊よ、ほかに青々と茂った木があるのに、なぜ枯れ木の下に座っているか?」と問うた。釈尊は「王よ、親族の陰は涼しいものである。」と静かに答えた。しかし、釈尊は、これを三度繰り返し(ヴィドゥーダバを制止し)つつも、その宿縁の止め難きを知り、四度目に(ヴィドゥーダバは)とうとう釈迦族のいるカピラ城へ攻め込んだ。「仏の顔も三度まで」ということわざはこの出来事に由来していると言われている(ウィキペディア「毘(び)瑠璃(るり)王(おう)」より)。
7.カースト制度を否定した、平等主義の強い思想また、釈迦は、釈迦族という小さな部族の王子(釈迦族は近くの強国のコーサラ国の属国だったという)であったが、バラモン教において、神の代理人として祭祀を行うバラモン階級ではなく、その下のクシャトリヤ階級(武士階級)の出身である。そして、釈迦はカーストを否定し、皆が平等であるとして、弟子の序列も、出家の順や、修行の頑張り具合などで決めたという。また、釈迦の教団は、当時から男尊女卑が強い地域にあって、初めて女性の出家を認め、男女平等においても革新的であったとされる。
この平等主義は、世界を善悪・聖邪で二分化して善が悪と戦う聖戦という思想を生みにくいものである。あとにも述べるとおり、人が戦争という組織的な大量殺害を行うことは、本来的には大きな罪であるところ、それを全くの善として正当化するのが、聖戦という概念であるが、その場合、全くと言ってよいほど、戦い滅ぼす相手は悪と位置付けられる。さもなければ聖戦にはならないからである。それゆえ、人々を平等に扱う思想は、暴力を正当化しにくいものである。
なお、この釈迦によるカースト制度の否定は、釈迦の死後も、バラモン教およびバラモン教から発展したヒンドゥー教との対立軸となった。これは、インド仏教が中世においてイスラム教勢力の侵入によって滅びる直前に成立した、インド仏教最後の経典とされる時輪経典の内容にも反映されているし、さらには、第二次世界大戦後にインドで仏教が復興した際には(仏教復興運動・新インド仏教)、反カースト運動の一環として復興したものであった。この仏教復興運動では、釈迦は、(カースト制度を正当化する思想である)輪廻転生とカルマの法則を説かなかったとまで解釈している。
8.輪廻転生より現世で悟ることを強調した日本人には、輪廻転生は仏教オリジナルの思想だと思われがちである。しかし、実際には、釈迦が生まれる前から、インドはバラモン教が支配する世界であり、そのバラモン教が説いたのが、輪廻転生とカルマの法則である。
そして、この教えは、当時のインド社会では政治的に重要な意味を持っていた。というのは、カルマの法則と輪廻転生の思想が、カーストと呼ばれる階級制度の正当性を支えるものとなっていたのである。カースト制度では、バラモン(司祭階級)と呼ばれる特権階級の人達が、他の階級の人々(クシャトリヤ=武士階級、ヴァイシャ=商人階級、シュードラ=奴隷階級、パンチャマ=不可触民)を支配する。
そして、輪廻転生とカルマの法則に基づいて、階級制度の存在は不当な差別ではなく、人は、前世の業の報いにより、今生その身分のもとに生まれるのであり、生涯その身分の元での役目を全うすることによって、来世の福が保証されるとしたのである。
一方、そうした中で教えを説いた釈迦の教えは、学術的な調査によれば、当時の人々にとって、絶対的な常識となっていた輪廻転生(とカルマの法則)をはなから否定することはせず、来世の幸福のための教えを説くこともあったが、その教えの力点は、現世で善行を積み、現世で悟ること(涅(ね)槃(はん)に至ること)であったという。
なお、先ほど述べた第二次世界大戦後にインドで起こった反カースト運動の一環として起こった仏教復興運動では、カースト制度とバラモン教以来の輪廻転生の深いつながりを踏まえて、釈迦は(カースト制度を正当化する思想である)輪廻転生とカルマの法則は説かなかったという独自の解釈をしている。
9.初期仏教は、宗教ではなく、高度な心理学・心理療法の性質を持つ釈迦の教えの目的の中核は、端的に言えば、その最初の説法とされる四諦(したい)八正道に説かれる通りに、人間のさまざまな苦しみを取り除くことであり、取り除いた状態である悟りの境地に至ることである。その苦しみの原因は煩悩であり、煩悩の根本は、心理的な無智であり(漢訳仏教用語では痴(ち)・愚痴(ぐち)・無明(むみょう)などと表現される)、それを取り除くための手段が、八正道ないし、戒律・禅定・智慧などと呼ばれる修行法であり、それによって生じる智慧が、苦しみの根本原因の心理的な無智を取り除いて、苦しみを取り除くとする。
前に述べたように、これは、釈迦を神(絶対神の化身)として崇めることを否定するばかりか、人々が釈迦に続いて、悟りという高度な心理的発達をなした人間となることに導くものである。つまり、唯一絶対神の唯一の神の子とされるイエスなどを信じて救われる教えではなく、釈迦自身を特別な存在とはせず、教えによって悟りを得ることができる人間の一人であると位置づけるものである。
なお、大阪大学名誉教授の故佐保田鶴治氏は、イエス・ムハンマド・モーゼのように、唯一(ないしは少なくとも最高)の神の代弁者(預言者)を信じる宗教を「預言者的な宗教」とし、仏教やヨーガのように、人々が修行によって神に近づいていく宗教を「神秘主義的な宗教」として、宗教を二つに区分したが、佐保田鶴治氏は、それと同時に、釈迦牟尼を偉大な心理学者であるとも表現した(佐保田鶴治著『ヨーガ根本経典』平河出版社)。
これはなぜかというと、釈迦の教えの中核は、主に人間の精神的な苦しみを取り除く智恵であり、苦しみをもたらす心の働きと、それを乗り越える実践法を説いたものであるから、一般の人を、煩悩という心の病を抱えた患者とみなし、その病を治す治療法を説いたとみなすことができる。実際に、煩悩の根源は、漢訳仏教用語では、痴・愚痴などと表現され、この漢字は、悟っていない普通の人は物事をありのままに見ることができない心理的な問題、物事の認知における病を抱えている、という仏教の思想を反映している。
そして、その教えは極めて合理的、論理的であり、人の心の働きや言動に対する客観的な観察に基づいている。その教えを理解する上で、自分の理性による疑問・批判を捨てて、はなから信じなければならないことはない。これは、現代的に表現すれば、東洋の伝統的な心理学に基づく心理療法に近いともいうことができる。
もちろん、その教えは、日常の行動規範(戒律)、呼吸法や座法を組んだ瞑想といった一定の身体行法が含まれている。すなわち、教えの学習・思索・瞑想といった心理的な作業だけではない。しかし、この点に関しては、現代の医療・心理療法でも、その中で、心身の健康に悪い日常の生活習慣の改善や一定の運動といった健康指導をなされることは多いから、医療ないし医療を補完するものとしては、自然なことである。
実際に、厚生労働省のHPにおいても、仏教の修行と身体行法や瞑想法などを共有するヨーガをいわゆる「統合医療」の一環として記載している(統合医療とは、近代西洋医学と、相補(補完)・代替療法や伝統医学等とを組み合わせて行う療法であり、多種多様なものがある)。
10.医師としての釈迦、治療法としての仏法、高度で心理的な発達の智恵そのため、釈迦は、「応病(おうびょう)与(よ)薬(やく)(病気に応じて薬を与える)の人」ともいわれ、医師に例えられることがある。これは、前に述べたが、煩悩という心の病に応じて、それを治癒する方法(仏法・ダルマ)という薬を与えた、という意味である。さらに、この釈迦とその思想の性格は、後世の大乗仏教における、「医薬の仏」といわれる「薬師如来」という尊格に通じると解釈できる。
もちろん、現代でいう精神科の医師とは、健常者ではなく、精神疾患を患う者を治す者である一方で、釈迦の思想は、健常者を含めた、悟っていない全ての人々を、煩悩という心の病を患った者とみなすものと解釈される点において違いがある。さらに、煩悩を心の病のように見なしながらも、釈迦が説いた悟りという修行の最終目的は、人間としてのさまざまな苦しみを一掃したごとくの状態をもたらすものだから、単なる心理療法の一種ではなく、常人を超えた高度な心理的発達を実現するものである点も、違いである。
しかしながら、現代にいたってもなお、人間が、その煩悩・我欲によって、日常において、さまざまな他者との対立的な関係によるストレスを抱え、民族・国家としては、依然として戦争という愚行をなし、核兵器の誕生とともに絶滅の危機もいわれるようになったことを考えるならば、人間の間では健常者とされるものであっても、人は全て、心の病を患っていると解釈するのは、非合理的とはいえないのではないだろうか。そもそも、病人とは、健常者との対比で認識される概念であるから、どんなにひどい病気であっても、全ての人がそれに罹っているとしたら、それは病気とは認識されないのである。
11.信じることと、悟る=気づくことの違いまた前に述べたように、釈迦は自己を神と崇めることを禁じ、自分への崇敬の念からのみ自分の教えを信じるのではなく、教えの確からしさを、疑いさえもって、よく吟味するように説いたという。これは、すなわち、絶対神やそれを信じることではなく、真の幸福の道を悟る=気づくこと=智恵(智慧)の獲得を目的としたものであるということができる。
絶対神とその救いを信じることと、真の幸福の道理を悟る智恵を得ることは、心理的な作業として、全く異なるものである。後者は、現代的にいえば、宗教というよりも、心の科学・心理学に相当するものであり、東洋の伝統的な心理学・心理的な医療であり、悟りという常人を超えた高度な心理的発達を得る智恵、ということができるだろう。そうしたこともあり、佐保田鶴次氏と同じように、インドを植民地支配した英国の宗教学者は、仏教を見て、それは彼らがいう宗教ではなく、幸福になるための実践哲学であると考えたという。
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2024年 GWセミナー特別教本「悟りの心理学:人類の心理的進化の可能性 脳科学が説く新たな幸福の価値観」
第2章 脳科学が説く感情と心身の健康との深い関係1.脳科学が解明する感情と健康との関係
最近の脳科学の著しい発達の中で、感情と心身の健康との関係が、科学的に解明されてきた。そこでは、後に詳しく述べるが、脳の組織に加えて、脳内物質・脳内神経伝達物質・ホルモンなどといわれるさまざまな物質と、その作用が発見され、確認されている。
例えば、"癒しのホルモン"のエンドルフィン、"親切と安心のホルモン"のオキシトシン、"闘争と逃走のホルモン"のアドレナリン、"ストレスのホルモン"のコルチゾールや、さらには、交感神経と副交感神経からなる自律神経の働きなどが関係してくることがわかっている。本稿では、これについて解説したい。
2.思い込み効果には科学的な根拠がある病気に関して、薬の効き目に対する肯定的な思い込みが、心身の状態を良くし(プラセボ効果)、逆に、否定的な思い込みが、心身の状態を悪くするということがある(ノセボ効果)。例えば、患者に「薬である」と偽って、単なる水を飲ませると、病気の症状が緩和するなどである。
この効果は、以前は、単なる思い込みによる効果だと考えられていた(すなわち、実際には体の状態は改善していないが、患者が改善したと思い込んでいる)。しかし、最近の研究では、プラセボ効果が起こる場合は、オキシトシン、内因性オピオイド、ドーパミン、バソプレシンなどの分泌が観察されているという。
これらは高い鎮痛効果があるため、痛みや苦痛を緩和するという効果が実際に表れるのだという。「これを飲めば治る」などという、「安心」や「期待」の感情は、単なる思い込みではなく、病気を実際に緩和するホルモンや物質の分泌を促し、実際に、免疫力・治癒力を高めているのだという。
一方、ノセボ効果とは、薬に対する不信感が強いと副作用の出現率がアップし、さらには、医者に対する不信感が強いと薬の効果が減じるという。そのため、同じ薬を飲むのなら、「必ず効く」と思って飲むべきだと主張する医師もいるという。
だとすれば、プラセボ効果やノセボ効果は、新型コロナのワクチンにも作用するのだろうか。ワクチンを強く肯定している人の方が、その効果が高く表れ(免疫力が高まり)、副作用・副反応が少ないという可能性があるかもしれない。
3.闘う意識が分泌させるアドレナリンやコルチゾール人の脳は、何かの脅威を感じると、それに対して、闘うか逃げるか(闘争か逃走か)という反応をするが、この際に、短期的には、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、長期的には、副腎皮質からコルチゾールなどのホルモンが分泌されるという。
アドレナリンは、心拍や血圧、呼吸数の増大、骨格筋への血流の増加、発汗などの反応を引き起こし、身体機能をアップさせ、闘う状態をサポートする。問題は、これが長時間ないしは1日に何度も繰り返されると、①身体機能を酷使することになり、②心拍・血圧の上昇から血管の収縮や血流の悪化が生じ、全身の細胞に栄養が行きわたらなくなる。
さらに、アドレナリンは血小板の働きを活性化させて、血液が固まりやすくなる作用があるため、それが分泌過剰となると、③血液がドロドロの状態となって血管が老化し、心筋梗塞や脳卒中などの心血管系疾患になるリスクを高めるという。
アドレナリンは、闘争や逃走に関係すると述べたが、より具体的には、不安、恐怖、闘争、怒り、興奮といった感情を抱いている時に分泌されている。まとめて言えば、何かの存在に対して嫌悪し、その受け入れを拒絶し、それを排除しようとする感情である。
本来は、こうした感情は、自分の身を守るために必要なものとして存在していると解釈できる。例えば、原始人の脳は、野獣を見た時にアドレナリンが出て、それによって自分の身を守ってきた。
しかし、現代の人々に関しては、こうした感情が、不必要に過剰となっている問題が指摘されている。例えば、人から少しでも批判されると、それを受け入れられずに強い拒絶感が生じ、恐怖・不安を感じるなどである。そういう場合は、アドレナリンの分泌過剰となって、逆に、心身を痛めてしまうことになる。
4.現代人の健康を損なう交感神経の過剰優位の問題他者に対する受け入れの拒絶、恐怖、不安、闘争、怒りなどの感情が強すぎると、交感神経と副交感神経からなる自律神経のうち、交感神経が過剰に優位となる問題が生じる。交感神経は、活動・興奮をもたらし、いわゆる昼の神経であり、心拍数、呼吸数、体温を上昇させ、活発な活動を支える。
副交感神経は、休息・睡眠・リラックス・回復をもたらす、いわゆる夜の神経であり、(夜間を中心に)睡眠を誘導し、身体を回復させ、細胞を修復し、免疫力をアップする。よって、昼は交感神経、夜は副交感神経が、交互に優位になることが健康な状態である。
しかし、昼間に嫌なことがあり、夜になっても、その不安・恐怖・怒り・嫌悪といった感情が残ると、アドレナリンが分泌され、交感神経優位の状態が続き、睡眠を誘導する副交感神経の働きを妨げて、眠れなくなってしまい、不眠の症状が出てくる。
そして、不眠になると、がんのリスクは6倍、脳卒中は4倍、心筋梗塞は3倍、高血圧は2倍、糖尿病は3倍となるという。その意味では、夜間におけるこうした感情をコントロールして睡眠を確保することが、健康の1つの鍵となる。
5.継続的なストレスはコルチゾール過剰の状態をもたらす
ストレスは、人生のスパイスともいうべきものであって、必ずしも悪いものではない。しかし、私たちの身体の作りは、短期間であれば大きなストレスに耐えられるが、長期にわたる継続的なストレスは、心身をむしばむという。例えば、毎日過度に頑張ることを、長期的に継続的に続ける人の場合は、前に述べた通り、副腎皮質からコルチゾールというホルモンが分泌される。このコルチゾールは、身体を活発に動かし、生命の維持に必要な活動を担っており、気つけ薬のようなホルモンである。
主に朝に出るので、目覚めのホルモンともいえるかもしれない。具体的には、血糖値・血圧を高め、エネルギーを生み出し、精神的・肉体的なストレスに対抗し、炎症・アレルギーを抑える(抗炎症効果)。よって、コルチゾールの分泌が不足する病気がある。
しかし、先ほど述べた長期的・継続的で慢性的なストレスが続くと、コルチゾールの分泌が過剰となり、夜間も、その血中濃度が高止まりする。すると、夜間も身体が休まらないことになる。また、コルチゾールには、免疫抑制作用もあるので、免疫力が低下する。
さらに(夜間の)コルチゾールの高(こう)値(ち)が続くと、高血圧・糖尿病・感染症などの原因となり、脳の海馬の萎縮が起こるために、記憶力も低下する。そして、うつ病や各種メンタル疾患の患者においても、夜間のコルチゾールの高値が観察されており、メンタル疾患の原因にもなる。こうして、慢性的なストレスは、各種の病気の原因となり、病気の予防のための免疫力、病気を治す自然治癒力の低下をもたらすとされる。
6.不安や恐怖は脳の扁桃体の異常興奮人は、強い不安や恐怖に直面すると、大脳辺(へん)縁(えん)系の「扁桃体」が興奮し、ノルアドレナリンという脳内物質を分泌するという。これはアドレナリンと非常に似通っており、闘争か逃走かの行動をもたらす。
ノルアドレナリンは、脳と神経系に働き、闘うか逃げるかの選択・決断を促し、アドレナリンは、脳以外の心臓・筋肉・各臓器に働き、闘うか逃げるかの状態に体をもっていく。双方とも、(危険に対する)不安・恐怖といった感情に関連して分泌され、怒りや興奮が高まると、アドレナリンは、より分泌されるという。
不安や恐怖にとらわれると、人は、それから反射的に逃げ出したくなるが、この反射的に発動する感情のシステムを、情動反射と呼ぶ。情動反射は、前に述べた扁桃体が司り、条件反射のようなもので、知性・理性によってコントロールされない原始的なシステムであり、魚類や爬虫類にも備わっているという。
これに対して、理性的・論理的な判断は、大脳新皮質の前頭(ぜんとう)前野(ぜんや)が司り、これが通常の私たちの脳の主導権を握って支配している。しかし、危機的な緊急事態に直面した際は、のんびり考えている暇はなく、前頭前野の思考や理性が働く前に、先ほど述べた扁桃体などによる情動反射が、心と身体を瞬時に支配する。その後、危機が去れば、前頭前野が支配権を取り戻し、扁桃体は沈静して不安は解消する。
そして、情動反射の中枢である扁桃体は、暴れ馬のような面があり、理性・論理的思考を司る前頭前野は、その暴れ馬をコントロールする手綱(たづな)のようなものであるが、不安が強い状態では、その手綱が外れて、扁桃体が暴走する面があるのである。
7.扁桃体の暴走を止めるには?野獣に襲われるなどの危機的な緊急事態においては、扁桃体を中枢とする情動反射が必要である。しかし、そうした緊急対応が必要でないときも、不安や恐怖によって扁桃体が暴走することが、人間には少なからず起こる。そして、現代社会では、慢性的なストレス・不安・恐怖・怒りの感情によって、この問題が増えている可能性があると思う。
これは、感情・情動が、理性・論理的思考の制御を受けずに、暴走して冷静さを欠いた状態であるから、その感情のままに行動すると、後から後悔する行動をとることが多い。よって、緊急対応が必要でない時にも、不安・恐怖にかられた時には、それを自分の本当の考えだと思って、その感情のままにすぐさま行動するのではなく、時間を置くことが望ましい。時間を置くことによって、待つことによって、扁桃体の興奮による情動反射が静まってくるからである。
また、最近の脳科学研究によれば、不安・恐怖をもたらす扁桃体の興奮を抑制するには、言語情報を入れることが有効であることがわかっている。例えば、「少し待ってみよう」と、言葉にして声に出して言うことなどによって、扁桃体の興奮を抑制することができるという。そして、言語情報を脳に入れるには、「話す・聞く・読む・書く」の方法がある。
第一に、言葉に出して言うことである。独り言でもよいので「大丈夫」などといったポジティブな言葉を声に出す方法がある。言葉にせずに、黙って感情に対して我慢をしていると、逆効果という見解がある。
第二に、他人に話すことである。(落ち着いている)友人や知人に、自分の心配・不安を話すこと。話すだけでも、不安・ストレスを和らげる効果があるといわれる。
ここで、単に、自分の不安を話す相手ではなく、不安を解決する方法を相談できる人(専門家など)がいれば、なおのことよいだろう。他人に相談しても何も解決しないという人もいるかもしれないが、この場合も、相談する行為によって、不安の感情が言葉に置換されて、扁桃体が抑制され、不安が解消するというメリットがある。そして、前頭前野による理性的・合理的な問題解決のための判断がしやすくなるのである。
第三に、書くことである。自分の不安などの感情を、ノートに書いて吐き出すなど。この応用として、日記を書くことがある(心理学では日記療法というものがあるという)。
8.他者の拒絶・孤独感がもたらす心身の不健康何らかの問題のために、恐怖や不安といった感情が強く表れると、他者の受け入れを拒絶し、心を閉ざして、孤独な状態に至ることがある。そして、それが日常生活で慢性的になり、慢性的な孤独感が生じると、深刻な影響があるという。
シカゴ大学の心理学者のジョン・カシオポ氏によれば、慢性的な孤独感は、人を不安定にさせ、他者に対する被害観を抱かせ、自虐的・自滅的な思考や行動に陥らせるという。さらに、孤独は、身体にも大きな影響を与え、脳血管、循環器、がん、呼吸器や胃腸の疾患で死ぬリスクを高めて、高血圧や肥満、運動不足、喫煙などに匹敵する悪影響があるという。
米オハイオ大学の研究では、孤独感は、免疫力低下と関係があり、身体の不調を招く原因となることを明らかにしたという。米プリガムヤング大学の研究によると、社会的なつながりを持たない人は、持つ人に比べて、早期死亡リスクが50%高いという。
孤独の健康への悪影響は、1日15本の喫煙に匹敵し、運動不足や肥満の3倍であり、うつ病のリスクは2.7倍、アルツハイマー病のリスクを2.1倍増やすという。免疫力を低下させ、多くの心身の病気のリスクを増やすのである。
9.悪口や過剰な怒りも健康を損なう:人を呪わば穴二つ過剰な恐怖・不安・怒りといった、他者の受け入れを拒絶する心の働きが強くなると、それに伴い、悪口が多くなると思われる。しかし、精神科医の樺(かば)沢(さわ)紫(し)苑(おん)氏は、「病気の治らない患者さんの特徴を一つ言えと言われたら、私は『悪口が多い』を挙げます。本人は悪口を言うことでストレス発散が出来ていると思っているかもしれませんが、これは完全に間違いです。悪口は病気を悪化させるし、そもそも病気の原因にもなるのです」と言う。
フィンランドの脳神経学者のトルパネン博士の研究チームは、1449人を調査して、悪口や批判が多い人は、そうでない人に比べて、認知症になる危険性が、3倍も高いことがわかったという。他の研究によれば、悪口の多い人は、そうでない人に比べて、寿命が約5年も短いというものもあるという。
この1つの原因として、悪口を言うと、ストレスホルモンであるコルチゾールが分泌される。よって、頻繁に悪口を言う悪習慣のために、長期にコルチゾールの高値が続くとするならば、前に述べた通り、免疫力が低下し、さまざまな病気の原因になると思われる。
そして、扁桃体などの大脳辺縁系といわれる脳の部分は、主語が理解できないために、自分の他人への悪口も、他人の自分への悪口も、区別することができず、悪口を言っても、悪口を言われた時と同じように、扁桃体は興奮し、不安と恐怖を感じるという。すなわち、悪口を言うと、悪口を言われた場合と同じストレスが生じるということになる。
さらに、他人への悪口・怒りが強い人は、それとセットで、自分への怒り・自己嫌悪も強い傾向がある。何かを理由として、他人を強く否定するならば、その他人と同じ要素を自分に見た時には、自分を強く否定することになる。
また、自分と関係がある他人を否定するならば、その他人と関係を持った自分の過去を後悔して、自分を否定することが少なくなく、言い換えれば、自分と他人(の否定)は、完全に区別できないのである。
そして、前に述べたように、怒りは、アドレナリンが大量に分泌されている状態であるから、これが長期にわたって分泌される状況となると、高血圧、動脈硬化、心筋梗塞、脳卒中などの心血管系疾患になるリスクを大幅に高めるのだという。ある研究では、激しく怒った後には、心筋梗塞や心臓発作を起こす危険性が4.7倍に上昇するという。
また、ある研究データによれば、一度怒って自律神経が乱れると、それが正常化するには、3時間程度を要するという。アドレナリンの分泌が長期で続くと、前に述べた通り、コルチゾールも過剰に分泌されるようになり、記憶力の低下、免疫力の低下、体と心の双方の健康を損なうことになる。こうして、昔から「人を呪わば穴二つ」というが、この諺には、今や科学的な根拠があるということができるのではないだろうか。
10.医学的な視点からの怒りの制御
ここでは、前出の精神科医の樺沢紫苑氏が提案する、怒りの制御の方法を紹介する。なお、私たちがこれまでに学んできた仏教思想には、人間の怒りを含めた煩悩の心理の根本的な洞察に基づいて、怒りを制御するさまざまな修行法が説かれている。同氏の見解は、その仏教の思想・瞑想と一致する部分も一部にあるが、一致しない部分もあるので、参考として紹介したい。第一に、同氏は、吐く息を長くした深呼吸を提唱する。それは、腹式呼吸による20秒の深呼吸であり、まず、5秒かけてゆっくり鼻から息を吸い、次に、15秒かけて口から息をすべて吐き切り、これを3回繰り返すというものである(合計で1分)。
これは、自律神経の権威である順天堂大学の小林弘幸教授が提唱する、長生き呼吸法に通じる。小林氏の呼吸法は、4秒で鼻から吸い、8秒で口から出すものであり、いずれも吐く息(呼気)の長い深呼吸である。こうすることで、自律神経の中の副交感神経が活性化し、リラクセーションが促進される。なお、樺沢氏によれば、吸気と呼気が1対1の場合は、逆に、交感神経が活性化してしまうので、逆効果だという。
次に、同氏は、怒りが生じてカッとした時には、ゆっくり話すことを勧める。怒っている人は、ほとんど早口であり、逆に、ゆっくり話すように努めると、気分が落ち着くという。これは、人間は、興奮すると早口になり、交感神経が優位になり、さらに興奮が進むからだという。
第三に、怒りをノートに書き出してみることである。前に述べたように、怒りを悪口として他人にぶつけるのはよくない一方で、無理に我慢してため込むのもよくない場合には、その怒りの内容をノートに書き出すと、誰にも迷惑をかけることなく、すっきりするという。
しかし、これだけを繰り返すと、ネガティブな思考パターン・記憶が強化されてしまうので、それを防ぐために、しばらくした後で、第三者の客観的な視点から、ノートに書き出された自分の怒りの内容を見て、賢者の視点から、自分自身への助言を書くのである。自分のネガティブな感情をノートの左側に書いて、右側に、それに対する賢者の見解を書くとよいかもしれない。
最後に、他人への怒り・攻撃的な行為の背景には、なにかしらの不安や恐怖があり、その際は、扁桃体の興奮が生じていることを知っておくことである。そう知っておくことで、不安や恐怖から怒りが生じた時に、冷静に対処しやすくなるという。
11.笑いがもたらす心身への望ましい効果「人を呪わば穴二つ」とともに、「笑う門には福来る」という諺がある。これもまた、最近は、科学的に証明されつつある。
笑うことで、①幸福の神経伝達物質とされるドーパミン、②鎮痛効果があり快楽物質(脳内麻薬)ともいわれるエンドルフィン、③精神安定をもたらすセロトニン、④安心をもたらす効果があるオキシトシンといった、心身に良い脳内物質が分泌されるという。その逆に、コルチゾールのようなストレスホルモンが抑制され、ストレスが緩和され、結果として、笑いによって、免疫力が向上し、痛みが緩和され、各種疾患の改善をもたらし、記憶力が改善するという。
加えて、当然のことであるが、笑顔の人の方が、他人との人間関係もうまくいく。笑顔により、自分だけでなく、他人にもオキシトシンが分泌され、他人を癒すことができるという。
なお、意識的に笑顔を増やすこと、すなわち、作り笑顔であったり、割り箸を口にくわえるなど口角を物理的に上げたりするだけの場合でも、前出の幸福をもたらす脳内物質の分泌が確認されているという(ただし、無理にやれば効果がないという報告もある)。
12.慈善・利他・感謝は心身を健康にする一般に、ヘルパーズ・ハイという言葉があるが、人助けをする人は、非常に活動的で、テンションが高いという。メアリー・メリル博士の研究は、慈善活動をする人は、そうでない人に比べ、モチベーションが高く、活動的で、達成感や幸福感を強く感じ、心臓疾患の罹患率が低く、平均寿命が長く、健康で長生きしていることを明らかにしたという。
英国のエクセター大学の研究では、慈善活動をする人の死亡リスクは、しない人に比べて20%低いという科学的な根拠を見出したという。また、抑うつレベルが低く、生活満足度、幸福度も高いという。
米テキサス大学の3617人を対象とした調査では、慈善活動をした人は、うつ状態が少なく、その傾向は65歳以上でさらに顕著だったという。米ミシガン大学の研究でも、死亡リスクが低いという結果が得られているという。
そして、こうした慈善活動・ボランティア活動をする人たちの特徴として、次の項目で述べる通り、感謝が多いという。
また、感謝の重要性を示す研究結果が、多数報告されている。感謝する人は、病気になりにくく、長生きし、病気の回復が早いなどである。感謝とうつの関係の研究によれば、うつ傾向の強い人はあまり感謝せず、うつ傾向が弱い人は感謝する傾向が強いという。カリフォルニアのサンルイス病院の研究によると、明確な原因がないのに痛みが続く患者に、深く感謝する瞑想を、4週間実践してもらったところ、明らかに痛みが減ったという。また、感謝の実践によって、幸福感が増す、病気の症状が少なくなる、より運動をして活動的になるという研究結果がある。さらに、同じ研究結果の中で、より人助けをするようになり、他人からも「優しくなった」と言われるようになったという。
こうして、感謝と親切・利他には関係があるようだが、これは、すでに第1章で述べたように、感謝の心が深まれば、当然、恩返しとしての利他・親切の実践に結び付くことが考えられる。
13.エンドルフィンとオキシトシン
感謝によって分泌される重要な物質として、エンドルフィンとオキシトシンがある。エンドルフィンは、脳内麻薬ともいわれ、モルフィネの6.5倍ほどの鎮痛効果がある。これは、感謝される時、感謝する時に分泌されるという。走っている時、激痛を感じている時などにも分泌されるが、そうした場合と比較しても、感謝される時の分泌量が圧倒的に多いという。そして、エンドルフィンは、免疫力や身体の修復力を高め、がんとも戦う免疫機構のNK活性を高め、抗がん作用も確認されており、さらには活性酸素を撃退し、体調・健康の改善、若さを保つという。その意味で、エンドルフィンは、心身の癒しのホルモンである。
オキシトシンは、親切・感謝・思いやり・慈しみ・赦しといった感情や行為と関連して分泌され、親切のホルモンとも呼ばれ、ストレスが解消し、幸福感が増え、血圧の上昇を抑制し、心臓機能を改善し、長寿になるといった効果があるという。
また、オキシトシンは、ドイツのユスタスリービッヒ大学の研究において、不安の原因である扁(へん)桃体(とうたい)の興奮を鎮静化し、さらには扁桃体が脳幹に送る緊急警報の信号を低減することが発見されたという。こうしてオキシトシンは、安心をもたらすホルモンということができるだろう。また、交感神経にブレーキをかけて、副交感神経を活性化する作用もあり、そのため、免疫力の向上、休息と回復を促進する効能もあるという。
14.脳科学から見た幸福と仏教思想の類似性最先端の脳科学が示す、これからの幸福になる生き方を学ぶと、それが仏教的な思想における幸福観と重なる点が多い。第一の共通点は、自分だけの利己的な幸福を求めるのではなく、自他双方の幸福、利他的な幸福を求めることの重要性である。
脳科学から見て、他に感謝したり、他を利する気持ちや行動は、自分を利するものであることが確認されたが、仏教の教えでも、感謝と慈悲は、仏教で最高の生き方とされる菩薩道の重要な要素である。
菩薩道とは、すべての衆生を(今の自分を育んだ)恩人と見て感謝し、その恩に報いるために、さまざまに苦しむ衆生すべてに対して、慈悲の心を持って済度するという生き方であり、感謝と慈悲が、重要な実践上の柱となっている。脳科学的に言えば、これは、救済される衆生に加え、菩薩道を行う者自身が幸福になる生き方であるということになる。
ここで重要なことは、最先端の脳科学に基づく幸福観と、仏教思想の幸福観の共通点として、利他は真の利己という視点があることである。利他の心や行為は、他を利するとともに、それを実践する本人こそを利するということである。これは、自と他の幸福は一体であり、自他双方の幸福を求めることこそが、真の幸福の道であるという考え方に結び付く。
フランスのマクロン大統領の生みの親ともいわれるヨーロッパ有数の識者であるジャック・アタリ氏などが、「利他こそ最も賢明な利己である」という思想を提唱しているが、仏教を含む伝統的な宗教思想に加えて、脳科学という最先端の科学が、それを裏付ける時代となった。
15.喜びの神経伝達物質「ドーパミン」とその裏の問題点
さて、エンドルフィンやオキシトシンとともに、喜び・幸福感を与える神経伝達物質であるドーパミンについて述べたい。これについては、第3章で改めて詳しく述べるが、中枢神経系に存在し、先ほど述べた怒りのホルモンのアドレナリン、ノルアドレナリンの前駆体(ぜんくたい)でもあるとされる。
そして、これは、何かを獲得・達成したときの喜び・快感を与え、それに基づく意欲を生み出す。ただし、感謝によって出るエンドルフィン、愛情・慈しみによって出るオキシトシンの明るい温かい気持ちをもたらす幸福感と異なって、興奮を伴う喜び・歓喜という特徴があると思われる。
原始的な状況でいえば、例えば、その日に生き残るための獲物を苦労して獲得したときに生じる喜び・歓喜の感情である。この状況では、アドレナリンも出ている。小動物や草食動物が狩猟の対象である場合は、それは直ちに自分の身の脅威にはならないが、生き残るために動物を捕食することを迫られているわけだから、生き残りのための戦い(生存競争)の中にいるわけで、体はアドレナリンが分泌されて戦闘モードに入るわけである。
こうして、他者へのポジティブな気持ちの際に出るエンドルフィンやオキシトシンと異なって、ドーパミンは、他者に勝利した際の歓喜のためにも分泌されるということである。獲物を獲得するとは、自分には幸福だが、獲物側には死・不幸を意味するし、戦争による自己の勝利と生き残りは、他人の敗北と死を意味するものである。
さて、ドーパミンの話に戻すと、ドーパミンは、獲得・達成したときに快感を与えるだけでなく、その先に獲得する可能性があるときも、分泌されて快感を与える。それが獲得・達成しようとする意欲を形成する。よって獲得に加えて、さまざまな事柄に関する意欲の形成に関する神経伝達物質である。
ところが、ドーパミンには、一つ重要な特性がある。それは、同じものが苦労なく平然と獲得されるような状況が続くと、すなわち同じ刺激が続くと、徐々に分泌されにくくなり、喜びを感じられなくなるということである。そのため、ドーパミンが出て喜びを感じるためには、より強い新しい刺激が必要となる。すなわち、以前よりもっと多く、もっと良いものを獲得しなければ、ドーパミンが出ないのである。
これが、人の欲求は際限がないという事実の背景の1つではないかと思われる。何かを新たに得た場合はうれしいが、それがそのまま続くならば、それは当然のものと感じられて喜びではなくなり、それ以上を求めるようになる。その一方で、得たものに関しては、それにとらわれてしまい、それを失うと苦しみを感じる。
例えれば、給料が15万円から20万円に増えた時はうれしいが、その時の喜びは長くは続かず、「もっと欲しい」と思うが、そのままずっと20万円であれば、自分は頭打ちであると苦しむ。さらに、仮に20万円が15万円に下がれば大変苦しむ。20万円に上がる前は、15万円でもそれなりにやっていたにもかかわらずである。
16.ドーパミンがもたらす「とらわれ」「依存症」
こうして、ドーパミンは一種のとらわれ、それなしではいられない中毒症状的な状態を作り出す面がある。実際に、薬物を摂取して感じる快感は、回を重ねるごとに減少し、摂取する量を増やす誘惑にかられるのも、このドーパミン神経回路の特性である。
そして、過剰な飲酒・過食・買い物・ギャンブルに対して、足るを知らずにのめり込んでいくのも同様である。その意味でドーパミンは、時に、人が何かに過剰にのめり込む状況をもたらす面がある。
そして、もっと求めたとしても、かなわない場合が多い一つの背景には、自分だけではなく、皆がもっと求めるために、奪い合いが生じるからにほかならない。よって、もっと得ることはおろか、逆に他人に奪われて、前よりも減る場合さえある。この場合、他へのやっかみ・妬み・憎しみ・恨み・怒りが生じて、苦しむことになる。それが、場合によっては、互いの生死をかけた闘争・戦争の原因にもなる。
このドーパミンによる際限ない欲求の拡大は、他人との闘争・競争の勝利、名誉・地位・権力・支配の欲求にも当てはまり、それらの追求を、際限のないものにする可能性がある。よって、このドーパミン神経回路の働きは、ある程度制御しなければならないという面があるが、これについては、また後で述べることにする。
17.過剰な勝利・優位の欲求の大きな弊害ところが、他との競争で勝利しようとする欲求、「他と比較して優位になりたい」という欲求は、それが行きすぎると、特に現代の社会においては、幸福よりも、逆に不幸をもたらす面が目立ってきたという重要な事実が、脳科学の視点から指摘されている。それに関わってくるのは、先ほど述べたアドレナリンや、ストレスホルモンといわれるコルチゾールである。
ただし、前もって結論をいうならば、これは、優れたスポーツ選手がそうであるように、競争の相手を自分の幸福を奪う「敵」とは見ずに、切磋琢磨して互いに成長し合う「友」と見る場合には、当てはまらない。その場合は、人は、競争の勝利を絶対としてはおらず、勝ったり負けたりしながら、切磋琢磨して皆で成長するシステムだと考え、競争相手を自分の助力者・友と見る。
勝利を絶対だと考えると、強い競争相手は、自分の幸福を妨害する敵であり、悪魔のように見えて、憎しみ、妬みの対象となる。しかし、(共に)成長することが目的の場合は、競争相手は強力な方がよく、自分の成長=幸福の大きな助力者、恩人、教師・導き手(神・仏)と見えるだろう。
前者の勝利絶対の場合は、さまざまな心身の問題・人間関係の問題が生じる。競争の勝利を絶対として、自分と他人を比較して他に優位に立つことを強く望み、劣っていることを強く嫌がる場合は、現代人にも非常に多い。いや、競争社会の現代社会こそが、他の時代に比較しても、自と他の優劣の比較に、より深く陥っているのではないかとも思わせる。
結果として、自己嫌悪・コンプレックス・妬みや、他者の自分の扱いへの不満・怒りなどが、相当に現代人の心には渦巻いている。勝てないからあらゆる競争には参加せず、他人と交流するとコンプレックスを感じるため交流せず、社会から引きこもる(これを心理学では「劣等コンプレックス」の心理状態などということがある)。そして、孤独に苦しむ。「他人より劣っているばかりの自分は、生きていてもちっとも楽しくないし、生きる価値を感じない」と思い、生きがいを喪失する。うつなどの精神疾患に至る。自死ないしは孤独死に至る。
また、自分が劣っているというコンプレックスに対して、引きこもるのではなく、それを紛らわすために、自分に実力がないという現実を受け入れずに、自分に対する他者・社会の扱いが不当・不合理だと思い込む。そして、他者に攻撃的で、独善的、被害妄想的な意識・言動に陥る(これを心理学では「優越コンプレックス」という)。ことさら他人の悪口を言って貶めて、自分以下の存在と見ようとする。問題が起こる度に、他に責任転換をする。時には独善的な視点から、他人には有難迷惑なことをする。不正を行ってまで、競争で他者に自分が勝ったように見せかける。そして、昨今大きな問題となった電車などでの無差別大量殺人も、このタイプの、社会全体や勝ち組への不満・怒り(逆恨み)に起因するとされる。
話を元に戻せば、他者が本当に自分の存在にとって脅威であるならば、それに対してアドレナリン・ノルアドレナリンが分泌されて、戦闘モードに入り、戦うか逃げるかの行動をとることは必要である。しかし、実際にはそうではないのに、勝利ばかりを絶対とする競争や、他との過剰な優劣の比較などによって、いろいろな他人を、自分の幸福を妨害する敵とばかり見るようになり、敵意・悪意・怒り・妬み・憎しみ・恐怖・不安・自己嫌悪・コンプレックスといったネガティブな感情を抱くならば、それは心身に逆効果になる。
前に述べたように、アドレナリンが、体を酷使することになり、高血圧・高血糖(糖尿病)・脳血管・心臓などの疾患のリスクを高める。例えば、高齢者が、瞬間湯沸かし器のように怒った後に、脳血管障害で死亡するリスクが高いことは、よく知られている。
なお、アドレナリンが、本当の危機に対して一時的に出ることには、人間の体は耐えられるという。頻繁に出る、絶えず出ることになると、人間の体は耐えられない。わかりやすく言い直すと、人間の体は、一時的には強いストレスには耐えやすいが、持続的なストレスには耐えにくいという。
そして、ネガティブな感情が継続的になると、ストレスホルモンのコルチゾールの分泌が過剰となる。こうなると、免疫力が低下し、記憶を司る脳の海馬が萎縮して、知能が低下する。うつ病などの精神疾患のリスクも増大する(うつ病の人はコルチゾールの値が高いという)。また、慢性疾患のリスクの増大ももたらすという。
加えて、自律神経の交感神経が過剰に優位となる。すると、緊張・不安などによって、不眠症や、それによる生活習慣病のリスクが増大する。また、免疫力・細胞の再生力が低下して病弱になる。精神的には、リラクセーションができず、十分に休息できなくなる。
よって、他を敵視する怒り・恐怖・不安といった感情は、必要な場合に制御し、自分の心身の健康・知能・人間関係が不要に損なわれないようにする必要があるということができるだろう。
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第1章 悟りの智慧:自他の区別を超える教えと瞑想
1.仏教の悟りの教えのエッセンス仏教の教えは、仏教開祖の釈迦牟尼が説いた通り、苦しみを滅する教えであるが、そのためにさまざまな教えが説かれている。初期仏教の経典から大乗仏教の経典・密教経典まで、膨大な経典がある。しかし、その教えの恩恵を得るためには、広く学ぶだけではなく、その教えのエッセンスをつかみ取り、それを体得するために繰り返し修行(瞑想)する必要がある。
すなわち、仏教とは、単なる知識の学習ではなく、実際に心身が苦しみから解放されるように、その教えを体得するべきものである。それは、知識が増えるというよりも、その人の価値観・世界観が変わることを含んでいる。現代の科学で表現するならば、脳神経ネットワークの働きが向上すると言えばいいだろうか。
そして、本章においては、あまたの仏教の教えに言及しつつ、これまでの学習と瞑想の経験に基づいて、そのエッセンスとなる中核の思想の部分について、単に言葉で表現するだけでなく、なるべくそれをイメージ的に理解できる、体感できるように、表現してみたいと思う。
2.まず、教えの言葉の意味を正確に理解する:四(し)法(ほう)印(いん)を例にとって仏教が説く智慧を体得するプロセスには、いくらかの段階があるという考えがある。第一に、まず教えを知識として学ぶことである。そして、この点に関しては、教えを表す言葉の意味を十分に理解する必要がある。この点をよく理解するために、仏教の主たる教えをまとめた「四(し)法印(ほういん)」を例にとって、以下に説明する。
四法印とは、①諸行(しょぎょう)無常(むじょう)、②諸法(しょほう)無我(むが)、③一切(いっさい)皆(かい)苦(く)、④涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう)である。こうして、多くの場合、仏教の教えは漢訳仏教用語によって学ぶことになる。原典はサンスクリット語やパーリ語で表現されているが、それが中国に伝わって漢訳されたものである。その意味を正確に理解することが第一である。例えば、諸行とは、諸々の行いという意味ではなく、「全ての存在」というほどの意味である。漢訳仏教用語の中には、現代的に見ると、あまりうまくない訳がある(一部は誤訳といってもよいかもしれない)。よって、正確な意味を調べる必要がある。
諸法も、諸々の法(法則)という意味ではなく、実は、「全ての物事」といったほどの意味である(正確にいえば、思考の対象となる全ての物事であり、実際に存在しない観念的なものを含む点で、諸行よりも意味が広いとされることが多い)。
無我とは、サンスクリット原語で「アナートマン」といわれ、「アートマン」の否定形であり、釈迦牟尼によって、「私ではない、私のものではない、私の本質ではない」という意味であると解説されたという。こうして、私ではないという意味があるので、このアナートマンは、非我とも訳されることがある。ここで、無我と訳すと「私は無い」という語感となり、非我と訳すと「私に非ざる」という意味で「私ではない」という語感となるが、実はどちらと解釈するかは、歴史的な議論となった経緯がある。しかし、諸法無我という全体で見るならば、全てが私ではない(諸法非我)のであれば、私は無い(諸法無我)ということと同じだと解釈することができるだろう。
こうして、言葉の意味を正確に理解する中では、漢訳がはらむ問題も乗り越える必要がある。例えば、「一切皆苦」の苦は、サンスクリット原語の「ドゥッカ」の漢訳であるが、これは多義語であって、苦しみと喜びのうちの苦しみを意味するのではなくて、不安定・不満足・不完全といったほどの意味がある。さもなければ、一切皆苦とは、全てが苦しみであるという主張となり、苦しみも喜びもあると思われる現実世界の実際に照らして、違和感、矛盾を感じることになるだろう。
こうして、多義語には注意する必要がある。涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう)の涅槃も、少し仏教を学んだ人の場合、釈迦牟尼が死去した時のことを涅槃(正確には大般(だいはつ)涅槃(ねはん)、マハー・パリ・ニルヴァーナ)とか入滅ということを知っているかもしれない。しかし、涅槃寂静という場合の涅槃は、死去の別名ではなく、悟りの境地のことを意味する。悟りの境地とは、煩悩を滅した心理的な状態で、それが寂静(静かな平安な境地)であるというのである。
こうして、まず教えの言葉の意味に関して、場合によっては原語までさかのぼって、十分に正確に理解する必要があるが、ひかりの輪の特別教本などでは、この点になるべく注意して、仏教の法則を解説していることを付け加えておきたい。
3.教えの確からしさを論理的に理解するさて、言葉とその意味を学んだなら、次に、その教えの確からしさを論理的に理解することが重要である。つまり、教えの言葉の意味を理解したとしても、その教えの主張が、確からしい、道理・真理である、ということを論理的に理解する、納得するプロセスである。ここで重要なことは、仏教の悟りの法則とは、少なくとも釈迦牟尼が説いた教え(初期仏教)に関していえば、それは「信じる」べき対象ではなくて、「悟る」=「気づく」べき対象であるということだ。
これに対して、宗教における「信じる(信仰)」とは、多くの場合、十分に合理的な根拠がなくとも、その教えの言葉を「正しいと思うこと」を意味する。つまり、その教えが正しいことを十分に知ってはいなくても、正しいと思うことである。そうして信じた結果、何かしらの体験をして、救われたと感じて信仰を深めることもあるし、死んでみないと救われるかどうかはわからないうちに人生を終える場合などがあるだろう。
一方、悟りとは、日常用語でも使われるように、気づくという意味がある。これは、今まで認識できなかったことを認識するということである。よって、その教えが正しいこと、確かなことに気づくのが仏教の悟りのプロセスである。よって、まず教えの言葉の意味を理解したら、次に、なぜその教えの主張が正しい、確からしいということができるのかを、よく論理的に検討する必要がある。
この論理的な検討の一部には、教えに対して疑問を持ち、その視点から教えを吟味することも含まれる。実際に、釈迦牟尼自身が、自分に対する崇敬の念から教えを信じるのではなく、まずは疑い、よく吟味し、納得した上で、修行するようにという趣旨のことを説いたとされている。
よって、科学の理論・法則と同じように、仏教の悟りの教えに関しては、その確からしさをしっかりと論理的に検討し、深く納得する必要がある。もし納得できないのであれば、それは悟りの手助けにはならない。それは、悟りとは、信じるという心理状態ではなく、真理・道理に気づいた(発見した)心理状態であるからだ。
そして、仏教の教えは、普通の人が日常の中で気づくことがない人の幸福の道理・真理を説いている。普通の人の常識の中にある大きな錯覚(痴・無智)を指摘するのが、仏教の教えの特長である。よって、これに対して、はたと膝を打つかのように、目からうろこが落ちるかのように納得するまで、十分に論理的に検討する必要がある。
一方、信仰とは、正しいか否かを本人が「知ること」はできない事柄を、正しいと「思うこと」であるから、どんなに信仰が篤い人の場合であっても、少なくとも無意識的なレベルでは、疑念とセットになっているのが信仰の心理状態であると思われる。
そのような疑念をはらんだ心理状態では、悟りに至ることはできない。悟りとは、そうした、いわば思い込みの結果ではなくて、深く気づいて納得し、心理的な葛藤がなく、統一された状態である。そして、最終的には、その気づきを繰り返し瞑想して、一時的なものではなくて、無意識レベルにまで浸透させ、日常の価値観・世界観を根底から変えていくことで、悟りを深めていくのである。
4.仏教のさまざまな教えは、本質的には一体であること深く納得することの中に含まれるが、仏教にはさまざまな教えがあるものの、その本質は一つであるということができる。異なる言葉で表現されているので、異なる教えのようにも感じられるが、その意味を理解して深く納得する中で、同じ悟りの境地を異なる表現で表したものだと気づくと思う。
例えていうならば、山の山頂は一つだけであるが、山頂に至る道は数多くあることと同じようなものだ。そもそもが、仏教の悟りとは、知識として、その言葉を知ることではなくて、実際に心身の状態に大きな変化をもたらす境地を体得することである。その状態に至るためにさまざまな手段(=方便)がある(なお、方便とは、嘘のことではなく、手段という意味である)。
こうして、教えを論理的に深く納得する努力をする中で、さまざまな教えが、その本質において一つであると理解するプロセスがあると思う。
5.自我執着(我執)を超える悟りの智慧仏教が説く悟りとは、苦しみの原因を理解し、その原因と苦しみを取り除くことである。その苦しみの根本原因を端的にいうならば、「自と他を区別して、自己に過剰に執着すること」だということができる。そのため、仏教では、自と他を区別せずに、自と他を平等に愛する心理状態を求める。
普通の人が有する自と他を別のものと見る認識を「自と他を区別する無智」などと表現し、それを乗り越えた自と他を一体とする認識力を「智慧」などと表現する。そして、その智慧に基づいて自と他を平等に愛する心の働きを慈悲と呼び、究極的には、慈悲は万物を平等に愛する心の働きとなる。
6.心も実際は自分ではないという智慧自と他を区別しない智慧の心理状態とは、突き詰めるならば、「自分の思考や感情などの心の働きや、体は、自分ではない」と気づいた心理状態である。これは、先ほど述べた諸法無我の教えに含まれる。心身を含めた全ては、私ではないということだ。
わかりやすくいうならば、自分とは、自分の意識であって、それは、心(思考や感情など)や体を経験しているものであり、心や体は、自分(=意識)に経験されている側であって、自分(=意識)ではないということである。
ところが、普段の自分の意識は、心と一体となっており、心を自分と混同して錯覚している。すると、自動的に、意識は、自分と他人を区別することになる。何かを、自分だと認識するということは、それ以外のものを、他者だと認識することと一体であるから、心を自分だと錯覚した段階で、同時に、自分ではない他者というものが、認識されることになる。
例えば、朝起きる直前など、全く思考が生じていない段階では、自分という認識も、他人という認識も生じていない。単に意識があるだけで、全ては混然一体としている。自分や他人といった言葉による思考が始まると、自と他を別物とする認識(自と他を区別する無智)が生じるのである。こうして、言葉による思考が、自と他を区別する意識状態を現し出すことがわかる。
7.自と他を区別しない心理状態に近づく
さて、ひかりの輪で実習する仏教・ヨーガの身体行法を行うと、思考や感情が静まってくる。具体的には、ヨーガの伝統に基づく体操法・姿勢法・呼吸法やシンボル瞑想(マントラ瞑想)である。これらは、正しく実践すれば、徐々に思考や感情を静める効果がある。
これに成功するならば、意識は鮮明なままに、思考や感情が静まった状態を経験することができる。その時の意識は、思考や感情が静まっているため、自と他を強くは区別していない状態である。ただ、鮮明な意識があり、静かな平安な意識である。これは無我の境地ということもできる。この意識状態は、自分と他人を区別していないから、普段と比較すれば、意識が広がったように感じられるものとなる。静まった広がった鮮明な意識である。これが、仏教が説く瞑想状態(禅定)の本質の一つだと思う。
8.ヨーガの真我の概念ヨーガにおいては、心の働きを止めて、心を自分だと錯覚した意識が、真実の自分自身を取り戻すことを重視する。そもそも、ヨーガとは、心の働きを止滅すること(サンスクリット原語で「心のニローダ」)という意味である。心を自分と錯覚・混同している主体は、真我(アートマン)ともいわれる。
これが、いわば「真実の自分」であるが、真我は、純粋観照者ともいわれ、純粋に万物を観察(経験)するものであって、観察(経験)される側を一切含まない。よって、普通の意味では、真我自体は経験することができないとされる。これは、目はいろいろなものを見るが、自分の目で、自分の目を直接見ることができないことと同じようなものである。自分の目が、鏡に映った様子は見ることができても、それは本当の目を直接見たものではなく、鏡に映ったものを間接的に見ているにすぎない。
経験する側と経験される側を表現する言葉として、主体と客体という言葉があるが、真我は、あくまで経験の主体であり、経験される客体ではない。この経験の主体は、純粋な意識そのものであり、意識が経験する思考や感情は含まない。そのため、真我は、何かの物と表現するのではなく、「経験する力」などとも表現される場合がある。
そして、ヨーガにおいては、心の働きを止滅することで、最終的に、真我だけしかない状態(真我独存位)を目指し、これを解脱と呼ぶことがある。普段の私たちの意識(真我)は、思考や感情といった心を、自分だと錯覚して混同しているが、心の働きを止めるならば、真我のみが立ち現われてくるということだ。
真我独存位とはいかなるものであるかは、言葉で表現することは困難である。それは、言葉による思考・感情がない状態だからである。経験する真我だけがあって、経験される側がない状態である。自分と他者万物、主体と客体、見るものと見られるものの区別がない状態である。普段の我々の意識は、自分が世界を体験しているが、真我の状態は、経験する自分と経験される世界の区別がない(その意味で、自分が世界で、世界が自分とも表現できるかもしれない)。
なお、仏教の伝統的な教義においては、その真我の概念は用いない。学術的な研究の結果としては、仏教開祖の釈迦牟尼は、真我の存在・概念を、否定も肯定もしなかったともされるが、釈迦牟尼以降の仏教の教学においては、諸法無我の教え、すなわち、私というものは一切無い、という仏教が重視する教義に基づいて、ヨーガが説く真我の存在・概念をも否定することになった経緯がある。
しかし、思考や感情といった心が真実の自分ではなく、それに執着することを否定する点では、ヨーガと仏教は同じであるから、真我の概念を認めるか認めないかは、あまり重要ではないと私は思う。これは、教えの表現の問題であって、両者とも、実際に悟りの境地を目指す上で、思考や感情といった心の働きを、自分とはせず、その心の働きが静まった瞑想状態を目指す点は、全く同じであるからだ。なお、この瞑想状態を漢訳仏教用語では、禅定(ぜんじょう)というが、この禅定という仏教の言葉は、そもそもが、「ヨーガの八階梯」と呼ばれる古典ヨーガの実践課程の最終段階であるディアーナ(=禅)・サマディ(定)の訳語である。
9.自と他の区別を滅した瞑想状態、静かな安定した広がった意識それでは再び、自他の区別を滅した瞑想状態に関して言及したい。思考や感情が静まりながらも、意識は失わずに鮮明な状態に至るならば、前に述べたように、「自分」や「他人」という言葉による思考や感情は静まり、生じておらず、単に、静かで鮮明な意識のみが存在する。これは、静かで平安な意識状態であるから、前に涅槃寂静の教えのところで述べたように、悟りの境地(涅槃)は、静かで平安(寂静)であるなどと表現されるのだと思う。
この意識状態は、まず、安定しており、苦しみがなく、平安である。日常の心は、さまざまな欲求や興奮とともに、不安・恐怖・怒り・いらだち・嫌悪などの苦しみがあり、絶えず動いており、不安定であるが、それらが静まって、苦しみがなく、平安である。
次に、前にも少し述べたが、この意識状態は、普段の自分と他人を区別する意識から解放されて、広がっている(と感じられることが多い)。これを言い換えるならば、我々の意識そのものは、本来は、自と他の区別を有するものではないが、普段は、自と他を区別する思考や感情といった心の働きを、自分だと錯覚してしまっているがために、非常に狭いものになっているとも表現できると思う。
しかし、自と他の区別をする心の働きを静め、それから意識が解放されれば、いわば、意識が広がっていく。これを「意識の拡大」などということがある。突き詰めれば、世界全体を包むような広大な意識に至ることができるとも説かれる。世界万物を一体として認識する意識である。これをヨーガでは、宇宙意識などと表現することがある。また、仏教が説く仏陀・菩薩の心は、大慈悲もしくは四無量心といわれるが、これは世界万物を愛する心の働きであり、これもまた意識の拡大ということができると思う。
10.静まった広がった意識状態の恩恵:心の幸福、健康、集中力・知能、智慧の向上さて、これまで、思考や感情などの心の働きが静まった鮮明な意識状態(禅定)に関して、それに自と他の区別がないという点を強調しながら述べてきた。しかし、自と他の区別がないというのは、その状態の一面を表現したものであって、思考や感情が静まっているのであるから、普通の意味での喜怒哀楽がない状態であるということもできる。
ただし、普通の意味での喜怒哀楽がないとしても、それは幸福ではないという意味ではない。意識は、さまざまな苦しみから解放されて平安であるとともに、大きく広がった解放感や温かさ、場合によっては、至福感などが体験される。
この意識状態は、健康にも良く、体は安定し、無駄なエネルギーの消費はない(その意味で休息している)。日常のさまざまなネガティブな思考・感情・ストレスが、いろいろな意味で心身の健康を害することはよく知られているが、その意味で、禅定の状態は、健康長寿をもたらすと思われる。それを示唆するさまざまな医学的調査研究の結果もある。
また、この意識状態は、雑念がなく、意識は鮮明であるから、何かの物ごとに取り組もうとするならば、それに深く集中することができ、そのため、知能などの心身のパフォーマンスの向上をもたらす。そのため、禅定・瞑想状態は、「心の安定と集中」と表現されることもある。パソコンに例えれば、雑多なタスクから解放され、重要なタスクに全能力を集中できる状態と表現できるかもしれない。なお、近年、ストレス解消や仕事の能率を上げるものとされて普及しているマインドフルネスは、禅の瞑想から宗教色を抜いてできた心理療法である。
こうして、禅定の状態は、集中力・知能などを高めるが、それにとどまらず、その本質的な恩恵は、物事をありのままに見る力、仏教で智慧と呼ばれる高度な認識力の土台となることである。ここでいう物事をありのままに見る力・智慧とは、一般的な意味での観察眼とか、知能という意味ではない。前に述べたように、悟り=真の幸福に導く世界の道理を理解する力であり、常識的な世界観の中にあるさまざまな錯覚を乗り越えるものである。
11.自と他の区別に基づく自と他の優劣の比較について私たちの常識的な価値観においては、自分と他者は別物であることが当たり前になっている。しかし、仏教の心理学においては、これは常識の中にある錯覚であり、さらには、さまざまな苦しみの原因となるものである。そこでまず、どのように私たちの苦しみが、自と他を区別する認識から生じているかについて考察する。この点の深い理解は、前に述べた瞑想状態・禅定と悟りの境地に近づくために、非常に重要である。
まず、私達が日常において喜びとするものは、利他の行為などによって得られる幸福感などを除いては、前に述べたように、「今よりもっと、他人よりもっと」と、自分のために、財物・名誉・地位・異性などを求めて得られた時に感じられるものである。
これは、無意識のうちにも、比較に基づいたものである。今の自分と以前の自分、そして、自分と他人の比較をして、優っていれば喜び、劣っていれば悲しむのである。そして、そのために、この幸福感や不幸感を客観的によく検討するならば、自分の幸福は他人の不幸とセットであり、他人の幸福は自分の不幸とセットになっている。
これを言い換えれば、自分の幸福と他人の幸福は矛盾し、競合関係にある。よって、このタイプの幸福を、競合型の幸福と呼ぶ心理学者もいる。この幸福観においては、無意識的に自と他の優劣を絶えず比較し、自分の幸福と他人の幸福は別のものである、と認識されている。
12.自分の幸福と他の幸福を区別する心の働き競合型の幸福は、表現を変えるならば、我欲の充足による幸福であり、その追求が合法的なものであっても、客観的に見るならば、他を退けて自分が幸福になろうとする点で、自己中心的な性格を持つ欲求である。そして、仏教では、こうした欲求を煩悩といい、それを満たして得る幸福を、欲楽などという時がある。
例えば、調査研究の結果によれば、自分の給料が30万円であり、知人たちの給料が40万円である場合より、自分の給料が20万円であっても知人たちの給料が15万円の場合の方が幸福を感じるという。そもそもお金持ちの喜びとは、いくら以上のお金を持っていれば得られるという絶対的な基準はない。お金持ちとは、他人よりもお金を持っているという比較の結果である。そのため、例えば、先進国などでは、30年前と現在で、幸福を感じる人の割合が増えていないという(日本では逆に減っているという)。30年前と比べて、実際には、人々の平均所得は向上し、より豊かで便利な社会になっているが、自分と(知り合いの)他人を比較する限り、他人に優っている人と劣っている人の割合は、時代によって、変わることがないためだと思われる。
より精密に検討してみよう。たとえば、飢餓・戦争・疫病に皆が苦しむ状態を経験した人であれば、皆が文化的な生活ができる状態になったならば、その時は、他に優っていようといまいと幸福を感じるが、いったんそうなってそれが続くならば、それは当然のものとなって、幸福とは感じなくなる。そして、すでに一定の文化的な生活を得た先進国などの場合に関しては、他人との優劣の比較が、幸福・不幸を決定する要因となる。
さらに、どんなに大きな恵みであっても、皆が得ているものは、当然のものとして普段は幸福を感じず、その価値を感じるのは、それを失った時などに限られる。また、どんなに大きな不自由であっても、それを皆が持っている場合は、不幸を感じない。例えば、人は、魚のように水の中を泳げなかったり、鳥のように空を飛べなかったりしても、「そうできたらいいな」とは思うだろうが、そうできないことによって、苦しむ人はまずいない。
こうして人は絶えず、自分と、自分に近しい他人との優劣の比較や、今の自分と少し前の自分の優劣の比較によって、幸福・不幸を感じているために、無意識的に、自分の幸福と他人の幸福は別物であるとの意識が、根底にあることがわかる。
13.同じものが幸福にも不幸にもなる背景にある自我執着こうした意識が根底にあるために、競合型の幸福においては、全く同じものが、幸福にも、その反対の不幸にもなる。すなわち、例えば、異性など、何か自分が欲する対象が自分のものになった場合は、大きな喜びを感じるが、全く同じものが、誰か他人(他の同性)のものになるならば、強い苦しみを感じる。
これは、妬みや憎しみといった感情だが、誰か他人の幸福が、直接的に自分の幸福を妨げて、自分の不幸の原因になっていると感じられる場合である。これは、特定の他人が、特定の幸福を自分から奪うと認識した場合に生じることが多いが、競合型の幸福においては、「負け組」と自分を認識する場合の苦しみのように、特定の他者ではなくても、不特定多数の他者が、自分の幸福を妨げている状況によって生じる。
そして、ここで重要なことは、全く同じものが、自分のものになれば大きな喜び、他人のものになれば強い苦しみになるということである。すなわち、喜び・苦しみの原因が、自分のものになるか他人のものになるか、ということによって決まっている。
この点に関して、仏教の心理的な分析においては、人は、自と他を区別して、自分を他人よりも強く愛する心の働き、自己への愛着、自己愛、自我執着(我執)があって、自我執着を充足した時に幸福を感じ、できない時に苦しみを感じるとする。
そのため、何か自分が好むものを見つけても、その時の初期的で単純な好感・愛着よりも、それを自分のものにした時の愛着は、ずっと大きくなる。この理由は、仏教的な見方によれば、その対象への愛着に、他よりも自己を強く愛する心=自己への愛着が加わるためだからという。
また、この初期的で単純な好感・愛着の対象も、突き詰めるならば、それ自体が好きなのではなくて、それを見たり認識したりした時に、自分自身(の感覚)に与える、何かしらの心地良さが好きなわけである。その意味では、その対象を直接好んでいるのではなく、それをきっかけに生じる、自分の中の快を好んでいるのだ。
これと同じ理由によって、自分に起きるならば、大きな幸福・不幸の原因になることでも、他人に起こった場合には、自分の場合ほどには幸福・不幸は感じないことが多い。特に、自分が直接的な利害関係を有さない見知らぬ他人などに起こる場合には、全く何も感じないことが多い。他人の不幸に関する報道に接した時も、「それが自分に起こったらどうしよう」などと思うと、苦しみが強くなる。
我々の喜び・苦しみの感情の中核には、自分と他人(の幸福)を区別して、他人よりも自分を強く愛する心の働きがある。そのために、全く同じものが、自分のものか他人のものになるかによって、喜びか苦しみという正反対の心の働きが生じたり、全く同じことが、自分に起きた場合と他人に起きた場合とでは、喜び・苦しみの程度が大きく異なったりするのである。
14.競合型の喜びと苦しみはセット:苦楽表裏こうして、一般的な喜びとは、自と他を区別して自己を偏愛した意識が、自と他の幸福を別物と見なして、自他の優劣の比較において他に優ることによって、その自己愛を充足して得られる幸福であるということができる。そして、重要なことは、この競合型の喜びは、常に苦しみをセットとしてもたらすことになることだ。
まず、その喜びは、長続きせず、「もっと欲しい」という欲求を招く。この際限なき欲求は、必ずしも満たされず、欲しいものが得られない欲求不満や悲しみを招くことになる。また、いったん得た喜びの対象は、「それを失いたくない」という執着・とらわれを招く。それなしではいられなくなるのである。
そのために、失う不安、失うまいとするために生じるストレス、実際に失う時の苦しみなどが生じる。そして、「もっと欲しい」という欲求が増大するに従い、他との奪い合いもそれだけ強まり、他への憎しみ・妬み・不安・恐怖が増大する。いろいろな意味で他人が敵に見えることが多くなる。さらには、時とともに老いるに従って、他に優って幸福になる能力がたいていは減少し、その意味で苦しみが増え、若者をうらやむようにもなる。
15.利他による真の幸福の道このようなさまざまな苦しみを招く競合型の幸福と替わって、仏教が説くのが、利他による幸福、共栄型の幸福である。これは、他を利することによる幸福である。競合型の幸福が、他に勝って、他に優って得る幸福であり、他と自分のいずれかのみが幸福になるものであることに対して、この共栄型の幸福は、他を幸福にして自分が幸福になる、他と共に幸福になる、他と苦楽を分かち合うことで幸福になるものである。
そして、仏教では、この利他の幸福こそが、自分のためにも真の幸福の道であり、利他の心と行為こそが、賢明な利己の行為であると説く。また、人生全体にわたって幸福を考える幸福学・老年幸福学を研究する心理学者なども、人は、人生のある段階以降は、競合型の幸福の価値観から共栄型の幸福の価値観に切り替えることで、より幸福になることができるとしている。
すなわち、自分の幸福と他者の幸福は、本当は一体のものであり、両者が別物だというのは、錯覚・無智であるということだ。競合型の幸福の際限なき追求は、その錯覚・無智があるがためになされるが、そのためにさまざまな苦しみを招くというのである。そして、人生の幸福の指針としては、際限なく求めがちとなる競合型の幸福の追求は、健やかに生きることができる程度までに留め(足るを知り)、共栄型の幸福、利他・慈悲を心がけながら生きることである。
2023~24年 年末年始セミナー特別教本「仏陀が説いた革新的な幸福の智慧 健康と悟りをもたらす身体行法」この教本の購入はこちら2023年 夏期セミナー特別教本「21世紀のための仏教の幸福哲学 縄文以来の宗教と政治・瞑想解説実践編」 (2025年4月28日)
2023年 夏期セミナー特別教本「21世紀のための仏教の幸福哲学 縄文以来の宗教と政治・瞑想解説実践編」
第1章 21世紀のための仏教の幸福哲学
1.絶対神を信じる宗教(religion)と仏教の悟りの道宗教とは、religionの和訳であり、もとから日本にあった言葉ではないという。religionの原意は、「絶対神との再融合」といったほどの意味である。すなわち、かつては、絶対神と共に楽園に存在した人類が、罪(原罪)を犯してそれを失い、いわば悪魔の虜となった今現在の状態から、再び(救い主であるイエスの信仰などによって)絶対神の御許(おんもと)に戻るといった意味だろう。
これに対して日本には、そもそも宗教という言葉はなく、「宗」とか、「道」という言葉・概念があった。宗とは、道理・真理などという意味で、天台宗・真言宗・浄土宗・日蓮宗・禅宗などといった使われ方をした。道には、人の従い守るべき正しい教え・道徳・道理といった意味があるが、より具体的には、仏道(仏の教え・悟りの教え・八正道など)・神道・道教の道(タオ)から、修験道・剣道・柔道・茶道・芸道・王道・邪道・求道などと使われてきた。
また、絶対神=Godも、日本語の神とは意味が異なり、超越者、創造主ともいわれ、人間や自然を含めた世界を超越した絶対者(超越者)であり、世界が創造される前から存在し、世界を創造した存在である。これに対して、日本語の神とは、場合によっては、人間の中で特別に優れた人をいう場合もあれば、八百万(やおよろず)の神というように、世界万物を神と解釈する場合もある。
そして、仏教開祖の釈迦牟尼(釈迦族の聖者という意味)が説いた教え(初期仏教)は、ブッダ(仏陀)を説くが、これは、人や世界を超越したGodという絶対存在ではなく、人間の中で悟った人(覚った人・目覚めた人)のことを意味するものであった。ただし、それが釈迦の入滅(死後)に、一部の仏教宗派において、人ではなく、徐々にGodと似た絶対者・絶対神的な要素を帯びていった経緯はある。
さらに、釈迦牟尼が直接説いた教え(初期仏教の思想)は、ダルマ(dharma)といわれ、これは、仏陀の教え・仏法という意味であるが、その趣旨は、生きた人間が悟りを得る道であって、悟って苦しみを超越することに主眼があった。よって、これは、絶対神のような絶対存在である仏様を信じることで、その御許に戻って幸福になるという趣旨ではない。
そして、この悟り(覚り)とは、我々の日常用語としても、気づくとか、目覚める、という意味があるように、普通の人が気づいていない、見逃している真理・道理に気づく、目覚めるという意味がある。
そして、ここでの要点をわかりやすく言えば、religionと呼ばれる欧米の絶対神信仰は、基本的に、人間の知性・理性によって、科学の法則のようには、その存在を確認することができない絶対神や絶対神による救いというものを「信じる」思想であるが、(初期)仏教の思想は、普通の人が、一種の愚かさのために、まだ悟っていない=気づいていない真理・道理を「悟る」「気づく」道であって、修行に励んだ人が、その理性・知性を高めることで、ついには気づく(覚る)ことができる真実・真の幸福の道であると、私は理解している。すなわち、人の能力では「悟る」「気づく」ことができず、信じるか信じないかの選択を迫られるreligionとは、異なる性格のものだと思う。
実際に、欧米のキリスト教徒がインドを植民地支配するようになって、その宗教学者が仏教を研究した結果、これは宗教(religion)ではなく人生哲学であると解釈したという。彼らから見れば、仏教は、絶対神・創造主も、それによる世界の創造も、世界の終末も全く説いていない思想であり、信じる=信仰の対象には思えなかったことは想像に難くないのではないだろうか。
よって、現在の日本語においては、同じ「宗教」という言葉・概念の中に含められてはいるが、その中には、religionという「信じる宗教」と、(初期)仏教の「悟りの道」といった異なる概念が混在していると私は思う。そして、本稿で解説しようとしているのは、後者の「悟りの道」の思想である。
2.仏陀の最初の教え:四諦(したい)が説く一切皆苦まず、仏陀が最初の説法(初転(しょてん)法輪(ぼうりん))で説いた、四諦の教えにこそ、その世界観・幸福観がよく表れている。四諦とは、四つの真理というもので、①この世界は苦しみである(苦(く)諦(たい))、②苦しみの原因は煩悩である(集諦(じったい))、③煩悩を滅すれば苦しみを滅することができる(滅諦(めったい))、④苦しみを滅する道は八正道である(道諦(どうたい))、というものである。
ここで重要なことは、第一に、最初の「この世界は苦しみである」という教えの意味を正しく理解することである。まず、「この世界は苦しみである」というのは、まだ煩悩を有する普通の人(凡夫)に当てはまることであり、この世界自体が、本質的に絶対的に苦しみであるという意味ではない。
煩悩を有する普通の人には、この世界は苦しみと感じられるものである、というほどの意味であり、③の滅諦が説くように、煩悩を滅した悟った人にとっては、この世界は苦しみと感じられるものではなくなるのである。すなわち、人の苦しみ(と喜び)は、人の内側の心理状態によって生じる(面がある)という思想を表している。
第二に重要なことは、この教えにおいて、「苦しみ」という漢訳の仏教用語の元になった言葉は、パーリ語で「dukkha」、サンスクリット語で「duḥkha」であるが、これは多義語であって、単に苦痛という意味だけではなく、それに加えて、不安定、不満足、不完全といった意味があることだ。
そして、この教えにおいては、この後者である「不安定、不満足、不完全」という意味が重要になる。実際に、煩悩を有する普通の人にも、この世界は、苦しみ・苦痛ばかりではなく、喜び・快楽もあると感じられるわけだから、dukkhaが単に苦痛という意味しかないのであれば、この教えを合理的に納得することは難しいだろう。
3.苦楽表裏・無常・一切皆苦の教えこれを言い換えるならば、dukkhaという言葉は、喜びと苦しみの二つがある中で、その中の苦しみの方を意味する言葉では必ずしもないのである。それは、なぜかというと、仏教の思想では、「苦楽表裏」などといって、苦しみと喜びは、じつは表裏一体であって、別々のものではないという思想があるからだ。より具体的に言えば、例えば、人の感じる喜びは、不安定なことに、それ自体が、さまざまな苦しみの原因を作って、苦しみに変わっていくと説くのである。
これは、仏教が重視する「無常」の教えの一環でもある。喜びを感じることがあっても、その心理を客観的に長期的によく見ると、それは一時的な現象であって、その喜び自体が原因となって、さまざまな苦しみが生じるというのである。喜びは、苦しみに変わっていく無常なものであるというのである。
よって、「この世界は苦しみである」という苦諦の教えは、「一切皆苦」とも表現されることがある。一切皆苦も、この世界の一切は苦痛であるという意味ではなく、煩悩を滅して悟りを得ていない人には、この世界の中の喜びは、ことごとく苦しみに変わっていく、不安定なもの(dukkha)であるという意味がある。言い換えれば、煩悩を滅して悟りを得ていない人には、この世界には、安定的で満足できる完全な喜びは例外なく一切ない、といった意味である。
それでは次に、なぜこのように言うことができるかを理解するために、人が喜びや苦しみを感じる心理のメカニズムを見ることにしたい。
4.人が幸福・不幸を感じる心理の中核に優劣の比較がある人の主な幸福・不幸は、自分では気づかないうちに行う、前の自分や、友人・知人などの他人との比較によって生じる。前の自分や友人・知人などの他者と比較して、(今の)自分が優っていれば、喜び(優越感・達成感)を感じ、劣っていれば、苦しみ(劣等感・喪失感)を感じるのである。そのため、人には「今よりもっと、他人よりもっと」と求める欲求がある。
そして、心理学的な研究によれば、飢え・渇きや戦争といった、絶対的な苦痛がなくなった現代の先進国社会では、自と他の優劣の比較による幸福・不幸が、大きなウェートを占めるといわれる(心理学的に言えば、現代人の幸福・不幸は、自己愛の充足の有無で生じると表現することがある)。
なお、ここで少し脱線するかもしれないが、仏教の教えによれば、この比較に基づいた際限のない欲求は、人間社会に広がった心の癖のようなものである。それは、仏道の修行によって取り除くことが可能なものであって、人間にとって絶対的に避けられない欲求ではない。
では、話を元に戻して、この人間の喜びを感じる心の仕組みを具体的な事例で考えてみよう。例えば、月給が、20万円の人が、30万円に上がるならば、喜びを感じるだろうし、15万円に下がれば苦しみを感じる。また、自分の月給が30万円で、他人が20万円であれば、喜びを感じ、その逆であれば苦しみを感じる。
5.得た喜びがすぐに消えていく心のしくみそして、20万円の給料が30万円に上がった後、それがしばらく続くと、上がった時に感じた喜びは消えて、「もっと欲しい」という欲求不満が生じる。これは、給料が30万円に上がった時は、その30万円と、それ以前の20万円を比較して、喜びを感じたが、その後、30万円の給料が続いて、それが当然のものとなれば、比較の対象が20万円ではなくて、30万円になるからである。
そのため、30万円より多くを得ないと喜びを感じなくなり、より多くを求めることになる。これが、「人の欲求には際限がない」とよく言われる背景にある心の仕組みである。
6.際限なく求める心理状態に関する脳科学の知見なお、この点を脳科学的に説明すると、生きるために有益な何かを獲得することによって喜びを感じるのは、その際にドーパミンという神経伝達物質が分泌されるからである。このドーパミンは、「獲得と意欲のホルモン」などといわれる。
すなわち、①人が何かを求めて獲得した時に、喜びを感じさせるとともに、②獲得の前に、獲得しようとしている時にも分泌されて、獲得の意欲を形成するのである。例えば、古代人であれば、その日を生きる糧を得るために狩猟などをする際に、狩猟に成功した時の喜びと、狩猟しようとする意欲を形成するのである。
ところが、このドーパミンは、何度も同じ刺激を受けていると出なくなるという性質がある。すなわち、先ほどの生きる糧の食べ物の例でいえば、現代人は毎日、1日3食がさしたる苦労もなく当たり前のように差し出される。そのために苦闘と空腹の果てに、獲物を獲得した古代人のような喜びは経験できない。
よって、ドーパミンが分泌されて喜びを感じるためには、以前より、より強い刺激、より多くの刺激が必要になる。すなわち、先ほどの月給の話でいえば、月給が20万円から30万円に上がっても、30万円が続いて当然のものとなれば、40万円、50万円と「もっともっと」と際限なく求める欲求が生じることになる。
こうして、脳科学的な視点から見ても、人の心理は、なかなか満足することがなく、際限のない欲求を抱く傾向があるのである。ただし、こうした人の心理も、仏教の教えから見れば、その性質を人がよく自覚して、それを制御しようと努めるならば、徐々に弱まっていくものである。これを言い換えるならば、人の脳神経ネットワークの働きは、努力によって、変更・調整が可能な面があるということである。
7.得た喜びは消えて、得られない苦しみが生じるところが、当然のこととして、どんなに恵まれた人であっても、望むものすべてが得られることはない。むしろ「求めても得られないことが多い」と感じるのが、人間の常ではなかろうか。人によっては、「自分の望みはなかなかかなわず、自分は(他人と比較して)恵まれていない」と感じる人も多い。
なぜそうなのか? その原因の一つは、客観的に見れば、当然のことである。すなわち、自分だけではなく、皆が同じように、より多くを求め、多くの人々の間に、激しい競争、すなわち、幸福の奪い合いが生じるからである。その結果、求めて得られない場合は、前に述べた通り、苦しみを感じる。
そして、「今よりもっと、他人よりもっと」と求めて幸福になろうとすることは、自分が幸福を感じる時は、その裏側に、自分に負けて不幸を感じる人が必ず存在することになり、幸福を奪い合い、苦しみは押し付け合うという、人と人との間の関係が生じることになる。
これは、際限なく求めて幸福になろうとする限りは、自分の幸福の裏に他人の不幸が、他人の幸福の裏に自分の不幸があることになり、すべての人が幸福になることは、原理的に不可能ということになる。
そして、「勝ち組・負け組」という言葉が、社会に広がっているが、これは、他人よりもっと得て幸福を感じる勝ち組と、他人ほどには得られずに不幸を感じる負け組に分かれていると感じることを表しているのだろう。このため、飢餓や戦争がなくなった現在の日本社会でも、依然として多くの人が満足を感じていないのではないか。
8.絶えず不満を抱え、満ち足りることが乏しい人の心さてここまでの検討をまとめてみると、「今よりもっと、他人よりもっと」と求める限りは、①得られなければ、最初から苦しみが生じるが、②得られて喜ぶ場合も、それは一時的なもので、それに永久に満足することなく、すぐに喜びは消えていき、より多くを求めるが、③求めても得られないことは多いため、得られない苦しみ・不満を絶えず感じる心理状態になることがわかる。
この心理状態の流れを客観的に長期的に見るならば、得て感じた喜びは、ほどなく消えていき、より多くを求めても得られない苦しみ・不満に変わっていくということもできるだろう。これは、冒頭に述べた、喜びの裏側に苦しみがある(苦楽表裏)、喜びは一時的で、それが苦しみに変わっていく(無常)を示す事例の一つにほかならない。
こうして、人は、絶えず欲求不満を抱える傾向があって、そのために、充足した状態、満ち足りた心理状態には、なかなかなりにくい。現代社会で頻繁にいわれる精神的な「ストレス」も、客観的に見るならば、じつは、この絶え間ない欲求と不満が背景にあると思われる。多くの人が、気づかないうちに、絶えずさまざまな「不満」を抱えていて、今のこの時に十分に充足した心の状態には、なかなかならない。
例えば、皆さんは、人生において、これまでに「満ち足りた心境」というものを経験したことがあるだろうか? もしあれば、それは、いつのことだろうか? 何年前? 何カ月前? 何日前? 今日は一時でもあっただろうか。
9.得たものを失う不安・苦しみ次に、何かを得て喜ぶと、それと同時に、それを失う不安・苦しみが生じ、それを守ろう、失うまいというストレス・苦しみが生じる。しかし、長期的に見れば、後で詳しく述べるように、老い・病み・死ぬ中では、すべてのものを失っていくのが人生である。また、より多くを得れば得るほど、失う不安、守る苦しみ、失う時の苦しみも大きくなる。
しかも、得た時の喜びは、先ほど述べたように、しばらくするとそれに慣れてしまう形で消えていき、より多くを求める欲求不満になるにもかかわらず、得たものを失う不安、守る苦しみ、失ったときに苦しむことは続くのである。月給20万円が30万円になった後に、30万円が当然のものとなって喜びを感じなくなっても、30万円から20万円に減るならば、苦しみを感じることになる。これは不合理のように思えるが、現実であることは間違いない。この原因は、最初に述べたように、比較によって幸福・不幸が生じるが、時々によって比較の対象が変化するためである。すなわち、以前よりも多くを得た時に、それが続くと、増えた状態と比較して、より多く得ないと幸福を感じなくなる一方で、増えた状態と比較して、より少なくなってしまえば不幸を感じるからである。
10.得ることで、とらわれが増えると、精神的な不自由も増える
この状態を客観的に見るならば、前より多くを得ることで、比較の対象が変わった結果、苦しみに弱くなってしまったという見方もできる。たとえば、月給が20万円であった時は、それでそれなりにやっていけていたのに、30万円に上がったために、30万円にとらわれて、30万円なしではいられなくなってしまい、20万円に落ちると苦しみを感じるということだからである。
つまり、より多くを得て喜ぶと、幸福・不幸を決める比較の基準が上がり、その結果、苦しみなく生きることができる(月給の)範囲が狭くなるということである。苦しみなく生きていくことができることを、その人の(精神的な)自由・幸福であると考えるとすれば、その意味での幸福や自由は、逆に、減ってしまったことになる。ある意味で、精神的には弱みが増えたようなものである。
これは、30万円という月給に対して「とらわれ」が生じた状態であるとも表現できるだろう。30万円になった時に、再び20万円に戻る不安を抱いて、戻らないように、30万円を守ろうとして気をもみ、ストレスを感じるのである。すなわち、20万円から30万円に月給が増えたが、その結果として、とらわれ=精神的な不自由も増えたということである。
これもまた、冒頭に述べた、喜びの裏に苦しみがある、苦楽表裏の現象の一つである。例えて言うならば、木は高く登れば気持ちが良いが、高く登れば登るほど、落ちる不安や落ちた時の痛みも大きくなるということである。
そして、ある心理学的な見解では、20から30に上がった時の喜びより、30から20に下がった時の苦しみの方が大きく感じるという見解もある(喜びの大きさと苦しみの大きさを同じ尺度で科学的に計量することはできないため、あくまでも主観的・心理的な印象に基づく見解であるが)。これは、「欲しい」と思う気持ちよりも、それを得た後に、「失いたくない」「失うのが嫌だ」と思う気持ちがより大きい(場合の)ことを示しているのではないだろうか。
しかしながら、仏教の教え・修行においては、より多くを得たとしても、それに対する(精神的な)とらわれを生じさせない工夫をすることで、その裏側に失う不安や苦しみが生じることを予防することができる。それについては後に詳しく述べる。
11.自分の幸福を妨げる者、奪い合いによる怒り・憎しみ・妬みさらに、「今よりもっと、他人よりもっと」と、皆が求める社会の中では、当然奪い合いが生じる。より多くを求めるのは自分だけではないのである。すると、自分の幸福を妨げる、奪う他者に対する怒り、憎しみ、妬みが生じることになる。
しかも、これは、より多くを得れば得るほど強くなる。なぜなら財物や地位や名誉も、より大きなものほど、得ることができる人は少なく、競争・奪い合いは激しいからである。すなわち、ピラミッド構造になっており、上に行くほど、小さく狭くなっているのである。
前と同じ木登りの喩えでいえば、木は上に行けば行くほど、細くなっており、より少ない人しか登ることはできない。すると、怒り・憎しみを抱いて、蹴落とし合うことが多くなり、自分より上の他者を、憎む、妬むことになるのである。
12.怒り・憎しみの対象=「敵対者」を作り出す自分の心ここで注意しなければならないのは、人は、自分の幸福を奪う、損なう、妨げる者を「敵」とみなして、怒り・憎しみ・妬みを抱くが、自分の欲求が強ければ強いほど、他人を敵と感じやすくなる一面があるということである。すなわち、他人ばかりが悪いわけではなく、他人の在り方と、自分の心の在り方の双方が、自分の中に「誰かが敵だ」という認識を作り出すのである。
よって、自分でも気づかないうちに、多くの欲求・欲望を持っている人ほど、欲求の少ない人に比べて、より多くの他人を「自分の敵」と認識する心理状態に陥ることになる(しかし、本人はそれを自覚していない場合が多い)。仏教では、この点に注目し、自分が敵対者と見なす者に対して、自分の内省を含め、深い考察をすることの重要性を説く。そして「敵は教師」という教えもある。イエスが説いた「汝の敵を愛せ」という教えにも通じるのではないかと思う。
13.怒り・憎しみがもたらす不幸:人間関係の悪化先ほど述べたように、「他人よりもっと」と際限なく求める心が強ければ強いほど、いろいろな意味で、自分の幸福を妨げると感じる他者、怒りや憎しみを感じる他者は、増えることになる。
ところが、その心の働きと言動は、敵対視した他人から自分の幸福を守る結果ばかりにはならず、逆に、自分の幸福を損なう結果を招くことが多い。これは、「人を呪わば、穴二つ」「情けは人の為ならず」などと昔からいわれてきた普遍的な道理・道徳ではある。しかし、現代社会に至っても、これは十分には根付いていないと思うので、よく検討してみたいと思う。
まず、例えば、他に怒り・憎しみを抱いて、何かしらの苦痛や攻撃を加えれば、苦しめられた他人からは当然、同じ怒り・憎しみが返ってくる当然の道理がある。例えば、他人の悪口をことさら言う人がいるが、こうした人は当然嫌われ、不幸になることになる(なお、他人に具体的な問題がある場合、それを論理的に指摘することは悪口ではないだろう。また、相手の成長を願ってのものであれば、利他・愛の行為でもあるだろう)。
14.心理学が示す、怒り・憎しみ・攻撃性が招く不幸しかし、精神科医の樺(かば)沢(さわ)紫(し)苑(おん)氏によれば、現在、自分の中のコンプレックスを紛らわすために、絶え間なく悪口を言う悪習慣に陥っている人たちが少なくないという。同氏は、これを悪口依存症と表現しているが、負け組の人が、無理に勝ち組になろうとして、無理な悪口を言う状態であろう。自分の側に何かの問題が発覚した時には、他人から集中的に批判されて、擁護されることもないだろう。
また、現代心理学の一部では、人が幸福になるために必要な基本的な条件として、心の安定・健康・知性に加えて、良い人間関係を説く。この点に関連して、京都大学の藤井聡教授は、幸運の正体を解明するために、「幸福な人・幸運な人とは、どんな人なのか」に関する社会学的・心理学的な調査・研究を行った。
その結果として、配慮範囲が広くて長い人(より多くの他者に配慮し、より長期的に考える人)が、長期的には、自分の周辺に盤石な人脈・ネットワークを作ることができ、その人を幸福にしようとする多くの人に恵まれて、幸福になることが判明した。
一方、配慮範囲が狭くて短い人(自分のことばかり、目先のことばかり考える人)は、最初は効率よく幸福になるように見えるが、本人の主観的な幸福感は乏しく(欲望が大きいからと思われる)、長期的には、豊かな人脈は形成できないために、多くの損失を被る人生となることが判明した。
そして繰り返しになるが、現代心理学の一部も、人が幸福になるための基本的な条件(リソース)として、心の安定、健康、知性に加えて、良い人間関係の重要性を指摘している。
15.脳科学が示す怒り・攻撃性が招く不幸:心身の不健康脳科学的に見ると、自分の勝利・優位を妨害する他の存在に対する怒り・憎しみ・攻撃性が強すぎると、アドレナリンやコルチゾールといったストレスホルモンの過剰な分泌を招き、心身の不健康や、知力の低下、寿命の短縮を招く。
これらのホルモンは、身の危険の脅威などがある時には、それと闘ったり、それから逃避したりして自分を守るために、必要不可欠なホルモンである。しかし、現代人の場合は、身の危険に限らず、しばしば自分の利益・価値を害するとみなして、他を敵視・恐怖・嫌悪する場合が少なくない。
こうして、ストレスホルモンの過剰分泌の状態になると、アドレナリンの場合は、高血圧・高血糖・動脈硬化・脳卒中や心筋梗塞などの心血管障害のリスクを高める。コルチゾールは、免疫の低下、高血圧・高血糖、糖尿病、肥満、癌、うつ病などのメンタル疾患のリスクを高め、不健康を招くことになる。
さらに、コルチゾールの分泌過剰は、記憶に関係する脳の海馬を委縮させてしまい、記憶力や目標達成力を損ない、不幸を招くことになる。まさに「人を呪わば穴二つ」ということである。先ほど述べた悪口依存症に関しては、悪口が多い人は、認知症になるリスクが2倍ほど高く、寿命が5年ほど短いといった欧州での統計的な研究結果もあるという。
逆に、他に対する感謝や慈しみは、幸福ホルモンといわれる、セロトニン・エンドルフィン・オキシトシンの分泌を促進させる。感謝の心は、エンドルフィンを分泌させる。このホルモンは、癒しのホルモンといわれ、鎮痛効果、免疫向上、細胞再生・新陳代謝、抗がん効果、若返り効果などがあるとされる。
オキシトシンは、他への慈しみの感情とともに分泌され、慈しみのホルモンといわれるが、幸福感、ストレス解消、不安の解消(脳の偏桃体の過剰な振動を鎮める)、副交感神経を活性化させてリラックス・安心・休息を促進、免疫力の向上、血圧等の低下による心臓・心血管障害の回避に役立つ。
さらに、エンドルフィンもオキシトシンも、コルチゾールとは反対に、記憶力・集中力・目標達成力を向上させる効果があるとされる。
こうして、脳科学と心理学の研究結果から、自分の目先の利益しか考えず、不満・怒り・憎しみが強い心や言動は、他人を苦しめるとともに、自分自身に、心身の不健康・知力の低下・人間関係の悪化といった、さまざまな不幸を招く。
逆に、感謝・慈しみの心や利他的な生き方は、他者を幸福にするとともに、本人自身を幸福にする。心身を健康にして、知力・集中力・目標達成力を高め、人間関係を改善し、幸福をもたらすのである。これは、まさに仏教が説く、利他こそが真の利己であり、自他の幸福は一体であるという思想を裏付けている。
16.人はなぜ、自ら不幸を招く生き方をするのかこうしてみると、人は、自分の目先の利益ばかりにとらわれ、自ら不幸を招く生き方をする面があることがわかる。これはいったいなぜであろうか。仏教の教えによれば、それが、悟っていない人たち全てが抱える精神的な愚かさであり、漢訳仏教用語では、痴(無智)などと呼ばれる。
そして、この無智のために、自らに不幸を招く欲求である貪りや怒りといったさまざまな煩悩が生じるとされる。すなわち、煩悩を戒める仏教は、快楽を捨てろと説いているのではなく、刹那的には心地よくても、長期的に見れば、自分にさまざまな不幸をもたらす自滅的な欲求を戒めているのである。
よって、この無智とは、自分だけの自己中心的な、目先の刹那的な利益・快楽ばかりしか認識することができず、そのため、他人と共に得る自分の長期的な本当の幸福を損なうことが認識できない心理状態である。わかりやすく言えば、「今の自分さえよければいい」という未成熟な心理状態である。
実際には、今の刹那だけではなく、長期的な幸福を考えれば、自分と共に他人の幸福も図ることが必要であるが、仏教の教えから見れば、現代に至ってもなお、人間は、十分に無智を乗り越えてはいないのである。その意味で、仏教の思想は、人間が幸福になるためには、その理性・知性・知恵がいまだに不十分な段階であり、それを深めて進化するべきであると説く思想ということができると思う。
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第1章 仏教の悟りの幸福哲学
1.はじめにここでは、仏教の基本的な世界観・幸福観のエッセンスに関して述べたいと思う。これは仏教の瞑想を行う上でも、非常に重要である。というのは、仏教で最も重要な瞑想とは、智慧や慈悲といった、その教えのエッセンスを繰り返し修習して、心身に浸透させるものであるからだ。すなわち、教えの言葉を知っていても、その意味を深く理解していてこそ、効果的な瞑想を行うことができ、心の浄化、意識の改革を実現することができるからである。
2.仏陀の最初の教え:四諦(したい)が説く一切皆苦まず、仏陀が最初の説法(初転(しょてん)法輪(ぼうりん))で説いた、四諦の教えにこそ、その世界観・幸福観がよく表れている。四諦とは、四つの真理というもので、①この世界は苦しみである(苦(く)諦(たい))、②苦しみの原因は煩悩である(集諦(じったい))、③煩悩を滅すれば苦しみを滅することができる(滅諦(めったい))、④苦しみを滅する道は八正道である(道諦(どうたい))、というものである。
そして、特にまず、最初の「この世界は苦しみである」という教えの意味をよく理解する必要がある。まず、「苦しみ」という漢訳仏教用語のサンスクリット原語「ドゥッカ」であり、それは単に苦痛という意味ではなく、不安定、不満足、不完全といった意味を持っている。つまり、単に喜びと苦しみの中の苦しみという意味ではない。これはなぜかというと、仏教では、苦楽表裏といって、苦しみと喜びは表裏一体で、別々のものではないという思想があるからだ。つまり、喜びであっても、不安定なことに、それがさまざまな苦しみに変わっていってしまうといった意味合いがあるのである。
次に、この苦諦は「一切皆苦」とも表現される。つまり、(煩悩を滅して悟りを得ない限りは)この世界のことごとくがドゥッカであるといったほどのニュアンスがあるのである。すなわち、ドゥッカではないもの、安定的で、満足できる、完全な喜びはなく、これは例外がないといった意味合いがある。
ではなぜ、このように言うことができるかを考えるために、人が喜びや苦しみを感じる心理のメカニズムを見ることにしたい。
3.人が幸福・不幸を感じる心理の中核に優劣の比較がある人の主な幸福・不幸は、自分では気づかないうちに行う、前の自分や、友人・知人などの他人との比較によって生じる。前の自分や友人・知人などの他者と比較して、(今の)自分が優っていれば、喜び(優越感・達成感)を感じ、劣っていれば、苦しみ(劣等感・喪失感)を感じるのである。
これについて、心理学的には、幸福・不幸は自己愛の充足の有無で生じると表現することがある。特に、飢え・渇きや戦争といった、絶対的な苦痛がなくなった現代の先進国社会では、この比較による幸福・不幸が大きなウェートを占めるといわれる。
例えば、給料が20万円の人が、30万円に上がれば喜びを感じるが、それが続くと、当初感じた喜びは消えて、もっと欲しいという欲求不満が生じる(欲求に際限がない)。これは、最初は前の20と今の30を比較して喜びを感じたものが、時とともに前の30と今の30を比較するからである。
なお、脳科学的に説明すると、生きるために有益な何かを獲得することによって喜びを感じるのは、その際にドーパミンという神経伝達物質が分泌されるからであるが、これは何度も同じ刺激を受けていると出なくなる。よって、より強い刺激、より多くの刺激が必要になる。すなわち30ではなく40、そして50と、「もっともっと」と際限なく求める欲求が生じる。こうして、脳科学的な視点から見ても、人の心理は、なかなか満足することがなく、際限のない欲求を抱く。
ところが、より多くを求めても、得られるとは限らない。これは当たり前のことであるが、その原因の一つは、客観的に見れば、自分だけでなく、皆が同じように、より多くを求めて、人の間の競争・奪い合いが生じるからである。その結果、求めて得られない場合は、前に述べた通り、苦しみを感じる。
4.得た喜びが消えて、得られない苦しみ・不満を生み出すメカニズムこうして、「今よりもっと、他人よりもっと」と求めて、①得られなければ苦しみが生じるが、②得られて喜んだとしても、長期的に見るならば、それに満足することなく、より多くを求めようとする欲求が生じ、それが得られないという苦しみ・不満を感じる結果となるのである。
これを長期的、大局的に見るならば、得て喜んでも、その喜びが消えて、より多くが得られない苦しみ・不満に変わっていくということができることがわかるだろう。
この心理は、現代社会では非常に多く、「欲求不満」・「ストレス」などと表現されることが多い。現代社会で多くの人が、絶えずなにかしらの「不満」に心がとらわれていて、今のこの時に、十分に充足していないのである。
わかりやすく言えば、満ち足りた心境にないということである。例えば、皆さんは、人生において満ち足りた心境を経験したことがあるだろうか? もしあれば、それはいつのことだろうか? 何年前? 何カ月前? 何日前? 今日は一時でもあっただろうか。
5.得たものを失う不安・苦しみ次に、何かを得て喜ぶと、それと同時に、それを失う不安、守る苦しみが生じる。そして、ついに失う時には苦しみが生じる。そして、より多くを得れば得るほど、失う不安、守る苦しみ、失う時の苦しみも大きくなる。
しかも、得た時の喜びは、先ほど述べたように、しばらくするとそれに慣れてしまう形で消えていき、より多くを求める欲求不満になるにもかかわらず、得たものを失う不安、守る苦しみ、失ったときに苦しむことは、続くのである。すなわち、20が30になった後、30に喜びを感じなくなっても、30から20に減ると苦しみを感じるのである。
これは、30に対して「とらわれ」が生じている状態であるとも表現できるだろう。30になった時に、再び20に戻る不安を抱き、戻らないように、30を守ろうとして気をもみ、ストレスを感じることも多い。
また、ある心理学的な見解では、20から30に上がった時の喜びより、30から20に下がった時の苦しみの方が大きく感じるという見解もある(喜びの大きさと苦しみの大きさを同じ尺度で科学的に計量することはできないため、あくまでも主観的な心理的な印象に基づく見解であるが)。これは、「欲しい」と思う気持ちよりも、それを得た後に、「失いたくない」「失うのが嫌だ」と思う気持ちがより大きい(場合の)ことを示しているのではないだろうか。
こうして何かを得た場合、それと同時に、それを失う不安、失うまいとする苦しみ、実際に失った時の苦しみが存在する。例えて言えば、木は高く登れば気持ちが良いが、高く登るほど、落ちる不安や落ちた時の痛みは大きい。
6.自分の幸福を妨げる者、奪い合いによる怒り・憎しみ・妬みさらに、「今よりもっと、他人よりもっと」と、皆が求める社会の中では、当然奪い合いが生じる。より多くを求めるのは自分だけではないのである。すると、自分の幸福を妨げる、奪う他者に対する怒り、憎しみ、妬みが生じることになる。
しかも、これは、より多くを得れば得るほど強くなる。なぜなら財物や地位や名誉も、より大きなものほど、得ることができる人は少なく、競争・奪い合いは激しいからである。すなわち、ピラミッド構造になっており、上に行くほど、小さく狭くなっているのである。
前と同じ木登りの喩えで言えば、木は上に行けば行くほど、細くなっているから、多くの人が登ることはできず、そのため、怒り・憎しみを持って蹴落とし合うことが多くなり、自分より上の他者を憎む、妬むことになるのである。
7.これ以上は幸福な人が増えない? 先進国社会の現状:意識調査からこうして、私たちの幸福・不幸は、自分たちが気づかないうちに、前の自分や他人との優劣の比較に基づいているために、意識調査をするならば、次のような不合理で理不尽ともいうべき心理状態が生じることになる。
① 先進国では30年前と比較して、「自分は幸福だ」と感じる人の割合が増えていない。
これは、客観的には、人々の(平均的な)所得や利便性は増えているが、人々の間での、勝ち組と負け組の割合は決して変わらないためではないかと思われる。② 日本では30年前と比較して、「幸福だ」と感じる人の割合が減った。日本でもお金や
利便性は増えているが、他国と比較すればデフレ・失われた30年となったし、市場原
理主義改革で貧富の格差が増え、富の集中が起こった。③ 自分の給料が多くても、他の給料がさらに多ければ、自分の給料が少なくても、他の給料がさらに少ない場合の方が、幸福を感じる(次ページの図を参照)。例えば、自分の給料が25万であっても、他の給料が10万であるならば、自分の給料が50万で、他の給料が100万である場合より幸福を感じる。
④ 幸福を感じる割合が一番多いのは、年収が700万円前後の人で、年収がそれ以上になると逆に幸福を感じる人が減る。なお、ある調査では、年収が1万5千ドル(日本でいえば生活保護受給の水準)以上になると、それ以上のお金を得ても、幸福感は増えないというものもある。
⑤ かつて経済水準は低いのに国民の幸福感が先進国並みに高いことで「幸福の国」として有名になったブータンは、それまでの情報鎖国を解消すると、幸福感が大幅に落ちてしまった(より恵まれた他国の状況を知ったからだと思われる)。
以上をまとめてみると、途上国のような絶対的な飢餓・貧困といわれるものや戦争がなくなって、社会保障や医療制度などの社会制度が整い、一定の健康で文化的な生活ができる先進国社会に関して言えば、これ以上、お金や利便性が増えても、これ以上幸福になることはできない(幸福を感じる人の割合は増えない)状況に至っているということができないだろうか。
8.老いる中でますます苦しみが大きくなる。幸福が尻すぼみの人生
さらに、こうして、求めても得られない苦しみ・不満、得たものを失う不安や苦しみ、奪い合いの苦しみは、年をとるほどに大きくなる。なぜならば、老いるほど、たいてい、求めて得る力は衰え、いろいろな意味で失うことが増え、他者に奪い負けることが増えるからである。最後には、命も失い死ぬことになる。
そこで、仏教は、人の苦しみを分類した「四苦八苦」という教えがある。仏教用語としての四苦八苦は、非常に苦しいという意味である日常用語としての四苦八苦ではなく、人間が苦しむさまざまなパターンを示して、まとめたものである。
それは、①求めても得られない苦しみ、②愛着したものと別れる苦しみ、③憎しみの対象と出会う苦しみ、④一切の存在にとらわれることによる苦しみ、⑤生まれる(出産の)時の苦しみ、⑥老いの苦しみ、⑦病の苦しみ、⑧死の苦しみである。
こうして、人生全体を見渡してみると、人生後半の老いた時期の方が、求めても得られない、得たものを失う、奪い合いに負けることは多くなる。苦しみがより多くなるのである。よって、老人はよく「若い人はいいね」と言う。今や、長寿社会といわれるようになったが、その中でも、「苦しく長い老後は嫌だ」と思ったり、「苦しまずに楽に死にたい」と思ったりする人は多い。
言い換えれば、(「今よりもっと、他人よりもっと」と求める普通の人の)人生の幸福は、残念ながら「尻すぼみ」なのであり、言い換えれば、「苦しみが尻上がり」なのである。若いうちには、喜んだり苦しんだりするし、人生は楽があれば苦しみがあると考えるが、それがだんだん、時とともに、苦しみの方が喜びより多くなって、最後は、すべてを失う死という最大の苦しみが待っている。
これは当たり前のことで、全ての人に起きることだから、特に若いうちは考えることが少ないかもしれないが、人生全体を見渡す長期的な視点を持って見ると、普通の人の人生の幸福は、尻すぼみである。
9.一切皆苦をあらためて検討するここで先ほど述べた「一切皆苦」について検討してみよう。結論から言えば、「今よりもっと、他人よりもっと」と、際限なく求め、煩悩の欲求のままに生きる限りは、以下のような苦しみの現実があり、それを考えると、一切皆苦を説いた釈迦牟尼の人生観に納得ができるのではないだろうか。
①この世界で、この喜びを得たならば、一生の間ずっと満ち足りて飽きることなく、 「もっと欲しい」という欲求と不満が生じないものは、一つもない。そして、「今よりもっと、他人よりもっと」と求めて、欲しいものは何でも得ることができる人も、一人もいない。
②木に高く登れば登るほど、落ちる不安・落ちた時の痛みが大きいように、喜びを得ると、その裏に、失う不安・守る苦しみ・失ったときの苦しみが生じる。そして、この世界に、どんなに高く登っても、落ちた時の痛みがない木は、一本もない。
③木は、高く登れば登るほど細くなり、多くの人が登ることができないように、「もっ
ともっと」と、皆で求めて奪い合う中で、得れば得るほど、奪い合い・競争は激しくなり、怒り・憎しみ・妬みも強くなる。そして、この世界に、上に行くほど太くなる木は一本もない。④これまでの①から③をまとめてみると、この世界のすべての喜びは、時とともに、なにかしらの不満・不安・失意・怒り・憎しみ・妬みの原因となり、その意味で、不安定で、不満足で、不完全なものである( → 一切はドゥッカ・一切皆苦である)。
⑤さらに、「今よりもっと、他人よりもっと」と求めたとしても、老いるほどに、求めても得られないこと、かつて得たものを失うこと、他人に奪い負けることが多くなり、最後は死んですべてを失う。そして、この世界に、老いない人、死なない人は一人もいない。
よって、そのように求めて生きても、不満・不安・失意・怒り・憎しみ・妬みといった苦しみは、時とともに増大していくのが人生である。
10.幸福な人の割合が増えることは、ますます難しくなる? 長寿高齢化の先進国社会
先ほど、この30年の間に、先進国社会では幸福を感じる人の割合が増えていないと述べた。ここでは、老いる(高齢期の)苦しみに関しても、(先進国)社会に当てはめて考えてみたい。
現在、特に日本をはじめとする先進国は、医療技術などの発展で寿命が延び、長寿社会ともいわれるようになった。これ自体は良いことのように思えるが、しかし、長寿社会の人生とは、若い時よりも不幸である高齢期が長い人生を送る社会である。
介護なく健康に生きることができる健康寿命は、平均寿命より10歳ほど短く、その意味で、人生の終盤は、健康で楽しく生き切ることができる人は少ない。以前は、若いうちは派手にやって、年を取ったら苦しまずにさっさと楽に「ピンころ」で死ぬことが理想とされる面もあったが、現代社会は、悪く言えば、医療技術のために(不健康なのに)簡単には死ねなくなった面もあるかもしれない。老いる苦しみとは、言い換えれば、若さや健康などを失う(失っていく)苦しみと言うこともできるだろう。
そして、そんな老後を不安に思う人が多く、数年前も老後のために数千万円の貯蓄が必要であるといった主張が物議をかもし、政治問題化したばかりである。
さらに、長寿社会の先進国は、同時に少子化の問題で悩み、若年層の人口の割合が減り、高齢者の割合が急速に増加する「高齢化社会」である。だとすると、ますます幸福を感じる人の割合が増えることが難しい社会になっていくという恐れがないだろうか。
11.諸行無常・諸法無我の教え:「四(し)法(ほう)印(いん)」仏教を代表・象徴する四つの教えとして「四法印」がある。それは「諸(しょ)行(ぎょう)無(む)常(じょう)」「諸(しょ)法(ほう)無(む)我(が)」「一切(いっさい)皆(かい)苦(く)」「涅(ね)槃(はん)寂(じゃく)静(じょう)」という四つの教えである。
ここで、一切皆苦の意味合いは、四苦八苦の教えなどを通して、すでに説明したが、諸行無常や諸法無我の教えも、一切皆苦と本質的に通じるものであり、ある意味で、それを言い換えたものだと言うことができる。
まず、「諸行」と「諸法」は、細かく言えば多少の違いはあるが、大雑把には、すべての存在・現象・物事といった意味である。よって、一切皆苦の「一切」と同じである(実は「一切皆苦」の原語を忠実に訳すと「一切行苦」であり、すなわち「諸行苦」と同じである)。
そして、「無常」とは、移り変わる、生じては滅するという意味である。先ほど述べたように、あらゆる喜びは、それを得るとともにさまざまな苦しみの原因となって、時とともに苦しみに変わっていく。さらに、人は、この世に生を受けて、一時的に若さと健康の喜びを得ても、時とともに老い病み死んで、それを失い、苦しみが増えていく。
また、「諸行無常」の「無常」と「一切皆苦」の「苦」が、本質的に同じことを意味することも、苦の原語のドゥッカが、不安定、不満足、不完全という意味であることを考えれば、理解できるだろう。不安定とは、まさに無常ということである。あらゆる喜びが、時とともにさまざまな苦しみに変わっていくので、それは無常であり、不安定=ドゥッカなのである。
また、これは先ほども述べたが、仏教では、苦楽を別々のものではなく、表裏一体のものと見る(これを苦楽表裏という)。そして、苦楽表裏は「苦楽無常」と言い換えることができる。なぜならば、喜びが苦しみに、また逆に苦しみが喜びに転じていく道理があるからである。
また、「無我」というのは、私、私のもの、私の本質ではない、といったほどの意味である。これも「無常」とともに考えるとよく理解できる。人生全体を見渡す長期的な視点を持つなら、財物・地位・名誉はおろか、自分の体や若さ・健康さえ、一時的に得たにしても、時とともに失うのが定めである。
これを言い換えれば、それらは、本当の意味では(長期的な視点から見れば)、私のものではなく、しばらくしたら天に返すために、一時的に預かっているもの、預かりものである。私たちの体を構成する材料である分子も、財物や地位や名誉も、やってきては去っていき、無数の人々・生き物の間を巡り続けていく。自分のものではなく、皆で共有し、使いまわしているものだということができる。
なお、この「無我」の意味の解釈としては、上記の解釈(私・私のもの・私の本質ではない)に加えて「永久不変の本質がない」という意味もある(一つ目の解釈は、釈迦牟尼の直説に見られるもので、二つ目は釈迦の死後に生まれた解釈である)。この意味においては、それは無常(ならびに苦=ドゥッカ=不安定)と、非常によく似た意味となることがわかるだろう。
12.縁起や空の教えも、無常・無我・苦の教えと本質的には同じ無常・無我・苦などの教えとともに、仏教の基本的な世界観を示すものが、縁起・空という教えである。縁起とは、条件・原因によって生じるという意味である(「縁」が条件・原因という意味)。
縁起の思想は、仏教の中核の思想といわれるほどに重要な教えである。釈迦が説いた縁起の教えは、苦しみが煩悩を条件・原因として生じるというものであり、仏教用語では「此(し)縁性(えんしょう)縁起(えんぎ)」といわれる。内容としては、先に述べた四諦の教えと本質的に同じであり、煩悩と苦しみの心理的な因果関係を説いたものだ。
なお、仏教では、煩悩の根本(根本煩悩)は、無智(痴・無明)とされ、無智を根本とした煩悩が、どのような段階を経て苦しみをもたらすかを説いた教えを「十二縁起」という。これはまた別の機会に解説する。
しかし、釈迦の死後、縁起の教えの意味は拡大されて、森羅万象が条件によって生じていることを意味するものとなった。つまり、森羅万象は、どれ一つとっても、他から独立して、そのものだけで存在するものはなく、他に依存して、他を条件として生じるというものである。この世界すべてがそうであるから、言い換えれば、すべては互いに依存しあって存在していると説く(相依(そうえ)性(しょう)縁起(えんぎ))。
そして、なぜこの縁起が、無常などと同じ意味であるかというと、無常であるということは、何かの条件によって生じて、その条件がなくなれば滅するということだからである。無常ではなく、永久不変であるものがあるならば、それを言い換えれば、生じることもなければ滅することもなく絶えず存在し、その意味で、他から独立して無条件に絶対的に存在するものである。よって、この世界のすべてが、相互に依存しあって存在する(この世界のすべてが縁起している)ために、この世界のすべては、無常(諸行無常)であるということになる。
また、幸福・不幸を感じる心理的なメカニズムに、この縁起の教えを当てはめて表現するならば、人の感じる幸福・不幸は、その人の心が、その優劣を比較する対象を条件として決まるということになる。20万円という給料が、喜びとなるか苦しみとなるかは、それと比較されるこれまでの給料や友人・知人の給料の額によって、決まるのである。
そして、この比較の対象は、不変ではなく無常である。先ほど述べたように、10万の給料の人が20万の給料を得た時は、10万と20万を比較するが、しばらくすると、20万と20万を比較するから喜びがなくなり、「30万が欲しい」と思うようになると、30万と20万を比較するから欲求不満が生じるというように、絶えず移り変わっていく。よって、人が感じる幸福・不幸は無常であり、その理由は、幸福・不幸が、比較の対象を条件として生じる=縁起しているからである。
次に、空の教えも、仏教では非常に有名な教えである。空とは、「むなしい」という主観的な感情のことではない。それは「固定した実体がない」といったほどの意味となる。よって、これも、縁起や無常と同じ本質を持つ概念である。森羅万象は、他から独立しておらず、相互に依存しあっており(縁起しているために)、無常であって、固定した実体がないのである(空なのである)。
この空の教えを、優劣を比較して幸福・不幸を感じる人間の心理に当てはめるならば、例えば、20万という給料に喜びを感じることがあったとしても、その喜びには固定した実体がないということになる。先ほど述べたように、時が経ち、条件が変わると、喜びが消え、苦しみに変わる。こうして、20万という給料には、喜びという実体はないということになる。
これは、人が、ある時に何かに感じる喜びや苦しみには、固定した実体はないということになる。固定した実体がない原因には、さまざまなものがあって、①すべての現象は無常であるから、喜びを感じた外界の現象自体が変化して(なくなって)しまうかもしれないし(上がった給料が再び下がって元に戻るなど)、②それを感じる人の心理が変化して(20万では喜べずにもっと欲しくなるなどして)、同じものに対して、前と同じ喜びを感じなくなるかもしれない。
こうして、仏教では、人がこの世界にあると思っているものや、この世界の何かに感じている幸福・不幸には一切、固定した実体がなく、一種の幻影のようなものであると説く。こう表現するならば、「空」という言葉の語感と一致するのではないか。
そしてこのことを「一切皆空」と言う。「一切皆苦」と「一切皆空」は、言葉の表現がよく似た教えだが、本質的には同じ道理・法則を異なる表現で表したということもできると思う。それは、諸行無常・諸法無我(さらには縁起)も同様である。
13.仏教の幸福観:幸福は外界にはなく、心が生み出すものこうした仏教の幸福観の特徴を端的に表すならば、「幸福・不幸は、実際には、外界には実在せず、人の時々の心が生み出すものである」ということになる。絶えず何かと優劣を比較する人の心が、時々に感じるものが、幸福・不幸であるということである。
しかし、普通の人は、「外界にこそ幸福がある」と錯覚し、それを得ようと求めて、例えば、財物・地位・名誉などを求める。ところが、実際には、時々の自分の心(脳神経ネットワーク)が、何かと優劣を比較することで、喜びや苦しみの感情を作り出しているから、そのため、客観的・長期的な視点で見れば、時を経て、以前は喜んだものを悲しんだり、逆に悲しんだものを喜んだりすることもある。
そして、問題は、この時々に優劣を比較する心は、自分の意志・理性・智恵によって制御されておらず、それまでの習慣によって無意識的に行われ、喜びや苦しみ(や喜びでも苦しみでもない)の感情が、自動的に湧き上がってくる。
これを心理学的・脳科学的に言えば、私たちが自覚しない無意識の脳活動が今までの習慣などから勝手に作り出した苦楽の感情を、私たちの意識がそのままに経験させられているということなのである。これは、無意識的であり、自動的であり、習慣的なものであって、意識的ではなく、自分の意志によらず、その時の状況に応じて熟慮された判断ではない。
14.自らの心を制御する「心の主」となる生き方が、仏道・ヨーガであるそして、最大の問題は、これが私たち(の意識)を人生全体にわたって幸福にしてくれる自動システム(=良い習慣)であるのならばよいのだが、残念ながらそうではないことだ。
例えば、他者と優劣を比較すれば、半分の人は負け組となって不幸を感じることになる。また、頻繁に苦楽の感情の波がやってきて、それに心身が翻弄・消耗されながら生きることになり、穏やかな安定した心からは遠ざかってしまう。さらには、徐々に年を取るにつれて、若い時よりも、苦しみが増えていくことになる。
こうして、我々を幸福に導く自動システム・良い習慣だとはいえないことに気づくならば、「悪い習慣のついた心の奴隷」である状態を脱却して、本当に幸福になるために、自分で心を制御する「心の主」となる生き方をすることが望ましいことになる。
そして、仏道・ヨーガの修行の目的とは、まさにこの「心の制御」であり、「心の主」になることだということができる。実際に、釈迦牟尼は、遺訓として、弟子たちに「心を制御して、心の主となるように」と訓戒したという。
また、「ヨーガ」という言葉の意味は、体操ではなく、心の制御(厳密には「心の働きを止滅すること」)である。さらには、ヨーガという言葉が由来する「ユージュ」という動詞は、牛馬を馬車につなぎとめるといった意味があり、これは、ヨーガの思想が、人の心を牛や馬にたとえて、牛や馬を調御するように自分の心を制御するべきであるということを意味している。
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第1章 旧統一教会問題:カルトとマインドコントロール
1.安倍氏射殺事件で政治と宗教のつながりが問題に「新々宗教ブーム」といわれた1990年代の前半に、幸福の科学、オウム真理教、旧統一教会が話題となったが、今年2022年の7月に安倍元総理が山上徹也容疑者に射殺されてからは、一連のオウム真理教事件が発覚した1995年以来、再び宗教の問題が社会の大きな注目を浴びることになった。
その犯行動機が、同容疑者の母親が信仰した旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)への恨みであり、元総理が同教団を後押ししたことであることが、警察の取り調べで判明したといった報道をきっかけとして、同教団と自民党議員などの政治家とのつながりの問題とともに、同教団のさまざまな問題が、メディアで盛んに報道された。
その結果として、2022年12月には、悪質な寄付勧誘を規制する新たな法律が制定された。さらに、今後文化庁は、同教団の宗教法人の解散命令の請求を視野に入れて、同教団に質問権を行使している。また、厚生労働省は、同教団が無許可で信者間の養子縁組の斡旋を行っていたという疑惑の調査をしている。
その過程においては、自民党を中心とした政治家・議員の一部が、同教団のイベントに参加したり、選挙での支援を受けたりしている問題が指摘された。そして、教団と自民党が癒着し、その政策に影響を与えたり、同教団が公安当局が予定していた摘発を免れたりしたのではないかとか、その団体名の改称の申請において(「世界基督教統一神霊協会」から「世界平和統一家庭連合」への改称)、改称を承認する権限を持つ文化庁に対して、政治家が便宜を図ったのではないかといった疑惑が報道された。
こうして、自民党をはじめとする政治家が同教団とのつながりを批判された背景には、以前から同教団が反社会的であるという見方があった。同教団に対する批判は、1970年代にはすでにあったともいわれるが、1980年代には、いわゆる霊感商法といった詐欺的な商法の問題が、最初に注目を浴びた(例えば朝日ジャーナル誌などの批判報道である)。
そして、1990年代初めには、オウム・幸福の科学への批判とともに、同教団の合同結婚式の問題が話題となり、そのころから、オウム真理教とともに、マインドコントロールの問題が話題となった。これは、家族や一般人と強く対立する価値観を信者が持つ過程において、教団が、あたかも信者に気づかれずに、信者の心理を操作し、信者が心ならずも教祖や教団の意思に従うようになるという見解である。
さらに、今年の同教団に対する批判においては、霊感商法に限らず、信者の家族生活を破壊するほどの、教団への信者の過剰な献金の問題や、信者である親が自分の信仰を子供に強制する宗教2世の被害者の問題が新たな注目を浴びた。そして、過剰献金を抑制する新法の制定の際の議論においても、野党を中心として、マインドコントロール状態での寄付を規制するべきだという主張がなされた。
そしてこの問題は、当初は、旧統一教会の問題であったが、その後、同教団と同じように、政治と深いつながりを持つ公明党の支持母体である創価学会や、宗教2世や献金の問題が同教団と同じように指摘される他の新興宗教団体、さらには伝統宗教・宗派の問題も言及されるようになった。
2.カルト問題:カルトと非カルトは明確に区別できないそもそもの問題は、政治と宗教全般のつながりではなくて、社会問題を起こすような反社会的な宗教団体、いわゆる破壊的カルト団体と自民党などの政治家とのつながりであった。すなわち、宗教一般の政治とのつながりが批判されたのではない。
しかし、旧統一教会への批判の高まりとともに、フランスのように、カルト団体の活動を規制する新しい法律(反セクト法)の制定を求める声が上がった。一般の宗教団体からカルト団体を区別して規制しようとしても、カルト団体の明確な定義、カルト団体とその他の団体を区別する明確な基準を作るのが難しいことが指摘された。
旧統一教会の問題は、1980年代からフランスを含めた欧米でも問題化し、それをきっかけとして、フランスは2000年代になって反セクト法を制定した。なお、セクトないしセクト団体とは、カルト団体と同じような意味で今日は用いられている(本来はセクトとは新派・分派を意味する言葉であり、宗教の世界でいえば、伝統宗派から分離独立する新宗派を指した言葉であった)。
そして、その過程では、1995年などに、フランスの議会が、反セクト団体などの見解を参考にして、セクト団体のリストを作成した。ところが、その対象には、旧統一教会だけでなく、エホバの証人、崇教真光、サイエントロジーに加えて、自民党が連立政権を組む公明党の支持母体である創価学会さえも含むものだった。さらに、ベルギーが作成したセクト団体のリストの中には、禅仏教や上座部仏教など、欧州にとっては伝統宗派ではない、キリスト教以外の宗教が広く含まれていた。
これでは、旧統一教会と自民党の裏の関係の有無を追及する前に、公の連立政権である自民党と公明党=創価学会の関係を否定しなければならなくなる。とすれば、創価学会・公明党はおろか、他の新興宗教団体はこぞって、カルト団体の法的な規制には反対ということになる。
フランスの反セクト法のカルト団体の定義を見ても、例えば「反社会的」という言葉があるが、何が反社会的か否かという点に関しては、明確な定義がないことがよく指摘されている。
こうした問題がある中で、2000年代になって、フランスの首相自身が、そのセクト団体のリストを否定し、法的には意味を持たないことが表明された。また、創価学会に関しては、リストから外れたという情報とそうではないという情報があるが、私の知り合いのフランスと宗教をよく知るジャーナリストである及川健一氏によれば、公明党の粘り強い働きかけによって、その後、創価学会はセクト団体のリストから外されたという。
また、伝統宗派はカルトではないかといえば、小川寛大氏(宗教・政治ジャーナリスト、雑誌「宗教問題」編集長)によれば、例えば、献金集めの問題に関しては、伝統宗派にも問題を感じるという。小川氏によれば、伝統宗派においても、権威主義的な体制による献金集めがあり、旧統一教会などの新興宗教団体のものより洗練されているために社会問題化していないが、今後、伝統宗派・新興宗教問わず、日本では宗教団体が衰退している中で、無理な献金集めが起こる気配が一部にはあるという。
また、池田信夫氏(経済学者)によれば、今や伝統宗派であるプロテスタント教会も、カトリック教会から分裂した時代に、カトリック教会によってカルトと呼ばれており、歴史的に見ても、カルト団体とそうでないものを区別するのは難しいことを主張し、そもそもが、信教の自由がある中では、規制すべきは、団体やその教義自体ではなく、団体の構成員のなす個々別々の犯罪行為・違法行為のみだという原則論を主張している。
そもそも、「カルト」とはどういう意味かというと、原語には儀礼・儀式という意味があり、宗教的な専門用語としては、熱狂的な信仰集団という意味である。その観点から、全ての宗教は、その始まりはカルトであり、世俗的な価値観と対立するという意味で反社会性を持っており、それが歴史の中で社会的に適応し、社会で成功したものが、いわゆる伝統宗派であるという見方がある。すなわち、宗教とは、成功したカルトであるという意味である。
カルトと似たような意味で使われるセクトが、新派・分派という意味があることから考えても、既存の社会や既存の支配的な宗教に対して対立して分離した集団が、セクト・カルトということであれば、その最初は、その時代においては反社会的なものであって、対立・分離するほどの熱心な、熱狂的な信仰が生じたものであることは推測できるだろう。
そして、キリスト教のカトリック教会と対立して離反したプロテスタントの登場を境にして、両者の間に長年の宗教戦争が生じたことは、その典型的な例であると言うことができるかもしれない。
3.宗教に限らず、政治・経済・国家のカルトがあるさらに、カルト団体とは、宗教団体には限られない。実際に旧統一教会にも、関連する政治団体(最も有名なものが反共産主義の団体として設立された「国際勝共連合」)や、関連する事業会社(2009年に刑事摘発を受けた霊感商法の会社「新世」)がある通りである。
実際に、旧統一教会は、日本でこそカルト宗教団体というイメージであるが、韓国では宗教よりも財閥グループとして有名であり、教祖の文鮮明は、教祖としてよりも、事業家イメージが強いという。旧統一教会は、日本、韓国、欧米と、地域ごとに、活動の形態が大きく異なっており、全体として、国際的に企業組織の性質が強い。
そして、一般論として、カルト団体とみなされるものには、宗教カルトに加えて、政治カルト(政治団体)、経済カルト(企業などの経済・事業団体)などがある。陰謀論団体もカルト団体とみなされる場合があるだろう。そして、国家全体がカルト的な思想を帯びる場合もある(国家カルト)。
政治カルトとしては、連合赤軍事件などを招いた極左の共産主義団体があるが、それに加えて、公党である日本共産党も、公安調査庁と現政権によって、暴力主義的革命を捨てきっていないとして、破壊活動防止法の対象となっていることは、最近あらためて知られるようになった。
さらに言えば、国家神道に基づいて、自国を、世界を統べるべき現人神である天皇が統べる神の国と位置付けて、大東亜共栄圏を主張し、中国大陸に進出(侵略)した大日本帝国に対して、当時のアメリカ合衆国政府は、カルト宗教国家と認定していたという。
そして、昔のことを言うならば、ヨーロッパのキリスト教徒が、神の意思(天命)と考えて、アメリカ大陸に進出し、武力をもって原住民のほとんどを抹殺して、合衆国を建国したことは、現代の価値観で言えば、全くカルト的な行為であるといわざるをえない。しかし、こうした経緯があるからこそ、例えば、今でも米国の大統領就任式においては、大統領が、牧師の前で聖書に手を置いて(合衆国憲法を守る)宣誓をし、神の助力を願うのである。
なお、これに関連して、一般に、「政教分離」という言葉・原則があるから、政治と宗教は分離されるべきだというイメージがあるが、これには大きな誤解がある。
政教分離とは、政治と宗教を完全に分断するものではなく、政治が特定の宗教を特別扱いしたり、逆に弾圧したりしてはならないという程度のものである。また、現在の日本の政教分離は、世界の中でも(フランス等とともに)相当に厳しい部類に属し、そもそもが、キリスト教の影響が非常に強かった歴史を持つ欧米諸国の多くは、日本より宗教と政治が結びついている。
一説によれば、政教分離には、分離型・融合型・同盟型の三つのタイプがあるといわれており、日本は分離型である。英国のように、堂々とキリスト教を国教としている国もあり、これは融合型に属するという。さらに、政治とキリスト教会の間に協約を結ぶ同盟型と呼ばれるものもある。
ドイツのメルケル元首相の政党の名前は、キリスト教民主同盟であり、政党名に宗教名が入っているのである(日本で言えば「神道自由民主党」「創価学会公明党」とでも言えばいいか)。アメリカ合衆国は、日本と同じように分離型に属するそうだが、大統領就任式に関して前で述べたように、日本から見れば、キリスト教に対してきわめて好意的な体制である。実際に、米大統領選挙では、キリスト教保守派・原理主義とされる福音派の影響力が毎回よく指摘されている。
そして、当の日本も、戦後のみ分離型であって、それ以前の大日本帝国の時代は、言うまでもなく、事実上、神道を唯一の国教とする国家神道の体制であった。仮に敗戦がなければ、今もそうだったかもしれない。
4.マインドコントロールの問題:定義自体が曖昧次に、先ほど述べたマインドコントロールに関して言及したい。メディアや政治・政策討論で、マインドコントロールという概念がいささか間違って使われていると思う。
まず、マインドコントロールとは、実は明確な定義がない言葉で、言い換えるといろいろな意味を持つ多義語である。マインドコントロールとは、日本人にとっては英語のため、その意味がそもそも明瞭ではなく、人それぞれ同床異夢のように違ったイメージ・語感を持っていると思う。逆に言えば、英語で意味が不明瞭だから流行しやすかったのかもしれない。
この言葉が1900年代後半に生み出された米国では、後から述べるように、日本ほど流行しておらず、反カルト運動が提唱する仮説であり、怪しい概念というイメージがある。英語で「マインドコントロール → コントロールマインド」を直訳するならば、他者の心理を操るという意味ではなく、心の制御を意味し、その広い定義の中には、セルフコントロールという良い意味を含む場合もあるとされる。
とはいえ、大雑把に言えば、マインドコントロールとは、物理的な力を使わずに、精神的な働きかけのみで、相手に気づかれずに、自分の望む意思・行動に、相手を誘導すること(やその技術)である。しかし、これが、①本当にできることなのか(少しはできるにしても宗教の入信・信仰をさせるほどの効果があるのか、②さらに具体的な集団(教団)がその方法を知り(学び)、それを意図して使っているかについては、実は、科学的な証拠などが乏しく、否定する学者も多く、これまでは、国内外の宗教団体の裁判などで、不法行為としては、認められたことがない。
「マインドコントロールとは、操作者からの影響や強制を、気づかれないうちに、他者の精神過程や行動、精神状態を操作して、操作者の都合に合わせた特定の意思決定・行動へと誘導すること・技術・概念である。マインドコントロール論とも。不法行為に当たるほどの暴力や強い精神的圧力といった強制的手法を用いない、またはほとんど用いない点で、洗脳とは異なるとされる。宗教研究の分野では、国内外でも懐疑的な見方が少なくない。現状、一部の研究者や反カルトを標榜する活動家により、様々な形態のマインドコントロール仮説が唱えられている。」(参考資料:Wikipedia「マインドコントロール」)
ところが、例えば、立憲民主党や維新の会は、メディアの旧統一教会批判の勢いのままに、悪質な献金勧誘による被害を救済する対策として、このマインドコントロール理論に基づいて、信者の意思を無視して献金を取り消し、さらには、具体的に定義されぬMC行為を、犯罪として献金勧誘者を処罰する法案を提出した。
しかし、これに対して、政府与党(や国民民主党)は、「マインドコントロールの定義は困難」などと主張して反対した結果、新法においては、罰則付きの禁止規定ではなく、罰則無しの配慮義務の中に、「自由意思を抑圧し、適切な判断を困難にしない」という抽象的な表現で盛り込まれるという結果に留まった。
5.マインドコントロール理論には科学的な証拠が乏しく、裁判で認定
されていないこのマインドコントロール問題の重要性は、自由意思の問題(自分の自由な意思で献金する、しないを判断することなど)と関係する。マインドコントロールとは、それによって、信者が自分の「自由意志」を教団に奪われて、教団の意に沿って意思決定・行動するようになったということを意味する。
だからこそ、野党の法案では、信者が献金しても、それを信者の自由意思、自己の選択とは認めずに、家族がそれを取り消すことができるとしたのである。本来は、自分の財産の処分は自分が自由にできる財産権が、本人にある(成年被後見人などの一部例外を除く)。しかし、自由意思を奪われて、いわば教団のロボットとなっている信者には、それを認めないというのである。
しかし、繰り返しになるが、マインドコントロールが実際に可能なのか、また実際に特定の集団で使われているのかなどについては、科学的な証拠が乏しく、統一教会やオウム真理教などの国内外の裁判では、これまでに認められたことがない。
宗教学者の大田俊寛博士は、「マインド・コントロール論を用いてオウムという現象を一貫して説明し得たような著作や論文も存在しない。」「社会心理学が指摘したように、近代の社会システムにおいて人間は、受動的・依存的になりやすい。とはいえ、『人間が集団の力や場の力に支配され、あたかもロボットのように精神を完全にコントロールされてしまう』というのは、明らかに現実離れした極論」と述べている(参考資料:「社会心理学の「精神操作」幻想~グループ・ダイナミックスからマインド・コントロールへ」第70回心身変容技法研究会 発表者:大田俊寛 2018年9月2日(於:上智大学))。
〈http://waza-sophia.la.coocan.jp/data/18100401.pdf〉宗教学者の櫻井義秀教授(北海道大学)も、下記の書籍などで、入信・信仰の原因の説明には不十分と結論している(参考資料:「オウム真理教現象の記述をめぐる一考察」(J-STAGE))。
〈https://www.jstage.jst.go.jp/article/hokkaidoshakai1988/9/0/9_0_74/_article/-char/ja/〉実際に、統一教会やオウム真理教の裁判では、マインドコントロールに関しては、その事実認定自体がなされていない(一件だけ、信者に有利な情状として減刑の理由の一部として受け入れられたとも思われる事例があったが、その上級審で減刑が取り消されており、マインドコントロール理論は、犯罪を全く正当化・免罪するものとしては認められていない)。(参考資料:Wikipedia「マインドコントロール」)
6.社会心理学的な技術としてのマインドコントールにも根拠がないここで、そもそも、マインドコントロールとは何なのかについて整理したい。まず、裁判の判決でも、「マインドコントロール」という言葉は、じつは多義的であり、いろいろな意味で使われていることが指摘されている。そして、我々日本人は、英語で表現されていることもあって、具体的な意味がわからないこの言葉をしょっちゅう聞き、自分でも何となく使う習慣が付いてしまっている。
前出の櫻井教授によれば、マインドコントロールは、第一に、すでにご紹介したように、「破壊的カルト教団による信者の利用」という意味があって、これは価値中立的ではないものと指摘し、第二に、社会心理学的技術の応用(による他人の心理の操作)という意味、第三に、他律的行動支配という意味がある。
この中の二つ目の社会心理学的技術とは、人格の「解凍・変革・再凍結」の理論をベースに、認知不協和理論や影響力論、ジャック・ヴァーノンの感覚遮断実験、フィリップ・ジンバルドーの監獄実験、プライミング効果論などの社会心理学的テクニックを活用して行われるといわれている。
しかしながら、①これらの技術に(入信・信仰に誘導するほどの)効果があるのか、②統一教会等のカルト教団がこれらの技術を実際に使っているのか、という点に関しては、先ほども紹介した通り、米心理学会の判断では、科学的な証拠は乏しく、裁判で認められておらず、日本でも前出の櫻井教授や大田俊寛博士も同様の見解である。
より具体的には、宗教学者のダグラス・E・コーワン や、宗教社会学者のデイヴィッド・G・ブロムリー などが、
①洗脳の技術が、反カルト活動家が言うほどの効果があり、無差別なものであるのなら、対象や時代に関わりなくその技術は機能するはずだが、実際北アメリカでは、新宗教が若い人の勧誘にかなり成功していたのは、1960~70年代の対抗文化運動の間だけであり、以降は劇的に減少していること。
②洗脳を効果的に行うには、おそらくある程度の専門技術が必要なはずであるが、洗脳を行っていると非難されている新宗教では、加入間もない新人メンバーたちが勧誘活動を行っている。時間の経過で技術は向上するはずであるが、そういった成果の向上は見られない。また実際のところ、新宗教は全体として信者を引き付け維持することに失敗していることなどを挙げて、その効果を反論している。
さらに統一教会に関しては、
③1970年代にE・バーカーが統一教会に対して行った最も徹底的で信頼できる調査(期間は6年)で、バーカーは入門者が会員として残る確率は、極めて低いと結論付けている。統一教会に勧誘された人々のうち、実際に会員として加わったのはごくわずかで、新会員もほとんどは短期間で活気を失っていた。
などと報告している(参考資料:Wikipedia「マインドコントロール」)。
7.マインドコントロールは、反カルト運動家が提唱した非中立的な概念さらに、注意すべきは、マインドコントロール仮説の発祥の経緯である。前出の櫻井教授が指摘するように、「マインド・コントロールという理論は、アンチ・カルト集団が、信者の奪回・脱会を促進する自らの行動を正当化するための議論であり、立論の当初から価値中立的なものではなかった。」という(参考資料:「新宗教の形成と社会変動 : 近・現代日本における新宗教研究の再検討」北海道大学)
〈https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/33694〉より詳しい経緯は、朝日新聞(デジタル版)が以下のようにまとめている。
米国では60~70年代ごろにかけて、新しい宗教が注目を集め、それに呼応して「反カルト運動」も拡大していった。70年代に米国内で広がった旧統一教会も、こうした流れの中で注目された新興宗教の一つだった。一部の学者やグループは、新興宗教に若者らがのめり込むのは「洗脳」によるものだと主張した。「脱洗脳」のために、信者を無理やり拘束したり監禁したりする「強制脱会」も行われた。子どもを教団から引き離すために、脱洗脳を専門とする反カルト団体が両親に多額の報酬を求めることもあったという。しかし、心理学会などが「洗脳」自体に科学的な根拠が乏しいと指摘し、80年代ごろから「脱洗脳」行為は強く問題視されるようになった。強制的な脱会を違法とする判決も相次ぎ、反カルト運動は衰退した。(「「カルト規制」法整備した仏 消極的な米国、中国は「邪教」認定」2022年9月29日 朝日新聞デジタル版)
〈https://www.asahi.com/articles/ASQ9V31YJQ9JUHBI03K.html〉こうして、マインドコントロール(ないしは強制説得、洗脳)という主張の始まりは、信者を拉致監禁する強制脱会と結びついていた。その中では、マインドコントロールされた信者は、教団がその本来の自由な意思を奪って操っている状態であり、(信者の自由意思による選択として尊重する必要はなく)信者の意思に反しても拉致監禁して強制脱会してもよいという考え方があったことが推察される。しかし、結果として、それはやはり違法とする判決が相次ぎ、否定される結果となったわけである。
この点に関連して、よく聞かれる質問が、「なぜあんなものを信じるのか」というものである。言い換えれば、信者本人は、自分が好きで信じている可能性があることが、信者でない人には、受け入れがたいという心理があることを示していると思う。さらに、その信者の家族となれば、「教祖にマインドコントロールされて、心ならずも信じさせられている、強いられている被害者なのだ」と解釈しやすいと思う(そう解釈した方が心地よいということもあるだろう)。
8.日本での信者の強制脱会と、それに反対する弁護士や牧師の存在なお、櫻井教授が指摘した「マインド・コントロールという理論は、アンチ・カルト集団が、信者の奪回・脱会を促進する自らの行動を正当化するための議論」という事実は、米国だけではなく、日本の旧統一教会にも当てはまる。
すなわち、強制脱会を行う牧師や、お金でそれを請け負う脱会屋、それを知りながら受容した弁護士たちのグループが存在したという。教団の主張によると、4300人以上の拉致監禁の強制脱会説得を受けた信者がいるとされる(参考資料:全国拉致監禁・強制改宗被害者の会:https:// kidnapping.jp)。
そして、日本でも、信者による相次ぐ訴訟において違法判決が出て、教団によれば、2016年までには、拉致監禁は解消された状況になっている。その前には、キリスト教会の牧師が旧統一教会の信者を拉致監禁したが、信者が監禁から脱走して、牧師を民事訴訟するとともに刑事告発し、警察の捜査が始まる中で、牧師が自死するという悲惨な事例もあった。なお、軟禁などの緩やかな拘束の問題は、まだ残っているという情報もあるが、その事実は確認できていない(参考資料:同上https://kidnapping.jp)
なお、少しわき道にそれるが、かつてこの拉致監禁の強制脱会をしたり、それを受容した弁護士やジャーナリスト(のグループ)が、今メディアで統一教会批判をしたり、立憲民主党に同教団の問題の参考人と呼ばれる人たちの中心となっているという状況が少なからずある(参考資料:「米本和広氏の陳述書(3)」HP:「拉致監禁by宮村の裁判記録」拉致監禁被害者後藤徹氏の裁判を支援する会
〈http://antihogosettoku.blog111.fc2.com/blog-entry-112.html〉一方、そうした強制脱会手法に対しては、もとから否定的、批判的であって、自主的な脱会の支援をしてきた牧師・弁護士や、そのグループもある。こうして、統一教会への対応・見方は、牧師・弁護士・ジャーナリストでも実際には多様であるが、こうした方々の見解は、今のメディアではあまり報道されていない状況である。
こうして、統一教会などに対する反教団グループの拉致監禁犯罪が、マインドコントロール理論で正当化されることはなかった。その後、1990年代に日本のオウム真理教の事件が発生して、再び教祖にマインドコントロールされた信者という話が出て、裁判でも議論になった。しかし、このオウム裁判でも、教祖による犯罪を信者が受け入れて実行したことが、教祖によって信者がマインドコントロールされた結果だとして、免罪されることはなかった。
9.旧統一教会の勧誘・伝道行為の違法性:正体隠し勧誘なお、ここまで、マインドコントロール理論に関して、歴史的な経緯から、反教団グループの強制脱会や、教祖の指示を受けた信者の犯罪を正当化するものではないという視点から見てきた。しかし、だからといって、カルト教団の布教・教化活動が正当化されるわけでも、されたわけでもない。
この点に関しては、前出の櫻井教授が、自身のマインドコントロール理論に関する見解の一部が、統一教会の問題を否定するために、教団に使われたことを不本意として、「マインド・コントロール論による入信の説明は、宗教社会学の議論からは認めることができないと年来主張してきたが、『マインド・コントロール』という社会的告発に相当する宗教集団がひきおこした社会問題が存在していることは認めてきた」と述べている。
そして、統一教会の訴訟においては、元信者の原告が、マインドコントロールを不法行為として教団を訴えても認められなかったが、その後、原告は、主張の方法を変え、マインドコントロールではなく、教団の正体を隠して勧誘することなどを不法行為として強調して訴えるようになって、教団が敗訴するようになったという経緯がある。この点は、信者の研究者さえ明確に認めている(参考資料:「『青春を返せ』裁判と『マインド・コントロール理論』」http://suotani.com/archives/346 HP:「『洗脳』『マインドコントロール』の虚構を暴く」魚谷俊輔)。
また、日本の統一教会訴訟の第一人者といわれる札幌の郷(ごう)路(ろ)征(まさ)記(き)弁護士も、最近のテレビ出演で、「マインドコントロールという言葉を自分は使わない」と述べながら、正体隠しの布教が最も重要な統一教会の伝道の違法性だと述べていた(参考資料:YouTube番組:Straight Talk[JBpress]「統一教会の裁判に何度も勝訴した郷路征記弁護士が語る、規制づくりで肝心なのはここだ」)
〈https://www.youtube.com/watch?v=v2CGGKDzNyw&t=440s〉。これも、統一教会訴訟の経緯と要点を象徴している。こうして、反統一教会の訴訟の第一人者の弁護士と、統一教会の幹部信者の双方が、マインドコントロール説を否定し、正体や目的を隠すなどの不適切な教化行為が裁判で不法行為と認められているものだということで一致している。これは非常に重要な事実だと思う。
さて、多少繰り返しになるが、勧誘の際に自分の正体を明かさないことは、勧誘対象にその判断のために必要で重要な事実を隠すことであり、勧誘対象の「自由意思」による判断を妨げる、抑圧するなどと、民事裁判の判決では考えられている。そのため、特定商取引法などでも禁止されている(氏名明示義務の違反)。よって、それを宗教の勧誘にも適用した弁護士と裁判所の判断は、その意味で従来の法理に基づいたものだと思われる。
政府の寄付規制新法では、自由意思を抑圧して、適切な判断を困難にすることや、正体や目的を隠した勧誘を行わないようにという配慮義務が盛り込まれたが、罰則を伴う禁止規定ではない点が、不足であると批判されている。すなわち、民事裁判では不法行為と認められるものの、宗教の勧誘において正体や目的を秘して勧誘することを禁じる法規はまだない。これに関しては、一般に注意を促す教育・広報政策とともに、規制の強化の検討が必要かもしれない。
実は、私が15年前に脱会したアレフ(旧オウム)では、この10年間ほど、正体隠しの覆面ヨーガ教室で、オウム事件は陰謀だと言う嘘をつくなどの詐欺的な教化方法で、相当数の若者を入会させており、私たちひかりの輪は、その脱会支援を行ってきたという経緯がある。
10.信じる自由と信じない自由の双方を含む信教の自由の確保をさて、以上を踏まえて、もう一度出発点に戻って考えて見ると、信者が入信する理由が、もっぱら教団からの働きかけ=マインドコントロールの結果としてしまい、信者側の要素、信者の自由意思で入信した可能性を一切否定することは、合理的ではないと思われる。
もちろん、教団に入ったものの、その後にやめた人がいるのも事実であり、その一部は今、メディアで教団を批判している。しかし、教団に入った人の中には、①教団の生き方の方が心地良く、自分に合っている人、②今話題の宗教2世など、自分に合っていないのに入信させられた人、③として、①と②の中間的な人、などがいるのだろうと思われる。
実際に、マインドコントロールを研究する社会理学者の西田公昭氏の論文でも、統一教会信者に関する専門家の研究結果として、「信者は集団に入る直前と直後を比較すると91%の人が神経症的苦悩が低くなり、会員であり続ける過程で神経症的苦悩は減少し、入信で苦悩は減少していた」という結論のものを紹介している(参考資料:「破壊的カルトでの生活が脱会後のメンバーの心理的問題に及ぼす影響」The Japanese Journal of Psychology 2004, Vol. 75, No. 1, 9-15)
〈https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy1926/75/1/75_1_9/_pdf〉逆に、同じ論文の中には、さらに、①脱会者には心理的な問題が生じ、具体的には、鬱、孤独、無抵抗、パニック、体重減少、湿疹、月経異常、悪夢、健忘症、自殺、自己破壊的感情、幻覚 ・妄想、知覚記憶障害など、②これらは、自主的な脱会ではなく、(信者を家族や家族の依頼を受けた脱会屋が信者を拉致監禁するなどした上で脱会を説得する)強制脱会の場合に起こる、という研究結果の紹介もされている。
また、弁護士の野口勇氏も、統一教会等の強制脱会の元信者の調査から、①心身のストレス・PTSDの発症損害、②家族への信頼が失われ,逆に家族の絆が切れる(別離・別居・離婚)、③アイデンティティ喪失の危険が高い、④教団への憎しみが固定化し精神的な安らぎを欠くなどを報告している(参考資料:宗教法学会公式ホームページ「宗教団体からの脱会強制」)
〈http://religiouslaw.org/cgi/search/pdf/200205.pdf〉そして、今現在、先ほどの分類でいえば、②ないしは③の人が脱会者となって、メディアが取材・報道している。彼らの苦しみはわかるが、教団をやめていない多くの人たちも、彼らと同じように教団にマインドコントロールされたにすぎず、彼らと違って、まだ自分の間違いと被害に気付いていないだけだとするのは、やはり行きすぎではないかと思われる。
旧統一教会の信者数は、10万人(教団広報部)とも、6万人とも、2万強(宗教学者の分析)ともされている。それを踏まえると、メディアに出る脱会者は、その全体から見れば、やはり少数と考える方が合理的、現実的であろう。
さらに、教団が勧誘した全ての人が入信するわけではないという事実がある。統一教会訴訟の第一人者の郷路弁護士の話によれば、統一教会の場合は、信者になる人の10倍から100倍、勧誘しても入信しなかった一般の人たちがいると思われる。この人たちは、結果として、マインドコントロールされずに入信しなかったわけである。だとすれば、やはり自分の自由意思、自分の欲求が、教団とマッチしたために、入信して教団に残っている人が多数に及ぶということを認める方が合理的に思われる。
以上を踏まえると、教団が正しいから皆が信じてよいのか、ないしは、教団は間違っているから皆信じるべきではないのか、という二者択一の問題ではないように思われる。個々人の性格・価値観・体質で、好き嫌いが分かれる問題であって、信じたい人は信じる自由と、信じたくない人が信じなくて済む自由の、双方の自由を実現することが、信じる自由と信じない自由の双方を含んでいる「信教の自由」の実現ではないだろうか。しかし、その一方で、脱会者や(脱会者を被害者としての顧客に持つ)弁護士の方の発言ばかりに基づいて、「教団での生き方が合っていて、それを続けたい」と思う人達に関しても、マインドコントロールという仮説に基づいて、「教祖・教団にマインドコントロールされ、自分達の被害にまだ気付づくことができない人」とばかり決めつけるのはどうかと思われる。
11.旧統一教会が反省するべき無理な教化活動しかしながら、これまでの旧統一教会は、少なくとも結果として、教団には合っていないタイプの人も含め、入信させようとしてきたことは、さまざまな事実からして否定できないだろう。特に、親の強い影響のもとで2世信者となったが、その後に辞める人や、献金した後に返金を求める人がいる。
これは、自分たちが信じる宗教の信者を増やせば増やすほど、献金は多ければ多いほど、よいと信じて行動するうちに、やはり、いろいろと無理が生じた結果ではないだろうか。また、その意味で、旧統一教会に限ったことではなく、実際に、他の宗教にも宗教2世などの問題はある。一部の報道で出てくるのが、エホバの証人、幸福の科学、創価学会などである。
また、宗教2世の問題に関連しては、近年新しい信者が増えなくなったために、2世信者の育成に注力し、その割合が増えているのは、他の宗教団体でもよく見られる傾向である。しかし、旧統一教会のようなタイプの教団の場合は、特に、その1世と同じように、その2世が教団に合っているという保証はない。よって、この問題に対する改善・対策が必要なことは確かであり、これに向けて、今いろいろな議論が各方面でなされているのだと思う。
12.マインドコントロール論の弊害最後に、これまで述べてきた問題を持つマインドコントロール理論の弊害に関して、宗教学者の大田俊寛氏の論考を紹介しながら、以下に言及したいと思う(参考資料:「社会心理学の「精神操作」幻想~グループ・ダイナミックスからマインド・コントロールへ」第70回心身変容技法研究会 発表者:大田俊寛 2018年9月2日(於:上智大学)http://waza-sophia.la.coocan.jp/data/18100401.pdf)
大田氏によれば、マインドコントロールには以下のような弊害がある。
(1)正確な説明の欠如
「カルト」とは、さまざまな問題を解決しようと、多くの人々が特定の思想や考え方、特に単純で偏向したそれを支持するところから生じる。マインド・コントロール論は、カルト問題の本質を誤認させるため、一般社会にいつまでも不全感・不安感が残存する。
(2)対話の阻害
マインド・コントロール論は人々に、カルト的な団体と接触すれば精神操作されるのではといった、過剰な不安感をもたらす。カルト問題を解決するためには、当該団体と冷静で粘り強い対話を継続することが必要不可欠なのだが、それが不可能になる
(3)責任の所在の極端化
カルト的な運動とは、当該団体と周辺社会のあいだ、指導者と信奉者のあいだの、複雑な相互作用から生じる。ところが、マインド・コントロール論に依拠すると、マインド・コントロールした団体が悪い、さらには、その中心にいた指導者が悪いと、責任の所在が極端化してしまい、その後の処遇も著しく不公平なものとなってしまう。
(4)主体性の喪失
「マインド・コントロールされていた」ということを理由にカルトから脱退すると、それによって一時的に自身の責任を免れることができるが、それは同時に、自身の根本的な主体性を否定することにも繋がる。カルトに関与したことを自身の責任と認めず、すべてを団体のせいにしようとする歪(いびつ)な思考回路が生じることもある。
(5)被害妄想の乱反射
マインド・コントロール論は、「見えない敵が密かに自分をコントロールしようとしている」という被害妄想を増大させる。その論理は実は、陰謀論と近似的であり、オカルト的な書籍では、「権力者が大衆をマインド・コントロールしている」という主題が見られることも多い。カルト側と反カルト側でマインド・コントロール論の応酬となり、被害妄想が乱反射しながら昂進してゆくという現象も生じる。
(6)法秩序の瓦解
裁判で扱われるさまざまなケースにおいて、関係者の行動の一つ一つに対し、「マインド・コントロールされていた」可能性を考慮に入れ始めると、審理をスムースに進めることは著しく困難になる。また、そういった理由から犯罪への責任が減免されるということになれば、個人の主体性に立脚する近代の法秩序は、根底から瓦解してしまう。
このようにマインドコントロール理論のもたらす弊害を述べた上で、大田氏は、その理論の背景にある受動的・依存的人間像から脱却し、主体性の確立を目指した地道な努力を重視するべきだと言う。
具体的には、同氏は、
「社会心理学が指摘したように、近代の社会システムにおいて人間は、受動的・依存的になりやすいとはいえ、人間が集団の力や場の力に支配され、あたかもロボットのように精神を完全にコントロールされてしまうというのは、明らかに現実離れした極論」
であり、「本来われわれが目標とすべきは、近代の人間が受動的・依存的になりやすいという事実を認めた上で、そこから脱却する方途を見出すことであったはず。そのためには、周囲からいかなる影響を受けようとも、最終的には自ら考え、自ら決断し、自ら責任を取らなければならないという、主体性の原理の重要性を強調し続けなければならないし、同時に、健全な主体性を発揮するために必要とされる幅広い知識を身に付ける努力を怠ってはない」
と述べている。
2022~23年 年末年始セミナー特別教本「今日の宗教問題の総合解説 仏教の真言と読経の瞑想」この教本の購入はこちら2022年 夏期セミナー特別教本「宗教と政治の問題と和の思想 精進:正しい努力の教え」 (2025年4月28日)
2022年 夏期セミナー特別教本「宗教と政治の問題と和の思想 精進:正しい努力の教え」
第1章 精進(しょうじん):正しい努力に関して
1.はじめにヨーガ・仏教のいろいろな教え・法則であろうと、心理学の理論・心理療法であろうと、心身の向上に役立てて幸福になるには、単に、頭で学んで知識を増やすだけではなく、それを身に着けるまでの努力がなければ、あまり役に立たないことの方が多い。これは、実際に学びに入った人が実感することだと思う。
私たちの幸福・不幸や、心や体のあり方は、その日常の思考・感情・性格・体の使い方・行動の仕方・周辺の環境などが深く関係しているが、それらのほとんどは、その都度、自分の意識が自分の意思で選択しているようで、実際には、習慣的に無意識的に(無意識の脳活動に主導されて)行われている。これが心理学の研究によっても確認されている。
そのため、自分を良い方向に変えていくということは、これまでの悪い習慣を修正して、良い習慣を形成するという側面がある。こうして、今まで知らなかった良い知識を頭で吸収することと、それを心身において身に着けること(良い習慣にすること)は異なるのである。
2.仏教の精進の教え仏教には、精進という言葉があり、これは日常用語にもなった。
精進は、元は梵(ぼん)語(ご)のビールヤ(vīrya)の漢訳の仏教用語である。「勤(ごん)」「精勤(しょうごん)」などとも訳される(日本大百科全書(ニッポニカ)「精進」の解説より)。精進の元の意味は、①ひたすら仏道修行にはげむこと、また、その心のはたらき、などである。
それから転じて、②一定期間、言語・行為・飲食を制限し、身をきよめて不浄を避けること。物忌みすること、③一般に、魚や肉類を食べないで菜食すること。また、その料理、④一所懸命に努力することを意味するようになった(精選版 日本国語大辞典「精進」の解説より)。
われわれの日常用語では、④の意味で使われることが多いことは、ご存じの通りである。
仏教教義の中では、仏祖釈迦牟尼がその最初の説法で説いた「八(はっ)正道(しょうどう)」という実践徳目(実践課題)の一つである(正精進(しょうしょうじん))。
また、その後に釈迦が説いた、四(し)正(しょう)勤(ごん)、五(ご)根(こん)、五(ご)力(りき)、七(しち)覚(かく)支(し)などの教えでも説かれる。
さらに、釈迦の死後に発展した大乗仏教における基本的な実践徳目(実践課題)である「六(ろく)波(は)羅(ら)蜜(みつ)」の一つにもあげられて、重視された。
3.正精進(しょうしょうじん)・四正勤先に述べた釈迦は、その最初の説法で説いた八正道の八つの実践徳目の一つとして、「正精進」(パーリ語: sammā-vāyāma 梵語: samyag-vyāyāma)を説いた。これは、具体的には、「四(し)正(しょう)勤(ごん)」を意味すると解釈される。
四正勤(パーリ語: cattāro sammappadhānā)とは、同じく釈迦が説いた「三(さん)十(じゅう)七(しち)道(どう)品(ぼん)」の教えの一部である。4種の正しい努力のことを意味する。これは、「四(し)精(しょう)勤(ごん)」「四(し)正(しょう)断(だん)」「四(し)意(い)断(だん)」とも訳されることがある。
四正勤の具体的な内容は、以下の通りである
①断断(だんだん) - すでに生じた悪を除くように勤める
②律(りつ)儀(ぎ)断(だん) - まだ生じない悪を起こさないように勤める
③随(ずい)護(ご)断(だん) - まだ生じない善を起こすように勤める
④修(しゅ)断(だん) - すでに生じた善を大きくするように勤めるパーリ語の仏典における釈迦牟尼の説法を紹介すると以下の通りである(パーリ仏典, 相応部 道相応, 44 Magga Saṃyutta, Avijjāvaggo, Sri Lanka Tripitaka Project)
Katamo ca bhikkhave, sammāvāyāmo: idha bhikkhave, bhikkhu anuppannānaṃ pāpakānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ anuppādāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Uppannānaṃ pāpakānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ pahānāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Anuppannānaṃ kusalānaṃ dhammānaṃ uppādāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Uppannānaṃ kusalānaṃ dhammānaṃ ṭhitiyā asammosāya bhiyyobhāvāya vepullāya bhāvanāya pāripūriyā chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāvāyāmo.
比丘たちよ、正精進とは何か。 未発生の不善(akusalānaṃ)は、これが生じないよう、比丘らは関心を持って努力し精進(ヴィーリャ)することである。 発生した不善は、これを解消するよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。 未発生の善は、これが生じるよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。 発生し成された善は、これが拡大するよう、比丘たちが関心を持って努力し精進することである。 比丘たちよ、これを正精進と呼ぶ。
ここでいう「悪」(akusala)と「善」 (kusala)とは何かというと、経典の解釈書(論蔵)においては、一般的に、「悪」(akusala)は、仏教が説く三つの根本的な煩悩である「三毒」を意味している。
三毒とは、①貪(とん)(lobha、貪り)・②瞋(じん)(dosa 怒り)・③癡(ち)(moha 無智)を意味している。そして、「善」(kusala)は、その反対で、①無(む)貪(とん)(alobha)、②無(む)瞋(しん)(adosa)、③無(む)癡(ち)(amoha)を意味している。
4.四正勤の教えから学べる智恵:慢心・油断の戒め四正勤の教えをよく見てみると、単に善を増やし、悪を減らす努力をするというだけでなく、今生じていない善を生じさせるように努めたり、今生じていない悪が生じないように努めたりするといった努力を強調しているのが、一つの特徴である。これは、一言で言えば、慢心・油断を戒める内容だと思う。人の努力を鈍らせる最大の要因の一つは、確かに、慢心であり、油断であると思う。それは、向上欲求とは逆のものである。
しかしながら、人は、労苦をともなう努力・向上よりも、安楽・堕落に流される傾向がある。そのため、ある程度努力して幸福になると、その後は努力が鈍り、その結果、元の木阿弥になることがよくある。その際に出てくるのが、「自分はもう努力を続けなくても(増やさなくても)大丈夫だろう」という慢心・油断だと思う。
そして、この慢心・油断は、自分と他人を比較して、自分を他人よりも上に見るときに生じやすい心の働きでもある。例えば、律儀断(まだ生じない悪を起こさないように勤める)は、悪をなすことを予防する心構えであるが、他人との関係にあてはめて解釈すれば、自分はなしていないが、他人がなしている悪行を見ては、それに単に軽蔑・見下しの心を持つのではなく、自分の反面教師と見て、自己の戒めにせよ、という意味合いがある。
また、随護断(まだ生じない善を起こすように勤める)も、他人との関係にあてはめて解釈すれば、他人に生じているが、自分には生じていない善行(とそれによる幸福)を見たときは、それを妬むのではなく、自分の見本・教師として学んで見習うことが大切であるという意味合いがある。こうして、四正勤は、自己向上のために重要である他人からの学びを示唆するものでもある。
5.積み重ねの重要性:善がさらなる善をもたらすまた、「まだ生じない善を起こすように勤める」という努力と、「すでに生じた善を大きくするように勤める」という努力という、二つの努力が合わせて説かれていることは、この二つには関連性があるからだと私は思う。すなわち、今できる善をコツコツ続けて増やす努力をしていくことが、今はできない善も未来にできるようになることを助けるということである。
これは、最初は小さな善も、それを慢心・油断せずに、やめることなく続けて、少しずつ大きくするうちに、大変大きな善になるという道理を示していると思う。逆に言えば、最初は小さな悪も、慢心・油断によって、それをやめずに続けて、徐々に大きくしているうちに、大変大きな悪になる。
これは、継続的な努力の重要性、良い習慣の形成の重要性を示していると思う。仏教の教えで言えば、繰り返された善行や悪行によって生じる善い業(カルマ)や悪い業の力の重要性である。また、科学的に言えば、慣性の法則である。ロケットは、最初はゆっくりと浮上していくが、エンジンの噴射を続ける中で、時間とともに徐々にスピードを上げ、最後には猛烈なスピードで宇宙空間を飛ぶことになる。
6.六波羅蜜(六つの完成)の精進の教え次に大乗仏教の基本的な教えであり「六波羅蜜(六つの完成)」の中で説かれている精進の教えについて学んでみよう。チベットの高僧ケツン・サンポ氏によれば、その精進には3つの精進があるという。すなわち、「鎧の精進」「実行の精進」「飽くなき精進」である。
まず、「鎧の精進」とは、仏道修行を始める際の精進で、「仏道修行の目的である悟りなどを自分が達成できるのだろうか」といった不安を、勇気をもって振り払って、思い切って修行を始める努力のことである。
次に、「実行の精進」とは、仏道修行の開始を明日に延ばすことなく、今日すぐに開始することである。すなわち、よく言われる、今日できることを明日に延ばすなということだ。ケツン・サンポ氏は、ある高僧の言葉に、「人の一生は、一瞬ごとに死に近づいていく、今日できることを明日に延ばしていては、人は死の床でうめき続ける生を送る」というものがあると述べている。
また、「忙しいから仏道修行のような新しいことができない」と考える人たちに向けて、「人の世俗の業は、子供の遊びに似て、手を染めればいつまでも続き、やめようと思えばすぐにやめられる」「実行の精進とよばれているものはその決心に関わっている」と述べて、時間の問題ではなく、自分の中の決心の問題だとしている。
最後の「飽くなき精進」とは、仏道修行を始めて、どこまで行っても、「もうだいぶ進んだ、もうこれくらいでいいだろう」などと思うことなく、飽くことなく、精進を続けることである。これについては、後に詳しく述べることにする。
7.実行の精進から学ぶ智恵:先延ばしにする悪習慣の問題今日できることを明日に延ばさずに今日実行するという実行の精進は、ある意味で、よく言われることであるから、当たり前のことのようにも思えるかもしれない。「思い立ったら吉日」「善は急げ」というのも同じ意味だろう。
しかし、このように実践できるかと言えば別の問題だろう。この実践が難しいのは、ある意味で、私たち人間の本能に関係しているから、仏教的な表現で言えば、根本的な煩悩に関係しているからだと思う。
具体的には、私たちは、幸福にはなりたいが、「楽に幸福になりたい」し、「早く、少ない努力で、幸福になりたい」と思う。しかし、実際には、「ローマは一日にして成らず」、「急がば回れ」というように、価値のあるものこそ、一朝一夕にはならず、長期間の継続的な努力が必要だ。これに対して一生の時間というものは、思ったよりも長くはなく、「光陰矢の如し」というように、人生の時間はあっと言う間に経ってしまう。
そして、落とし穴が、「今日ではなく明日からやればいい(悪いことは、明日からやめればいい)」という考えである。この落とし穴は、そう思う本人は、嘘をついているつもりはないのだが、多くの場合、実際には、「明日からやればいい」というのが最初にあるのではなく、「今日はやりたくない」という怠け心が最初にあって、それを正当化するために、「明日からやればいい」という考え方が、自分に対する一種の言い訳として浮かんでいるのではないか。
だとすると、どうなるか。「明日からやればよい」と思った時から一日が経って、その明日が今日になっても、また再び「今日はやりたくない」という昨日と同じ気持ちが持ち上がってきて、再び「明日からやればよい」という昨日使った言い訳を繰り返し、また先延ばしになる可能性がある。
そもそも、人の心・体・行動には習慣性があるから、「今日やりたくない」と思って、今日やらない行動をとれば、それが習慣となって、再び明日以降も繰り返される可能性がある。そうして毎日、明日に先延ばしする習慣が付けば、いつまで経ってもやらないままとなり、そのうち(何かの言い訳を自分にして)完全に忘れていってしまう可能性がある。
習慣の力は大きいので、先延ばしにすることを繰り返し、その習慣が深まっていくと、実行することはますます難しくなる。これを考えると「思い立ったら吉日」というのは、意味のあることだとわかる。思い立った日に実行するのではなく、それを下手に(怠け心で)先延ばしにしていると、その習慣の力で、実行することがより難しくなる面があるからだ。
8.努力の実行ができるのは今日・今この時だけ
今日できることを明日に延ばさない実行の精進を、別の視点で考えてみよう。それは、私たちが生きているのは、今日である、ということだ。言い換えれば、私たちが努力できるのも、今日の今の瞬間である。
昨日や明日については、考えることはできるが、考えることはできても、昨日しなかった努力をしたことにはできないし、明日なすべき努力を今日のうちから計画することはできるが(計画することは良いことだが)、それを実行することはできない。言い換えれば、明日や昨日は、私たちの頭の中にある概念であって、実在するのは、今日・この瞬間だけである。
そして、人は、昨日を含めた過去を後悔して苦しむことがあるが、後悔ばかりしている人は、今現在において、過去の失敗の反省に基づいて自分を改善する努力をしてないことが多い。同じように、人は、明日を含めた未来の不安で苦しむことがあるが、不安ばかり抱えて悩んでいる人は、未来に幸福になるために必要な、今現在の今日の努力には集中できていない。
言い換えれば、今現在・今日の努力に集中できている人は、後悔や不安にあまり悩まないものだと思う。逆に言えば、後悔ばかりしている人、ないしは不安に悩んでばかりいる人は、自分でも気づかないうちに、その背景に、今日の努力を積み重ねることを妨げる怠け心があるのではないだろうか。
そして、過去の後悔と未来の不安は、セットになっている。後悔ばかりして、反省と改善の努力をしない人は、自ずと自分が向上していく見通しが持てず、自信がなく、卑屈が強く、未来に不安を抱えることになる。こうして、後悔・卑屈・不安はセットになり、その背景には、今現在の努力が乏しいこと、怠け心がある。卑屈や不安の背景に、「それを取り除くための努力をしたくない」という怠け心が隠れている。
9.飽くなき精進から学べる智恵:焦らず弛まず努力を続ける次に、飽くなき精進について、より詳しく述べる。これは、仏道修行を始めてどこまで行っても、「もうだいぶ進んだ、もうこれくらいでいいだろう」などと思わず、飽くことなく精進を続けることである。飽くなき精進に関する経典の言葉として、以下のような言葉が述べられている。
「まるで、ゆったりと流れ続ける大河のように、完全なる仏性(悟り)を得るまで、貴方はゆったりとして飽くことなく、修行に打ち込んでいくのである」
「ヤク(ウシ科ウシ族の動物)は自分の少し先にある草を見つめながら、草を食べながら進んでいく。仏道の修行も、そのようでなくてはならない。いつもこれで十分などと安心することなく、少し前方を見つめながら、着実に前進を続けなければならない」
「もう修行の必要はない、と思うこと自体が、まだまだ修行を必要とするという証拠だ」飽くなき精進の教えは、第一に、継続的な努力の重要性を説くものだ。「ローマは一日にして成らず」「急がば回れ」というように、何事も本当に価値があることは、一朝一夕には成らない。
特に心身・人格の向上、意識の改革といったことが目的の場合は、継続的な努力が必要なことは、科学的に明らかだと思う。人の心の働きは、その体と密接不可分であることが、最新の心理学や脳科学の研究の進展によって、ますます明らかになってきた。例えば、心の働きに直接的に関係するものが、人の感情と直接関係する脳内神経伝達物質を含む脳の神経ネットワークだろう。
一方、人の体の細胞が更新されて入れ替わるためには、平均して数カ月かかるといわれている(細胞によって長短がある)。また、その細胞を構成する分子が、体全体において完全に更新されて入れ替わるには数年(一説に7年とも)かかるともいわれている。これは、「石の上にも三年」という格言と関係するのではないかと私は思う。だとすれば、何かの努力を始めて、それにともない、心や体が変わっていくためには、継続的な努力が必要である。
脳科学者の中野信子氏は、脳の神経細胞は何歳になっても新しいものが生まれるが、それは使われないと(鍛えられないと)定着しないために、何かの精神的な努力をなす場合は、数日といった短い期間に無理な努力をするのではなく、少なくとも数カ月間、毎日継続的な努力をすることが望ましいとしている。継続的な努力は、毎日生まれる新細胞が望ましい形で定着することを助けるが、短期間の努力では、定着する脳細胞はごく少数にとどまるから、脳のあり方を大きく変えられないのだろう。
10.焦らず弛まずコツコツ努力を続ける重要性継続的な努力の重要性に加えて、飽くなき精進の教えから学び取れるニュアンスは、焦らず弛まず、努力することである。経典の言葉を引用するならば、以下のようになる。
「まるで、ゆったりと流れ続ける大河のように、完全なる仏性(悟り)を得るまで、貴方はゆったりとして飽くことなく、修行に打ち込んでいくのである」
「いつ、どこにあっても、貴方は必要とするだけの食べ物を食べ、惰眠を貪らず、緊張しすぎるのでもなし、リラックスし過ぎるのでもない状態で、心を統一して、精進に励むように」ところが、私たちは、焦らず弛まずコツコツ努力することが、意外と苦手である。というのは、何を努力するにも、「できるだけ早く達成したい」という欲求があるからだろう。達成感は喜びとなるから、「それを早く得たい」と思うのである。また、これと本質的には同じことだろうが、強い不安を抱えている場合などにも、それから早く逃れたいがために、焦ってしまうこともあるだろう。
しかし、この心の働きを突き詰めて考察すれば、「地道な辛抱強い努力なしに、早く楽に幸福になりたい」という心の働きだろう。すると、これは一種の怠惰が背景にあると言うこともできる。
そして、焦りを背景として、一時的に無理な努力をする場合も多い。しかし、結果は出ないままに、そうした努力は長続きせずに終わってしまう。いわゆる三日坊主である。これは、本当の精進・正しい努力のあり方ではないだろう。
また、この逆に、実行の精進で述べたように、人は、「一定の達成を得た」と感じると、慢心に陥り、油断してしまって、努力が鈍ることがある。この背景としては、人には皆、「自分が優れていると思いたい」という自己愛があって、「努力を続けなくても自分は大丈夫だ」という慢心・油断が生じるのだろう。しかし、地道な努力の積み重ねが大きな成果を生むのと同じように、油断の積み重ねも大きな苦しみをもたらすことになる。
こうして、さまざまな背景によって生じる焦りと弛み、無理と怠惰の双方を避け、焦らず弛まず、無理せず怠けず、コツコツと努力を続けていくことが大切である。
11.努力の仕方に関する仏陀の中道の教え:緊緩中道また、先ほど紹介したように、経典では、「まるで、ゆったりと流れ続ける大河のように、貴方はゆったりとして飽くことなく、修行に打ち込んでいくのである」とか、「緊張しすぎるのでもなし、リラックスしすぎるのでもない状態で、心を統一して、精進に励むように」と説いて、緊張しすぎることなく、弛緩しすぎることもなく、努力を続けることを強調している。
この点に関して、仏教の重要な思想に、中(ちゅう)道(どう)という思想がある。その一つは、体をひどく痛めつける苦行主義と快楽を貪る快楽主義という両極端の修行の仕方を排除して、そのどちらにも偏らずに、中道の修行に励むというものである。これを苦楽中道という。現代的に解釈すれば、自分の体を痛めつけるような生き方・修行の仕方(苦行主義)は避け、健やかに生きるに必要なものは確保しつつ、それ以上は欲張らずに、快楽を貪ること(快楽主義)を慎むといったほどの意味になるかと思う。
これに加えて、仏陀は、瞑想修行の努力の仕方に関しても、中道の教えを説いたと解釈されている。その要点は、瞑想において、力んで緊張しすぎることなく、弛緩しすぎることなく、バランスを取って実践しなさいというものだ(緊(きん)緩(かん)中(ちゅう)道(どう))。
仏陀は、その際に、「ギターの弦は、きつく張れば切れてしまうが、弛みすぎれば音が出ない」という巧みな表現を使って、力むあまり瞑想がうまくできていない弟子に対して、緊張と弛緩のバランスを取って瞑想に励むように説いたという。
この緊張と弛緩のバランスをとるという考えも、先ほど述べた、焦らず弛まず、無理せず怠けずの精神と、本質的に同じことではないかと思う。焦っていると、無理するし緊張しすぎる。逆に、弛みすぎて怠けるならば、努力にならない。
12.努力を助ける智恵:苦しみに喜びを見出すさて、努力の行為は、一面において労苦・苦しみである。しかし、その労苦が、自分の成長と未来の幸福をもたらすとか、他人の幸福をもたらすという、本質的ないし長期的な幸福・喜びをもたらす場合に、努力の行為になるのだろう。このことを言い換えれば、苦しみに喜びを見出す賢明さ(仏教が説く智慧)が強ければ強いほど、精進・努力ができることになることを示している。
ユダヤ人強制収容所に収容された経験を持つフランクルという精神科医・心理学者が提唱した、ロゴセラピーという心理療法の理論では、人は、生きる意味を見出すことができれば、幸福に生きることができ、そうでなければ、幸福に生きることができないと説く。特に、苦しみに意味を見出すことができれば、苦しみにも耐えることができるという。
フランクルは、強制収容所の極限状態の中で、絶望して自殺する人、ますます自分勝手になる人、そして、思いやりを持つ人などを見た。その中で、体力の優劣よりも、生きる意味を持っていた人が、多少体力が劣っていても生き残ったという。これは、苦しみに耐えて生き延びて、果たすべき何かの目的があった場合もあるが、それに限らず、その苦しみ自体に意味を見出すことが含まれる。それは多くの場合、その苦しみによる自分の精神的な成長、他者への思いやり・慈悲といったものに関係しているという。
また、大きな災難から立ち直るための「レジリエンス」の心理学(レジリエンスとは、立ち直る力)においても、立ち直る力の強い人は、ものの考え方が多様・柔軟で、苦しみを、視点を変えて喜びと考え直す能力が高いという。これは、切り替え、リセットする力とも表現できる。これは、苦しみの裏に喜びがあると説く仏教の思想と同じである。
また、精神科医の樺沢(かばさわ)紫(し)苑(おん)氏によると、病気の回復が早い人は、病気になった自分を拒絶せずに素直に受け入れ、むしろ感謝する傾向が強いという。例えば、病気を契機に、これまでの生き方を振り返って反省して改善するなどである。
13.仏教の苦楽表裏の思想仏教の思想を学ぶと、苦しみは煩悩が原因とされる。煩悩とは、間違ったものの見方(痴=無智)を原因とした貪りや怒り(貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち))などであり、これを一言でいえば、無智によって、間違った執着をしたり(欲張りすぎ)、間違った嫌悪をしたり(嫌がりすぎ)して、自分で苦しみを招くということである。
よって、逆に、苦しみの経験が、その原因の煩悩を和らげて悟りに向かう仏道修行に入る契機となるという教えがある(苦あって信あり)。さらに、苦しみの経験は、自分だけの苦しみではなく、この世の人の苦しみの経験であり、それを縁として、同じ苦しみに嘆く人々を救おうとする慈悲の源になるという教えもある(観音菩薩の誕生の説話など)。
悟りや慈悲という仏教的な視点ではなく、一般的に言っても、苦しみは視点を変えると喜びになる。例えば、他者からの批判は、それによって、自分では気づかなかった自分の問題を知って、それを反省改善して、成長するきっかけとなる。また、理不尽・不合理な批判であれば、それに動じずに冷静に対応すれば、それを見ている第三者の評価は逆に上がることになる。逆に、全く批判されない場合は、自分の問題点がわからないばかりか、批判しても無意味であると思われ、他人に見捨てられている場合もある。
病気は、上にも述べたが、自分の従来の生き方を顧みて、それを反省・改善することができる機会となる。また、自分を支える他者や、自分の体自身への感謝のきっかけとなり、人間としての幅を広くすることもある。さらに、一つくらい持病があった方が、体をいたわるために、長生きをするという経験則がある(一病息災)。逆に、体力自慢は、体に無理をかけやすく、早死にしやすいともいう。
経済的な困難は、質素倹約の智恵や習慣を身につけたり、お金の価値の理解を助けたりする。それによって、お金を浪費せずに、お金を有意義な目的に活かすことができるようになる。逆に、いくらお金があっても、長い人生の中では、それを浪費してしまって借金を負う場合もある。
そして、さまざまな失敗・挫折の経験は、それに諦めずに努力を続ける人には、「失敗は成功の元」というように、最終的な成功にたどり着くための貴重な経験・ステップであり、智恵を深めるものである。この背景には、失敗なく、簡単に達成できるものは、さほどの価値はないという道理がある。失敗・困難という苦しみは、逆に言えば、取り組んでいる課題に価値があることを示している。
こうして、苦しみの裏には、さまざまな喜びを見出すことができる。
14.困難・苦しみを乗り越える努力が脳の発達・進化を促すさて、最新の脳科学によると、困難を乗り越えるために立ち向かうときに、人の脳は、訓練され、機能が向上するという。その際、脳は、普段のリミッターを外して全力で活動するのである。
というのは、脳にとって、困難とは、直ちにはその問題の解決法がわからないものだからである。そのため、巷で流行った脳トレゲームなどは、すぐにその答えがわかってしまうために、脳の訓練・機能向上には、実際にはあまり役に立たないという。
ただし、困難があれば、どんな場合も脳が発達するかというと、そうではない。困難によって潰れてしまった人の事例があるように、困難に際して、心がそれを乗り越えようとすれば、脳はフル活動して、成長するものの、心がそれを諦めてしまうと、脳は活動をやめて、そのため退化してしまうのである。
そして、脳は、そもそも、鍛えなければ30~40代で老化を開始するという。そして、長寿社会では、高齢者の精神・知能の疾患の増大が問題になっている(認知症は、90代は8割。老人性うつ・自殺、感情暴走などの問題)。
この要因の1つに、高齢期の多くの喪失体験(仕事・社会的な地位、配偶者・友人・交友関係、自宅・生きがい等を失う)がある。最近は、高齢者に限らないが、単身者の増大、孤独の問題が、精神疾患・認知症・集中力などの知力の悪化の問題をもたらしている。
この老化は、脳の前頭葉(人間らしい脳)から始まる。前頭葉は、理性・感情制御・意欲・想像力・新しいものへの意欲などを司る。すなわち、老化は気(意欲)から始まるのである。すなわち、脳や体を使う意欲が減退し、それを使わない、鍛えないために、記憶力などの他の脳の機能が老化する(「記憶力が悪くなった」と感じる前に、脳や体の使い方が減っている)。
一方、脳は、何歳になっても新しい神経細胞が生まれることが発見されている(1997年に発見。それまでの脳科学の常識を覆す大発見とされる)。ただし、脳を鍛えない場合は、その新しい神経細胞は、定着せずに消えてしまうのである。
そのため、アルツハイマー病で脳の一部が損なわれても、他の脳の部分がそれを補うように発達して認知症を発症しない高齢者や、膨大な記憶が必要な職業では(例えばイギリス・ロンドンのエリートタクシードライバー)、その記憶の訓練の前後で、脳の機能(神経ネットワーク)だけでなく、その外形まで大きく変化するという事実が発見されたという。
こうして、困難や苦しみを乗り越える努力を前向きに行うことは、脳を発達・進化させて、長期的な幸福をもたらすのである。
15.「老年的超越」状態の超高齢者の至福感も、困苦を乗り越えた結果1990年代に、「老年的超越」現象が発見され始めた。それは、超高齢者の一部が、悟りの境地を得ているような現象である。
彼らは「今が一番幸せ」と言う。そして、健康状態に満足し病苦がなく、今日生きられることに感謝し、死の恐怖がない。人間関係も不満・孤独感・寂しさがなく、逆に他者への感謝や無償の愛、さらには、万物とつながった感覚(宇宙意識)を持つ人もいるという。そして、人生で起きたいろいろな事には(困難・苦しみを含めて)、全て意味があるという考えを持つことが多いという。
この老年的超越の状態の人は、その定義によって異なるが、超高齢者の数%から2割ともいわれる。しかし、その人たちは、順風満帆な人生ではなく、別離・病苦など多難な人生を乗り越えてきた人に多いことがわかっている(それに加えて、より高齢な人に多い)。
すなわち、さまざまな困苦を前向きに乗り越える中で、(特に感情を制御する前頭葉などの)脳機能が(若い時よりもさらに)向上したのではないかと思われる。よって、老年的超越を研究している高齢者心理学者は、人間には、思春期に続く第二の心理的な発達(脳機能の発達)が、高齢期にあり得るのではないかとしている。
これは、今後の人類の可能性として、従来の常識を覆し、加齢とともに幸福が増していく「尻上がりの人生」があり得ることを示している。思春期に、大人になる「理性」が発達し、高齢期には、理性の極致の「悟性」を得る人生である。
そして、仏教の思想では、仏道修行は、この尻上がりの人生をもたらすものであると説かれている。仏教では、老・病の苦しみは、その苦しみから解放される悟りの境地に向かうことを修行者に促すものであり、その意味で、悟りに導く仏の御使い(みつかい)とも説かれる。そして、死というものは、身体から解放されて最高の悟りを得るものだという思想がある。その象徴として、80歳の高齢で死ぬ寸前まで、智恵に富んだ教えを説き、平安で堂々とした大往生(入滅・涅槃)を果たした釈迦牟尼自身の人生がある。
16.努力できるという自信を得るいくらかのコツ先ほど多少述べたが、レジリエンス(立ち直り)の心理学から、努力をする上で役に立つ自信の身につけ方をいくつか紹介する。何かの努力をする前に、それが「できない」と思ってしまっては、なかなか努力はできないからである。
第一に、最初から無理に大きな目標・課題を立てずに、まず、頑張ればできる小さな目標・課題を設定して、それを着実に実行しながら、少しずつ、目標・課題を大きくしていくことである。実行できれば、それが自信になり、それが継続されるうちに、心身が徐々に向上していくからである。
一方、最初から、無理に大きな目標・課題を立てて実行しようとすると、短期間は頑張れたとしても、長続きしない場合が多く、そのため、自信を失ってしまう可能性がある。これについても、焦らず弛まず、無理せず怠けずの原則がある。
第二に、他の成功体験をいろいろな形で学ぶことで、「自分も達成したい」、「自分も達成できる」という意欲と自信を強めることができる。ただし、他に対する妬みが強すぎる場合は、他の成功体験を自分の励みにすることができない場合があるので、妬みには注意するべきである。
そのためには、自分と他人を比較しすぎずに、優れた他人は、自分の見本・教師であり、劣った他人も自分の反面教師と考えて、「自分の学びの対象、自分の導き手である」と考えるのが理想である。他への妬みや見下しは、自分の学びや努力に逆行する面がある。
17.先を見すぎずに、毎日毎日の努力に集中する
努力を継続することの重要性を説いたが、その場合、「今後、どのくらい長く努力をすればいいのか」ということを考えすぎてしまって、努力がしにくくなることがある。これは何かの労苦・苦しみに耐える場合もそうである。
例えば、いつ終わるとも知れない高齢の親の介護の労苦のあまり、子供が親と無理心中をはかる例があるが、これに対して、ある禅の高僧は、「一体いつまで続くのか」と先のことまで考えることをやめ、一日一日を区切って考え、毎日毎日、その日の務めを果たし、その日の休みを取ると考えて、淡々と生きるならば、気づいてみれば、介護が終わる日がやってくると助言している。
これは、仏道修行における「飽くなき精進」の教えにも通じる。先ほど紹介した経典の言葉の中に、「まるで、ゆったりと流れ続ける大河のように、完全なる仏性(悟り)を得るまで、貴方はゆったりとして飽くことなく、修行に打ち込んでいくのである」というものがある。大河の水は、毎日毎日、焦らず弛まず、ゆったりと一歩一歩進んでいくが、そうしているうちに、気づいてみれば大海に至るのである。これを言い換えれば「なすべきことをなして天の時を待つ」という感覚だろうか。
これは、先ほど述べた、「努力できるのは、今日・今である」という視点とも関係する。これを言い換えれば、今日・今だけ努力すればいいのである。ところが人は、「これからどのくらい努力しなければならないのか」と思って、今日・今の努力の労苦だけではなく、遠い未来までの労苦まで、苦しむことがある。さらには、未来の労苦に加えて、過去の努力不足を後悔して、苦しむこともある。
こうした未来や過去に苦しむことは、不必要なことである。遠い未来までの労苦ではなく、今日の労苦にのみ、耐えればいいのである。過去の努力不足についても、それを反省して、改善の努力をしているならば、その今の努力に集中して、忘れてよいのである(今の努力に集中すれば、自ずと忘れるものである)。
18.目標を立て粘り強く努力する力を強める感謝や慈しみ:展望的記憶最新の脳科学の理論によれば、人の脳には、社会脳(自分の中の神)という機能があり、利他の心・行動(感謝・慈悲)によって、幸福ホルモンが出て、過剰な敵意・攻撃・不安・恐怖によってストレスホルモンが出るという。
幸福ホルモン(エンドルフィン・オキシトシン・セロトニン)は、幸福感・心身の健康・知力・実行力・人間関係を改善し、過剰なストレスホルモン(コルチゾール・アドレナリン)の分泌は、逆に、心身の不健康・知力・実行力・人間関係を悪化させるという。科学的に見ても、「情けは人のためならず」「人を呪わば穴二つ」であることがわかる。
そして、幸福ホルモンは、記憶を司る脳の海馬を活性化し、記憶力を高め、ストレスホルモンは、逆に、海馬を委縮させて、記憶力を低下させるという。さらに、この海馬の機能には、過去の記憶を保持・再生することだけではなく、未来に関する展望的記憶という機能があり、この機能が強い場合は、人生にヴィジョンを持ち、目標を立てて、それに向かって粘り強く努力をすることを助けるという。
こうして、脳科学の視点から見て、感謝や慈しみの強い人は、心身の健康・知力・人間関係が改善するとともに、粘り強く努力する能力=精進の能力も高まることがわかる。そして、仏教が説く重要な実践徳目・実践課題である慈悲と智慧(智恵)と精進は、一体となって高まっていくことがわかる。
また、京都大学の藤井聡教授の心理学的な調査の結果では、幸福になる人(幸運に見える人)は、利他心の強い人であることが判明したという。利己的な人は、短期的には、効率的に自分の利益を得ることがあるが、長期的には、不幸になることが判明したという(認知的焦点化理論という)。これは、利他心の強い人は、その人を幸福にしようとする多くの人によって、長期的には、幸福がもたらされるからだという。利己的な人は、その逆であろう。
そして、人が、何かに向かって努力することを考えた場合も、自分の努力自体が、よく考えれば、さまざまな他によって支えられているものであるから、利他的な人こそ、多くの人の支えによって、努力を深めていくことができるということになると思う。
19.自と他の優劣の比較の問題と、精進・努力心理学によれば、現代社会は、自己愛型社会といわれ、自分が他と比較して勝っているか否かで、幸福・不幸を感じるという。競争社会が、これに拍車をかけていることもあるだろう。
一般には、劣等感・自己に対する不満は、それを挽回するための努力を促す面がある。しかし、優劣にとらわれすぎた場合は、逆に努力ができなくなり、さまざまな歪んだ心や行動の問題を作り出すことが知られている。
具体的には、第一に、劣等感を感じることを嫌って、他から引きこもってしまうパターン(劣等コンプレックス)である。この場合は、当然、努力することはやめてしまい、徐々に退化・老化する。
第二は、無理に優越感を感じるための行動に出るパターン(優越コンプレックス)である。例えば、ことさら他人を貶めたり、他人に責任転嫁をしたりする。また、他人から見れば有難迷惑の行為を働いたり、優越感を感じる妄想にのめり込む(これは、詐欺にあったり、陰謀論にはまったりする原因にもなる)。また、勝利のために、裏で不正行為に手を出すなどである。これでは、明らかに健全な努力はなされえない。
また、脳科学的に見れば、優越感を求めるあまり、他に対する攻撃的な心や行動が強まると、上記のストレスホルモンが過剰に分泌されて、自分の心身・知力、そして、目標を立て粘り強く努力する力(展望的記憶)を損なうことになる。こうして他者との優劣にとらわれすぎると、いろいろな意味で、健全な努力ができなくなるのである。
20.他との優劣の比較にとらわれすぎず、切磋琢磨による皆の成長を重視する価値観本来、優劣とは、単なる比較の結果であり、比較の対象が変われば優劣は逆転する。さらに、短所と長所は、裏表の面があって、自分より劣っている一面だけを見て、他者をあなどってはいけない。自分より劣っている者を反面教師として学んだり、その長所をあなどらずに、学び取ったりする必要がある。
しかし、人は、それを怠ることが多い。というのは、「他より自分が優れている」という優越感の自己愛に溺れてしまい、いわゆる慢心に陥って努力を怠るようになり、その結果、堕落・落下する。逆に、他より劣っていても、劣等感に没入せずに、自分の成長を重視するならば、自分より優れた者を、見本・教師として見て学んで成長することができる。また、自分と同じく劣った者の気持ちを理解して助ける、優しさ・慈悲という優れた徳性も培うことができる。
仏教思想でも、他との優劣の比較、優越感・劣等感にとらわれすぎる限り、優れた者と劣った者は、時とともに、容易に入れ替わると説く(六道輪廻の思想など)。
こうして見ると、人は、他に勝ることばかり重視せず、自分が成長する(ための努力を続ける)ことを心掛け、何かの競争的な構造の中に自分があったとしても、それによる他との切磋琢磨を通して、皆が互いに成長することを重視することが重要だと思われる。
これは、競争の本来の意味とは、勝って幸福になり、負けて不幸になる者を決めることではなくて、全体が向上するための切磋琢磨であるということに立ち戻ることでもある。
21.禅の説く「今ここの」教え禅の教えに、「今ここの」というものがあるとよく聞く。今ここの悟り、今ここの幸福といったほどの意味ではないかと思う。
人は皆、「今よりもっと」「他人よりもっと」と際限なく何かを求めて、幸福になろうとするが、仏教の教えから見ると、そうして際限なく求めてばかりいては、逆に、さまざまな意味で苦しみ、時とともに苦しみが増えていくのが人生である。
具体的には、求めても得られない苦しみ、得て執着したものを失う不安や失う苦しみ、皆が求め奪い合って憎しみ合う苦しみなどを避けることはできない。さらに、老い病む中で、ますます得られにくくなり、失うものが増え、他には奪い負けることが多くなって苦しみは増え、最後は、死んで全てを失う苦しみを経験する。
こうした生き方は、絶えず、「まだまだ足りない」という不満と、「未来にもっと欲しい」という欲求と、「それがかなわないのではないか」という不安を抱えている。絶えず不満と不安を抱えながら生きているから、充足している、満ち足りている時が一日もなく、一瞬たりとてない。人は、今この時に生きているが、こうした生き方では、今この時を楽しむこと、今この時の幸福を感じることができない。そのまま一生を終える恐れさえある。
結果として、皆さんは、最近、一瞬でも満ち足りた瞬間を経験したことがあるだろうか。私がこの質問をした数十名の人には、一人も、「したことがある」という人はいなかった。場合によっては、生まれてこの方、そうした瞬間の経験の記憶がない人も多いかもしれない。
これは、前に述べたように、多くの人が、無意識的に、絶えず、過去の自分と今の自分、今の自分と今の他人の優劣を比較して、「今よりもっと」、「他人よりもっと」と、際限なく恵み(比較に基づく一種の優越感)を求めているからである。このことを心理学では、現代人の幸福は、自己愛が充足されるか否かによって左右されると表現することがある(自己愛型社会)。
しかしながら、瞑想を含めた私の経験では、人は、自と他の区別と比較を超えた、安定した大きな心にたどり着いた時にこそ、真の幸福・充足を感じるものだと思う。その時には、「自分が幸福になるためになすべきことが実現した」という実感をともなうと思う。
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第1章 瞑想とは何か
1.はじめに瞑想という言葉が、最近あちこちで聞かれるようになったが、その定まった定義はなく、非常に広い概念である。例えば、心を静めて無心になること、何も考えずリラックスすること、心を静めて神に祈ること、何かに心を集中させること、目を閉じて深く静かに思いをめぐらすこと、などと考えられている。
瞑想は、宗教との結びつきが深く、各宗教・宗派によって、さまざまなものがある。よって、単に心身の静寂を取り戻すために行う健康法のようなものから、絶対神信仰の宗教において絶対者(神)をありありと体感したり、仏教が説く究極の智慧を得たりするようなものまである。加えて、現代では、心身の健康、心理療法、自己開発・自己向上といった世俗的な目的をもって、さまざまな瞑想が行われている。
2.さまざまな形をとる瞑想瞑想において、どのような体の使い方をとるかにも、定まった形がない。日本人になじみが深い、静かに座って行うもの(座禅)、立ちながら行う瞑想(立禅)、歩きながら行う瞑想(歩行禅・歩行瞑想)などがある。
また、一部のヨーガのように、さまざまな体位を取るもの(アーサナ〈体位法〉)も本質的には瞑想と考えられるし、ヨーガや仏教(特に密教)の一部にある、特定の音を繰り返し唱える瞑想(マントラ・真言瞑想)、さらには、集団で母音を低い声で続けて発する倍音(ばいおん)声明(しょうみょう)も瞑想と位置づけられることがある。
さらには、太極拳や、スーフィーの旋回舞踊ダーヴィッシュ・ダンスのように動きながら行うものを含むという見解もあり、武道や舞踊の修行・実践や滝行に瞑想を見出す人もいる。こうして、瞑想時の体の使い方から見ても、さまざまなスタイルのものが存在する。
また、精神の集中の仕方の視点からも、一点に集中するもの(ヨーガのダーラナー(凝(ぎょう)念(ねん)))、集中範囲が広いもの(ヨーガのディアーナ(静慮(じょうりょ))や仏教のヴィパッサナー)、特定の対象に注意を向けないもの(禅の無(む)念(ねん)無(む)想(そう)の瞑想)、さらには対象と自分の意識が一体化する究極の集中状態(ヨーガのサマーディ(定(じょう)))がある。
また、瞑想時の思索の視点からは、特定の主題に関して、いわゆる深く正しく考える(ないしは観想する)瞑想もあれば(いわゆるmeditationといわれるものはこのタイプとも思われる)、思索・省察することをしない(ないしは超越した)瞑想(禅の無念無想、仏教の究極の境地とされる滅(めつ)受(じゅ)想(そう)定(じょう)〈滅尽(めつじん)定(じょう)、想(そう)受(じゅ)滅(めつ)定(じょう)ともいう〉)もある。
なお、宗教の瞑想は、その宗教の思想と密接不可分で、その一部であるが、近年では、瞑想技法の部分だけを切り離して、世俗的な目的に転用する場合があり、そうした場合は、本来の目的を実現しない場合もある。
3.学者による瞑想の定義や効用精神科医の安藤治は、アメリカを中心とする西洋の瞑想(meditation)研究を紹介する『瞑想の精神医学』で、「伝統的により高度な意識状態あるいはより高度な健康とされる状態を引き出すため、精神的プロセスを整えることを目的とする注意の意識的訓練のことであるが、現代においてはリラクセーションを目的としたり、ある種の心理的治療を目的として行われることもある」と定義している。
ただし、瞑想が「より高度な意識状態あるいはより高度な健康とされる状態を引き出す」という主張は、現在主流の世界観・科学的な世界観をはみ出す(下に見て否定する)場合もあるので、瞑想状態を「変性意識状態」として位置付ける見方もある(この場合、やや否定的なニュアンスがある場合もある)。
上智大学グリーフケア研究所の葛西賢太は、瞑想を「日常生活の諸問題の整理や見直し、再活性化を意図して、日常の時間の中に、一定の時間を区切って、通常とは違う意識状態に自覚的に切り替えること、また、その方法」と定義している。同氏は、通常意識状態と変性意識状態の往来を「意識変容」と呼び、「意識変容を自覚しているマインドフルな状態」を、瞑想の基本的な状態(瞑想的意識状態)であると考え、この定義に当てはまるすべての行為を広い意味で瞑想ととらえることを提案している。
瞑想の具体的な効用として、感情の制御、集中力の向上、気分の改善等の日常的な事柄から、瞑想以外では到達不可能な深い自己洞察や対象認知、智慧の発現、さらには悟り・解脱の完成まで広く知られる。瞑想による特異な体験として、「変化しやすい強烈な感情、深いリラクセーションと高度の覚醒、知覚の明晰さの高まり、心理的プロセス(中略)への感受性の向上、身体を含めた対象物の知覚に関する変化や流動性の増加(対象恒常性の減少)、精神的コントロールの困難さに対する自覚、特に集中力を失わず、空想に陥らないようにすることの難しさの自覚、時間の感覚の変化、変性意識、他者との一体化の体験、防御心の減少、体験への開放性」などがあるとされる。
宗教哲学者の鎌田東二は、狩猟・漁猟を行っていた人々が、その技術を向上させるために修練し、それが武術や武道、スポーツとなり、また宗教的な行や瞑想になっていったと考える。生きるためには、食べる必要があり、人は生きるために命を殺害するが、人にとって命を食べることは、命がけの宗教的・呪術的行為であったという。狩猟は命の交換の行為であり、狩猟民は、命がけで動物たちとの戦いに挑み、その中で自然への畏怖の気持ちを高め、同時に恐ろしい動物を前にしても立ち向かうことができるよう、自己をコントロールし、動物と戦うために自己と戦わなければならなかった。鎌田東二は、このような心のコントロール・制御の方法を開発する道程から、夢見法や瞑想、観想が生まれ、さらにそのような集中や制御が、止観や禅を生み、山を歩き走ることが、山岳跋渉(ばっしょう)や修験道を生んだと考える。
4.近代の瞑想の歴史とセラピーとしての活用あるがままを観察し、受け入れるという東洋の思想は、1960年代にアメリカのヒッピーたちが注目し、彼らは、精神的な成長を求め、東洋の伝統的宗教の瞑想を学んだ。例えば、ヒンドゥー教由来でインド人導師マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーが広めた超越瞑想や、日本の禅仏教を学んだ。
20世紀のアメリカでは、裕福な階級は精神療法(サイコ・セラピー)を、精神病の治療だけでなく精神の健康にも活用していたが、1960年代後半に起こったヒューマンポテンシャル運動では、ゲシュタルト心理学などの人間性心理学と精神療法が結びついて一般に広まり、自己実現や自己成長の手段として重視された。
この運動の代表的な人物である禅の研究者アラン・ワッツは、東洋の宗教における修行と西洋の精神療法とを同様のものと考えて、瞑想が精神療法の文脈の中に取り入れられた。このことが、今日の一般での瞑想の実践や研究に大きな影響を与えていると考えられている。すなわち、西洋で瞑想は実利的な健康法、セラピーとして広く活用されているのである。
1970年代には、科学者を志す若者たちが、東南アジアやインドで瞑想の修行をするようになり、アメリカに戻って瞑想研究や普及活動をした。一方、インド人のヨーガの導師であるバグワン・シュリ・ラジニーシは、同時代にアメリカで活動し、現代人向けに多くの瞑想法を開発したが、瞑想の最終的な目的は、絶えず観照者にとどまること(ヨーガが説く真(しん)我(が)〈純粋(じゅんすい)観(かん)照者(しょうしゃ)〉)であると語ったという。
1980年代になると、徐々に科学的研究が発表され、瞑想する環境も整い、瞑想は広まっていった。安藤治は、瞑想はセラピーと言われることもあるが、精神的な病の治療を目指す精神療法ではなく、自己超越を促進する方法のひとつであると述べている。また、瞑想による血圧降下作用などの特殊な生理学的な効果が注目され、自己コントロールやリラクセーション法として研究されるようになった。
ここで、治療する病気や患者を適切に選べば、瞑想は、通常の医療を補完する補助的なものとして有用であるという見解があるが、その一方で、精神療法が大衆化し、瞑想がセラピーの場に取り入れられたために、瞑想は、従来の意味より大雑把に使われるようになって、十分適切な医学的な知識の下でコントロールすることは難しくなった面がある。
また、ヒューマンポテンシャル運動を引き継いだニューエイジでは、人間の脳の無限の可能性や、脳と宇宙エネルギーとの関係が(必ずしも科学的な証明がなく)信じられ、ヨーガ、レイキ、太極拳、自己啓発セミナー、禅、合気道、超越瞑想などが、霊的な成長をサポートするセラピーとして行われた。その中で、超能力を覚醒させることができると称して、シルバメソッド等、自己啓発セミナーでも瞑想が利用されているが、そうした瞑想の効能の主張は、さまざまな問題も指摘されている。
5.マインドフルネス瞑想の広がりアメリカでは、医学者のジョン・カバット・ジンが、仏教の悟りの思想から、今この瞬間の対象に、良し悪し(好き嫌い)の判断をせずに、客観的に、意図して注意を向けるという「マインドフルネス瞑想」を医療化した。それは、慢性疼痛(とうつう)の(癌などの)患者の治療に活用したが、その後、その適応範囲は、うつ病、不安症、摂食障害、不眠症などの精神疾患まで広がっていった(マインドフルネス認知療法)。
こうして、瞑想からその宗教的な側面を整理してそぎ落とし、瞑想の科学的な研究が進み、2000年以降には、脳科学者の瞑想研究も増加した。そして、瞑想熟練者でなくとも、マインドフルネス瞑想のトレーニングで、脳の活動が変化するという科学的知見が示されて大きな衝撃を与えた。
その結果、マインドフルネス瞑想は今日に至るまで広まっていき、教育や福祉、職場のメンタルヘルスの向上のためにも用いられるようになった。アメリカでは2010年以降、ビジネスパーソン向けのマインドフルネスのワークショップが企業内外で開催され、Google や Facebook で導入されたことでも注目を集めた。感情のコントロールや職場の満足感の向上への効果が示され、2014年には『TIME』誌で特集も組まれた。
マインドフルネスは、それが由来する仏教の思想である「念」(サンスクリット語での「サティ」)の英訳であるが、この世俗化されたマインドフルネスは、仏教本来のマインドフルネスの思想と実践全体から切り離して、調整されたものであるため、それがもたらすいろいろな問題を指摘する人もいる。
6.心理学・心理療法に活用される仏教思想なお、欧米の心理学・心理療法が仏教の思想を活用した近年の事例は、マインドフルネス以外にもある。例えば、アメリカの自己心理学者クリスティン・ネフは、社会的な競争に勝つことで自尊感情を高めることが幸福につながるという考えに疑問を呈し、仏教の思想に基づいて、セルフ・コンパッション(自分への慈悲、思いやり、優しさ)の研究を行って、(他との競争の勝利による)自尊感情が高くなくても、セルフ・コンパッションが高い人は、自分を受け入れ、幸福を感じ、不安や抑うつが低いという研究結果を示している。
ネフは、セルフ・コンパッションを、マインドフルネスを包含し相補する概念として提示しており、ジョン・カバット・ジンやマインドフルネス認知療法の創始者マーク・ウィリアムズも、「マインドフルネスはコンパッション(慈悲)を含んでいる」と主張している。
とはいえ、実際にマインドフルネス瞑想が活用される場合に、それがコンパッション(慈悲)を含むかというと、仏教本来の思想・文脈から切り離されて世俗的で実用的な目的に使われるためもあって、例えば、アメリカでは、軍事訓練にマインドフルネスを用いて、動じない兵士を作る試みなどがあって、瞑想が軍事利用されている事実もあるという。
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第1章 最先端の脳科学が示すこれからの幸福の道
1.はじめに脳科学は、この30年間ほどで目覚ましく発展した分野だとされる。しかし、同時に、片手で持てる大きさで、重さも1300グラム程度しかない脳という器官は、宇宙とともに、未だ解明されていないことから、未知のフロンティアともいわれる。
具体的には、1990年代に、脳の状態をリアルタイムで観察することができるファンクショナルMRIという機器が導入され、脳の各部位にどんな働き・機能があるかなどの研究が進む助けとなった。
また、脳の内部構造に関しては、1つの脳に1000億個ほどのニューロンとよばれる神経細胞や、それを助けるグリアと呼ばれる細胞があるとされるが、1996年には、人が他者に共感する能力を支える共鳴細胞(ミラー・ニューロン)が発見され、これは脳科学上の大発見だといわれる。
また、現在「脳トレ」といった脳の訓練が流行っているが、その背景となった大発見として、1997~8年に、脳の神経細胞は成人後は新たに生まれないという、それまでの脳科学の常識を覆して、成人後にも新生することが発見された。ただし、新しい細胞は、刺激・訓練がないとすぐに死んでしまうので、成人後も筋肉と同じように、脳を鍛える意味と必要の双方があるということになったのである。
さらに、人にとっても、科学にとっても、ある意味で最も重要な目的が「幸福になること」であろうが、これに直接的に関係する人の感情、すなわち、幸福感、喜び、怒り、不安・恐怖といった感情に関係する神経伝達物質というものの研究が、飛躍的に進んだ。例えば、ドーパミン、アドレナリン、セロトニン、オキシトシン、エンドルフィンといった言葉が、いっそうよく聞かれるようになった。
2.脳科学から見た幸福と仏教思想最先端の脳科学が示す、これからの幸福になる生き方を学ぶと、それが仏教的な思想における幸福感と重なる点が多い。第一の共通点は、自分だけの利己的な幸福を求めるのではなく、自他双方の幸福、利他的な幸福を求めることの重要性である。
これをさらに言い換えると、脳科学から見て、他を利する気持ちや行動は、自分を利するものであることが確認された。具体的には、その人に幸福感を与えるとともに、心に限らず、身体の健康、記憶力・集中力などの知性、人間関係を改善するのである。
例えば、強い痛みがある時に加えて、他に感謝したり、感謝されたりする場合に分泌されるエンドルフィンは、モルヒネの6.5倍の鎮痛効果があるとされ、痛み・苦しみを和らげるため、癒しのホルモンとも呼ばれる。加えて、免疫力を高め、NK活性と呼ばれる抗癌効果もあり、細胞の再生を助け、若返り・アンチエイジング効果もある。さらに、脳の中の海馬という部位が司る記憶力や集中力を高める効果もあり、知能を高める効果もある。
また、他者への愛や慈しみや慈悲を持つときに分泌されるというオキシトシンについては、第2章で詳しく述べることにするが、エンドルフィンとともに、ストレスを減少させ、幸福感を与え、免疫力・記憶力を高めることに加えて、血圧などを下げるなどして心臓・脳・血管を健康に保ち、不安をもたらす脳の扁桃体という部位の興奮を静めて安心をもたらし、副交感神経を活性化してリラクセーションをもたらすという。エンドルフィンやオキシトシンなど、幸福感をもたらす脳内神経伝達物質は、脳内快感物質、脳内麻薬などといわれることもある。
3.仏教思想の菩薩道との関係:自他の幸福が一体ここで仏教思想との関連を見るならば、感謝と慈悲は、仏教で最高の生き方とされる菩薩道の重要な要素である。菩薩道とは、すべての衆生を(今の自分を育んだ)恩人と見て感謝し、その恩に報いるために、様々に苦しむ衆生すべてに対して、慈悲の心を持って済度するという生き方であり、感謝と慈悲が、重要な実践上の柱となっている。脳科学的に言えば、これは、救済される衆生に加え、菩薩道を行う者自身が幸福になる生き方であるということになる。
ここで重要なことは、最先端の脳科学に基づく幸福観と、仏教思想の幸福観の共通点として、利他は真の利己という視点があることである。利他の心や行為は、他を利するとともに、それを実践する本人こそを利するということである。これは、自と他の幸福は一体であり、自他双方の幸福を求めることこそが真の幸福の道であるという考え方に結び付く。
フランスのマクロン大統領の生みの親ともいわれるヨーロッパ有数の識者であるジャック・アタリ氏などが、「利他こそ最も賢明な利己である」という思想を提唱しているが、仏教を含む伝統的な宗教思想に加えて、脳科学という最先端の科学が、それを裏付ける時代となった。
4.現代社会の主流の幸福観:幸福は他との奪い合い利他こそ利己だという思想は、「情けは人の為ならず」「人を呪わば穴二つ」などといった格言でも、よくいわれてきた。しかし、私たちの日常の感覚では、その逆に、「正直者は馬鹿を見る」「善人は損をする」といった話もよく聞く。
特に現代の競争社会においては、勝ち組・負け組とか、貧富の格差などがよくいわれ、他に勝つことによって幸福になるという価値観が強い。他に勝利することで幸福になるのであれば、自分の勝利の幸福は、他の敗北とセットであり、幸福は、自他の間での奪い合いということになる。
ここで、競争の勝利が幸福であるというと、少し概念が狭くなりすぎるので、これを「他との比較」という言葉で言い換えたい。心理学者によれば、現代社会の人の主な幸福とは「自己愛の充足」によるものであり、わかりやすく言い換えれば、他との比較において、他に優位になることによる幸福感である。
例えば、お金・財力、名誉・地位、学歴、容姿など、現代社会において人々が幸福の指標とする事柄は、結局は、他との比較の中で意味を持つものが多い。自分がお金持ち・リッチであるという喜び・満足感も、多くの場合、友人・知人との財力の比較によって決まる。言い換えると、いくら以上の年収ならばお金持ちであるという絶対的な基準はない。もしあるとすれば、途上国の人から見れば、経済大国の日本人は、皆がある意味でお金持ちであって、その国で、経済苦を理由としての自殺が年間で数千人にのぼる理由は説明できないだろう。
他と比較して自分が優位であれば幸福であるということは、自分の幸福は、自分よりも劣っている他者がいてこそ成立することになる。そのため、この幸福観・価値観では、幸福は、他と奪い合うものだということになる。
5.他者との闘争という人間の本能とアドレナリン人類の歴史を見れば、闘争は生き残るために必要不可欠なものだった。そもそも、人間は動物の1つであり、動物は弱肉強食といわれる生存競争、まさに闘争的な環境の中で生きている。自分が他の生き物を捕獲して殺して食べて生き残るか、捕獲できず殺せず食べられずに死ぬか。
生命体が、生命体である以上は、生きること、生き残る(生存)こそが、最優先の欲求であり、その実現こそが最優先の幸福であろう。そうでない生命体は容易に死んでしまう。そして、弱肉強食の世界では、闘争の勝者が生き残り、その意味で幸福となり、敗者は生き残れず、その意味で不幸となる。
今の私たちである現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)は、今の学説では、20万年ほど前にアフリカで生まれたのではないかといわれているが、サバンナの中での原始的な生活で生き残るためには、自分の身に対する脅威を把握して、自分を守る行動をとることは、生き残るために非常に重要なものであった。
こうした中で、人間には、自分の身を守るための神経伝達物質として、ノルアドレナリンやアドレナリンというものがある。これは「怒りのホルモン」ともいわれ、自分に対する脅威=敵に対して、逃げて身を守るか、それとも戦って(相手を撃破して)身を守るかの選択と行動を促すとされる。よって、怒り・恐怖・不安といった感情と結びつく。
アドレナリン・ノルアドレナリンは、体を戦闘態勢に入らせるために、血圧を上げ、血液を体中に行きわたらせ、血糖値を上げて、すぐに筋肉を使えるようにする。このように、生物として生き残るために最も重要なことの1つである、敵と戦って勝つ(ないしは敵から逃げ切ることで勝つ)ための物質である。
6.現代人のアドレナリンの過剰分泌
ところが、原始的には身を守って生き残るために最も重要な神経伝達物質ともいえるアドレナリンやノルアドレナリンが、現代人においては、それが過剰に分泌されるがゆえに、逆に自分の身を危うくしている面がある。
というのは、アドレナリン・ノルアドレナリンは、外敵が現れた時に合わせて、一時的に、体を戦闘態勢に持っていくためには必要不可欠であるが、それが不必要な時にも出るなどして、出過ぎてしまうと、体を不要に酷使することになる。
前に述べたように、血圧・血糖値を上げる働きがあるため、高血圧・高血糖(糖尿病)・脳出血・心臓・血管の障害をもたらす。これは脳にとっても体にとっても危険な状態である。そもそもが、ノルアドレナリンは、本来、数ミリグラムをラットの腹腔に注射するだけでラットが死んでしまうというほど、強い毒性を持つという。
では、なぜ、アドレナリンが不必要に出過ぎるようなことが起こるのだろうか。結論からいえば、それは、生存のために必要不可欠な闘争の場合に限らず、他者を自分の幸福の「敵」と見なし、アドレナリン・ノルアドレナリンが分泌される場合が少なくないからだと思われる。
例えば、戦争・闘争などにおける文字通りの敵(自分の生命の脅威)ではなくて、客観的に見るならば、単なる何かしらの競争の相手、自分との比較の対象にすぎない相手であっても、自分の幸福に対する脅威と感じられてしまう(ある意味では錯覚する)ことが起こるのである。そして、それを攻撃して勝利し、脅威を排除したいと思う(ないしは勝てない相手であれば、その競争から逃げたいと思う)のである。
7.人の根源的な欲求:生存欲求の実態とは人を含めたあらゆる生命体の根源的な欲求は、生存欲求だろう。そもそも、生命体とは、何もしないで静止している非生物と異なり、生存のために何らかの活動をしているものである。生存欲求があるから生存のための活動をしているのか、生存のための活動をしているから生命欲求があると見なされているかは、複雑な問題になる。しかし、それはともかくとして、生存欲求・生存のための活動がないものは、進化論に基づく適者生存・自然淘汰から見ても、すぐに消滅してしまい、生き残ることはないだろう。
次に、生存欲求は、分類によっては、二つの種類がある。一つ目は、自分個人、自分という個体の生存欲求であり、普通の意味の生存欲求である。二つ目は、自分の子供を産んで、自分の子孫(遺伝子)を残すという繁殖の欲求である。この双方ともないと、その人ないし、その人の遺伝子は、生き残ることはないのは自明だろう。
言い換えれば、現在生きている私たち人間を含めた生命体は、過去において、生存と繁殖の欲求を持ち、なおかつ、実際にそれに成功した者たちだと考えられる。それは、進化論の適者生存の理論に基づくならば、これまでの各歴史の段階で、その環境に適応して生存と繁殖による生き残りに成功し続けたということだ。
環境に適応して生き残ったということは、弱肉強食である地球の生命圏の実態や、無数の闘争を含んだ人類の歴史に基づいて考えるならば、大変な競争(環境の中)の勝利者であるということも意味するだろう。
地球の39億年の生命の歴史、現生人類の20万年の生命の歴史の中で、歴史の中の様々な種の間の生存競争と個体の間での生存と繁殖の競争に勝ち抜いた子孫なのであり、我々現代に生きる人類はすべて、すでに途方もない勝ち組(の子孫)なのかもしれない。
こうした我々は、客観的に見ても、大変な生存競争に生き残るに必要な生存と繁殖の欲求と能力を祖先から引き継いだ存在と考えるのが合理的だろう。そして、その欲求と能力の一部として、自分の生命の脅威に対して対処するアドレナリン・ノルアドレナリンの神経伝達物質・神経回路が発達しているのである。
8.生存欲求から派生する様々な欲求:進化心理学の理論より生存欲求が人の根源的な、最優先の欲求であったとしても、人には、その他の様々な欲求がある。ところが、一見して生存欲求とは異なる欲求に関しても、その背景にあるのが生存欲求であると見る考えが、これまでに発展してきた心理学・脳科学などには見られる。例えば、進化心理学等がそうである。
これは、ダーウィンの進化論の視点から、人間の心の働き・欲求を理解する学問で、進化で形成された心理メカニズムを研究する。その要点は、今生き残っている人類の心の性質は、長い進化の歴史の中で、その時々の環境に適応して生き残る上で有利であったものの結果であるという視点である。
まず、環境に適応した体形や行動形態を持つ者が生き残り、その遺伝子がその子孫に伝え続けられ、そうでない者の遺伝子と子孫は消滅し、適応した者に淘汰されていくというのが、進化論の自然淘汰の理論である。そして、進化心理学は、この理論を体形や行動形態に限らず、心の傾向にも適用したものである。
というのは、人の心理的な要素、例えば、感情なども、遺伝子に組み込まれている(ただし、その人がどんな感情・性格・人格の持ち主になるかは、遺伝子だけではなく、生まれた後の環境や訓練に左右されるので、この点は誤解しないようにされたい)。よって、生き残るに有利な心の傾向とその遺伝子を持った者が生き残ってきたというのが、進化心理学の視点となる。そして、その視点から見ると、以下のような心の働き、心理的なメカニズムが、人類の生存を助けたことが推察される。
9.恐怖や不安に関する脳の感情システムと、現代社会での誤作動まず、恐怖・不安の感情である。これは、先ほど述べたアドレナリン・ノルアドレナリンに関係する。熱帯雨林が消えた後にサバンナが広がった地上では、用心深くいち早く危険を敏感に察知し、すばやく身を守る者が生き残ったと推察される。
それに役立ったのが、恐怖の感情(アドレナリン神経回路)であろう。ちょっとしたことでも敏感に(場合によっては過剰に)反応し、逃げるか戦うかの機敏な行動ができるように、アドレナリンを分泌して心拍を上げ、血流を全身に送ることが生存に必要・有利だったのである。さらに、身を守るために、道具を使うことを促すことになった。
ところが、前に述べたように、現代の人間、特に野獣の脅威も内戦もない先進国に住む人間は、原始時代とはかなり異なる環境に住んでいる。そして、その環境においては、この恐怖・不安の感情(=アドレナリン神経回路の働き)が強すぎて過剰に働き、自分の身を守るのではなく、逆に、心身の健康や人間関係を損ねて、マイナスに働く場合が多くあるのではないか、ということがある。
猛獣がいるサバンナでは、脅威に過剰に反応することは必要だったが、環境の異なる現代で、生命に危険等がない場合にも、脅威・恐怖を感じ「逃走か闘争」の態勢が発動してしまう。例えば、原始時代ならば、10頭の野生動物がいて、その中の9頭は草食動物でも、1頭の猛獣がいれば、その猛獣に恐怖を持って意識を集中しなければ、生き延びることはできなかった。
しかし、そうした環境に適応してきた脳のシステムが、現代では過剰に働いている。例えば、自分の仕事に対して、会社の同僚の10人のうち、9人が肯定的な評価をしたのに、1人が否定的な評価をしたために、その1つの否定的な評価に意識が集中して、日夜思い悩み、頭から離れないなど。また、「みんなに良く思われたい」という気持ちが強く、誰にも嫌われたくなく(誰にも嫌われるのが怖く)、葛藤しながら風見鶏・優柔不断的な言動に陥ってストレスをため込むなどである(この場合、皆に信頼されなくなる可能性は少なくない)。
これは、現代社会に、これまでの歴史の中で形成されてきた脳が、ミスマッチしているということになる。そして、これと同じように、暗闇恐怖、高所恐怖、閉所恐怖症なども説明できるという。つまり、現代社会では、先祖の環境のような暗闇や高所などが生命の危機になる状況は、ほとんどないにもかかわらず、これらに恐怖を感じる人が多い。
これがひどい場合は、恐怖症になってしまうが、過剰な不安・恐怖に基づく精神的な問題として、不安神経症、脅迫観念症、被害妄想などの様々な精神疾患が広がっているのは、ご存じのとおりである。
10.集団行動・共同作業の欲求、所属欲求・承認欲求の形成次に、集団行動・共同作業(の欲求)がある。集団で協力することで、猛獣と戦い、生き延びる確率が高くなり、集団で狩りを行うことで、獲物を捕る確率が高くなった。さらに、本格的な農耕という組織的な共同作業によって、より飢えずに豊かに、大勢で生きていくことができるようになった。
集団作業を行わず、分け前だけを得ようとする者がいれば、集団から追い出されるが、それは死(の可能性が高くなること)を意味するから、集団から拒絶されることを強く嫌がった。嫌がる人が追い出されないように努力して生き残った。
こうした歴史の結果として、現代の私たちも、社会・集団から拒絶されることを嫌がり、孤独を嫌がり、居場所を求め(所属欲求)、居場所を確保するためにも集団の他者からの承認を求める(承認欲求)ようになったというのである。そして、実際に、今の社会の中で、居場所が欲しいが得られない、承認欲求が満たされない、愛されたいのに愛されないという悩みを抱える人は非常に多い。
なお、心理学者のマズローが提唱した人間性心理学においては、人の欲求は、①生存欲求 ②安全欲求 ③所属欲求 ④承認欲求 ⑤自己実現欲求 などに分類されている。ただし、進化心理学に基づけば、所属欲求や承認欲求の発生の原因は、生存欲求・安全欲求に関係し、すべては生存欲求に根っこがある。
ところが、恐怖と不安の感情と同様に、この所属と承認の欲求に関しても、その欲求が形成された昔の人類社会と、現在の人類社会では、大きく環境が異なっているという問題がある。そのために、結果として、所属欲求・承認欲求が過剰であり、それが、自分の生存を助けるのではなく、逆に、心身の健康や人間関係にマイナスに働く面があるとも思われる。
例えば、「自分には居場所がない」、「自分は認められていない」と悩み、生き甲斐を見失い、うつになり、自死を選ぶ人が少なくない。人間関係が苦手で他人との交流がなくなって、大都会に住んでも、精神的な意味で孤独となり、孤独死する人も少なくない。
11.所属・承認欲求や孤独に関する脳の感情システムの誤作動
その人たちは、「生きていても全く楽しくない」と感じていることは重要な事実であるが、昔の人類から見れば、少なくとも物理的な意味で、生きる希望が断たれるという意味での孤独状態ではない。これは、恐怖の感情のシステムに関して、脳が現代社会の環境にミスマッチ・誤作動を起こしている可能性と類似しているように思える。
小さな集団で生活していた祖先は、集団から離れて生きることはできなかった。集団から離れることは、死を意味した。集団に受け入れられることは、死活問題だった。そのため、集団内での自分の評価を気にするという、心理メカニズムが形成された。それが、もはや死活問題でないにもかかわらず、人からの評価を非常に気にするということが、現代の私たちの脳にも起こっているのである。
特に、基本的な人権と社会福祉制度を持つ民主主義の先進国社会では、生まれた時点で無条件で、国家の一員として承認され、野獣もいなければ戦争もなく、物理的には原始時代とは比較にならない規模の人口を有する都市社会に住んで、物理的な意味での孤独はなく、身体などに障害があっても、健康で文化的な生活が最低限できる社会福祉制度があるなど、生存や安全に必要な所属欲求・生存欲求は、自動的に満たされているともいうことができる。
そのような社会の中で、実際に現代の人々が、満たされないと悩む所属や承認の欲求は、客観的に見れば、昔の人類の生存や安全への欲求とは次元が異なる。その背景には、自と他を比較して、他よりも居場所が乏しい、他人よりも承認されていないというコンプレックスを背景とした、生き甲斐のなさがあるかもしれない。だとすれば、これもまた、恐怖や不安の感情とともに、進化の結果できた脳のシステムが、現代社会において、なにかしらのミスマッチを起こしているとも考えられるかもしれない。
なお、蛇足ではあるが、進化心理学が説く現代社会における脳の誤作動の可能性の1つとして、甘いものや脂っこいものを好む心理メカニズムがある。食糧事情の不安定な祖先の環境では、生存のためには役立ってきた。そういう心理メカニズムの持ち主の方が、生き延びてきた。しかし、現代においてこの心理メカニズムは役に立つだろうか。現代において、栄養不良は存在しない。にもかかわらず、甘いもの、脂っこいスナックはあふれている。そして、肥満、生活習慣病を誘発している。
12.社会脳の発達(仮説)
なお、所属や承認の欲求に関係して、人間の脳が飛躍的に進化したのは、協力関係の強い集団の他者に対応する=社会的な課題に取り組むようになったからであるとする「社会脳仮説」を、多くの学者が支持している。集団内での他者への対処は、モノを操ることより複雑であることが、脳の進化を進めたというのである。
共同作業を行うには、他者が何を考え、何を欲求しているかを知る能力が備わっていることが必要であり、この能力が、自分を自分でどう感じるかに関係する感情(自己意識的感情)、例えば、自尊心、罪悪感、恥といった感情も発達させたという。集団にプラスの行動をとったときに自尊心を抱き、集団に害を及ぼすマイナスの行動をとったときに罪悪感を抱き、集団内で自己の価値を下げる場合は、恥を感じる。
こうした罪悪感や恥がなければ、欲求をコントロールすることが難しくなり、他者を害することを行い、集団から追放されることになる可能性が高く、集団からの追放は死を意味したから、そうならないようにする自己意識的感情は、生存のために大切な感情となったのである。
また、この社会脳の働きと連動するのが、前に述べた共感細胞とも呼ばれるミラーニューロンであり、幸福の神経伝達物質であるエンドルフィンやオキシトシンであると思われる。ミラー(鏡)ニューロンによって、人は、他者の気持ち、喜び・苦しみを鏡のように自分にも映して感じ取り共感する。そして、互いに感謝し、慈しみ、同情し、助け合うことで、エンドルフィンやオキシトシンといった幸福の神経伝達物質が出て、幸福感を感じるとともに、健康や知性が向上する。
こうして人間の脳は、他者と助け合うことによって、生き残る確率が高くなることを知っており、それに合わせて、他者に対する肯定的な感情・行動で幸福を感じるようにできている。
13.集団の他者に配慮する心理の注意点ただし、集団・社会に対する心の働きに関しては、注意をしなければならないことも多い。例えば、他者すべてから良く思われたいと思いすぎ、風見鶏・優柔不断となって、ストレスをため込んで苦しむこともある。
また、所属する集団全体が間違ったことをしている場合に、それに異を唱えることが難しい場合がある。その場合は、自分の身近な、自分が所属する集団組織と、その外にある社会全体のどちらを優先するかという問題になる。これは自分が配慮する集団の範囲が、家族までか、仕事や宗教などで所属する集団組織までか、社会・国家全体か、さらには人類社会全体かといった、その人の配慮する範囲の広さの問題であるという心理学的な見解もある。その見解では、一般に、より配慮範囲が広い人の方が、その意味で公正無私である方が、長期的には幸福な人生になるという心理学的な研究がある(京都大学の藤井教授による認知的焦点化理論など)。
それから、その集団になじみがなく、集団が心地よく思わないような新しい方向性・考え方・生き方がなかなかできずに、自分を見失ってしまうといったことも起こり得る。これは集団と個人のバランスの問題である。日本社会によく指摘される、いわゆる村社会的な社会心理構造に基づく過剰な同一化圧力の弊害である。
この問題に関しては、自分が他者との支え合いで生きている以上は、自分のことばかり考えていてもダメであるが(自分が望む生き方が成功するわけではないだろうが)、逆に他のことを優先するあまり、自分を殺してばかりいても幸福にはなれないであろうから、その間のバランスの問題ではないかと思う。
その意味で、社会脳の働きは、助け合ってこそ、生きる可能性を大きく向上させた人間にとって、その幸福に必要不可欠な機能であるが、一方で、その行き過ぎや間違いにも気をつけなければならないシステムだと思う。
14.繁殖(生殖)のために形成された心のメカニズムここでは、個体の生存欲求に加えて、もう一つの大きな要因である繁殖欲求に関連して形成された人の欲求の傾向を見ていく。
進化心理学の視点から見ると、男女それぞれは、どのような異性に魅力を感じるようになったのだろうか。言い換えれば、どのような男性に魅力を感じる女性が、その子孫を残すことに、より成功しただろうか。進化心理学の見解によれば、女性が、男性を選ぶ要素は、子孫を残すことが目的であるから、子供を産んで子供を養い育てる能力があるかが重要な基準になり、そのためには、健康(栄養)の状態が良いこと、子供を産んだ場合も、子供も健康(栄養)状態が良いこと、運動能力が高いこと、知力が高いことなどがあるとする。
一方、男性が、女性を選ぶ基準は、高い繁殖力である。それは、若さと豊満な乳房・骨盤である。すなわち、多くの男性が若くていわゆるグラマーな女性を好むというのは、進化心理学や認知心理学では、そうした女性の方が繁殖能力が高いことを、無意識的に理解しているからであるという。
もちろん、これは、グラマーであることが、男性が女性を好む唯一の条件だと主張するものではなく、女性が好む男性の場合と同様に、他にも、様々な要素があるだろう。また、先祖からの遺伝子が、好みの異性に関する一定の性格的な傾向を形成しても、生後の環境・教育・経験が、人の心理の形成に影響を与える。
また、遺伝子による先天的な条件と環境・経験による後天的な条件の双方が、人の性格・人格の形成に働くというのが、心理学の通説である。そのためもあって、グラマーな女性を、逆に不快に感じる男性もいるのである。15.自と他を比較する心の働きの形成
次に、進化心理学では、繁殖が一つの要因となって、人は、自と他の比較をするようになったと考える。自分の子孫を残すためには、異性を獲得することが必要であるが、そのためには、他の同性と比べて、相対的に魅力があることが重要となる。その集団の自分の身近な同性と自分を比較し、どちらが異性を引きつける能力が高いかを比べることが、大きな意味を持つ。
そして、この比較は、その次に、他の同性よりも、自分がより魅力的になろうとする努力につながっただろう。その意味で、異性・配偶者を得て繁殖するということも、人類の進化の歴史の中では、同性の間での(激しい)競争ということができるかもしれない。そして、後にも述べるが、その後、この他者との比較というメカニズムは、異性を獲得するという場面でなくても、働きだしたという。
こういうと、この教本の読者の方の中には、「私は、そもそも結婚して子供を産みたいとは思わないから、その意味では、他の同性と自分を比較する必要もないが、自他の比較は強くて悩んでいる」という方もいるだろう。
しかし、心理学では、先祖からの遺伝的な要素と、生後の環境などの後天的な要素の双方が、その人の心理的な傾向を形成するとする。よって、その人の遺伝子の中には、繁殖のためには他より優れている必要があると理解し、自と他をよく比較して、他者より優れた存在になろうと努力して、繁殖に成功したという先祖の性格の遺伝子が伝わっていても、現代社会に生まれた後に、未婚率の大幅な増大を見る社会環境の中で、結婚して子供を産むことが幸福の条件とは必ずしも思わない性格が、後天的に形成されることはあり得るということになる。
だとすれば、自分の意識は、子供を産みたいとは思っていないが、無意識的に働く脳が形成する感情のシステムは、現代社会の環境から形成された自分の意識に追いついていないのかもしれない。その結果、無意識に働く脳の感情のシステムは、自分は子供を産まないのだから、他と比較・競争する必要はないと理解しておらず、惰性的に、自と他の比較を続けているのかもしれない。
16.意識と無意識の分裂深層心理学的にいえば、その人が自覚する表面の意識(顕在意識)では、「子供を産みたくない」と思っていても、自覚しない意識(無意識・潜在意識)では、「産みたい」という気持ちが依然として残っている可能性もある。ユングなどが説く、意識と無意識の分裂である。
この、人間の心理が多重構造をなしているという理論は、人において、頭では価値がないとわかっていても、感情的にはなかなかやめられないことがあることを説明する。また、自分には不都合な欲求を、表面の意識では抹殺して、無意識領域に抑圧するということもあるとされる。
例えば、「本当は、結婚・出産もできればしたいが、現実的にはできそうにないから、したくないと思っておこう(そう思っていれば悔しくないし)」と考えているうちに、自覚する意識では、本当に結婚したくないと思っている(と錯覚する)状態になる可能性もあるということである。そうした場合、ある時に、何かをきっかけに、抑圧していた欲求が表面化すると「自分の本当の気持ちに気づいた!」となる(なお、気づいたのではなく、気持ちがわかったと思う人もいるかもしれないが)。
なお、仏教・ヨーガの瞑想は、自分の無意識(潜在心理)まで深く到達して探求し、望ましくない潜在意識の認識・欲求を修正して、意識と無意識の統合を図る機能がある。これは、自分の心全体を知り、心全体を制御することになる。特に感情は、無意識の脳活動で形成されている。
我々が自覚する意識(表層意識)では、自分の感情は直感的なもので、理由がないように思われる。好きなものは好きで、理由はないということである。しかし、感情を形成する無意識(の脳活動)には、生存欲求などを背景として、きちんとその感情の理由があると見るのが、最近の心理学や脳科学の見解には多いのである。
その意味では、釈尊が説いた仏教の思想や瞑想は、2500年前に東洋に生まれた、日常的な規範と瞑想などを手段とした、深層心理学的な心(煩悩)の制御の知恵ということができると思う。
17.他との戦争・競争・優劣の比較に関してもちろん、前に述べたように、他との競争に勝つことを望むこと、それに関連して他と自分を比較して、他より優位になることを望むことは、繁殖ばかりと関係しているのではない。
人類の歴史を俯瞰(ふかん)すれば、人類の最大の「敵」は、原野の野獣ではなく、人間自身であり、最大の「競争相手」も、同じく人類である(なお、ここではあえて「敵」と「競争相手」を区別して表現したが、その意味は後で述べる)。
人間の間の戦争では、人と野獣の戦いと同様に、勝者こそが生き残るのだから、生存を最重視する価値観からは、勝利こそ絶対であり、敗北は死であり無価値である。より客観的にいえば、勝利する人がどんなに悪い人でも、敗北する人がどんなに良い人でも、勝利した人の遺伝子が、その子孫に伝わって残るのであるから、今の私たちに伝わっているのは、良い人の遺伝子だったかどうかはわからないが、少なくとも、勝率の高い先祖の遺伝子であった可能性が高い。そして残った者の子孫は、自分達の祖先を、悪として(邪悪な侵略戦争をやった者として)否定することは滅多にない。
そして、現代の考古学・歴史学では、人類にとって、戦争、すなわち個人の暴力行為ではなく、集団による組織的な他者への暴力の行使は、その本能ではなく、そのため、いつの時代のいつの地域にもあったものではないという見解がある(日本の縄文時代には戦争の明白な痕跡が見られない)。
そして、本格的な農耕が始まった頃に、戦争が始まったという見解がある。例えば、原始的な農耕時代において、水田稲作の導入により、収穫物と共に人口が爆発的に増える中で、不作の年に飢えに怯えた集落同士が、自らの生存を賭けて、戦争を始めたのではないかという見方もある。その意味では、性急な結論は控えるべきだが、その場合の戦争は、生き残るためには必要だったのかもしれない。
18.生き残るために必要ではない戦争の原因はしかし、その後はむしろ、より豊かで高い戦闘力を持つ民族が、他の民族を侵略して、より豊かになる戦争が始まった。いわゆる侵略戦争である。
侵略戦争は、人類の歴史全体を見るならば、わずか80年前の第二次世界大戦の後にようやく下火になった欧米の植民地侵略の時代まで人類の主流の活動だった。極めて最近まで侵略戦争の時代だった。では、人間は、生き残るために必要がないのに、なぜアドレナリンを出して戦闘モードに入って、他を殺してまで、豊かになろうとしてきたのであろうか。
それは、覇権国家といった言葉があるように、人は、他の人々や領土を支配するなどして、自分がいろいろな意味で、他者よりも優位な立場を得ること自体に、強い欲求・快感・幸福を感じるからかもしれない。ただし、その背景にも、戦争によってか合法的な経済競争によってかの区別なく、財力・名誉・地位・権力その他において、他に対して優位になることが、よりよく生き残る可能性を高めるという思いがあるからかもしれない。
例えば、現在の米国では、黒人奴隷解放の南北戦争から200年近くたっても、依然として、黒人等への差別による社会の分断が指摘されている。白人層と黒人層の間の貧富格差や社会的地位の格差は、依然として顕著であり、それと連動して、医療サービスの受給、健康状態、寿命における顕著な格差が指摘されている。実際に、新型コロナの死亡率も、白人層と黒人層では大きな違いがある。
戦争がなく平和で、米国のような人種差別も少なく、一定の社会福祉制度も整っている現在の日本社会でも、他よりも豊かな方が、より幸福に、より長く生きることができると人々が考える事情はある。少し前にも、老後には数千万円の貯蓄が必要だという話が物議をかもして、政治問題になった。
また、バブルが崩壊してデフレに陥った後、新聞に「今自分たちの国がこんなに大変なのに、なぜ途上国に多額の援助をし続けているのか」という読者の不満の投稿が掲載された。途上国は飢餓にあえぎ、国民の年間所得は日本の100分の1で、日本の途上国への援助は日本のGNPの1%程度だ。数字だけでいえば、毎月30万円の給料の人が、毎月3000円の給料の人に、毎月3000円ほど援助してきたが、自分の給料が上がる見通しが乏しくなったという大変な事態が発生したのだから、3000円の支援を減らすべきだと主張していることになる。
現代の日本でさえこうなのだから、植民地侵略の時代では、勝者である欧米諸国の国民は、敗者からの収奪によって得る膨大な富・利益に歓喜したともいう。それは、彼らが、より幸福に、より長く生きるためにも役に立つと思われ、二つの世界大戦で植民地支配が難しくなるまでは、なかなか手放しがたいものだったのだろう。
19.喜び・歓喜の神経伝達物質「ドーパミン」とその問題点さて、エンドルフィンやオキシトシンとともに、喜び・幸福感を与える神経伝達物質がドーパミンである。これについては、第2章で改めて詳しく述べるが、中枢神経系に存在し、先ほど述べた怒りのホルモンのアドレナリン、ノルアドレナリンの前駆体でもあるとされる。
そして、これは、何かを獲得・達成したときの喜び・快感を与え、それに基づく意欲を生み出す。ただし、感謝によって出るエンドルフィン、愛情・慈しみによって出るオキシトシンの明るい温かい気持ちをもたらす幸福感と異なって、興奮を伴う喜び・歓喜という特徴があると思われる。
原始的な状況でいえば、例えば、その日に生き残るための獲物を苦労して獲得したときに生じる喜び・歓喜の感情である。この状況では、アドレナリンも出ている。小動物や草食動物が狩猟の対象である場合は、それは直ちに自分の身の脅威にはならないが、生き残るために動物を捕食することを迫られているわけだから、生き残りのための戦い(生存競争)の中にいるわけで、体はアドレナリンが分泌されて戦闘モードに入るわけである。
こうして、他者へのポジティブな気持ちの際に出るエンドルフィンやオキシトシンと異なって、ドーパミンは、他者に勝利した際の歓喜のためにも分泌されるということである。獲物を獲得するとは、自分には幸福だが、獲物側には死・不幸を意味するし、戦争による自己の勝利と生き残りは、他人の敗北と死を意味するものである。
さて、ドーパミンの話に戻すと、ドーパミンは、獲得・達成したときに快感を与えるだけでなく、その先に獲得する可能性があるときも、分泌されて快感を与える。それが獲得・達成しようとする意欲を形成する。よって獲得に加えて、様々な事柄に関する意欲の形成に関する神経伝達物質である。
ところが、ドーパミンには、一つ重要な特性がある。それは、同じものが苦労なく平然と獲得されるような状況が続くと、すなわち同じ刺激が続くと、徐々に分泌されにくくなり、喜びを感じられなくなるということである。そのため、ドーパミンが出て喜びを感じるためには、より強い新しい刺激が必要となる。すなわち、以前よりもっと多く、もっと良いものを獲得しなければ、ドーパミンが出ないのである。
これが、人の欲求は際限がないという事実の背景の1つではないかと思われる。何かを新たに得た場合はうれしいが、それがそのまま続くならば、それは当然のものと感じられて喜びではなくなり、それ以上を求めるようになる。その一方で、得たものに関しては、それにとらわれてしまい、それを失うと苦しみを感じる。
例えれば、給料が15万円から20万円に増えた時はうれしいが、その時の喜びは長くは続かず、もっと欲しいと思うが、そのままずっと20万円であれば、自分は頭打ちであると苦しむ。さらに、仮に20万円が15万円に下がれば大変苦しむ。20万円に上がる前は、15万円でもそれなりにやっていたにもかかわらずである。
20.ドーパミンがもたらす「とらわれ」「のめり込み」「依存症」こうして、ドーパミンは一種のとらわれ、それなしではいられない中毒症状的な状態を作り出す面がある。実際に、薬物を摂取して感じる快感は、回を重ねるごとに減少し、摂取する量を増やす誘惑にかられるのも、このドーパミン神経回路の特性である。
そして、過剰な飲酒・過食・買い物・ギャンブルに対して、足るを知らずにのめり込んでいくのも同様である。その意味でドーパミンは、時に人が何かに過剰にのめり込む状況をもたらす面がある。
そして、もっと求めたとしても、かなわない場合が多い一つの背景には、自分だけではなく、皆がもっと求めるために、奪い合いが生じるからにほかならない。よって、もっと得ることはおろか、逆に他人に奪われて、前よりも減る場合さえある。この場合、他へのやっかみ・妬み・憎しみ・恨み・怒りが生じて、苦しむことになる。それが場合によっては、互いの生死をかけた闘争・戦争の原因にもなる。
このドーパミンによる際限ない欲求の拡大は、他人との闘争・競争の勝利、名誉・地位・権力・支配の欲求にも当てはまり、それらの追求を、際限のないものにする可能性がある。よって、このドーパミン神経回路の働きは、ある程度制御しなければならないという面があるが、これについては、また後で述べることにする。
21.過剰な勝利・優位の欲求の大きな弊害ところが、他との競争で勝利しようとする欲求、他と比較して優位になりたいという欲求は、それが行きすぎると、特に現代の社会においては、幸福よりも、逆に不幸をもたらす面が目立ってきたという重要な事実が、脳科学の視点から指摘されている。それに関わってくるのは、先ほど述べたアドレナリンや、ストレスホルモンといわれるコルチゾールである。
ただし、前もって結論をいうならば、これは、優れたスポーツ選手がそうであるように、競争の相手を自分の幸福を奪う「敵」とは見ずに、切磋琢磨して互いに成長し合う「友」と見る場合には、当てはまらない。その場合は、人は、競争の勝利を絶対としてはおらず、勝ったり負けたりしながら、切磋琢磨して皆で成長するシステムだと考え、競争相手を自分の助力者・友と見る。
勝利を絶対だと考えると、強い競争相手は、自分の幸福を妨害する敵であり、悪魔のように見えて、憎しみ、妬みの対象となる。しかし、(共に)成長することが目的の場合は、競争相手は強力な方がよく、自分の成長=幸福の大きな助力者、恩人、教師・導き手(神・仏)と見えるだろう。
前者の勝利絶対の場合は、様々な心身の問題・人間関係の問題が生じる。競争の勝利を絶対として、自分と他人を比較して他に優位に立つことを強く望み、劣っていることを強く嫌がる場合は、現代人にも非常に多い。いや、競争社会の現代社会こそが、他の時代に比較しても、自と他の優劣の比較に、より深く陥っているのではないかとも思わせる。
結果として、自己嫌悪・コンプレックス・妬みや、他者の自分の扱いへの不満・怒りなどが、相当に現代人の心には渦巻いている。勝てないからあらゆる競争には参加せず、他人と交流するとコンプレックスを感じるため交流せず、社会から引きこもる(これを心理学では「劣等コンプレックス」の心理状態などということがある)。そして、孤独に苦しむ。他人より劣っているばかりの自分は、生きていてもちっとも楽しくないし、生きる価値を感じないと思い、生きがいを喪失する。うつなどの精神疾患に至る。自死ないしは孤独死に至る。
また、自分が劣っているというコンプレックスに対して、引きこもるのではなく、それを紛らわすために、自分に実力がないという現実を受け入れずに、自分に対する他者・社会の扱いが不当・不合理だと思い込む。そして、他者に攻撃的で、独善的、被害妄想的な意識・言動に陥る(これを心理学では「優越コンプレックス」という)。ことさら他人の悪口を言って貶めて、自分以下の存在と見ようとする。問題が起こる度に、他に責任転換をする。時には独善的な視点から、他人には有難迷惑なことをする。不正を行ってまで、競争で他者に自分が勝ったように見せかける。そして、昨今大きな問題となった電車などでの無差別大量殺人も、このタイプの、社会全体や勝ち組への不満・怒り(逆恨み)に起因するとされる。
22.ネガティブな感情がもたらす心身への弊害と不幸さて、話を元に戻して、他者が本当に自分の脅威であるならば、それに対してアドレナリン・ノルアドレナリンが分泌されて、戦闘モードに入り、戦うか逃げるかの行動をとることは必要である。
しかし、実際にはそうではないのに、勝利ばかりを絶対とする競争や、他との過剰な優劣の比較などによって、いろいろな他人を、自分の幸福を妨害する敵とばかり見るようになり、敵意・悪意・怒り・妬み・憎しみ・恐怖・不安・自己嫌悪・コンプレックスといったネガティブな感情を抱くならば、それは心身に逆効果になる。
まず、アドレナリンは前に述べたように、体を酷使することになり、高血圧・高血糖(糖尿病)・脳血管・心臓などの疾患のリスクを高める。例えば、高齢者が、瞬間湯沸かし器のように怒った後に、脳血管障害で死亡するリスクが高いことは、よく知られている。
なお、アドレナリンが本当の危機に対して一時的に出ることには、人間の体は耐えられるという。頻繁に出る、絶えず出ることになると、人間の体は耐えられない。わかりやすく言い直すと、人間の体は、一時的には強いストレスには耐えやすいが、持続的なストレスには耐えにくいという。
そして、ネガティブな感情が継続的になると、ストレスホルモンのコルチゾールの分泌が過剰となる。こうなると、免疫力が低下し、記憶を司る脳の海馬が萎縮して、知能が低下する。うつ病などの精神疾患のリスクも増大する(うつ病の人はコルチゾールの値が高いという)。また、慢性疾患のリスクの増大ももたらすという。
加えて、自律神経の交感神経が過剰に優位となる。すると、緊張・不安などによって、不眠症や、それによる生活習慣病のリスクが増大する。また、免疫力・細胞の再生力が低下して病弱になる。精神的には、リラクセーションができず、十分に休息できなくなる。
よって、他を敵視する怒り・恐怖・不安といった感情は、必要な場合に制御し、自分の心身の健康・知能・人間関係が不要に損なわれないようにする必要があるということができるだろう。
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