教本の紹介
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特別教本:一部特別公開

2012年夏期セミナー特別教本 『悟りの教えと現代の諸問題 親子問題、鬱病、自殺を考える』
(2012年10月 9日)

《改訂版》2012年夏期セミナー特別教本
『悟りの教えと現代の諸問題 親子問題、鬱病、自殺を考える』

■目次★第1章をご紹介          購入はこちらから

第一章 三悟心経の理解を深める-------------6

1 三悟心経の源=輪の思想と法則----------------6

1.三悟心経とは-------------------------6
2.輪の思想:三悟心経の源--------------------6
3.輪の法則(一元法則)---------------------7
(1)三悟の法則(三悟の輪の法則、ないし、三悟の一元法則)
(2)三縁の法則(三縁の輪の法則、ないし、三縁の一元法則)
(3)三性の法則(三性の輪の法則、ないし、三性の一元法則)
4.三悟心経と三悟の法則---------------------8

2 三悟心経の追加講義① 三つの教えは一体であること-------8

1.「万物恩恵・万物感謝」と「万物仏・万物尊重」のつながり----8
2.「万物仏・万物尊重」と「万物一体・万物愛す」のつながり----11

3 三悟心経の追加講義② 三悟の法則と三縁の法則--------13

1.三悟心経の背景にある「三悟の法則」--------------13
2.三悟の法則と三縁の法則--------------------14
3.苦楽の一体性について---------------------15
(1)苦と楽は相互依存であること
(2)苦と楽は同根であること
(3)苦と楽は循環していること
4.優と劣(善と悪)の一体性について---------------16
(1)優と劣は、相互依存であること
(2)優と劣は同根であること
(3)優と劣は循環していること
5.自と他の一体性について--------------------19
(1)自と他は相互依存であること
(2)自と他は同根であること
(3)自と他は循環していること


第二章 親子問題の克服と仏教哲学------------20

1 親子問題は諸問題の根源-------------------20
2 真に大人になる過程---------------------20
3 現代社会の親子問題:親への感謝・尊敬の減少---------21
4 親子問題が少子化の一因では-----------------22
5 親への感謝を妨げる要因:戦後社会の心の隙間---------23
6 戦後社会の競争主義の弊害------------------24
7 親側の問題を考える前に-------------------25
8 自分の親への感情が、親になった自分に跳ね返る--------25
9 親の過ちをいかにして許すか-----------------26
10 誇大自己症候群という心理学理論---------------27
11 競争社会やメディアが作る自己特別視の願望----------27
12 誇大妄想と被害妄想のセット-----------------28
13 苦しみを喜びに転換する智慧-----------------29
14 苦しみは自分を鍛える愛の鞭-----------------29
15 苦しみがとらわれを解消する源になる-------------31
16 苦しみの経験こそが慈悲の源-----------------32
17 反面教師は貴重な学びの対象-----------------32
18 親からの苦しみを超えて真の自立へ--------------33
19 親子関係の問題の類型について----------------34
20 親子問題はすべての人間関係の問題の源------------36
21 内観法:親などへの感謝を深める自己内省法----------37

第三章 生きる価値への気づき:自殺やうつ病を超える仏教哲学------39

1 現代社会に広がる心の問題:自殺やうつ病-----------39

2 自殺の現状と原因----------------------39

1.近年急増した自殺、年間3万人強、近代日本史上、最大数-----39
2.自殺未遂者は自殺者の10倍-------------------40
3.自殺の原因:健康問題・うつ病が最大の原因-----------40
4.近年の急増の原因は不況、失業・倒産--------------40
5.男性に多い自殺、働く性への負担か---------------41
6.失業と離婚と、自殺の関係-------------------41
7.失業・倒産に伴う人間関係の喪失----------------41
8.うつ病と自殺の関係など--------------------42
9.若者の原因--------------------------43
10.自殺の多い日本、主要な死因の一つ、若者では死因のトップ----43
11.日本の高い自殺率の原因:失敗の恥を嫌う、
セカンドチャンスを許さない-------44
12.自殺は自殺を呼ぶ:遺族も4人に1人は自殺願望---------44
13.自殺の伝染という考え方--------------------45
14.自殺の対策:自殺前の相談-------------------45
15.自殺対策基本法------------------------45
16.自殺報道への対策-----------------------46
17.精神科医の提言:早期対応と総合的な対策------------46
18.政府の対策の概要-----------------------47
(1)自殺総合対策大綱の概要
<平成23年版自殺対策白書(内閣府)>より--------47
(2)内閣府経済社会総合研究所
「自殺の経済社会的要因に関する調査研究報告書」より---48

3 うつ病について-----------------------48

1.うつ病とは--------------------------48
2.うつ病の増大と原因:社会環境の変化--------------49
3.増大した原因2:軽症者の受診・製薬会社のキャンペーン-----50
4.受診していない患者の問題も------------------51
5.国際的に見れば少ない日本の精神疾患の背景-----------52
6.最近のうつ病の多様化:何がうつ病かを再整理する必要------52
7.うつ病の原因:科学的には未解明----------------53
8.うつ病の原因は、科学的に確定していない------------54
9.生物学的な仮説:現在主流の薬物療法に関係する仮説-------54
10.心理学的・精神病理学的な仮説:従来型のうつ病に関する仮説---55
11.他の仮説:脳の神経損傷・オメガ3脂肪酸の不足など-------55
12.うつ症状をもたらすうつ病以外の病気に注意-----------56
13.うつ病の種類-------------------------57
14.重要な心理的な原因の推察-------------------57
15.患者や周囲の治療の際の心構え-----------------58
16.「抗うつ薬」の問題:効果の疑問、自殺企図の副作用、薬物依存--59
17.認知行動療法-------------------------61
18.非定型うつの治療法:従来と異なる症状と治療法---------61
19.その他のうつ病の治療法--------------------62
20.治療の効果や再発の可能性-------------------63
21.治療のための経済的な土台と地域コミュニティの重要性------64
22.子どものうつ病・精神疾患予防-----------------65

4 自殺・うつ病を防ぐための仏教哲学--------------66

 

以下第1章をご紹介します。

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第一章 三悟心経の理解を深める

三(さん)悟(ご)心経(しんぎょう)については、前回と前々回のセミナーの特別教本で、すでに詳しく解説しているが、本稿では、その補充をしておきたいと思う。

1 三悟心経の源=輪の思想と法則

1.三悟心経とは

まず、復習となるが、ひかりの輪が説く三悟心経とは以下のとおりである。

万物恩恵、万物感謝

万物仏(ほとけ)、万物尊重

万物一体、万物愛す

そして、それぞれの意味合いは以下のとおりである。

万物を恩恵と見て、万物に感謝する。

万物を仏と見て、万物を尊重する。

万物を一体と見て、万物を愛する。

 

2.輪の思想:三悟心経の源

次に、ここで、この三悟心経の源となった根本思想について述べる、それは、「輪の思想」であり、それに基づく「輪の法則」ということができる。

まず、輪の思想とは、一言では完全には表現しがたいが、「万物は、輪のように(循環し)、一体で、等しく尊い」という世界観である。これは、この世界の根本的な原理であり、万物を一体で平等と見る思想である。

例えば、この宇宙は、マクロの視点でもミクロの視点でも、輪・循環が、基本的な運動・原理になっている。地球の自転と太陽の周りの公転、太陽の銀河系の周りの公転、そして、原子の中の原子核の周りの電子の回転などである。そして、人間をはじめとする生命も、昼夜の循環、四季の循環、水の天地の循環、食物の連鎖、酸素と二酸化炭素の循環などに支えられている。

そして、この輪の思想は、日本にとっては、環状集落や環状列石があった縄文時代からの根源的な精神・思想であったと思われる。そして、聖徳太子が説いた日本の根本的な精神である「和の思想」の源となっている。すなわち、輪の思想に基づいた和の思想であり、両者は本質的に一体と考えられる。

また、この輪というものは、世界の諸宗教・諸文化に共通する神聖なシンボルともされる。仏教の法輪(仏法・仏陀の象徴)、仏陀やイエスの背後に常に描かれる輪状の後光、神道の「三種の神器」の円形の鏡、道教の陰陽の円形の太極図などを見れば、輪・円が神聖なもののシンボルとなっていることがわかる。

3.輪の法則(一元法則)

  さて、この輪の思想に基づいて、より具体的なものとして、「輪の法則」と呼んでいる法則・教えがある。この輪の法則には、主に三つのものがあって、それは以下のとおりである。

なお、輪の法則は、「一元法則」と言い換えられる場合がある。一元法則とは、「万物、ないしは二つに分かれているように見えるものが、本質的につながっている、元が一つである」といった意味を持った法則である。

(1)三悟の法則(三悟の輪の法則、ないし、三悟の一元法則)

これは、苦と楽、優と劣、自と他といった、一見して別々の対極的なものが、本質的には輪のようにつながっており、一体であることを意味している。三悟とは、万物への感謝、万物への尊重、万物への愛という三つの悟りのことである。

(2)三縁の法則(三縁の輪の法則、ないし、三縁の一元法則)

これは、この世界の万物が、関連していて、同根であり、循環しており、一体であると説くものである。

 (3)三性の法則(三性の輪の法則、ないし、三性の一元法則)

これは、この世界は、男性と女性、天と地、光と闇、陰と陽というように、男性原理と女性原理の二極によって構成されているという哲学があるが、この男性原理と女性原理の二極も、本質的には一体であって、中性原理であるという法則である。ここで、輪という言葉には、車輪の意味もあって、この車輪の形状の輪と軸が、それぞれ男性原理と女性原理を象徴している。

  

4.三悟心経と三悟の法則

 

上記の三つの法則の中で、一番目の三悟の法則に主に基づくのが、三つの悟りの心の教え(三悟心経)である。すなわち、三悟心経とは、三悟の法則のエッセンスを短い言葉=経文で表したものである。この短い言葉の中に、仏陀の智慧のエッセンスが凝縮されている。

そして、一見すればわかるように、この三悟心経は、伝統的な経典である般(はん)若(にゃ)心(しん)経(ぎょう)などと違って、現代人にも、その意味がよくわかる現代版の経典であり、それを繰り返し唱えると、規則的なリズムによって、一定の心地よさが生じる効果もある。

 

2 三悟心経の追加講義① 三つの教えは一体であること

 

先ほども述べたが、すでに三つの悟りの心の教え(三悟心経)については繰り返し解説してきたが、それをさらに深めるために、今まで述べていなかった視点について、以下に述べることにする。その要点は、三悟心経の三つの教えは、ばらばらではなく、一体性を持っているということである。

 1.「万物恩恵・万物感謝」と「万物仏・万物尊重」のつながり

 まず、万物恩恵・万物感謝の教えのエッセンスから確認しておこう。この教えは、真の幸福は、不満と奪い合いではなく、感謝と分かち合いによるものであると説く。

すなわち、多くの人が、自己と他の幸福を分け、自分のためにだけ「今よりもっと」、「他人よりももっと」と求めるが、それは際限がなく、永久に満ち足りることがなく、にもかかわらず、得られない苦しみ、得たものを失う苦しみ、奪い合いなどのさまざまな苦しみを招く。

そうではなく、今すでに与えられている膨大な恵みに気づいて感謝したり、苦しみの裏側にも智慧や慈悲を鍛えるという貴重な恩恵があることに気づいて感謝したり、自分の貪りの裏にある無慈悲な心を反省し、他と苦楽を分かち合ったりすることによってこそ、心が安定し、大きく温かくなり、現実生活も安定したものになって、真に幸福になる。

なお、この教えは、全体の幸福のための手段として切磋琢磨する意味での競争を否定するものではなく、自分だけが幸福になる、生き残ることを目的とする闘争は否定するものであるので注意されたい。

さて、この教えのポイントの一つは、本当の幸福は、奪い合いではなく、分かち合いによるということである。言い換えれば、本当の幸福は、万人が一体として得られるものであって、自分と他人は共に幸福になるか、共に不幸になるものであって、自分が幸福になって他が不幸になったり、他が幸福になって自分が不幸になったりすることはないということだ。

例えば、現代社会で流行っている、勝って幸福になる者と負けて不幸になる者がいるという考え方は、ごく一面的・短期的な視点に基づいた錯覚であり、本質的には間違いである。例えば、他を押しのけて勝った者は、勝利の快感はあっても、同時に慈悲という心の宝を失っているのである。

この教えのもう一つのポイントは、苦しみの裏側に楽があり、楽の裏側に苦しみがあるということである。

これを人の間の優劣に関して考えると、例えば、何かに優れている人は、劣った人の気持ちを理解し、それを取り除く手伝いをすることは難しい一面がある。逆に何かに劣っている人の方が、同じように劣っている人の気持ちを理解し、それを和らげることができる一面がある。

仏教にも、「煩悩(ぼんのう)即(そく)菩提(ぼだい)」という言葉がある。これは、凡夫(普通の人)の煩悩と、仏陀の慈悲の心(菩提心)は別のものではないという意味だ。煩悩に苦しんだ者こそ、同じく煩悩に苦しむ人への慈悲も生じる。そして、大煩悩大解脱という言葉もある。煩悩が強かった者が解脱を果たすと、大きな解脱になるというものである。

また、自分が何かに優れている場合は、物事を自分の力で行う立場になりやすく、自分より優れた他の力を認めて喜び、それを活かして全体が幸福になる方向には行きにくい。例えば、有名な松下幸之助は、自分の体力・学力・財力が乏しかったために、健康な他に頼む術を学び、学力のある他から謙虚に学ぶ姿勢を身につけ、お金持ちの下に丁稚奉公に行って商人の才を身につけたという。こうして、他人の長所を活かそうとすれば、自分の欠点が、一転して自分の新たな長所の源になる。

さらに、自分が一面で劣っており、他に支えられる立場の人のほうが、人の支えのありがたさや感謝の心を身につける場合がある。例えば、ある身体障害者の方は、当初は、そのように自分を生んだ親を恨んでいたが、いろいろな経験を経る中で、身体障害者であるがゆえに、人の支えのありがたさを理解し、感謝の心を得たと気づき、逆に親に感謝するようになったという。

そして、これによって、そのご両親は罪の意識から救われただけでなく、子供から自分たちが忘れていたとても重要なことを教えられたと思ったのではないかと私は思う。というのは、実際、身体障害者であろうと健常者であろうと、人間は自分だけの力では、一日一秒たりとも生きることができない無力な存在であり、その意味で、感謝や謙虚さは非常に貴重な宝である。

しかし、先ほど述べたように、「今よりもっと、他人よりももっと」という心の働きが強い現在の競争社会では、自分と他人への不満が多くなりがちで、感謝や謙虚さは忘れてしまう。よって、この一点だけで見ても、身体障害者は、健常者より劣っている、不幸になる、ということはできないだろう。場合によっては、逆転さえするのである。

また、これと似た例としては、健康だった人が、病気になって初めて、人の支えのありがたさに気づき、感謝の心が深まって、人間として一皮むけて、復帰後にいっそうの活躍をしたという話を聞くことが多い。

また、私は、名古屋に住むある身体障害者の方と知り合いだが、彼の心からの感謝の言葉が、彼を介護する健常者の女性の心を救っていると感じた。現代人は、物は豊かでも、競争社会の中で、負け組などといわれて、自分が生きる意味・価値・動機を失っている人が多いと思う。そういった社会の中で、身体障害者の彼は、深い感謝の心で、健常者の彼女の心を支え、救っているのだ。

以上の話のポイントは、自分と他人が共に幸福になるものだと考えるならば、人の間に優劣などはないということである。

すなわち、競争社会の中で洗脳されて、他人よりも多くのお金や地位・名誉・権力を得ることだけが幸福の基準であると錯覚すると、幸福は奪い合うものであって、自分が幸福になると他人が不幸になり、他人が幸福になると自分が不幸になるという錯覚が生じる。すると同時に、人と人の間に絶対的な優劣があるように錯覚する。

しかし、真の幸福は、奪い合いではなく、感謝と(苦楽の)分かち合いによるものであり、安定した大きな温かい心を得ることだと気づけば、自分と他人は共に幸福になるものであることがわかる。すると、人の間に絶対的な優劣などはないことがわかる。

すなわち、人の短所と長所は裏表であり、例えば、自分の欠点・苦しみは、同じ苦しみを持つ他人を理解し助ける力の源となり、また、自分にない他人の長所は、それを活かすことで、自分が他の能力を使える人間となったり、感謝に目覚めた人間となったりするなどして、新たな自分の長所の源となることがわかる。

こうして、人は、一般に不遇とされる条件に生まれ育とうとも、自分と他人は共に幸福になるという視点に目覚めれば、その条件を自分なりの個性として活かして徐々に成長し、幸福になる道があると思う。すなわち、一人一人に、一つの幸福、一つの個性的な幸福があるのである。その意味で、人と人の間に本質的な優劣はないのである。

そして、その幸福への道の性質は、感謝と分かち合いの道であり、仏陀の言葉では、慈悲や四無量心の実践の道ということになるだろう。この四無量心とは、慈・悲・喜・捨の四つの心であり、①慈は、他に楽を与える、②悲は、他の苦しみを悲しみ取り除く、③喜は、他の幸福・功徳・才能を喜ぶ、④捨は、万人万物を分け隔てなく平等に愛するというものである。

そして、この人間観は、大乗仏教の人間観・世界観と共通する。大乗仏教では、人の間には優劣を設けず、この世界の万人・万物は、皆平等な仏の現れであって不必要なものは一切ないと説く。そして、すべての生き物は、輪廻転生を繰り返す中で、釈迦牟尼と同じように、未来に仏になる可能性があると説く。ここから、次の三悟心経の教え、すなわち、「万物仏・万物尊重」が出てくるのである。

2.「万物仏・万物尊重」と「万物一体・万物愛す」のつながり

 さて、真の幸福は、感謝と分かち合いによるもので、万人の幸福は一体であり、その視点からは、万人の間に優劣はなく、たとえて言えば、皆が仏の現れとして等しく尊く、不必要なものは一切ない、という教えを述べた。ここでは、その点の考察を深めたい。

万人の幸福は一体で、万人の間に優劣の違いはないとは、言い換えれば、それぞれの人が、他人や全体の幸福のために果たす役割があるということである。実際には、それが発現されていなくとも、潜在的には存在し、この点において、万人は、仏陀とされた釈迦牟尼と本質的に違いはない。それゆえに、万人が未来に仏になる可能性があると説かれるのである。

例えば、自分の長所・幸福は、他人・全体の幸福のために還元し、自分の欠点・苦しみは、その裏側にある長所・幸福を見出して、それも同じように他人・全体の幸福のために活かすのである。こうして、仏教が説く、未来に仏陀になる道を歩む菩薩のように、皆が苦楽を分かち合い、互いに助け合って、一体となって幸福になる道を歩むことは、人類社会の理想であろう。

しかし、ここでもう一つ重要な視点がある。それは、人類は、これまでにも、ある意味では、互いに苦楽を分かち合い、助け合って、一体となって成長・進化してきたということである。というのは、これまでに人類の間には、さまざまな対立・争いがあったが、歴史的・長期的・大局的な視点から見れば、互いの良いところ・悪いところから学びあって、その意味で、一体となって成長・進化してきたと思えるからである。

もちろん、短期的・個人的な視点から見れば、幸福を奪い合う風潮の強い社会の中で、他人の良いところには、妬みを持って学ぼうとせず、他人の悪いところには、軽蔑・怒りを持つだけで、それを教訓とせずに、自分も巻き込まれ、悪をなすことも多い。しかし、長期的・大局的な視点から見れば、互いから学び合って、一体となって成長してきたと考えることができる。

例えば、私たちが、過去の人類のさまざまな成功と失敗の歴史から学んで、現代社会を営んでいるのも、他人を教師・反面教師として学ぶことにほかならない。科学技術、資本主義経済、民主主義制度、平和の運動や国際組織、慈善活動の広がりなども、他を見本・反面教師として、他の成功・失敗からの学びの上に実現されていることだ。

また、自分の感情では、他人に助けられている実感はなくても、実際には助けられている事例もある。親などの身近な他人の悪行に強く反発し、「自分は絶対にこんな人間になるまい」と決心するのも、他人の悪行を反面教師として学んでいることである。優れた他人を見て、強い嫉妬心を感じつつ、それを原動力として、自分を磨き、切磋琢磨して成長していくのも、他人を見本として学んでいることにほかならないだろう。

ここでもう少し深く考えてみると、自分の身近に反面教師となるような悪行をなすものがおらず、自分が、ある種の悪に初めて誘惑されたとすれば、それを回避することができるほどに、われわれ人間は強いものであろうか。また、親などの身近な者の悪行に強く反発し、「自分は絶対にそうなるまい」と決心するのも、無意識のうちに、その親の子どもとして、自分も同じ悪に陥る可能性が多分にあることに気づいているからこそ、強く決心するのではあるまいか。

そもそも、主観的な感情を排除して、客観的に謙虚になって自分を見るならば、家族でなくとも、同じ社会・時代に住む人間は、皆が何かしらつながって共通点が多いものであるから、その意味で、人は、反面教師の他人から学んでこそ、かろうじて自分が同じ悪を回避することができる程度の違いしかないと考えたほうが、無難で賢いのではないか。人は皆、仏陀の手のひら、ドングリの背比べという言葉もある。そして、仮に、反面教師が一人もいないとしたら、それは恐ろしいことではないか。

また、妬みを感じるような優れた存在がいてこそ、その存在との切磋琢磨を通して、初めて自分も最大限の成長ができるのではないだろうか。仮に自分よりも優れた存在がいないとして、自分ひとりの力で、どのくらい成長できるだろうか。仮に、見本となる存在、好敵手となるような存在が一人もいないとしたら、それは恐ろしいことではないか。

そして、重要なこととしては、他に勝った者が幸福になるという比較・競争の強い現代社会の中では、互いが互いの学びの対象であり、一体となって成長しているという事実が、非常に見えにくくなっているのではないか、ということである。

そうした社会では、「自分が、他人より優れた存在でありたい」という欲求が非常に強くなり、それに伴い、自分と他人のつながり・一体性を意識するのではなく、自分と他人を区別する、別のものとする意識が強くなるからである。

そして、現実には見本となっている優れた他人が、感情的には、自分が勝つための邪魔者に感じられてしまい、現実には反面教師である他人は、自分とは違った愚かな存在と位置づける(位置づけたくなる)のである。すなわち、自分と他人の一体的な関係が、ありのままには感じられない意識状態になってしまうということである。

しかし、これを言い換えれば、「幸福は奪い合い」という比較・競争の価値観ではなく、「幸福は分かち合いで、万人の幸福は一体」という価値観を体得していくならば、自分と他人の関係がありのままに見えるようになり、人と人が、人類全体が、一体となって成長・進化していることが、より正しく理解できるのではないかと思う。

そして、このような人間観が、三悟心経の最後の教え「万物一体・万物愛す」につながることは明らかであろう。万人・万物の幸福と成長は一体であり、それゆえに、真の幸福の道は、万人・万物を愛すること、言い換えれば、万人万物と苦楽を分かち合いつつ、共に一体として幸福になる道を歩むことである。これを仏教では、すべての衆生の幸福を求めて修行する菩薩の道と呼んでいる。

なお、ここで、ポイントとして、「平等」と「一体」がある。先ほど、「輪の思想」とは、万物が平等で一体という思想であると述べたが、これまでの検討から、万物の平等性を悟ると、万物の一体性を悟ることがわかると思う。逆に万物の一体性が悟れれば、平等性も悟ることができる。

これは、仏教の教えも同じであり、仏陀の中核の教えである「縁起の法」は、万物が相互に依存しあって存在する(一体である)と説き、その仏陀の心とされる四無量心の中には、万物を平等に愛する心が強調されている。こうして、万物を一体と見抜く仏陀の智慧(智恵)は、万物を平等に愛する仏陀の慈悲と一体なのである。

  

3 三悟心経の追加講義② 三悟の法則と三縁の法則

 1.三悟心経の背景にある「三悟の法則」

 三悟心経の教えの背景に、「三悟の法則」があることは、前に述べたとおりである。そもそも三悟心経とは、三つの悟りの教えの中心の教えという意味である。

この三悟の教えは、非常に幅広い内容を持つが、その教えの土台となる根本的な法理は、「苦と楽、優と劣(善と悪)、自と他といった、一見して対極的に見える両者が、本質的には一体である」と説くものである。

そして、①苦楽、②優劣、③自他のそれぞれが一体であることから、三悟心経の三つの教え、すなわち、①万物恩恵・万物感謝、②万物仏・万物尊重、③万物一体・万物愛す、の三つの教えが出てくるのである。

具体的には、第一に、苦と楽を一体と見る法理から、目先の楽を貪ると、さまざまな苦しみにつながると気づき、今ある恵みに感謝し、足るを知る教えが出てくる。さらに、苦しみには、向上のための試練としての恩恵があると気づき、苦しみをいたずらに厭わずに、万物に感謝するという考え方が出てくる。すなわち、万物恩恵・万物感謝の教えである。

第二に、優と劣を一体と見る法理から、人の短所と長所は裏表であって、人と人の間の違いは優劣ではなくて、それぞれの(潜在的な)個性・役割の違いと見て、万人・万物は、本質的には平等に尊いと考える人間観・世界観が出てくる。すなわち、万物仏・万物尊重の教えである。

第三に、自と他を一体と見る法理から、自己と他者、自己と外界を含めた万物を一体と見る考え方、すなわち、万物一体・万物愛すの教えである。

  この点については、すでに過去の特別教本で詳しく論じたので、参照されたい。

 

2.三悟の法則と三縁の法則

 それでは、苦と楽、優と劣、自と他は、どういった視点から一体であるということができるか。これについて総合的な分析をするためには、三悟の法則に加えて、「三つの縁起の教え(三縁の法則)」が重要である。

先ほども述べたが、この三縁の法則は、「この世界の万物が、相互依存であり、同根であり、循環しており、一体である」と説くものである。

こうして、三縁の法則は、万物が一体であるという根拠として、①万物が相互依存であること、②万物が同根であること、③万物が循環していること、という三つの視点を挙げている。その意味で、万物の一体性(一元論)を多面的に論証しようとする法則である。

さて、この三悟の法則と三縁の法則をあわせて考えると、苦と楽、優と劣、自と他は、それぞれが、「相互に依存しあっており、同根であり、循環しているがゆえに、一体である」ということになる。以下に、この点について、一つ一つ見ていくことにする。

 

3.苦楽の一体性について

(1)苦と楽は相互依存であること

苦と楽は、心が感じるものであり、両者は別々のものではなく、お互いがあるから、お互いが存在している。楽を感じるから苦を感じ、苦を感じるから楽を感じる。すなわち、相互に依存している。これを言い換えると、苦しみとは無関係である楽だけの楽(絶対的な楽)や、楽とは無関係である苦だけの苦(絶対的な苦)というものは存在しない。

まず、苦と楽は、何かとの比較で生じる相対的なものである。10万円の給料をもらって、喜びになるか、苦しみになるかは、場合によって違い、例えば、それまでの給料が10万円未満であれば、給料が増えたとして喜びになり、それ以上であったならば、減ったとして苦しみになるだろう。

そして、お金も、他の快楽も、人は、得ても慣れると喜びを感じなくなり、もっと欲しいという欲求が生じ、満ち足りることがなくて苦しむ。さらに、いったん得ると執着が生じ、以前は無しで済んでいたのに、それ無しでは苦しみを感じる。こうして、楽の裏には、苦しみがある。

逆に、苦しみに対しては、徐々に慣れて、とらわれが減ると、苦しみと感じなくなり、以前は楽と感じなかった小さな恵みを得ただけでも、楽を感じるようになる。こうして、苦の裏にも、楽がある。

これをまとめれば、恵みが乏しく苦しい状態に慣れれば、ちょっとした恵みが大きな喜びになり、恵みが多く喜びが多い条件に慣れれば、ちょっとしたことが大変な苦痛になる。こうして、苦に基づいて楽があって、楽に基づいて苦があって、苦と楽は、相互に依存しあって生じるものであることがわかる。

(2)苦と楽は同根であること

普通の意味での苦と楽の感覚・印象は、突き詰めると、楽の裏に苦があり、苦の裏に楽があることを悟っていない無智のために生じる一種の錯覚である。言い換えると、真実は、苦と楽は一体なのに、楽が裏にない苦や、苦が裏にない楽があると錯覚するのである。こうして、苦と楽は、無智という同じ根源から、同時に発生する同根のものなのである。

では、苦と楽が表裏だと悟ることを妨げる人間の無智の正体は何かというと、それは、自と他が別であって、自と他の幸福が別である、と錯覚する無智である。この無智があると、他よりも自分と自分の物だけを偏愛する、いわゆる自我執着が生じる。すると、苦と楽(を区別する錯覚)が生じるのである。この無智・錯覚は、通常の人間の場合は、その深い意識にまで、完全に埋め込まれているが、仏教の実践などによって、和らげることができる。

なお、ここでの苦と楽(の錯覚)とは、自我執着に染まった普通の人の意識が感じる、普通の意味での苦と楽である。そうではなく、自と他を区別せずに、万人を平等に愛することで生じる真の幸福(真楽)は、これとは別のものであり、その裏には苦しみはない。

 また、苦と楽の原因となっているものが、同根であるということもできる。苦しみをもたらすのは悪行であり、喜びをもたらすのは善行であるが、この悪行と善行の根源は、仏教では煩悩と菩提心であるが、この両者が本質的には同根なのである。これについては後で詳しく述べる。

(3)苦と楽は循環していること

この苦と楽の循環については、上記の1の部分の説明で、楽が苦に変化し、苦が楽に変化することは、すでに説明したが、もう少し付け加えたい。

まず、苦から楽に変わる理由は、①単純に、苦しみに慣れていき、苦しみが減るというだけでなく、②苦しみの経験から、苦しみをもたらす悪行に対する反省が生じて、悪行を減らして善行を増大させることで、苦しみが減り、楽が増大する場合がある。

また、楽から苦しみに変わる理由は、①単純に、楽を貪るうちに、求めて得られない苦、得たものを失う苦、奪い合う苦といった、苦しみが生じていく場合と、②楽を経験しているうちに、自分に対する慢心が生じて、そのために、苦しみをもたらす悪行が増え、喜びをもたらす善行が減るという場合がある。

そして、楽が苦になり、苦が楽になり、苦楽が循環することを象徴する思想が、極楽の天界から激苦の地獄までのさまざまな世界を輪廻転生すると説く、仏教の六道輪廻の思想であろう。

 

4.優と劣(善と悪)の一体性について

(1)優と劣は、相互依存であること

優劣(善悪)は、まさに比較によって生じる観念である。辞書で調べても、優劣とか、善悪とは、何かの他と比較して優れた様、劣った様のことを言うと定義されている。よって、劣がなければ優はなく、悪がなければ善が無く、優劣・善悪は、互いに依存し合って生じる観念である。よって、比較の対象がないもの(一つしかないもの)には優劣・善悪はない。例えば、「良い人、悪い人」とは言っても、「良い地球、悪い地球」とは言わない。

言い換えると、比較なしの絶対的な優劣や善悪などはない。仏教では、目覚めた人を仏陀といい、無智に覆われている普通の人を凡夫(普通の人という意味)というが、仮に仏陀だけの世界に行くならば、仏陀が普通の人=凡夫と認識されるのである。逆に、大変な悪人も、それ以上に悪人の人ばかりの世界に行けば善人に見えてくるだろう。

また、仏教では、人は、無智のために悪行をなし、その苦しみから反省し、善行をなす(正法に信を持つ)過程をたどると説く。悪行が苦しみを通じて善行につながる過程である。実際に、過ちを犯して成長する、失敗を経験して成功するという事例は多い。

逆に、善行をなして幸福な状態にあったり、優れているとされていたりする者が、その幸福・成功のために慢心を抱くと、不幸・悪行に陥る場合もある。善行による幸福が、慢心を通して、悪行につながる過程である。

また、他人の悪行を反面教師として、悪を回避して、善をなしている人もいれば、他人の善行を見て、妬んで逆に悪行をなした人もいる。他人の悪が自分の善に、他人の善が自分の悪になる過程である。この意味でも、優劣・善悪は、相互に依存しあっているのである。

(2)優と劣は同根であること

前に述べたように、本来は、人の長所と短所は表裏であり、人と人の違いは優劣ではなく、個性・役割の違いである。しかし、苦と楽の場合と同じように、自と他の幸福が別だと錯覚すると、優劣・善悪(を区別する錯覚)が生じてくる。

逆に、前に述べたように、自他を含めた万人の幸福が一体であり、真の幸福は苦楽の分かち合い・慈悲によるものだという視点からは、人と人の間の違いは優劣ではなく、(潜在的な)個性・役割の違いであると考えることができる。その意味で、優劣(善悪)の区別は、自と他の幸福を分ける無智を共通の根源として生じる錯覚であるということができる。

 

なお、この点をさらに深めると、大乗仏教では、汚れた心の働きである「煩悩」と、仏陀の清らかな心である「慈悲の心(菩提心)」は、本質的には、同根のエネルギーであると説かれている。仏教用語では、「煩悩即菩提」ともいい、それゆえに、「凡(ぼん)夫(ぷ)即(そく)仏(ほとけ)(凡夫と仏は別のものではない)」などともいう。

というのは、仏教では、人は悪いことをなすが、そのためにさまざまな苦しみを経験するうちに、正しい教えに目覚めると説く。すなわち、人は皆、幸福になりたい点では同じであり、そのエネルギーが、最初は正しい道がわからないために、煩悩・エゴとして現れるが、智慧が増大すれば、利他・慈悲として現れると考えるのである。これに関連して、ヨーガにあるクンダリニ-・ヨーガの教義では、性欲などの煩悩のエネルギーが昇華されると、慈愛のエネルギーに変わると説かれている。

そして、これに関連して、「大煩悩(だいぼんのう)大解脱(だいげだつ)」という思想がある。すなわち、大きな煩悩を持つ者は、エネルギーが大きいので、苦難の果てに解脱を果たせば、大きな解脱に至るという意味である。これは、大悪人が大善人になる可能性を示しており、まさに人の長所と短所は裏表であることを示す一例である。この意味でも、優劣(善悪)は同根ということができる。

 (3)優と劣は循環していること

 苦と楽の循環のところで、六道輪廻の思想とも関連付けて述べたことが、この優劣の循環にも、そのまま当てはまる。すなわち、今優れているとされる者には、慢心の落とし穴があり、それに陥れば、劣った者になる。また、今劣っているとされる者でも、それがゆえに反省し努力すれば、優れた者になる。これは、普遍的な道理であって、仏教・ヒンドゥーの六道輪廻の思想に限らず、ウサギと亀、アリとキリギリスの物語などによって、訓戒されてきた。

また、先ほど述べたが、大煩悩大解脱というように、煩悩と解脱という究極的な優劣・善悪も表裏であり、大悪人が大善人になり、それまでの善人と悪人の立場が逆転する=優劣が循環する可能性がある。これは、いち早く解脱するが、救済の範囲は比較的狭かった釈迦牟尼と、釈迦に大きく遅れて解脱するが、人類全体を悟りに導き、釈迦を助けるとされる弥勒菩薩の話などにも通じる思想ではないだろうか。

こうして、人の優劣、長所と短所は表裏であるから、優れているとされている者は、その長所が目立っている状態に過ぎず、絶対的に優れているのではない。よって、その裏側にある短所に対して油断し、努力を欠くならば、それが現象化した時には、立場が逆転する。よって、多少繰り返しになるが、優劣・長短が、表裏である点をいくつか列挙しておこう。

 

① 優れているとされる者は、他の力・支えのありがたさを理解する体験はしに

くい。他に感謝の気持ちを持ちにくく、慢心に陥って、他の協力を失って、

没落することが多い。

② 優れているとされる者の周りには、それに依存する者が集まる問題がある。

彼らは、持ち上げるだけで、必要な批判はしないため、慢心に陥る原因となる。

③ 優れているとされる者は、劣った者の気持ちを理解し、その苦しみを取り除

きにくい。そして、他人事と考えているうちに、自分に同じ問題が生じた時

には、対応できない。

④ 優れているとされる者は、他を支える、他を活かすことが、苦手となりやすい。

自分主導で物事を行うことができるので、全体を成長に導くことが苦手となる。

 

5.自と他の一体性について

 (1)自と他は相互依存であること

 人が生きるために、水・空気・食べ物を含めた地球生命圏が必要であるように、自と他を含めた万物は、明らかに自力だけでは生じて存在することはない。この世界の万物が、他の万物に支えられて生起している。

(2)自と他は同根であること

本来は、自と他を含めた万物は一体であるが、自と他を区別する錯覚=無智が生じた時に、人の意識に、自と他(の区別)が現れてくる。その意味で、この錯覚・無智が、自と他(の区別)を生み出す根源である。

また、自と他を含めた万物は、ビッグバンから生じたという意味でも、同根である。そして、科学的には証明されていないが、自他を含めた万物を生じさせている根源的な意識があるという説が、仏教の唯識(ゆいしき)思想(阿(あ)頼(ら)耶(や)識(しき))やユング心理学(集合無意識)に共通して存在している。

(3)自と他は循環していること

自と他は、その物理的な要素(身体を構成する分子)を絶えず交換・循環させている。また、人間同士の間では、精神的な要素(思考を支える言語や知識)も絶えずそうしている。さらに、すべての生命体は、自分の死が他の生を支え、また自分の生は他の死が支えている食物連鎖の循環の関係にある。

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