【2】「学び」と「神仏」に関する考え方
●最初から信じる必要はない
さて、ひかりの輪にも、後に述べる「輪の思想」「輪の教え」「三悟の教え」などの思想・法則・教えと呼ばれるものがあります。
しかし、皆さんは、これらを信じる必要は全くありません。皆さんが、自分でよく考え、吟味して、納得したならば、それを受け入れればいいだけです。
最初は疑うくらいによく吟味するとよいでしょう。
そもそも、ひかりの輪の思想・教えは、人が理性によって、論理的・合理的に考えて、納得できるものを中心としています。
諸宗教の思想の学習・研究に加え、心理学の学習の結果も反映されています。言い替えれば、だからこそ信じてもらう必要がないのです。
しっかりとよく考えれば、皆が、適切な結論に至ると思うからです。
●特定の人物・神を絶対視する必要はない
そして、後から述べるように、特定の人物や神を合理的な根拠もなく唯一絶対視することはありません。
上祐代表を初めとするひかりの輪の指導員は、ひかりの輪の思想・実践の先生・教師ではあっても、当然、信仰の対象ではなく不完全な人間の一人です。
学ぶ時は、対象を絶対視せずに、自分でよく考えて、納得いくところを吸収し、そうでないところは、流してしまえばよいのです。
また、これと同様に、特定の思想・教えを同じように絶対視することもありません。そうではなく、世界の普遍的な道理・原理を追求しています。
●いろいろな学習実践法・ツールも絶対視していない
なお、ひかりの輪の中にも、論理的・科学的には、理由が解明されていないものの、体験的に広く価値があるとされている学習実践法・ツールを取り入れている部分はあります。
その中には、ヨーガや気功の身体行法、仏教の瞑想法、瞑想に役立つ心静まる法具の音・音楽、お香、仏画・仏像・法具、聖地巡りや、聖地の名水(ご神水・聖水)、一部の占星学、そして、先達とともに瞑想するヒーリングなどがあります。
しかし、それらは絶対視する必要はなく、半信半疑でもよいし、「自分には合わない」と思えば、使わなければよいだけです。
●「内側の神仏」と「外側の神仏のシンボル」
ひかりの輪では、神仏とその尊重の仕方について、新しい思想を提唱しています。
まず、一人一人の中の神聖な意識があり、それを「内側の神仏」と考えます。そして、その神聖な意識を引き出す手段として、外側に「神仏のシンボル」があると考えます。
この外側のシンボルは、仏教徒なら仏陀、キリスト教徒ならイエス・ヤハウェ、イスラム教ならマホメット・アラーといった、特定の人や神・仏などです。
要点は、この外側のものは、一人一人の「内側の神仏」を引き出す「シンボル」ではあっても、それ自体は唯一絶対のものではなく、人に応じて、さまざまな「シンボル」があってよく、全くシンボルを持たなくても、また同じようによいということです。
この思想は、人の中の神聖な意識(「内側の神仏」)を重視し、従来の宗教が崇拝対象とした外側の存在を「絶対視せず」に、しかし「軽視もしない」で、「神仏のシンボル」として「内側の神仏」を引き出す手段と位置づけています。
そして、両者の合体が、神聖な意識を引き出す=内側の神仏が目覚めるとするのです。
●シンボルは人によって違ってよいし、なくてもよい
そして、外側のシンボルは、人によって違ってよいと考えます。
自分に縁があると感じる(自分の意識を高めてくる)外側のシンボルは、人によって違ったり、確たるシンボルがない人もいたりするのも自然なことです。
だからこそ、さまざまな宗教があって、人類が一つの宗教の下には統一されないのです。ある人は、仏陀、ある人は、イエス、ある人はマホメットでよく、ある人は、何かの仏像・仏画、ある人は、何かの大自然でもよく、ある人は、確たるシンボルがなくてもよいのです。
●シンボルは、宗教間の対立を越える思想では?
こうして、ひかりの輪は、何か一つの特定の神仏、ないしは神仏の化身とされる特定の人物を信仰することを義務づける「宗教」というものとは異なります。
外側の人や物を絶対視するグルイズムや偶像崇拝などの従来の宗教でもありません。
そして、この考え方が、宗教界に広まるならば、異なるシンボルを持つ宗教間の対立を解消できるのではと考えています。
独善的・排他的な傾向のある従来の「宗教」ではなく、21世紀の新しい時代に合わせ、多様性を認める智恵の思想ではないでしょうか。