瞑想法
ひかりの輪で行っている瞑想法のコーナーです。仏教的瞑想法、瞑想用の聖音・お香・音楽などをご紹介。

このコーナーについて

  • ひかりの輪の各種の瞑想をご紹介します

    このコーナーでは、ひかりの輪で学習・実践している、瞑想法についてご紹介しています。

    ①仏教の伝統的な瞑想法
    ②ヨーガの伝統的な瞑想法
    ③現代の心理療法の瞑想法
    ④団体オリジナルの瞑想法

    さらに、その瞑想の効果を高めるために以下の物品をご紹介しています。

    ①仏教の各種のサウンド法具
    ②団体オリジナルの瞑想音楽
    ③海外からの特別な瞑想用のお香


    >>各種法具は、こちらのネットショップにて販売しております。ぜひ一度ご訪問ください。

ひかりの輪の瞑想

  • 1.輪の法則の読経瞑想

    ひかりの輪では、心の幸福・解放・悟りに役立つ、現代人に合った新しい読経瞑想を作りました。これは、わかりやすく短い言葉で、仏陀の智恵のエッセンスを表したものです。どなたにでも実践できる非常に簡単・簡明なものですが、同時に高い効果があります。

    これは、現代のための新しい仏教(令和新仏教・令和の仏教改革)と言ってもよいと考えています。

    仏教の有名な経典である般若心経のように繰り返し唱える(=読経する)ために作られたので、輪の法則の「読経瞑想」と呼んでいます。四字熟語などの連続で構成され、リズミカルな読経となるように工夫されています。

    では、以下に、各々の読経瞑想を紹介します。


    ◆「三悟心経」(さんごしんぎょう)

    万物恩恵 万物感謝
    万物神仏 万物尊重
    万物一体 万物愛和

    「三悟」とは、万物への感謝・万物への尊重・万物への愛という三つの悟りのことで
    す。「心経」とは、心髄の教えという意味で、「般若心経」の場合も、般若経典の中
    の心髄の教えという意味です。三悟心経は、悟りの心(境地)の心髄を表わしたものです。


    ◆「三悟智経」(さんごちきょう)

    苦楽一体 万物感謝
    優劣一体 万物尊重
    自他一体 万物愛和

    「三悟智経」とは、「三つの悟りの智慧の教え」という意味です。この三悟とは、万
    物への感謝・万物への尊重・万物への愛の三つの悟りのことであり、三悟智経はこの三つの悟りの根拠になる三つの智慧の法則を意味します。


    ◆「三縁起経」(さんえんぎきょう)

    万物関連 万物一体
    万物同根 万物一体
    万物循環 万物一体

    「三縁起経」とは、三つの縁起の教えという意味で、仏教に見られる、万物が一体であると主張する法則を意味します。

    これらの経文を唱えながら行う瞑想は2つのタイプがあります。


    1.基本的な読経瞑想

    三悟心経、三悟智経、三縁起経を唱える。


    2.読経瞑想を用いた基本的な仏教瞑想

    これは、基本的な仏教の瞑想を組み込んだもので、

    ①智恵(目覚め)の瞑想、
    ②分かち合い(供養)の瞑想、
    ③反省(懺悔)の瞑想、
    ④慈悲(菩提心)の瞑想

    という4パートからなるもので、三悟心経、三悟智経を唱えながら行います。


    ①智恵(目覚め)の瞑想

    ここでの智恵は、無智の智の意味があり、自分の無智を自覚する謙虚さ・智恵を培う。これは、仏教が説く三毒(貪り・怒り・無智)の一つである無智を浄化する瞑想
    です。


    ②分かち合い(供養)の瞑想

    感謝・尊重の心を持って、万物を仏と見て、供養・分かち合いの瞑想を行います。
    この供養は、貪りを超えるための分かち合い=慈悲を培う意味もあります。


    ③反省(懺悔)の瞑想

    自己の悪業を謙虚に理解することで、他(の悪業)に対する怒りの止滅に役立つ瞑想です。


    ④慈悲(菩提心)の瞑想

    万物への感謝・尊重に基づいて、万物への愛=菩提心を修習する瞑想です。


    年3回行われる大型セミナー(年末年始、GW、夏期)などでは、この一つ一つについて、上祐代表が、意味合いなどを解説したうえで、その読経瞑想の実践の指導をします。

  • 2.読経瞑想の実践法

    ひかりの輪の「輪の法則の読経瞑想」を実践するための助けとして、以下に、指導員による誘導瞑想をご紹介しますので、参考にされてください。


    【万物に感謝する教えの誘導瞑想の事例】

    三悟心経の「万物恩恵・万物感謝」を唱えながらの瞑想です。

    (特別教本『2012~13年 年末年始 悟りの道・思索と瞑想 万物への感謝・尊重・愛』より抜粋)

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      それでは、三悟心経の読経瞑想、特に今日は万物に感謝する教え「万物恩恵、万物感謝」これを中心とした読経瞑想をやっていきたいと思います。あいだあいだで私が、皆さんが読経しているあいだに、教えのレビュー、これを行いますので、それもお聞きになりながら読経を続けていただきたいと思います。

    (中略)

    読経を続けながら、聞いてください。
    私たちは、際限なく今以上のものを欲する心、貪りのために、常に満ち足りることが少なく、絶えず不満、後悔、不安、怒り、妬み、悲しみといった苦しみを抱えています。この心の働きを乗り越えるために重要なのが、感謝の実践です。

    (中略)

    普段「もっと、もっと」と求めたりして、近しい人と比較するなどして気づくことがない、自分に与えられているこの膨大な恵み、これについて改めてよく考え認識して、自分が得ている恵みの大きさ、これについて瞑想しましょう。

    (中略)

    皆さんを取り巻く万物、着物にしても、そして、住居にしても、そして、交通機関にしても、ありとあらゆるもの、そして、思想、哲学、民主主義の社会制度。どれをとっても古代人にとっては夢のようなもので、彼らがこの世界を見れば、極楽浄土とさえ感じるものでしょう。そのような我々の日常の万物は、人類の長い歴史の中で、先人が血と汗の結晶で我々に与えてくれた大変な恩恵です。

    (中略)

    このように自分の得ている膨大な恵み、これについてよく考えて、それを万物に感謝する瞑想をすると、貪りの心が静まってきます。

    (中略)

    心が静まって、そして、自分の恵みを支えている宇宙万物に対する感謝、大きな温かい心、これが生じてきます。
    静まった大きな温かい心、これを瞑想します。静まった大きな温かい心を瞑想します。

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    「万物恩恵 万物感謝」と唱えながら、誘導にしたがって感謝の瞑想をしていきます。瞑想に慣れていない方でも、誘導を聞くことで自然と瞑想することができます。

    三悟心経の他の

    「万物神仏 万物尊重」
    「万物一体 万物愛和」

    の経文でも同様に誘導しての瞑想が行われます。

     

    ここでは、瞑想指導の一部をご紹介しましたが、
    抜粋した特別教本には、三悟心経のすべての瞑想指導の内容が掲載されています。

    特別教本はこちらから参照ください。
    特別教本『2012~13年 年末年始 悟りの道・思索と瞑想 万物への感謝・尊重・愛』

     

  • 3.マインドフルネス瞑想

    ひかりの輪のマインドフルネスの思想と実践の一部を以下に公開します。

    マインドフルネスは、アメリカではストレスへの対処法として大人気です。雑誌「TIME」でも特集が組まれるほどの人気です。グーグルやインテルなど、ストレス対策として社員研修のメニューに取り入れる企業が増えています。


    ●マインドフルネスとは?

    マインドフルネスとは、注意深く今の瞬間に価値判断なく気づいている意識状態のことで、客観的に自分の動作・心を見つめている状態です。

    もう少し、いくつかの観点からマインドフルネスというものを説明します。

    ①心を開いて、今この瞬間に十分に気づいている意識状態であるということです。
    私は自分の体験していることに十分意識をもって行っていないことが多々あります。マインドフルネスとはそうではなく、今この瞬間の自分の体験を注意深く客観的に意識している状態です。そのためには判断を加えずに今という瞬間の体験と向き合うことが必要です。

    ②あるがままを受け入れる
    次に、マインドフルネスの特徴は、今のこの瞬間のものごとをあるがままの形で見る、受け入れるということです。
    私たちの心は通常、ものごとをありのままに受け取るのではなく、それに好き嫌いの色づけをして、自分の気に入るものへの欲求(愛着)と気に入らないものへの排除(嫌悪)、という「とらわれ」を生じさせます。そうではなく、そのままを受け入れ認識するようにします。

    ③常に初めて体験するように、予断をさしはさまないで、その瞬間を体験する。


    マインドフルネスは、慢性病の疼痛の軽減のためにマサチューセッツ大学医学部名誉教授のジョン・カバットジン博士が開発しました。その後、うつ病やパニック障害、不安障害などの心理療法である認知療法に取り入れられマインドフルネス認知療法として多くの人がその効果を実感しています。

    今では、認知療法だけでなくその他の心理療法の分野で広く浸透しています。

    このマインドフルネス瞑想は、仏教の瞑想法であるサマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想や禅がもとになっています。それでは、以下にヴィパッサナー瞑想について解説します。


    ●ヴィパッサナー瞑想

    マインドフルネスは、テーラーワーダ仏教(南伝仏教)のヴィパッサナー瞑想がもとになっています。ヴィパッサナー瞑想は、自分の瞬間瞬間の心身の状態を観察し気づいている状態です。

    お釈迦さまが説かれた瞑想に則った瞑想法です。

    それは四念処と言われるもので、身(体)・受(感覚)・心・法(現象)に対する観察です。

    * 身念処:そのときどきの身体の状態に気づきをもって見守る
    * 受念処:そのときどきの感覚に気づきをもって見守る
    * 心念処:そのときどきの心の状態に気づきをもって見守る
    * 法念処:現象・ものごとを気づきをもって見守る

    という観察です。経典には細かく観察法が書かれています。

    通常、マインドフルネスの訓練としては、四念処の身念処のはじめである「呼吸を見つめる瞑想」を行います。この呼吸を見つめる瞑想は、お釈迦さまが行った「アーナーパーナ・サティ(入出息念)」という瞑想です。


    ●マインドフルネスの効果
    ~感情・ストレスのコントロール、心に巻き込まれない自分をつくる~


    1.思考・感情の脱同一化が起こる・・・自分と思考・感情を同一視しない

    客観的に見つめるという意識状態によって、思考は事実とは違うことがわかってきます。また、思考は流れ去る雲のようなものであるということが実感として認識され、 その結果「単に思考に過ぎない」という捉え方になって、思考と自分を同一視することがなくなり、思考や感情を自分から話して客観的に見ることができるようになり、思考や感情に捲き込まれることがなくなります。 それによって、不安や怒りといった感情を少しずつコントロールできるようになります。


    2.思考・感情の脱自動化

    思考や感情は通常、自分の意思とは関係なく、自動的に生じます。それは習慣化・パターン化されたものです。その自動的な無意識的な反応に、マインドフルな意識状態は「気づく」ようになります。気づけば、自動的にならず自分でコントロールができやすくなります。つまり、自分を苦しめる習慣化された否定的な心の働きに気づき、その心に翻弄されることがなくなります。


    3.リラクセーション効果によるストレス軽減

    思考や感情のコントロールによってもストレスは軽減しますが、マインドフルネスによってリラクセーション効果が生じ、それによってつらい気分や感情から解き放たれる。それによって、自分の偏った認知やそれにともなった行動が修正されやすくなります。

    ここで、マインドフルネスの効果についての研究をご紹介します。

    ウィスコンシン大学での研究で、健康ではあるがストレスを感じている従業員を対象として企業での勤務時間にマインドフルネス瞑想を実施しその効果を検証しました。マインドフルネス瞑想をした人たちは、そうでない人たちよりも、不安や落ち込みといった感情にうまく対処でいるようになったということです。


    ひかりの輪では、ヨーガを行いながらのマインドフルネス瞑想というものもあります。

    アーサナ(ヨーガの体操)をしながら、体のどこにどんな感覚があるか、あるいは体がどういう状態にあるのか気づきをもって行います。また、呼吸法も呼吸に意識を向けたマインドフルネス瞑想となります。

    また、より詳しくマインドフルネスについてお知りになりたい方は、以下の動画、教本をご覧ください。

    動画『マインドフルネスと仏教の念の瞑想』(2017年5月4日 73min)

    動画『マインドフルネス:心に翻弄されない意識~仏教との接点~』(2017年5月5日 94min)

    動画『アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)』(前編)(2017年1月1日 78min)

    教本『マインドフルネスと仏教の念の瞑想』

    東西心理学総論教本《第3集》 『認知行動療法の系統 マインドフルネスから慈悲まで 仏教に近づく現代の心理療法』

  • 4.ヒーリング瞑想

    1.音叉によるサウンドヒーリング

    心身の浄化のために、音叉が奏でる多様な音階のサウンドを用いたヒーリングです。ヨーガ理論における各チャクラの浄化にもなると言われています。視覚的なシンボル・瞑想香などを用い、特別に浄化されたヒーリング室で行われます。


    2.仏教法具によるサウンドヒーリング

    各種の仏教法具によるサウンドヒーリングです。深い慈悲の心を引き出すようなドニパトロのサウンドや、智恵の目覚めを促すようなティンシャ・ガンターのサウンドが、あなたの心身を浄化して瞑想状態に導きます。加えて、視覚的なシンボル・瞑想香などを用い、特別に浄化したヒーリング室で行われます。


    3.入浴ヒーリング

    体を温め、気の通り道を浄化する特殊な効果を持った石の成分を含んだ入浴ヒーリングです。気の流れを改善し、心身の浄化につながります。


    4.総合ヒーリング

    上記の3つのヒーリングを組み合わせた総合的なヒーリングです。各種の相乗効果によって最も効果の高いヒーリングとなります。


  • 5.ヒプノ瞑想

    ヒプノ瞑想(前生退行瞑想ヒーリング、山口指導員


    ヒプノ瞑想とは、誘導により、潜在意識にアプローチしていく瞑想です。人の心には顕在意識と潜在意識があるといわれており、この潜在意識の領域は顕在意識の9倍ともいわれています。

    人は意図的に動いているようで、実は潜在意識の力によって動かされていることが多く、思わずとってしまった行動や、わけもなくとらわれることなどは、潜在意識の影響が多く、時には人生の障害になることがあります。しかし、自分が無意識のうちにとる行動や思考パターン、とらわれなどに気づくのは難しいことです。ヒプノ瞑想はこの難しいとされている無意識の意識化を助け、気づきや癒しを得ることができます。

    ヒプノ瞑想は、一般にヒプノセラピー(前生退行催眠療法)と呼ばれているものを活用した瞑想ですが、ひかりの輪では、全米ヒプノセラピー協会の認定セラピスト(山口雅彦指導員)の指導のもとで行います。

    この中で、潜在意識の中にある「前生」のような記憶を思い出す場合もありますが、実際に前生かはともかく、今現在の自分の心・言動に影響を及ぼす潜在意識の要素であるというのが心理学的な立場であり、その視点に基づいて、皆さんの瞑想を誘導して、重要な気付きを得るお手伝いをします。

    この瞑想において通常、3つの人生(過去世)を思い出していただきます。思い出した3つと今の人生を合わせた4つの人生を比べて見ていきますと、そこに何らかの共通する要素が浮かび上がってきます。

    そして、今の人生の課題や役割、今の自分へのメッセージなどがわかります。

    また、今の自分の性格が何故こうなのか? あるいは、人生において同じような失敗を何度も繰り返すのか? などの理由がわかり、解決の糸口が見つかることもあります。生きていくうえでのいろいろな重要な気づきが起き、指針が与えられます。

    それによって今の人生を豊かに生きていくことができるようになります。

     

  • 6.ひかりの輪のヒーリング空間のご紹介

    ひかりの輪のセミナー・瞑想会が行われる教室の空間は、以下のようなさまざまなツールによって浄化され、非常に優れたヒーリング空間になっております。ぜひご体験下さい!

    ①良い瞑想を促すチベット・ブータンの瞑想香

    ②心を静める聖音を奏でる仏教法具

    ③聖地からの聖水

    ④仏教の各種の法具や貴石

    ⑤神聖な意識を引き出す仏像・仏画といった象徴物・シンボル

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  • 7.野外での歩行瞑想

    ひかりの輪ではセミナーにおいて、近くの良い自然の中で、歩行瞑想が行われます。歩行と瞑想を組み合わせるとさまざまな良い効果があります。心と体が深く関係し合っているために、心身を共に浄化する効果があります。

    では、具体的な歩行瞑想の注意点とやり方をご紹介します。

    ①姿勢を正す
    歩行するときの姿勢が大切です。背中を丸めて下を見てうつむいて歩くと心もうつうつとした状態になります。これは身体心理学で研究でも明らかにされています。ですから、背筋を伸ばして真っすぐ前を向いて歩きます。少し胸を張るくらいがいいかもしれません。そうすると心も前向きになります。

    ②一定のリズムで歩く
    歩く速度は一定にします。一定のリズムで歩くことで幸福ホルモンとも言われるセロトニンが分泌されます。

    ③呼吸法を行いながら歩行する
    両鼻から4秒吸って、4秒止め、4秒吐くという基本的な呼吸法を行います。また、4秒吸って8秒吐くという息を止めないやり方もあります。

    ④マインドフルネス瞑想として行う
    左右の足を交互に出しますが、今、自分がどちらの足に重心がかかっているか意識して歩きます。右足に重心が乗っていれば右足に重心が乗っていると認識して、左足に重心が乗っているときは左足に重心が乗っていることに意識を向けて歩きます。足の裏と地面の接するところに意識を向けて歩いていると大地との一体感を得ることもあります。

    ⑤読経しながら歩く
    また、真言やひかりの輪の読経瞑想を行いながら歩くやり方もあります。歩くリズムと読経を唱えるリズムが合わさり、心が集中し落ち着いてきます。

    以上、歩行瞑想を行うにあたっての注意する点といくつかのやり方をご紹介しました。ぜひとも、試してみてください。


    さらに詳しく歩行瞑想について知りたい方は以下の動画、教本を参考にしてください。

    動画『心身の健康・心の安定に役立つ歩行瞑想』(2019年11月17日大阪 61min)
    教本『日常生活の中でのヨーガ行法や歩行瞑想』

     

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ひかりの輪の瞑想講座

  • 「オンライン瞑想タイム」のお知らせ ~ご自宅からでも参加できます~

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    ◆ネットでの瞑想のお勧め
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       ひかりの輪では、毎週2回(木曜の21:30~22:00、日曜の21:00~21:30)、「オンライン瞑想タイム」の時間を設けています。

       これは、インターネットで瞑想を学習するクラス・セッションであり、仏教やヨーガの瞑想のエッセンスを上祐代表らが解説してリードする中で、参加者の皆様が一緒に瞑想する時間です。

      瞑想は、わかりやすく簡潔な内容で、全く初心者の方でも、解説を聞いて実践できます。そして、心身の健康や安定、知性の向上、人間関係の改善、仏教的な悟りへの接近など、さまざまな効能があります。

      ご参加は、インターネット会議システム「Zoom」を使って、全国どこからでも、ご自宅からでも、会議システムに入ることでできますので、お気軽にご参加いただけます(システム上にご自身のお顔や実名を出す必要もなく、代表らの動画・音声のみが、皆様の端末に流れる設定です)

      「オンライン瞑想タイム」で行う瞑想の中には、以下のような特長があります。

    1.仏教やヨーガの智恵のエッセンスを凝縮した内容であること。
    2.同時に脳科学・心理学の心身の健康・安定の理論にも合致していること。
    3.心理的・生理的に望ましい効果がある特定の音を重視した真言(マントラ)タイプの瞑想。
    4.仏教の智恵を凝縮した言葉(簡潔な現代語の経文)を重視した読経タイプの瞑想。
    5.心を静め、広くする効果がある大自然や仏像などの映像を見ながらの瞑想。
    6.上祐代表ら指導員が、瞑想の意味・やり方等を随所で解説してリード。

      ひかりの輪の会員ではない方でも、どなたでも、参加をお申込みいただけます。参加費は無料です(ただし初参加の方に限って、最初に担当スタッフが、Zoomで個別に、ご挨拶とご本人の確認をさせていただきますので、ご了承ください)。

      皆様のご参加をお待ちしています。

     

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    ◆スケジュールと内容
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       「オンライン瞑想タイム」は、原則として、以下の通り、毎週木曜と日曜の夜に行っています(他の行事の都合上、曜日が変更する場合もあります)。

    ◎日曜(21:00~21:30)基礎クラス
      初心者の方にもわかりやすく瞑想のやり方・意味を解説しながら行います。ただし、初心者ではない方も、瞑想では、基礎の反復はとても重要であるため、下記の上級クラスと合わせてご参加をお勧めしています。

    ◎木曜(21:30~22:00)上級クラス
      基礎クラスと異なって、初心者向けの基本的な瞑想法の解説よりも、より高度な瞑想の秘訣の指導や、より多様な瞑想の実践を行います。ただし、初心者の方も、瞑想には、習うよりも慣れること、頭での理解より実践して体で感じることが重要な面があるので、基礎クラスとともに、ご参加をお勧めしています。

       最後に、瞑想は、繰り返し実践することがポイントです。
       毎週木曜と日曜の夜、皆様と瞑想できる素晴らしい時間を共有できればと思います。

       ご参加のお申し込みは、こちらの各教室(お住いの地域を管轄する教室)まで、お願いいたします。

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    セミナー等に参加された一般・識者の方の声:雰囲気を感じていただけます。
    ひかりの輪のご紹介:宗教ではなく学習教室。団体を分かりやすくご説明。
    プログラムと参加料金のご紹介:全て適価で運営、安心してご参加ください。
    団体の活動規定:適切な活動のための日弁連の指針に沿っています。
    団体の改革:過去の反省に基づき、団体を抜本的に改革しました。

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    上祐史浩・ひかりの輪YouTubeチャンネル 
       上祐代表の講義および「ひかりの輪(代表:上祐史浩)」 関連の動画をご紹介しています。ぜひ、ご視聴ください。

  •  「悟りの瞑想ヨーガ講座」エンライトメント・メディテーション

    普通の人は、様々な執着があり、様々な苦しみを抱えています。それは、悟りの状態=真の自分に目覚めていないためです。それに目覚め、苦しみを取り除き、真の幸福を得ることが悟りです。

    そして、この度、悟りのための仏教・ヨーガの瞑想・行法を総合的に学習・実践する講座を始めることになりました。これらの瞑想・行法に熟達した上祐代表をはじめ、ひかりの輪の指導員が提供します。

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    1)悟りとその幸福とは

    悟りが深まると、心が、安定して広く暖かい状態になります。そのため、物事を正しく見る力(智慧)が生じます。そして、心身の健康と長寿、良い人間関係といった、様々な幸福をもたらします。


    2)悟りのための瞑想法

    悟りを得るための重要な手段が瞑想です。色々なものがありますが、本講座では、例えば、仏教の「無我」の瞑想(アナートマン)、「四念処・五蘊無我」の瞑想や、ヨーガの「梵我一如」の瞑想(ブラフマン=アートマン)・「宇宙意識」の瞑想など。

    さらに、ひかりの輪オリジナルの瞑想として、悟りの教えの要点を凝縮した簡明な読経型の瞑想法があり、非常に高い効果があります。こうしたものの中から、自分に合った内容のものを選ぶことができます。


    3)悟りを助けるヨーガ行法

    瞑想以外に、悟りの体験に近づく準備・補助となる修行法の一つが、ヨーガの行法です。ヨーガは、体操・呼吸法というイメージがありますが、その本来の意味は、「心の働きを静めること」であり、まさに悟りを意味します。

    その中で、ハタヨーガは、瞑想座法の安定と共に、体の中のエネルギーの流れを整え、悟りを体得しやすい身体の状態にします。エネルギーの流れと心の状態が密接に関係しているのです。こうして、身体面からも、悟りにアプローチするのが特徴です。

    本講座、こうした奥深いヨーガの理論を学び、基本的なヨーガから、本場のヒマラヤの高度なヨーガ行法(エンライトメント・ヨーガ)まで学ぶことができます。なお、関連DVDも発売しています。


    4)瞑想する空間が大切

    他の悟りの補助手段として、瞑想する場・空間の浄化があります。体内のエネルギーは外のエネルギーと不可分だからです。

    本講座では、瞑想に役立つ特別なお香、仏教法具やそのサウンド、仏画などで、瞑想する団体の教室のエネルギーを浄化し、最善の瞑想空間を提供します。このやり方を学べば、皆さんの自宅の自室を浄化することもできます。

    さらに、瞑想に熟達した人と共に瞑想することが、大きな助けになります。単にやり方を学ぶというだけではなく、共に瞑想すること自体による連動・共鳴効果があり、独学よりも早く熟達できるからです。


    5)日時・会場・参加条件

    各教室によって、開催日時等の違いがあるため、ご関心がおありの方は下記の連絡先にお問い合わせください。

    2.料金:3000円

    学生・障害者・失業などの経済的事情がある方には、料金の減免がありますので、お問い合わせください。

    3.ネット視聴での参加

    ひかりの輪の支部教室や、会員の方の自宅では、本講座の会場からのネット生中継を視聴することができる場合がありますので、ご関心のある方はお問い合わせください(非会員の方でも特別に視聴できる場合もあります)。


    4.お問い合わせ先

    最寄りの教室へのお問合せはこちらをご参照ください。

瞑想法の講義動画

  • 『真の自分に気づく瞑想と、なんでもQ&A』(2022年4月15日YouTubeライブ 72min)

    これは、2022年4月15日 に東京教室で行われた上祐代表のYoutube公開ライブによる講義と質疑の動画です。

    上祐代表が様々な日常の悩みに答える「なんでもQ&A」のコーナーの中で、以下のような質疑応答が収録されています。


    1.相手の気持ちを考えろ、と言う人がいますが
    2.友人がペットロスで引きこもりに
    3.劣等コンプレックスで何をするにもやる気が起きなくってしまった
    4.上祐さんのようにカリスマ性を身につけたい
    5.どうすれば親の死を乗り越えられるか
    6.他人と比較せざるを得ないような状況になった時に精神が乱れてしまう
    7.神秘体験というのに興味がある
    8.朝早く起きるために何をしているか
    9.両親以外の人間から愛されたことがない
    10.強迫性障害は治るのか
    11.スピリチュアルとは、いったい何なのか
    12.上祐さんは普段、YouTubeを見たりするのか
    13.自己肯定感がないのですが
    14.定期的に(特に冬)病気不安症になる
    15.私のような人間が一丁前に家庭などを持っているということが恥ずかしい

  • 『新型ウイルス最新情報と生活習慣の改善とヨガ瞑想による免疫強化』(2020年4月26日 東京 47min)

    1.減ってきた日本の新規感者
    2.現状は1年は続く=ライフスタイルの変更必要
    3.イスラエル科学者の「コロナ感染70日収束説」
    4.待望の抗体検査の驚くべき結果:真の感染者は10倍
    5.感染後の免疫は不確か:新型ウイルスの抗体の謎:
    6.感染阻止の活動規制で感染以外の死亡者急増
    7.米国で失業急増から自殺も急増:日本も可能性
    8.外出自粛・隔離が様々な疾患をもたらす可能性
    9.変異で新型コロナの種類が増加:S型とL型→今8種類
    10.日本人は一番感染しやすいDNAを持つ
    11.新仮説:日本人は既に免疫(抗体)を持っている
    12.米政府発表:新型コロナは太陽光に弱く高温多湿にも。
    13.太陽光はビタミンDを作り免疫を強める
    14.ヨーガ体操は免疫(グロブリン)を高める
    15.ヨーガは免疫システムを強める
    16.ヨーガの呼吸法は肺結核の治療を助ける
    17.精神の安定はNK細胞を活性化=免疫強化
    18.ポジティブな感情もNK細胞・免疫を強める
    19.感謝などのポジティブな感所は免疫強化
    20.和食が免疫?日本はスペイン風邪の被害も少なかった
    21.日本の緑茶のカテキンが抗ウイルス作用
    22.ワカメ・昆布等の海藻類が免疫の暴走を抑制
    23.中国武漢のウイルス研究所から流出した疑惑
    24.中国に賠償を求める米国の民間・議会の動き
    25.中国の反論:米軍が持ち込んだ可能性
    26.米中対立の行方:100年前の世界大戦と似た流れ?
    27.免疫を強める食生活習慣:緑茶=カテキン、海藻類、
    キノコ類=ビタミンD、緑黄野菜=カロテン、
    発酵食品・根菜類=腸内細菌の整備
    28.運動=低強度運動:ヨーガの体操・ジョギング
    29.心の安定・ポジティブン感情が重要
    とらわれを和らげ、感謝や慈悲の心が重要
    30.免疫を高めるヨーガの行法・瞑想
    体操・姿勢=座法・呼吸法・発声法=マントラ瞑想

  • 『心身の健康・心の安定に役立つ歩行瞑想』(2019年11月17日大阪 61min)

    1.歩行瞑想の効果

    筋肉をほぐす。体を温めて血流を改善。生活習慣病の予防の有酸素運動となる。野外で浴びる日光はビタミンDの増加させ骨や歯を強くし、セロトニンという精神安定に役立つ物質の分泌を促進(過剰な日光は紫外線のダメージがある)。朝の歩行は体内時計をリセットし、生活のリズムを整える。

    2.歩行瞑想のやり方

    歩行瞑想のコツは、ヨーガの体操・呼吸法に共通する部分が多いが、①背筋を伸ばして、全身に余計な力を入れずにリラックスする、②腹式呼吸で、大きくゆったりとしたリズミカルな呼吸をする、③視線は、足元が危なくなければ下に落とさずに前方を見る。④私語は慎む、など

    上級者的な実践としては、歩行瞑想をしながら、以下のいずれかの瞑想をする。①心の中でマントラ(真言)・読経瞑想などを行う。②法則に関する思索を行う。③地面に足の裏面が接する部分を意識し、自分が大地と一体である感覚を持つように努める。

    最後に、歩行瞑想の時間を前半と後半に分けて、以下のように行うやり方もある。①歩行瞑想の前半は、ややスピードを上げて歩いて、体を温めて多少汗をかいて、血流と気の流れを改善し、②その後に、ペースを落として瞑想(上記)を重視する。

    3.登山での歩行瞑想の行い方

    修験道は、聖山に登拝することが修行。修行としての登山のやり方は、①開始前に柔軟体操。②腹式呼吸でゆったりとした呼吸で登り、これを保つため、慌てずに一定のペースを保つ。③全身に余計な力を入れずにリラックス。④私語は慎み、雑念を排して登り、山と一体となる感覚を培う。⑤錫杖(ないしは登山用のスティック)を用い、両足を含めて3点で体を支える。⑥両手が自由になるように、荷物はリュックに入れて背負う。⑦こまめに適度に水分を補給し、脱水症・高山病に注意。


    4.入浴の効果とやり方

    入浴も、筋肉の弛緩・血流の改善に役立つ。湯船に入る時には、入る前に「かけ湯」と「かぶり湯」をする。かけ湯は、入浴前に手足などの心臓から遠い部分からお湯をかけることで、心臓などへの突然の負担を避ける。かぶり湯は、頭部や首にお湯をかけ、脳貧血などを防ぐため。入浴で汗をかくので、水分等の補給が必要。

  • 『総合解説:感謝の瞑想・仏陀の覚醒の扉』(2018年5月2日 85min)

    ひかりの輪のゴールデンウィークセミナーにおいて、セミナーの特別教本を解説する形で上祐代表が行った、1.仏教思想からみた感謝の心・実践の重要性、2.良い瞑想を行うためのための様々な基本的な指針に関する講義。

    講義に関連する部分の教本の目次内容は以下の通り。
    1.仏陀=目覚めた人とは?
    2.心の視野を拡大すると、自分の幸福と他者への愛に目覚める
    3.苦しみの恩恵にも目覚める
    4.他者への慈悲、自分の罪に目覚め、慢心を和らげる
    5.恩返しの心に基づく真の慈悲に目覚める
    6.万物一体の悟りに目覚める
    7.感謝がもたらす様々な幸福
    8.日常生活の感謝の瞑想① 朝の瞑想
    9.日常生活の感謝の瞑想② 夜の瞑想
    10.食事での感謝の瞑想
    11.ひかりの輪の三悟心経の感謝の読経瞑想

  • 『大きな力となる朝と夜・食事の際の瞑想』(2018年3月25日 福岡 53min)

    毎日繰り返し行うことが出来る朝と寝る前、さらには食事の際の瞑想
    1.人間の潜在意識を変え、大きな力を持つ朝と夜の実践
    (1)潜在意識=無意識とは
    人は、多くの行為を意識せずに行なっている。これは潜在意識=無意識の働き繰り返された習慣は、潜在意識・無意識に根付いている。

    (2)朝起きた時、その日一日の心構えを整える(良い行動の決意をする)  普通の人間は、無意識的に悪い習慣の影響の下にあり、朝のうちに修正すると、その日を良い流れで始めることができる。人間の朝の心の状態=心の初期設定は、望ましいものばかりではなく、それを修正して始める。始め良ければすべてよし。

    (3)夜寝る前に、その日を反省をして改善の決意をする。
    ① 悪い行為は、意識して反省しなければ、気づかないことも多い。 見たくないために忘却されがちで、潜在意識に根付いて習慣化する。

    ② 寝る前の反省は良い睡眠状態をもたらす。深い眠り、良い気の流れでの睡眠睡眠は人生の三分の一から四分の一もあり重要である。

    2.食事の際の感謝の瞑想
    (1)食事の際の瞑想は、感謝と恩返し、善行を誓う良い機会である。

    (2)感謝・足るを知る心・恩返し・謙虚さ・善行なす精神、更には、自分
    に過剰にとらわれない(無我)の精神を培うことができる。

     

  • 『マインドフルネスと仏教の念の瞑想』(2017年5月4日 73min)

      これは、今年2017年のひかりの輪のGWセミナーの特別教本(第4章)に基づいた講義である。
    テーマは、今はやりのマインドフルネス瞑想であり、これは、宗教的な目的はなく、ストレス解消・能力の向上・心身の健康に役に立つとされている。このマインドフルネスが、仏教の「念」(パーリ語でサティ)の英語訳であり、念の瞑想に由来することは、よく知られている。
      そこで、上祐代表が、その長年の仏教・ヨーガの瞑想体験から、現在のマインドフルネス瞑想の効果・効能や仏教思想との一致点を簡潔に説明した上で、その先の段階の仏教の念の瞑想に関して、第一マインドフルネスから第3マインドフルネスとして、三段階に分類して詳しく解説する。
      以下は、教本の目次であり、この講話のポイントとなっているので、参考にしていただきたい。

    1.マインドフルネス瞑想とは.........................................................39
    2.なぜ今この瞬間の対象に意識を向けるのか....................................39
    3.なぜ是非の判断をしないのか......................................................40
    4.人は、対象に対する見方と感情を条件反射化している.....................40
    5.自分の思考と感情に距離を置くことが重要....................................41
    6.仏教の無我やヨーガの真我の思想................................................41
    7.仏教は、すべての苦しみが間違った見方によると説く.....................42
    8.仏教における念(マインドフルネス)とは....................................42
    9.仏教の念(マインドフルネス)の瞑想の全体像..............................42
    10.第一のマインドフルネス:是非の判断をしないマインドフルネス
    =是非の判断をせず注意を向ける(今流行りのマインドフルネス)...43
    11.ヨーガの呼吸法の特殊な目的......................................................43
    12.第二のマインドフルネス:適切な是非の判断をするマインドフルネス
    =間違った物の見方による負の感情を修正する..............................44
    13.正念は戒律の実践とセットである................................................44
    14.学習・教学の重要性..................................................................45
    15.四念処と四無量心の位置づけ......................................................45
    16.第三のマインドフルネス:肯定型のマインドフルネス
    =良い心の状態をもたらす対象を修習する....................................46
    17.ひかりの輪の「悟りの瞑想ヨーガ」講座のご紹介...........................47

     

  • 『マインドフルネス瞑想の本質と効果と限界』(2017年4月23日 大阪 60min)

    1.マインドフルネス瞑想とは

      仏教のサティ(念)に由来し、今この瞬間のある対象に対して、是非・良し悪しの判断をせずに注意を向ける(気づいている)状態を培う瞑想。人の意識は、過去や未来に向いて今現在には向かず、対象に対する好き嫌いの感情に巻き込まれることが多い、それを避けた意識を持つのがポイント。具体的には、呼吸・身体・動作・思考・感情などを対象とする事が多い。そもそもは、鬱病等の緩和などの心理療法だったが、一般の人のストレス解消・能力向上・健康にも役立つとして広まった。

    2.マインドフルネスと仏教ヨーガとの関係:心は自分ではない!

      マインドフルネス瞑想は、自分の思考や感情に距離を置き、落ち着いた意識を培う。通常は、思考や感情に没入して、その奴隷になっているが、思考や感情を観察するメタ認知(超自分)を培う。仏教では、心(思考や感情)は、自分の本質ではないと説き(無我)、ヨガでも、心は真我(自分の本質)ではないと説く。メタ認知は、ヨガの真我の概念に通じる。自分(の本質)は思考や感情ではないと体得すれば、否定的・有害な思考・感情に巻き込まれずに済む。

    3.認知行動療法とマインドフルネス:心は変えることができる!

      マインドフルネス瞑想は、認知行動療法と組み合わされ、マインドフルネス認知療法として用いられる。認知行動療法とは、鬱病などの負の感情が、不合理で極端な物の見方(=認知)によるものであり、認知を修正すれば、負の感情が和らぐとする。通常は、不合理な見方とそれによる負の感情が習慣になっているが(言わば条件反射)、これに気づいて不合理な見方を修正する。その前提として、マインドフルネスを培い、思考や感情に没入せずに、それを客観的に観察して、不合理な認知の存在に気づくのである。
      マインドフルネス瞑想だけだと、負の感情を冷静に受け止め、影響を受けにくくはなるが、それを直ちになくすことはできないが、認知行動療法を組み合わせるならばできる。これは、健常者にも当然有効であり、自分の負の感情・心を変えやすくなる。

    4.マインドフルネスを超える仏教の瞑想:すべての苦しみを滅する

      2500年前に遡る仏教こそは、認知行動療法よりも遥かに以前から、物の見方が、負の感情の原因だとする思想である。そして、仏教が扱う範囲は、心理療法よりはるかに広く、人の全ての苦しみは、間違った見方(無智)が生む煩悩から生じると説く。そして、正しい見方(智慧)を培う修行をなし、無智による煩悩と苦しみを一切滅するのが、仏道修行が目指す「悟り」である。
      無智とは、自と他(の幸福)を区別し、自分だけに過剰に執着する自我執着である。これを修正する考え方・言動を修するのが仏道修行である。座って瞑想する時だけが瞑想ではなく、日常全体で自分の意識や言動の制御=戒律の遵守が修行課題となる。言い変えると、24時間が瞑想とも表現できる。
      一方、一般のマインドフルネス瞑想では、ストレスの低減などには効果があっても、苦しみ全般の解決には遠い。また、瞑想で自我執着が一時的に弱まっても、日常行動の中で、自我執着が強まれば、瞑想の効果が減滅する。

    5.心理学の4大潮流について

      心理学には、1.精神分析(心理学の始祖ともいえるフロイトなど)の流れ、2.行動主義心理学(実験を重視する心理学)、3、人間性心理学(精神疾患者に限らず、健常者の幸福のための心理学)、4.トランスパーソナル心理学(個人・自我の意識を越えた意識を扱う)という四つの潮流がある。認知行動療法やマインドフルネス認知療法は、2番目の行動主義心理学の流れから生まれたものであり、3番目と4番目とも関係がある。

    6.心理療法を担い手の問題

      心理療法は、体の病気ほどには、科学的なアプローチに馴染まない。マインドフルネス認知療法の有効性は、統計的な証拠があるともされるが、厳密なテストができるかは疑問で、薬の有効性のテストは及ばないと思われる。
      担い手に関しても、臨床心理士という資格があるが、国家資格ではなく、人によっては、夢分析など、治療の内容が個々人の患者に応じた臨機応変のもので、言わば個人芸となる療法を中心に行う人もいる。各大学の心理学科にも、実験・統計を重視する流れ(実験心理学)と、個人芸を含む臨床心理学の流れがある。
      今後、国家資格である公認心理士の制度が導入される予定だが、心理療法として何を重視するかは、議論の対象となっている。心の問題を扱う心理療法の特殊な状況のためか、医師・弁護士・税理士と異なり、臨床心理士や公認心理士でなければ、心理療法をしていけないという制度ではなく、心理療法を教える出版物は多く、自助努力も可能である。結論として、心の問題に関して、医学・心理学・社会学・教育界・宗教界など各界の様々な努力が期待される。

     

  • 『仏教の奥義:一切の苦の原因は心の乱れ=心の安定集中のための瞑想とは』(2017年1月29日 東京 41min)

    1.知識・情報では苦しみは解消しない

      多くの人は、苦しい時に、相談したり、ネットを見て、解決の知識・手段を求めるが、上手くいかず、空回りとなる場合も多い。苦しみが生じたり、消えたりしながら、年を重ねるにつれ、成熟せずに、苦しみが増える人も多い。

    2.苦の原因は心の乱れと釈迦は説いた:心の安定と集中が苦を取り除く

      釈迦は、苦の原因は、環境・他人・生まれ・才能ではなく、「煩悩」であり、その根本は物事を正しく見ることができない「無智」であると説いた。そして、その無智を解消した智慧の状態に至るには、心が安定して集中した状態が必要であると説いた。心が不安定で集中を欠いた状態が苦の原因である。

    3.心の安定・集中のための瞑想とその主な種類

      智慧を得る直接的な手段が、瞑想による心の安定・集中(禅定)である。禅定を深めるには、心が静まるように日常の言動を改善し(善行・戒律)、瞑想・行法を行う。瞑想の種類は、上祐代表の分析・分類では主に以下の四つである。

    1.一点に集中する瞑想:呼吸・歩行動作など
    2.心が静まる思索の瞑想:四念処・四無量心
    3.神聖な象徴物の瞑想:仏画・仏像・曼荼羅・真言(マントラ)他
    4.気の流れを制御する瞑想・行法:密教の究境次第・ヨガのハタヨガ

     

  • 『苦しみに強くなるには?初期仏教の苦の思想の智恵』(2016年10月29日 東京 59min)

    1.初期仏教が説く全ての苦しみの原因

    普通の人は、苦しみを喜びと錯覚している。同様に、借りものを自分のものだと、続かないものをずっと続くものだと錯覚している。この錯覚・無智を取り除くことが大切。

    2.五感と思考が私たちを欺く

    私たちが信じて疑わない、五感と言葉による思考が、実は私たちを欺いている(人の世界の感じ方と実際の世界の在り方が異なる)。これが、様々な欲望、人の間の不要な争いの原因にもなっている。五感と思考を妄信せず、それを超越する瞑想などの修行によって、悟りの境地(涅槃・ニルヴァーナ)に目覚める。そのための道は八正道と言われ、簡単に言えば、正しいものの見方を学び、日常の行動を浄化し、瞑想を行う。

    3.苦しみに強くなる思想・考え方

    苦しみの裏には様々な喜びがあることに気づくことが大切。それは努力・悟り・慈悲の源となる。慈悲の化身と言われる観音菩薩は、苦しみの連続の人生を歩んだ人から生まれた。

  • 『プライドの効能と弊害、それを超える瞑想法』(2016年9月11日 福岡 72min)

    1.プライド・自尊心・優越感・勝利への欲求

    人には、生来、プライド・自尊心・優越感・勝利の欲求(劣等感への嫌悪)がある。それは、少なからぬ場合に、他との切磋琢磨などを通し、人を成長させる面がある。人類の進歩もそうであり、競争による成長を図る現代社会の根本的な原理でもある。

    2.過剰なプライドなどの弊害

    しかし、過剰なプライドは、1.他に優位を立てず、他に劣等感を感じる場合に、他から逃避する(引きこもる)、2.自分をよく見せるために嘘をつく、偽装する、3.他に理不尽な攻撃する(自分の問題を他に転嫁する)といった問題が生じさせる。よって、仏教では、プライド・優越感への欲求や、その裏側の妬み・自己嫌悪は、「慢」などと呼んで、煩悩の一種と位置付けた。アドラーの心理学でも、劣等コンプレックス(引きこもり)、優等コンプレックス(他の攻撃的な姿勢)などとして論じられている。

    3.過剰なプライドを和らげる方法

    アドラー心理学は、他に勝って幸福になる考え方に縛られず、自分の所属するコミュニティの役に立つこと行うことを推奨する。他を愛し、他を幸福にし、他の役に立って、幸福になる(自分の価値)を感じるという道である。仏教でも、他者・万物を愛することが、真の幸福の道であって、真の成長の道であると説く面がある。そのステップとして、以下のように、人が抱く、自と他の(幸福の)区別、優劣の区別は、錯覚であるとする思想がある。

    4.自他の区別を超える瞑想

    プライドなどの欲求は、その根本に自と他を区別し、自分を他よりも愛する自己愛の欲求がある。一方、仏教では、自と他が別の物であり、自と他の幸福が別のものであるという価値観自体が、人間の錯覚であり、真実ではないと説き、自我=私に対する過剰な執着を弱めるための瞑想法がある。具体的には、無我、四念処、五蘊無我と言った瞑想法である。

    5.優劣の区別を超える瞑想

    普通は、頻繁に自他の優劣を比較するが、仏教的な思想では、優劣の基準に絶対的なものはなく、時代・地域・状況で大きく変化し、更に、勝つ能力と優しくなる能力のように、長所と短所は表裏である面もあり、本質的には優劣には実体がない。よって、自他の優劣の区別は、自他双方の成長の手段としての切磋琢磨などに用いられることは良いが、絶対の優劣があると錯覚し、慢心・妬み・卑屈に陥り、苦しむことは意味がない。

    仏教的な視点からは、他に優位になって幸福になるのではなく、自他・自他の幸福を区別せず、他の幸福を喜ぶ、広く大きな心によって、幸福になる。

     

  • 『仏教的な瞑想法の総合解説」』(2016年9月4日 大阪 65min)

    1.自我執着を弱める瞑想
    無我の瞑想、四念処の瞑想
    自我執着・エゴを超え、万物を愛する

    2.万人万物を愛する瞑想
    四無量心(ひかりの輪の読経瞑想)
    万物を愛し、自我執着・エゴを弱める

    3.呼吸などに集中する瞑想
    念(サティ・マインドフルネス)の瞑想
    心を静める効果(止観の中の止の瞑想)
    是非の判断をせずに注意を向ける瞑想

    4.真言を唱える瞑想
    真言=マントラ=聖なる言葉
    仏の名前や他の神聖な象徴的な言葉
    密教、真言宗、阿弥陀念仏:南無阿弥陀仏

    5.仏の姿形などを視覚的にイメージする瞑想
    イメージング・ヴィジュアリゼーション・観想
    密教の曼陀羅=仏の現れとしての宇宙を観想

    6.気・気道・チャクラを観想し活性化させる瞑想
    ヨーガのクンダリニーヨーガ
    密教の究境次第

    7.瞑想を助けるシンボル(象徴物)
    仏画・曼荼羅・仏像、真言・聖音・瞑想音楽、瞑想音楽
    五感を通して神聖な意識を引き出すもの

     

  • 『気の霊的科学と人類革新の道』(2016年8月12日 100min)

    仏教・ヨーガの基本的で重要な瞑想をわかりやすく解説した講義

    1.初期仏教の基本的な瞑想「無我」。
    普通の人が、自分(のもの)と思って執着して苦しんでいるものに関して、実際には、自分(のもの)ではないと瞑想することで、執着と苦しみを和らげる瞑想

    2.四念処の瞑想:初期仏教の最も袖珍的な瞑想
    身体、感覚、心、諸事物に関する過剰な執着を弱めるために、それらが不浄でり、苦しみであり、無常であり、無我であると観察する瞑想

    3.上記の瞑想の準備「止(サマタ)」の瞑想
    上記のように物事をありのままに観察する瞑想をする前に、心を静め止めて、集中力を高める瞑想(止・サマタ)を行う

    4.宇宙意識の瞑想
    自分の体の外から、自分の体と広大な宇宙を見て、意識を大きく広げて、自分に対する過剰な執着を弱める瞑想

    5.瞑想を助ける実践
    無執着・放棄の瞑想、聖地での瞑想、象徴物の活用、ひかりの輪の一元思想の読経瞑想の活用など

     

瞑想法の教本のご紹介

  • 大自然の体験・瞑想:Awe(オウ)体験

    以下にご紹介のテキストは、「2020~2021年 年末年始セミナー特別教本『ヨーガ・仏教の修行と科学 人類社会と宗教の大転換期』」の第2章として収録されているものです。

    教本全体にご関心のある方はこちらをご参照ください。


    1.はじめに:脳科学者が研究するAwe体験

    大草原や大海原、あるいは星空など、雄大な自然を前にして圧倒される経験を「Awe(オウ)体験」といい、世界の脳科学者が研究している。そして、この体験が心身にもたらす影響を見ると、仏道やヨーガの修行が体得することを目指す、エゴ・我欲の減少と、「慈悲」、物事をありのまま見る「智慧」、そして、瞑想による深い心の安定と集中である「禅定」などに通じるものがある。実際に古来、仏道やヨーガの修行者は、大自然の中で修行をしてきたことも事実である。


    2.Awe体験とは

    繰り返しになるが、大自然や大宇宙の悠久さや広大さを前に、自分の存在の小ささを感じる体験を、脳科学ではAwe体験という。

    aweとは、英語で「畏(おそ)れ、畏怖(いふ)、畏敬(の念)」という意味である。その形容詞のawesomeは、「畏怖の念を起こさせる、荘厳な、畏敬の念に満ちた、うやうやしい、印象的な、すばらしい」といった意味である。

    たとえば、果てしなく広がる大草原の地平線、果てしなく広がる雲や青空、視界一杯に広がる大海原と水平線、山の頂などから360度広がる他の山々の連なりや雲海、無数の星が輝く無限の大宇宙の夜空などを体験して、その広大さなどに畏敬の念を感じ、それに比べたら自分はなんて小さな存在なのだろうと思う体験である。

    そして、この体験が、心身の様々な肯定的な結果をもたらすという研究結果が出ている。


    3.エゴが減少して謙虚になり、感謝や愛が増大する

    カナダ・トロント大学のステラー博士は、延べ977人の被験者の協力のもとにAwe体験の影響を検証した。その結果によれば、被験者が「Awe体験によって世界が違って見えた」「Awe体験によって生かされている感じがした」と答えるなど、自分を最小化し、自分の自我(エゴ)を少なくし、謙虚な気持ちを起こすことが判明したという。

    さらには、それに伴って素直な感謝の気持ちや、「世の中のため、誰かのために役立ちたい」という前向きな思い、愛・利他の心が強くなるという。その際に、脳は通常の何十倍、ときには何百倍も活性化しているという。


    4.仏道修行と大自然の深い関係:利他心・大慈悲

    私の仏道修行の経験を重ねてみると、仏道修行が求める仏陀の心である大慈悲・四無量心は、全ての生きもの・世界の万物を等しく愛する広大無辺な利他の心である。それは意識の拡大とも表現される。自分のことだけを考える狭いエゴの意識から、他者・万物の幸福を願う大きな意識への成長である。

    そして、雄大な大自然を見て、視野が広がるとともに、心が広がることを経験した人は少なくないだろう。その意味で、大自然に接することは、慈悲の心を求める仏道修行の助けになる。いや、単なる助けというよりは、その土台となるほど重要な要素ではないかと思われる。

    古来、多くの仏道・ヨーガの修行者は、大自然の中で修行してきた。ブッダは聖なる川のガンジス地方の広大な自然の中で修行し、布教をした。インドのヨーガ行者やチベットの仏道修行者は、ヒマラヤで修行した。空海・最澄なども、山籠もりの修行をしている。

    逆に今、中国共産党の弾圧で、チベットのヒマラヤの大地を失ったチベット仏教の修行者が、本来の教えの体得を維持できるかを危ぶむ関係者もいる。宗教は、単にその経典の言葉によって成立するものではなく、それが生まれ育った国土・大地が、その母のような存在であり、必要不可欠であるという見解である。

    なお、仏道・ヨーガの思想では、この世界・大自然・宇宙が、私たちをはぐくみ育てる神仏であるという思想がある。大乗仏教の大日経では、この宇宙は、仏の子供である全ての生きものを(仏になるように)はぐくみ育てる大いなる母なる仏の母胎(子宮)の中であるという思想がある(胎蔵界曼荼羅)。

    また、日本の伝統文化には「大地母神」といって、多くの生きものをはぐくむ大地を母なる神と見る思想がある。これとほぼ同じ思想が「お地蔵様」として親しまれている仏教の地蔵菩薩の思想である。地蔵菩薩はサンスクリット語では「クシティガルバ」というが、大地の子宮という意味であり、大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦しむ人々を、その無限の大慈悲の心で包み込み救うことから名付けられたとされる。

    そして、キリスト教にも、父なる天と母なる大地という有名な思想がある。いずれも大自然が、人をはじめとする生きものを生んではぐくむ親と解釈する思想である。大地に限らず、天・空からは、生命に必要不可欠な陽の光と熱と、雨による水が、全ての生きものに等しく注がれる。また海こそは、大地より以前から生命の源であり、広大・深遠な水の中に無数の生きものをはぐくむ様は、まさに生命をはぐくむ神仏の母胎・子宮のイメージに近いだろう。

    こうした思想を踏まえると、大自然に接した人の心が広がり、利他の心を取り戻すのは、単に視界が広がったり、その場の気・エネルギーが純粋だったりするからだけではないように思える。それこそが、大自然の本質だからなのかもしれない。実際に、科学者は、綺麗な街のネオンの夜景などを見てもAwe体験が起きることはなく、人の脳がAwe体験を起こす原理は、未だに人知を超えた部分があると言う。


    5.大自然の体験が心身の健康を促進する

    また、同じくステラー博士の研究によれば、Awe体験を頻繁にしている人は、インターロイキン6の濃度が、低く保たれているという結果も出ているという。インターロイキン6は、身体が慢性的な炎症を起こしているときに出るもので、寿命を縮めるとされる。よって、Awe体験は、寿命を延ばすことにつながる可能性がある。

    また、カリフォルニア大学バークレー校が実施した研究では、Awe体験が「サイトカイン」と呼ばれる物質を低下させる効果があることを明らかにしたという情報もある。「サイトカイン」はタンパク質の一種であり、それが増加すると、食欲や思考力の低下、気分のムラを引き起こし、鬱病の原因の一つにもなるという。

    また、これは大人だけではなく、子供にも有効であり、日ごろからたくさんのAwe体験を積ませることで、精神的・身体的な健康をもたらし、創造的思考の増加を引き起こすことがわかっているという。こうして、Awe体験によって、精神的、身体的に様々なポジティブな影響が出るというのである。

    しかし、こうした科学者の研究を待つまでもないだろう。大自然に接して心が広がり、リラックスしたという体験をした人は少なくないだろう。心が広がるとともに、心身の緊張が解け、大きくゆっくりと息をするようになる。自然と、望ましい呼吸の仕方=呼吸法の状態になる。

    特に現代人は、強いストレスに悩んでいる人が多いが、新型コロナの問題もあって、ストレスが免疫力を弱めることは広く知られるようになった。それは、健康・寿命にも悪影響がある。逆に、心身のリラクセーションは、免疫力・健康の向上と長寿をもたらす。


    6.大自然の体験が知性・理性を向上させる

    さらに、このAwe体験をしているとき、その人の脳は、とても活性化していることが多くの研究から明らかになってきているという。

    アメリカのジョン・テンプルトン財団の研究によれば、Awe体験をしている人は、見破る力、騙されない思考力を持つようになるという。逆に、Awe体験をしていないと、情熱のある人の話やおもしろい話には弱く、議論でも説得されやすくなり、詐欺師だったとしても、ものすごく情熱的に話されると信じてしまうという。それに対してAwe体験をしている人は、見破る力があるという。

    また、自己中心的で刹那的な欲望ではなく、長期的な視点で、他者・社会全体の利益を考えられるようになるという。中国・広州大学のリー博士らの研究結果によると、Awe体験で、長期的な視点で物を考えられるようになり、社会性のある行動が取れるようになるという。

    具体的に言えば、未来を、「自分が生きていないのだから関係がない」として、他人事のように捉え、今の自分たちがより良く生きることだけを考え、「今が良ければいい」、「今すぐメリットがあることをやろう」と考えるのではなく、自分が生きる「今」と同じような感覚で捉えることができるようになるという。

    その結果として、例えば、温暖化に関して言えば、「それを少しでも食い止めるための生活に改めよう」とか、「対策を練ろう」と考え、さらに、単に「自粛」することだけではなく、逆に、その努力により「今まで以上に社会を活性化できないか、あらゆる創意工夫を凝らそう」といった思いが生じるという。すなわち、今の社会に限らず、「未来の社会や人のために役立つことをしよう」と考えるようになるというのである。


    7.大自然の体験と仏教の智慧

    仏教では、物事をありのままに見る高度な認識力を「智慧」という。それは本当の意味で幸福になる知性といってもよいだろう。それは単なる知識や知能ではない。実際に知識が多く、知能(IQ)が高くても、普通の意味で恵まれない人は大勢いる。さらに財物・名誉・地位などに恵まれていても、内面において深く苦悩し、自死までする人も後を絶たない。

    そして仏教が説く幸福になるための知性の一つが、Awe体験が促す長期的な視点・利他的な視点である。仏教では、無常の教えや利他・慈悲の教えを説く。そして、間違った物の見方である「痴(無智)」が、人の様々な苦しみの原因となる煩悩の根元であり、智慧とは対極のものである。そして、煩悩とは無智に基づく間違ったとらわれであり、過剰な欲望や嫌悪・怒りなどであって、人の様々な苦しみの原因となる。

    この痴(無智)は、様々な表現で表すことができるが、最もわかりやすくいえば、「今の自分さえよければいい」という考えである。これに対して仏陀は、全ての物事は移り変わるという無常の教えを説き、今だけではなく、未来を含めた長期的な視点を重視することを諭す。また慈悲の教えを説き、自分だけではなく、他者・万物の幸福を考えることが自分の真の幸福につながると説く。

    そして、雄大で悠久な大自然・大宇宙を深く体験すると、前に述べた通り、その雄大さによって、心が広がって利他心が増大するとともに、その悠久さによって無常の認識が強まり、長期的な視点・視野が強まると思う。

    空・海・大地・山々といった大自然は、人間よりもはるかに長く存在する。自然と比較すれば、個々人の存在とその所業は、あまりに束の間の出来事にすぎない。有名な言葉に、「国破れて山河あり」というものがある。人のつくる国は衰亡するが、山や川といった大自然は残り続ける。大自然の中でこうした認識が深まると、束の間の夢のような私事への過剰な関心・過剰な我欲から意識が解放されて、広大で長大な視野・視点に導かれていくと思う。

    こうして自分よりも広大で長大な大自然に接して同化する中で、人の意識も広大で長大になっていく。仏教の教えでは、仏陀の意識は、全宇宙の全空間と全時間に合一しているという。


    8.集中力の向上

    Awe体験が強く起こる際に、時間の感覚の変容があるという。世界がスローモーションのようにゆっくり動いているように見えたり、あるいは逆に、何かに集中しすぎて、ほんの一瞬だと思ったら、意外にも長い時間が過ぎていたりというようなことが起こるという。

    これは、Awe体験が、心理学でいう「フロー(ゾーン)状態」を引き起こすからだと考えられている。フロー状態とは、人間がその時にしていることに完全に浸り、精力的に集中している状態であり、ゾーン、ピークエクスペリエンス、無我の境地、忘我状態などとも呼ばれる。その特徴としては、①専念と集中、②自己認識感覚の低下、③活動と意識の融合、④状況や活動を自分で制御している感覚、⑤時間感覚のゆがみ、⑥活動に本質的な価値があるために活動が苦にならない状態--があるという。

    たとえば、スポーツ選手などが、ゾーン状態に入り、最高のパフォーマンスを発揮する時には、非常に深く集中し、雑念がなく、無思考のままに最善の動きをしているという。その際に、球技でいえば、本来は猛スピードで動くボールが、ゆっくりと見えるといった体験があるという(元巨人軍の選手・監督である故川上哲治氏が、ボールが止まって見えたというのも、ゾーンの一例と思われる)。

    なお、これは非常に高い精神集中ができる人だけのものかといえば、そうでもない。普通の人でも、何か好きなことに没頭・集中していると、あっという間に時間が経つという経験をしたことがあるだろう。また熟睡できた結果、あっという間に朝になったという体験もあるだろう。そして、大自然に接して魅了されて没我状態に入れば、同じように時間が一瞬に経つような体験をするということである。


    9.時間の体験の変化と仏道修行の禅定

    そして、無我の境地・忘我状態といえば、無我の思想を説く仏教・ヨーガの修行に通じる。そして、仏教・ヨーガの深い瞑想状態(サマディ・禅定)は、非常に高い集中状態であり、その最中に時間があっという間に経つという体験が起こる。私も繰り返しこの体験をしたことがある。

    また、逆に、非常に長い時間を体験したと自分では感じるのに(例えば、そう感じるような非常に長い夢を見たと感じるのに)、実際には、さほど時間が経っていないという体験をする場合もある。これは、深い集中が、時間感覚に影響を及ぼすからであろう。

    なお、仏教・ヨーガの思想に基づいてこの現象を説明すると、深い集中状態の際に、時間感覚が変わるのは、人の経験の総量と、人が主観的に感じる時間の感覚が比例しているからである。すなわち、何か好きなことに没頭していると、没頭しているために雑念・余念が少なく、経験の総量が少ない。また、熟睡できた時も同様に、経験量が少ない。一方、たとえば、何かを期待して、今か今かといらいらしながら待っている時は、いろいろなことをあれこれ考え思うために、経験の総量が多くなり、時間が長く感じられる。

    逆に、普通の人の場合は、猛スピードで動くボールは一瞬の体験であって、経験の総量は少ない。しかし、非常に高い集中力でボールを認識しようとするスポーツ選手は、その一瞬の間に、普通の人よりも多くのボールに関する経験をする。そして、それが極限に達すると、ボールの動きがゆっくりと感じられるということである。こうして、人の感じる主観的な時間とは、経験の量と考えられるのである。


    10.Awe体験は様々な心身の向上をもたらす

    Awe体験の特徴として、アメリカ・アリゾナ州立大学のシオタ博士は、①マインドフルネスを行ったように、何ごともありのままに受け取ることができるようになる、②心と身体をリラックスさせる、③好奇心を引き出す、④人と心のつながりを作る、⑤利他の心を引き出す、⑥身体を健康にする、⑦創造性を引き出す、⑧希望に満ちた状態になる、⑨幸福感が高まる、⑩嫉妬心などネガティブな感情が少なくなる--などとしている。

    こうして、広大な大自然や大宇宙の悠久さを体験することは、単に心が洗われるだとか、気分転換になるだけでなく、具体的に心身ともに良い影響があるという。

    そして、これをまとめてみると、④・⑤・⑩は、自己中心的な欲求が弱まり、利他心が増大していることを示している(一部のヨーガ指導者が説く「意識の拡大」)。②・⑥は心身のリラックス・健康である。①・③・⑦・⑧は、客観的で創造的な知性の向上である。以上の結果が、⑧・⑨の幸福の増大であろう。

    これらは、仏教が説く、エゴ・我欲の減少と慈悲、心の安定・集中(=禅定)と智慧、心身の健康と長寿といった、修行の主たる目的と非常によく合致していることがわかる。


    11.都会の中でのAwe体験

    しかし、現代人の多くは都会に住み、Awe体験ができるような大自然に触れる機会は、なかなか持てないという問題がある。

    しかし、オランダ・アムステルダム大学のフォンエルク博士らは、大自然の広大さ・美しさが感じられる動画を見ることでも、軽微なAwe体験ができるとしている。よって、こうした内容の動画を大画面にして見ればよいかもしれない。都会の中でも、大自然の美しさ、広大さ、悠久さを少しでも感じられたら、それも一種のAwe体験である。ただし、綺麗な街のネオンや夜景などでは、このようなAwe体験は起こらないという。その意味では、脳がAwe体験を起こす仕組みは、まだよくわかっていないことがある。

    これらを踏まえて、ひかりの輪では、実際の雄大で悠久な大自然を体験する機会を持つために、聖地自然巡りを定期的に企画・開催している。さらに、その際体験した光景を動画・写真に撮影して、都会にある教室のモニターや、ネット配信によって見ることができるようにしている。こうすることで、実際の自然の中で体験したことが、その動画を見ることで蘇ってくるという利点もある。


    12.Awe体験を阻む日常の思考とその抑制の仕方

    しかしながら、大自然の中に行ったとしても変化が起きない場合もある。そうした場合は、依然として、都会の日常生活での思考に支配されている可能性がある。たとえば、いつもと同じように、仕事や人間関係上の悩みごとを考えている。そして、本質的にいえば、自分のことばかり考えている状態である。

    こうしたことを抑制し、大自然の恩恵を受けるには、全く何もしないで自然の光景を見ているのではなく、心身に肯定的な影響をもたらす体の使い方をする方が望ましい。例えば呼吸法である。第1章で紹介した呼吸法の効果の中には、脳の島皮質や下前頭回を活性化して、自律神経や心拍を調整し、欲望や雑念を抑える効果があった。

    また、歩くことである。全身の筋肉がほぐれ、血流が改善、体温が上昇し、脳の働きも良くなる。歩く前にストレッチ(ヨーガ体操・アーサナ)を行い、筋肉をほぐして、体の力を抜いて歩くようにする。さらに呼吸法をしながら歩いてみる。深い呼吸を保ちながら歩くことで、多くの酸素が吸収されて細胞が活性化し、疲労を回避することができ、ゆっくり吐くことで、心身がいっそうリラックスする。

    また、単に平地を歩くのではなく、登山をするのも一つの方法である。修験道(山岳仏教)では、無用な思考を抑制して、山を母なる仏の母胎(子宮)と見なし、黙々と山に登り、山と一体になろうとする。登山の際は、現実に、仕事や人間関係といった余計なことを考える余力がない。また、自ずと体はほぐれ、血流は改善し、体温は向上する。ただし、登山前にストレッチをして、事前に体をほぐしておくべきである。

    なお、正しい登り方をすれば、呼吸も深くなり、呼吸法と同様の効果が出る。疲労が少ない正しい登山の仕方は、呼吸が荒くなるように焦って登るのではなく、体の力を抜いて、ヨーガの呼吸法のようにゆっくりした深い呼吸をしながら、同じペースで登っていくことだという。

    加えて、仏教・ヨーガが説くマントラ(真言)を唱える方法もある。多くのマントラは、その音自体が、心を安定・解放させる生理的な効果があることがわかっている。仏教やヨーガの何かの教義を信仰することがなくても、その音による生理的な効果があるのである。

     

  • 仏教の無我の思想・四念処(しねんじょ)

    以下にご紹介のテキストは、「2019年~2020年 年末年始セミナー特別教本『最新科学が裏付ける 仏教・ヨーガの悟りの思想』」第1章として収録されているものです。

    教本全体にご関心のある方はこちらをご参照ください。


    1.無我の思想

    無我は、仏教の開祖である釈迦牟尼の中心的な思想である。サンスクリット語では、アナートマンである。釈迦牟尼によれば、その基本的な意味は、私ではない、私のものではない、私の本質ではない、といったほどの意味になる。

    なお、釈迦牟尼の死後、無我は、永久不変の本質がないという意味に解釈されるようにもなったという。この場合は、固定した実体がないという意味である空(サンスクリット語ではスンニャ)の思想とほぼ同じ意味ともいわれる。

    釈迦牟尼は、無我の思想によって、人が普通は「自分・自分のものだ」と考えて執着する自分の心や体を含めた一切のものに関して、「真実は自分・自分のものではない」と瞑想して悟るように説いたといわれる。これは、自分へのとらわれ(仏教用語では我(が)執(しゅう))、自分のものへのとらわれ(仏教用語では我(が)所(しょの)執(しゅう))を捨てさる目的があるとされる。いわゆる自我執着の放棄である。


    2.四念処

    釈迦牟尼が最初に説いた教えは、四(し)諦(たい)八(はっ)正(しょう)道(どう)である。

    その八正道の中で、正念という教えがある。これは、教え・法則を絶えず思うこと、記憶して忘れないことといった意味がある。

    そして、正念の具体的な修行として代表的なものが、四念処である(四(し)念(ねん)処(じょ)観(かん)、四(し)念(ねん)住(じゅう)ともいう)。釈迦牟尼の初期仏教の時代から、悟りに至るための最も中心的かつ最重要な観想法である。

    その内容は、以下の四つの観想法・瞑想法である。

    1.身(しん)念処(ねんじょ):身(しん)不浄(ふじょう):身体は不浄であると観想する

    2.受(じゅ)念処(ねんじょ):受苦(じゅく):感覚(感受作用)は苦であると観想する

    3.心(しん)念処(ねんじょ):心(しん)無常(むじょう):心は無常であると観想する

    4.法(ほう)念処(ねんじょ):法(ほう)無我(むが):いかなる物事も無我であると観想する

     

    3.身体は不浄である

    身体への執着は、自我執着の土台となる。人はたいてい、身体を自分と考え、その外側を他者・外界と考え、自己と他者を区別し、自己を偏愛する。これが自我執着の基本的な構造である。

    よって、自我執着を薄め、自他の区別を超えた広大な意識を培うためには、身体に対する過剰な執着を和らげることが重要となる。

    ただし、釈迦牟尼は、快楽主義とともに苦行主義を否定し、中道の教えを説いたとされ、断食などでいたずらに肉体的な消耗を追い求めることは、真の悟りにつながらないとして否定していることに留意すべきである。

    よって、身体的な健康を保つことを否定しているのではない。むしろ仏教では、多くの生き物の中から、人間の体に生まれ、なおかつ仏法に巡り合い、仏道修行をなす機会を得ることは、極めて尊いこととされており、その意味で、健やかに生きることを否定するものではない。

    しかしながら、人は、身体の本質を悟らず、身体に過剰に執着する傾向があることは否めない。現代社会においても、多大な時間・お金・エネルギーが、そのために注がれていることは明らかである。


    4.身体の不浄性1:宿業

    身体の不浄性について考えるならば、まずその本質として、身体を維持するためには、どうしてもなにかしら他の生き物を犠牲にする(殺める)必要があるという事実がある。

    食事においては、肉魚を食べる肉食を避けて菜食をしても、植物自体が、小さな生き物の住処であるから、食べるために採集する際に、多くの生き物が死に、住処を奪われる。

    また、農耕においては、田畑を耕すとき、防虫剤を散布し、収穫の時のいずれにも、大量の生き物が死ぬ。こうして、人は、自分の身体を維持して生きるために、他の生き物を殺すことを避けらない。

    なるべく自分が手を下さないようにしたとしても、自分のために、他人が手を下すことになる。また、植物の中にも微生物は存在し、調理をしたり、食べて消化をしたりすれば、その者たちは死ぬことになる。これはどんなに努力しても、生きる限りは避けらない。避けるためには、死ななければならなくなる。よって、これは、避けられない宿命の業という意味で、宿業ともいわれることがある。

    こうして、自分の身体は、他の生き物を犠牲にした結果であり、他から奪った体で作ったものであるという側面があることは間違いがない。その意味で、身体は、浄(きよ)いとはいえず、不浄といわざるをえない。

    私たちは、普段こうした事実に目を向けない。そしてご飯を単純に「おいしい」と言って食べるばかりである。「いただきます」とは言うかもしれないが、それは、食事を作ってくれた人に対しての言葉にすぎない。昔であれば、お米を食べる時に、お米を作るお百姓さんの労苦を思い、「残さず食べるように」と親に言われることもあったようだが、それでも、自分の食べ物にするために、自分が犠牲にした生き物に向けられた言葉ではない。実際に、私達が「いただいている」のは、他の生き物の命であって、その体であることは間違いない。

    繊細な心をもって、こうした事実に目を向けるならば、過食をして自分の健康も損なうことは避けやすくなるかもしれない。また、自分の命を支えてきた多くの生き物・自然万物に対し、感謝の気持ちが生まれやすくなるかもしれない。分業が進んだ現代社会では、お店で食べ物を買う時は、たいていの人が、「お金を払うのだから自分の物になるのは当然である」といった意識で、そうしている。お客様は神様であるということだ。

    しかし、狩りをして、自分自身が目の前で生き物を殺めて、その日の生きる糧としていた時代の人間の中には、食べる前に、その死骸を天に捧げる習慣があった者たちもいるという。自分のために他の命を奪うのだから、天から授かったものとして感謝したのか、その生き物の冥福を祈ったのか。いずれにせよ、現代人が忘れている、自分の生の裏側には他者の死が存在するという重要な真実を、よく認識していたのだろう。


    5.生と死はセット

    こうして、自分の生と他の死はセットである。自分(の体)と他の生き物(の体)の間には、密接不可分の関係性がある。この真実を心に留めておくことは、自我執着を弱めて悟りを深めるために非常に重要である。自我執着とは、前に述べたように、自己と他者を区別して、自己を偏愛する意識である。こうして、自我執着の前提には、自と他の過剰な区別がある。「自我執着が強い」とは、「自他の区別が強い」とも言い換えることができる。

    よって、このように瞑想することができる。自分の生は他の死とセットである。自分の身体は(少し前は)他の生き物の身体であったものである。その意味で、他の生き物は今、自分の体の中で生きているのである。(自分の)身体とは、自分だけのものではなく、多くの生き物と共有しているものである。

    また、排泄・発汗・呼吸などによって、自分の体から出ていった物(いろいろな有機物や分子)は、自然の循環の中で、他の生き物の体の一部となる。そして、自分が死ねば、その体を構成する分子のほとんどは、自然の循環の中で、他の生き物の体になる(科学者によると、ある生き物の体(の有機物)の99%以上が、その死後に他の生き物の体としてリサイクルされるという)。

    こうして、地球の生命圏・自然の循環の中で、私たち生き物は、他から生を奪っては生き、死んでは他に生を与え、他の生き物と生命の与え合い、分かち合いをしながら、生きている。自分の生と他の死はセットであり、自分の死と他の生も同じくセットである。全ての生き物が、自分の身体を構成する分子を、他の生き物と共有・交換し合って、いわば一体となって存在しているのである。

    また、皆が生死を分かち合って、一体となって存在している以上は、自分だけが死なないことを望むことは、地球の生命の摂理に反することになる。地球は、多くの生命を生んできたが、それが可能であったのは、多くの生命が死んだからである。地球の資源は有限であり、多くの生命が日々生まれることができるのは、多くの生命が日々死んで、新しい生命のための体(となる分子)を提供するからだ。

    例えば、今の人類(現生人類)は30万年程前に誕生したといわれる。それ以来、何人の人間が生まれたか。2011年に行われたある推計では、累計で1080億人であり、今生きている70億以上の人は、その6.5%となるという(「人類、累計で1080億人」2015/2/20付 日本経済新聞・朝刊)。

    一方、ある試算では、地球の資源などから見て、地球が養える人類の人口は、現在の3倍くらいまでが精いっぱいだという。それ以上になれば、食料・資源・エネルギーその他の奪い合いで、生存競争の殺し合い=戦争が不可避となるのだろう。これは、20世紀に、ローマクラブという組織が主張した、人類の成長の限界による破局として有名な話である。

    こうして、これまでに多くの生き物が死んだからこそ、今私達を含めた多くの生き物が生きることができているのである。


    6.縁起と無常の教え

    よく人は、「なぜ生まれてきたのに死ななければならないのか」と言う。そして死を恐れる。しかし、これまで見てきたことを考えれば、実際には、死ぬからこそ、生まれることができることがわかる。なんということだろうか。

    仮に、死ぬことがない生き物・種が誕生していたら、どのような運命をたどったかを科学的に考えてみよう。その生き物は爆発的に増加する。すると、まもなく自分のための食糧がなくなってしまい、場合によっては共食いに陥るなどして急激に減少する。また、他の生き物には、極めて有害な存在になり、抹殺(駆除)の対象になる可能性が高い。稀にではなく、絶えず異常発生する昆虫のようなものだ。

    そして、環境に適した生き物が生き残り、そうでなければ淘汰されると説くダーウィンの進化論によれば、死なない生き物・種は、子供を産まないとか、極めて繁殖力が弱くて極めて静かに生きるのでなければ、仮に生まれても、存在し続けることは難しい。神様が、生き物は必ず死ぬように創造したのか、死なない生き物は地球環境に適合しないので誕生しなかったのかはわからないが。

    そして、これは、仏教が説く基本的な世界観・哲学と一致している。それは、縁起・無常・空といった思想である。まず、この世界の万物は相互に依存しあって存在している(縁起の法)。そのため、何かが変われば、それとつながっている他も変わることになり、その結果として、万物は移り変わることになる(無常の法)。

    生き物も相互に依存しあって存在している。親が自分の子供を産んで育てるには、他の生き物を殺すことになるが、これも、自分が変わると(=子供を産んで育てると)、自分とつながった他者が変わる(他の生き物が殺される)という法則の一環である。

    そして、自分たちが、他者に依存してつながって生きている以上、他者を変えれば(他者を殺せば)、巡り巡って、自分たちも変わること(自分たちが死ぬこと)は避けられない。こうして、万物が相互依存であって無常であるというのが、仏教の基本的な世界観・哲学である。

    これに加えて、仏教を生んだインド思想では、他の生き物を殺して生きる宿業を持った人間という生き物は、その業によって、自分も死ななければならない宿命があるということになる。他になしたことが自分に返ってくるという、因果応報の思想である。


    7.循環の思想と表裏一体の思想

    自分が生まれることと死ぬことはセットなのであると述べたが、これに加えて、先ほどは、自分の生と他の死、自分の死と他の生はセットであると述べた。これらをまとめれば、自分と他者の生と死がセットになっており、循環していることがわかる。

    これも、仏教の基本的な哲学である。自と他、生と死、苦と楽という2者は、一見して対極的で別々のものに見えるが、実際には、表裏一体であり、循環しているのである。

    これが、ひかりの輪が説く、輪の思想の一部でもある。輪という言葉が、循環の意味を含む。また、仏教を生んだインド思想では、死ぬと新たな生を受けるという輪廻・生まれ変わりの思想を説くので、この意味でも、生と死が循環しているということになる。


    8.不浄・無常から無我へ

    こうして、身体は不浄であり、無常であることを考えると、次に出てくるのが無我の思想である。人の体は、他の生き物を殺生して自分に取り込んだ結果であると見れば、体は自分の物とばかりいうことができるだろうか。それは、自分の物でもあるが、他の物でもあるのではないか。他の生き物が、自分の中で生きているともいえるのではないか。

    また、今は自分の体といっても、その一部は毎日、排泄・呼吸・発汗などで、自分の体の外に出て、他の生き物・外界の一部になっている。生物学者は、人間の体を構成する分子は、数年で全て他者・外界のものと入れ替わってしまうことを発見している。自分だけの体を構成する有機物・分子など一つもないのだ。地球上の生き物は、何十億年も昔から、同じ有機物・分子を共有・交換して生きてきた。体(構成する有機物・分子)を、服にたとえれば、皆で同じ服を使いまわしてきたということもできる。

    そして、しばらくすると、自分は老いて死んで、その体を構成した有機物・分子のほとんどは、遺骨になる部分は別として、自然に還って、他の生き物の体の一部となり、無数の生き物を延々と巡ることになる。その意味で、自分の体は、自分の物ではなく、自然からの預かりもの・借り物にすぎないのではないか。人生という旅の宿で借りる浴衣(ゆかた)のように。


    9.身体の不浄性2

    ここまでは、身体の不浄性に関して、身体は他の生き物の犠牲を伴う宿業の要素を持つという視点から考えてきた。ここからは、それとは別の側面の不浄性を検討する。

    まず、第一に、ごく世俗的な意味で、人の身体は、老いれば醜くなるという意味で、不浄である。美しい人もそうでない人も、老いれば皆が醜くなり、大差はない。死んだら皆、放置すれば腐り、感染症の発生源にもなりかねない(だから火葬する)。こうして、身体の不浄性の瞑想の一つは、身体が老いて死ぬという身体の無常性とつながっている。

    また、身体の中身を見れば、五臓六腑はグロテスクに見え、不浄である。これは、どんなに(表面的には)美しい人の内臓も例外ではない。

    また、その機能は、食べ物を取り込んで、有害物質を含む糞尿を排出する。その意味でも不浄ということができるだろう。ナイーブな男の子が、初恋の女の子が女神のように見えるがあまり、同じように排泄をすることが信じられない(信じたくない)という話を聞いたことがあるが、これにも例外はない。


    10.美醜に対する過剰なとらわれを和らげる

    こうして、身体の老化、内部、排泄機能に関する不浄の瞑想を行なうならば、人の一時的な表面的な容姿の美醜に、過剰にとらわれる傾向を和らげ、より平等に見る心を培うことができるだろう。

    身体に限らず、無常の瞑想は、様々な物事に関する過剰な好き嫌い・とらわれを和らげて、万人・万物を平等に見る心(平等心)を培う手助けとなる。例えば、いくら財物にこだわっても、富豪も庶民も、老いや死は避けられず、死んだら皆、骨になり、財物は他人のものになる。


    11.感覚(感受作用)は苦である

    次に、四念処の二つ目の瞑想である「受念処:感覚は苦である」について述べる。まず、受とは何か。

    受はサンスクリット語で、ヴェダナー(vedanā)。人間の感受作用を意味する仏教用語である。感覚と訳されることもあるが、感覚器官自体ではなく、美しい・醜い、美味しい・不味いといった、(感覚器官で)接触して感じる印象・感覚のことである。

    ただし、受は、五感に加え、苦しいとか楽しいといった、意識が感じることも含む。そのため、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚に、意識を含めた六つの要素を含むものである(いわゆる、六識・六根・六境などといわれる)。

    それでは、なぜ受は苦しみとなるか。当然のことであるが、感受作用(感覚)には、不快なものもあれば、心地よいものもある。よって、感受作用とは苦しみであるという法則は、全ての感受作用が苦痛であると主張しているのではない。仏典にも、受(感受作用)には、①楽受:楽しいとする感情を生じる受、②苦受:苦しいとする感情を生じる受、③非苦非楽受:楽でもなく苦とも感じない類の受があるとされている。

    しかし、不快な感覚に限らず、心地よい感覚を得た場合にも、その先に落とし穴があることが重要である。例えば、心地よい感覚を得た場合、人は、その対象に執着しがちである。一度得ただけでは足らず、何度も「欲しい」と思う。さらに同じものでは飽きが来て、「もっと欲しい」と思う。

    こうして際限のない欲求に巻き込まれる。そして、求めても得られない苦しみを経験したり、得て執着したものを失う不安や失う苦しみを経験したり、同じものを奪い合って他者と憎み合う苦しみを経験する。こうして、今感じている楽の裏側には、将来の苦しみの原因が潜んでいるのである。

    まとめるならば、感受作用の中で、①不快なものは最初から苦しみであるが、②心地よいものも、それにとらわれれば苦しみに変わる。こうした意味で、受は苦しみというのである。よって、この教えは、快をもたらすものにとらわれすぎることを戒めているとも解釈できる。そして、このために、釈迦牟尼は、執着しないこと、とらわれないこと、際限なく求めず、足るを知り、他と分かち合うことを説いたのである。


    12.受(感受作用)は私たちを欺く

    さて、人の感受作用に関してよく考えてみよう。仏典においては、五感は私たちを欺くとも説かれている。これはどういう意味だろうか。

    仮に、私たちが、五感で心地よく感じるものを際限なく追い求める結果として、本当に幸福になるならばよいだろう。しかし、五感で心地よく感じる物事の中で、一時的には喜びであっても、それにとらわれるならば、長期的には苦しみをもたらすものが多い。だとすれば、五感とは、一時的な目先の快楽によって私たちを騙して、結果としては苦しみに導くものだともいえるのではないだろうか。

    例えば、おいしいものは、舌先には快感だが、食べ過ぎるならば、何であっても体に悪い。また、商業主義の現代社会では、味覚には心地よく刺激的だが、体には悪い食べ物に溢れている。ようするに、味覚は、その食べ物が、私たちの心身の健康に良いものか否かを正確には教えてくれない。そこに商業主義の食品産業などがつけこんで、人々の健康を害しながら、お金を儲ける隙が生まれている。

    その前に、最新の人間科学・認知科学が明らかにした、より重要な事実がある。私たちの感覚は、美しい・おいしいなどを感じるが、なぜそう感じるのかを考えてみたことはあるだろうか。

    普通の人は「美しいものは美しいし、おいしいものはおいしいし、それに理由はない、それがその本質だからそう感じるのだ」というだろう。しかし、科学が明らかにしつつある事実は、感覚的な快不快は、私たちの意識がアクセスできない無意識の脳活動が判断・処理した結果であり、その判断にはその過程と理由があるが、私達の意識はそれを知ることができないというものである。

    例えば、私達の視覚が、ある女性を美人だと感じても、その人の人格が良いかどうかはまた別の問題であることは、大体わかるだろう。そして、心理学者の見解では、なぜ男性の目が、グラマーな女性を魅力的だと感じるかというと、私たちの意識が知らない所で、無意識の脳の知覚機能が「グラマーな女性=女性ホルモンが多い=子供をたくさん産むことができる=求めるべき良い女性である」という判断を行って、それが意識に上っていた結果であることが推察されているという。

    これは、30万年の長い進化の歴史の中で、男性の脳の機能に、無意識のうちに種の生存に最適な女性を魅力的だと思うプログラムが確立しているということである。確かに、進化論に基づいて考えれば、人間の脳を含めた機能は、人間が生き残り、子孫を残すために進化して作られてきた。

    しかし、私たちの意識は、自分が魅力的に感じる女性に関して、なぜ魅力的なのか、なぜ良いと思うのか、という理由は教えられることがない。それは、私たちの意識がアクセスできない無意識の脳活動が担当しており、私たちの意識が知ることができるのは、その活動の結果として、その女性が魅力的か否かという結論=アウトプットだけである。

    よって、ある男性が、「子供は欲しくない」と思っていても、彼の脳は、子供を産むために良い女性を自動的に魅力的に感じてしまい、彼の心と体を動かすということが起こる。仮に、男性が、出産能力ではなくて、人格やその他の要素を重視していたとしても、彼の視覚機能はそれを無視して、必ずしも彼が望んではいないタイプの女性が彼にとって良い女性だと宣伝する。しかも、彼にその推薦の理由は教えないのである。

    また、同じく最近の認知科学・心理学の知見では、私たちの感覚・知覚は、今日の情報化社会の影響を深く受けている。自分で自覚している五感からの情報・刺激だけでなく、意識では自覚せずに吸収している情報(例えばサブリミナル)が、私たちの無意識の脳活動には深く影響を与えている。メディアなど情報は、私達を画一化し、受動的にし、一定の行動・傾向に誘導する。こうして環境と深く連動した私たちの(無意識の)脳の活動が欲求するものは、私たちを、必ずしも本当の幸福には導かないものとなっていることが懸念されている。

     

    13.感受作用は無我

    こうして、私たちの感受作用は、環境と結びつきながら無意識の脳活動によって形成されている。私たちは、その無意識の脳活動にアクセスできず、自分の好き嫌い・意志・欲求がどのような理由でどのような過程で形成されたのかを一切知ることがなく、その判断結果のアウトプットだけを経験する。

    ここで問題なのは、私たちの意識が、それを何の疑いもなく、私たち自身の感覚・感情・印象だと思い込むことである。無意識の脳活動だから、意識できないし、正体を見せずに自分のすぐそばから、好き嫌いなどの結果だけを伝えてくるから、自分だと思い込んでしまうのかもしれない。

    しかし、心理学・認知科学の知見をもってすれば、私たちの中には、無意識というもう一人の私、ないしもう一人の他人がいるといってもよい状態があるのである。そして、2500年前の偉大な心理学者であった仏陀の教えでは、後に述べるように、感覚を含めた一切は、本当の意味で自分・自分の物ではないと説かれる。

    厳密に言えば、私たちの脳の中には、無意識(潜在意識・深層意識)と意識(顕在意識・表層意識)というだけではなく、無数のニューロン細胞が形成する多数の情動・考えがあると考えられている。

    そして、それが緩やかに一つに連合し、一つの統一された人格として振舞うようになっている。これが連合できなくなると、多重人格障害や統合失調症ということになるが、多様な情動・思考が存在しているという点では、健常者も精神疾患の人も違いはなく、それをある程度統合することができるのが健常者というにすぎない。

    こうして、仏陀は、受(感受作用)は、私たちを本当の幸福に導かない側面があるから苦しみであるとともに、厳密には私たち自身ではないから、無我であると説いたのである。


    14.心は無常である

    三つ目の瞑想は、心は無常である、というものである。まず、仏教用語における心とは何か。

    サンスクリット語では、チッタ(citta)である。抽象的な概念であるから、学派・宗派によってその内容は諸説分かれているが、当然ではあるが物質や身体とは区別される。

    現代の心理学でも、知覚・思考・感情・意志・欲求・記憶・イメージ等の総称として用いられるが、現代心理学と同様に、仏教においても、意識下の心=無意識・潜在意識・深層心理が説かれる場合もある(唯識思想など)。

    さて、心が無常である、という瞑想に関してであるが、心の働きの中で、思考や感情を見てみても、絶えず変化していることがわかる。よって、仏教の瞑想の中で、生じては滅する思考や感情に巻き込まれずに、客観的に冷静に見つめる瞑想がある(念・マインドフルネス)。思考や感情は、空にやってきては去っていく、雲のようなものである。

    そして、特に私たちの様々な欲求(煩悩)に関して考察してみると、心が絶えず移り変わる構造を理解することができる。先ほども述べたが、例えば、何かにとらわれると、それを得た場合は喜びがあるが、その喜びはずっと続くことはなく、何度も「欲しい」と思う。また、同じもの・同じ状態では最初はよくても、すぐに飽きが来て、「もっと(刺激的なものが)欲しい」と思う。こうして、欲求には際限がないという構造がある。

    しかし、そうして際限なく求めているうちに、「求めても得られないのではないか」という不安や、「得られなかった」という苦しみを経験する。そして、「かつて得て執着したものさえも失う」という不安や、実際に失う苦しみを経験する。さらに、際限なく求めれば、他者と奪い合って憎み合う苦しみをも経験する。

    こうして、煩悩的な欲求に関していえば、今はそれを満たして喜びを感じていても、その幸福感はずっと続くことはなく、その裏側・その先には、様々な苦しみが生じてくるような構造になっている。そして、煩悩が強くなればなるほど、逆に心は不安定となり、言い換えれば、無常に移り変わることになる。さらには、老い病み死ぬ中で、人生の終盤の方が、一般的に言って、苦しみの方が多くなる。老化し、心身の機能が衰え、同世代の親族・友人知人を失い、自殺者も鬱病も高齢者の方が多い。

     

    15.心は無我である

    心は無常であると瞑想することは、自分の意識が心を客観視する効果をもたらし、結果として、心は本当の自分ではない(心は無我)という悟りをもたらす。

    仏教の由来のマインドフルネス瞑想は、こうした自分の思考や感情を客観視する瞑想によって、鬱病を治す効果があることがわかっている。

    その効果は、自分と思考と感情を脱同一化するものだとされている。抑鬱感情で苦しんでいる心から一歩距離を置いた冷静な意識・視点を培うことで、意識が心の苦しみに巻き込まれないようにするのである。

    考えてみれば、私たちは、時々「自分の心を見つめる」と言うことがある。この場合、自分とは、心を見つめている主体であり、心は、自分に見つめられている客体であって、自分ではない。

    また、思考や感情がなくなったとしても、すなわち、座禅で言うところの無念無想の状態になっても、意識がなくなるとは限らない。

    こうして、私達の認識の主体の中の主体である意識は、思考や感情といった心とは別の物であり、心を認識しているものだと考えることもできる。

    この考え方を裏付ける知見が最新の認知科学・認知心理学にはある。それによると、(ほとんどないし全ての)思考や感情は、私たちの意識が制御しているのではなく、無意識の脳活動が司っている。ところが、私たちの意識は、無意識の脳活動から私たちの意識に思考や感情が現れる(立ち上ってくる)と、それを「自分のものだ」と錯覚してしまうのである(ある意味で手柄を自分のものにするのである)。

    心理学者の中には、私たちの意識がしていることは、無意識の脳活動が形成したものを後から経験しているだけであるから、意識は「傍観者」であると主張する人もいる。少なくとも、私たちの「意識」は、私たちの中心に存在し、私の心や体を主導しているのではなく、私たちのごく周辺・ごく端(はし)に存在し、その一部を見ているにすぎないという。にもかかわらず、意識は、思考や感情を含めた心を自分・自分の物だと錯覚してしまうのである。


    16.あらゆる事物は無我である

    四念処の四番目・最後の瞑想は、法無我である。これは、いかなる事物も無我である、という意味になる。

    まず、仏教用語の法は、サンスクリット語ではダルマ(dharma)である。これは多義語で、一つ目の意味が、法則・真理、教法・説法などであり、二つ目の意味が、事物、存在などである。ここでは、この後者の意味で使われている。事物は、あらゆる存在、あらゆる思考の対象となる事物のことを指すといわれている。

    また、無我は、自分ではない、自分の物ではない、自分の本質ではないといった意味である。ただし、釈迦牟尼の死後は、永久不変の実体がないという意味にも用いられ、空(固定した実体がない)と類似した概念にもなった。

    諸法無我ともいわれ、あらゆる事物は無我であるという思想は、仏教の根幹の思想・世界観である。これによって、自我に対する一切の執着を滅して、煩悩を止滅し、悟りの境地(涅槃・ニルヴァーナ)を目指す。


    17.ひかりの輪の四念処の瞑想法

    ひかりの輪では、漢訳語である四念処の瞑想法を以下の通り、わかりやすい現代の日本語で簡潔に表して、それを繰り返し唱える瞑想を行っている。ただし、これを繰り返し唱える前に、これまでに述べてきた四念処の意味合いをよく学び、自分で考えて吟味し、その意味合い・目的を含めて、十分に納得した上で行うことが重要である。

    また、唱えている間も、その意味をよく考えながら、ないしは、それが目指す精神的な境地をイメージしながら、行うことが重要である。

    「身体不浄、感覚は苦、心は無常、一切無我」

     

  • 日常生活の中でのヨーガ行法や歩行瞑想

    以下にご紹介のテキストは、「2018~19年 年末年始セミナー特別教本 『 心の制御による真の幸福の道 三宝と慈悲の生きる力』」第4章として収録されているものです。

    教本全体にご関心のある方はこちらをご参照ください。


    1.夜、就寝前に心身をリラックスさせる重要性

    最近は、ストレス社会といわれるように、さまざまな精神的な緊張が強く、またデスクワーク・パソコンワークなどのために姿勢も前かがみになっており、上半身を中心に体全体の筋肉が緊張しており、血流も悪く肩こりなどに悩む人も少なくない。また呼吸も浅い。

    そして、そのままの緊張状態で寝ると、睡眠中も筋肉の緊張が続くが、それは睡眠による心身の休息・疲労回復にマイナスであるだけでなく、夢の内容を含めた意識状態にまで悪影響を及ぼす可能性がある。

    例えば、恐怖を含んだ悪夢を見るとか、起きてみると、腕に力が入っていたり、拳を固く握っていたりすることに気づく人が少なからずいる。

    よって、夜、就寝前に適切な行法などを行って、心身をリラックスさせることは、睡眠の質を高めるために非常に効果的である。


    2.アーサナの効果:筋肉の弛緩

    まず、アーサナ(ヨーガ体操・体位法)は、全身の筋肉を弛緩させるために役立つ。時間がなければ、デスクワークが多い人であれば、特に緊張しやすい肩・首・腕などの上半身のアーサナだけでもやるとよいのではないだろうか。

    実際に、参考資料(後記)の身体心理学における実験結果からも、筋肉を弛緩させた方が、①不安、ストレスの程度が下がり、リラクゼーションの程度が上がり、ストレスの指標であるコルチゾールの値が改善し、心理的な緊張を下げること、②心拍数が低下し、疲労回復に役立ち、さらに、免疫力の指標である免疫グロブリンの値が改善するなど、健康上の効果があること、③恐怖心を弱めることができるという実験結果があることがわかっている。

    なお、具体的なアーサナのやり方については、『ヨーガ・気功教本』やヨーガ行法のDVD『ヨーガ基礎編 改訂版』を参照されたい。


    3.プラーナーヤーマの効果

    また、プラーナーヤーマによって、腹式呼吸による深く長い呼吸を行えば、身体心理学の実験結果からしても、①血圧・心拍数が低下し、弛緩を促進する副交感神経を優位にして生理的な安定をもたらすこと、②ストレスの指標である呼気終末二酸化炭素の値が改善すること、③落ち着いた気分、くつろいだ気分になり、リラックス効果がもたらされること、④怒りやすい、焦りやすく落ち着かないという性格の人たち(タイプA)に効果があることがわかっている。

    なお、腹式呼吸は、神経叢が集まっていて「第2の脳」ともいわれる腹部の運動になり、その部分の血流を改善して精神的な安定をもたらすともいわれている。加えて、プラーナーヤーマは、ヨーガの霊的科学においては、気道の浄化と気の強化に役立ち、そのために、精神の安定とエネルギーの改善に役立つ。

    なお、具体的なプラーナーヤーマのやり方については、『ヨーガ・気功教本』、テーマ別教本第1集『ヨーガの思想と実践』などを参照されたい。


    4.入浴の効果

    入浴も、筋肉の弛緩・血流の改善に役立つ。最近は湯船に入らず、シャワーで汗を流すだけで済ませる人も多いが、時間があれば、しっかり湯船に入りたいところである。

    なお、湯船に入る時には、温泉場でよくいわれるように、入る前にかけ湯とかぶり湯をするのが理想だろう。かけ湯は、いきなり入浴せずに、手足などの心臓から遠い部分からお湯をかけることで、心臓などにいきなりの負担をかけないようにすることである。

    また、かぶり湯は、頭部や首にお湯をかけることであり、脳貧血などを防ぐためのものだが(入浴中は、頭部と頭部以外の温まり方が違うことから脳貧血を起こす可能性がある)、それによって頭部も同様に温めて、その血流もよくすることができる(入浴前に髪を洗う場合は必要ないかもしれない)。

    ただし、入浴によって汗をかく場合には、適切に水分等の補給が必要である。

    また、諸事情で湯船につかれず、シャワーだけで済ませる場合には、体が温まり、血流が改善しやすいように、無理のない範囲で少しだけ熱めのお湯を長めに浴びながら、特に緊張している部分を中心に体の各部をマッサージするなどしてリラックスさせるとよいのではないかと思う。


    5.歩行瞑想に関して

    歩行瞑想も、各部の筋肉を動かしてほぐし、体を温めて血流を改善し、各種の生活習慣病などを予防する有酸素運動として健康上も望ましい効果がある。

    なお、日中の野外での歩行瞑想では、日光を浴びるが、適度な日光はビタミンDを増加させて骨や歯を強くしたり、セロトニンという精神安定に役立つ物質の分泌を促進したりするが、過剰な日光は紫外線による日焼け・肌の老化・目へのダメージなどがあるので注意すべきである。朝に歩行瞑想を行うと、人間の体内時計をリセットし、生活のリズムを整える効果もあるとされ、陽の光も柔らかいので、紫外線の弊害も避けやすいだろう。


    6.歩行瞑想のやり方

    歩行瞑想のコツは、ヨーガの体操・呼吸法に共通する部分が多いが、以下の通りである。

    ①背筋を伸ばして、全身に余計な力を入れずにリラックスする。
    ②腹式呼吸で、大きくゆったりとしたリズミカルな呼吸をする。
    ③視線は、足元が危なくなければ下に落とさずに前方を見る。
    ④私語は慎む

    そして、上級者的な実践としては、歩行瞑想をしながら、以下のいずれかの瞑想をする。

    ①心の中でマントラ(真言)・読経瞑想などを行う。
    ②法則に関する思索を行う(ただし気を取られて、歩行上の危険がないように注意する)。
    ③地面に足の裏面が接する部分を意識し、自分が大地と一体である感覚を持つように努める。

    最後に、歩行瞑想の時間を前半と後半に分けて、以下のように行うやり方もある。

    ①歩行瞑想の前半は、ややスピードを上げて歩いて、体を温めて多少汗をかいて、血流と気の流れを改善し、
    ②その後に、ペースを落として瞑想(上記)を重視する。

    これは、身体行法から入って瞑想に移行するラージャ・ヨーガの修行体系と同じである。


    7.参考:登山における歩行瞑想の行い方

    修験道などでは、聖山に登拝することが、その修行である。そこで、修行としての登山のやり方としては、以下の通りである。

    ①開始する前に柔軟体操をする。
    ②腹式呼吸で、大きくゆったりとした呼吸を行いながら登り、これを保つことができるように、慌てたり急いだりせずに、一定のペースを保って登る。
    ③全身に余計な力を入れずにリラックスする。
    ④私語は慎み、あれこれ考えずに雑念を排して登り、山と一体となる感覚を培う。
    ⑤錫(しゃく)杖(じょう)(ないしは登山用のスティック)を用いて、両足を含めて3点・3本足で体を支える。
    ⑥両手が自由になるように、荷物はリュックに入れて背負う。
    ⑦こまめに適度に水分を補給するなどして、脱水症・高山病に気を付ける。

     

  • 総合解説:感謝の瞑想・仏陀の覚醒の扉

    以下ご紹介のテキストは、「2018年 GWセミナー特別教本『ポスト平成:長寿社会の新しい生き方 感謝の瞑想:仏陀の覚醒の扉』」第2章として収録されているものです。

    教本全体にご関心のある方はこちらをご参照ください。


     1.仏陀=目覚めた人とは?

    仏陀とは、サンスクリット原語で目覚めた人という意味である。

    仏教開祖のゴータマ・シッダッタは、その最初の説法(初転(しょてん)法輪(ぼうりん))において、自分の教えは、人の眼を開き、理解を生じさせ、正しい智慧、心の静けさ、涅槃、悟りの境地などを与えるとした。こうして、仏陀とその教えの本質は、人の精神的な覚醒と深く結びついているのである。

    さて、この仏陀の言葉にも出てくる智慧とは、仏陀の極めて重要な特性であり、物事を正しく見る力という意味がある。正しく見るとは何かといえば、仏陀の説いた縁起や空の道理に基づいて物事・世界を見る高度な認識力などと解説される。これをわかりやすく言い換えれば、物事の全体を見ること、心の視野を拡大することともいうことができる。

    これと関連して、仏典には、仏陀の意識は、世界の全ての時空間と合一しているという表現もある。また、有名な観音菩薩の別名を観自在菩薩ともいい、観察が自在という意味であり、特に千手観音とは、無数の手を持ち、その全ての手には目があって、世界全体を自在に観察することができる存在であることを示している。

    物事の全体を見て、心の視野が拡大し、究極的には、意識が世界の全時空間に合一した結果として、仏陀は、全ての存在が無常であること(諸行無常)、全ての事物が無我であること(諸法無我)、万物が相互に依存しあっていること(縁起・相(そう)依(え)性(しょう)縁起)、万物が固定した実体を持たないこと(一切皆空)、万物が自分だけで他から独立して存在しないこと(無自性(むじしょう))といった法則を見出し、万物を愛する大慈悲に目覚めたという。そして、こうした目覚めに至る一つの具体的な道・瞑想法が、以下で述べる感謝の瞑想である。


    2.心の視野を拡大すると、自分の幸福と他者への愛に目覚める

    普段の我々は、心の視野・視点が、今の自分を中心とした世界に限定されている。これを先ほど述べたように、大きく広げてみるとどうなるか。自分だけでなく、日本全体、世界全体に広げ、さらには、人間だけでなく全ての生き物・自然に広げて地球全体、宇宙全体に広げてみる。

    また、今だけでなく、自分が生まれた時、近代・中世・古代に遡り、数万年といわれる現生人類の歴史、39億年前に遡る生命全体の歴史、46億年の地球の歴史、130億年を超える宇宙全体の歴史を遡ってみる。

    すると、全ての生命体の中から、人間に生まれたこと、しかも、21世紀の人間に生まれたこと、さらには、安全・長寿・豊かさの三拍子そろった先進国の日本に生まれたことは、とてつもなく幸運であったことに気付く。世界の全時空間の全ての生命体の中から、21世紀に日本人に生まれる偶然の確率は、とてつもなく僅かであり、全く奇跡的なことである。

    普段の我々は、「自分がすでに得ているものは当然である」という思い込みがあって、意識が今の自分の近くだけに制限されていて、世界全体の視野・視点から自分を見ることがないために、自分たちが得ている大変な幸福・幸運に気づいていないのである。

    しかし、人間以外の生き物は、衣・食・住が確保されておらず、天敵がいるために絶えず脅かされており、家畜のように人に殺されるために育てられるものもいる。そして、様々な苦しみがあっても、その原因と解決法を考えることができず、生まれてから死ぬまで同じような苦しみを、ただただ繰り返し経験して、死んでいかなければいけない。すなわち進歩することがない。仮に、人間がこうした状態に陥るならば、それは絶望的な人生として認識され、自殺に至る可能性も高いだろう。

    にもかかわらず、実際を見れば、人間に比較して、他の生き物の数は圧倒的に多い。仏陀が、人間に生まれる者の数と、他の生き物に生まれる者の数を比較して、後者を夜空に見える星の数、前者を昼間の空に見えるか見えないかの星の数にたとえた有名な説法がある。

    さらに我々は、多くの人類の中で、21世紀の人類という、人類史上もっとも恵まれた人類の社会に生きている。現生人類は数万年の歴史があって、これまでに数百億人~数千億人が生まれたといわれているが、現在の21世紀の人類の総人口は70億人とされ、先進国の人口となると10億人前後となる。

    しかし、現在、私たちが自分の部屋の中と外で目にする様々な文明の利器のほとんどは、近代の科学技術や産業革命によるものであり、それ以前には存在していなかった。厳密にいえば、100年前にも存在したものも、ごく一部である。インターネットの大衆化やスマホの普及などと言えば、10年から20年の歴史しかない。

    こうして、我々が今、自分の周囲、あたり一面に目にするものは、人類数万年の長きにわたった先人たちの血と汗の結晶の産物であって、大変な恩恵といわなければならないのではないだろうか。

    さらに、それらは、先人からの恵みであるだけでない。我々の毎日は、現在を生きる多くの人々、他の生き物、空気や水を含めた地球の生命圏と、それを支える太陽系・銀河系といった宇宙のシステムに基づいて存在している。こうして、我々の得ている大きな幸運と恩恵は、宇宙の万物に支えられているものだということができる。

    こうして、心の視野を広げるならば、自分たちの得ている膨大な幸運・恩恵・幸福と、それを支える万物への感謝=愛に目覚めることができる。言い換えるならば、仏陀とは、自分が非常に幸福である事実と、それを支える万物に対する感謝に目覚めた者ということができる。


    3.苦しみの恩恵にも目覚める

    さらに、自分たちの得ている膨大な恩恵に気付くならば、普段経験して嫌がっている様々な苦しみにも、貴重な恩恵があることに気付く。

    普段の我々は、膨大な恩恵に気付かず、感謝もない。そればかりが、まだ得ていないものや、少し前に得ていたものを失ったことに対する不満・怒り・後悔などが多い。

    そして、自分より持っている者への妬み・怒り、自分より恵まれていない者への驕り・蔑みなどもある。これは、自分たちが得ている膨大な恵みに気付いて感謝して足るを知ることがなく、際限のない欲求=貪りに陥っていることによるものである。

    そして、重要なことに、こうした心の働きが、逆に自分たちを不幸にしている。「もっともっと」と求めても得られずに苦しむ、得ていたものを失って苦しむ、求めて奪い合うことによって苦しむといったことである。

    こうして見るならば、我々が普段経験している苦しみというものは、我々の際限のない欲求・貪りの過ちに気付くことを促すものと考えることができる。たとえていえば、貪りのもたらす苦しみは、貪りから離れる愛のムチ、口に苦い良薬であり、脱却のための試練である。酷い悪夢にうなされている者の目を覚ますために、その顔を叩くようなものである。

    仏陀の教えには、苦しみの経験があってこそ正しい教えに心が向かうという趣旨のものがある。仏陀と自分の父母に加えて、苦しみを与える敵対者を含めた三者に対して礼拝するように説く教えもある。

    さらにいえば、自分の経験する苦しみこそが、同じような苦しみを経験する他者に対する優しさ・慈悲の心の源にもなる。こうして苦しみは、我欲を離れて慈悲を持つことに導く側面がある。仏陀の教えでいえば、苦の裏に楽があるという、苦楽表裏の教えである。


    4.他者への慈悲、自分の罪に目覚め、慢心を和らげる

    また、こうして心の視野が広がって、感謝の心が広がり深まるならば、自分よりもはるかに恵まれておらず苦しみの多い者が無数に存在する事実も、認識するようになるだろう。自分が際限のない欲求・貪りに陥っている間は、不満と妬みばかりが生じて、他者の苦しみなどは気に留めることはできないが、それから解放されるならば、苦しむ多くの者の存在に気付くことになる。

    さらには、自分の毎日が、そうした他の生き物の苦しみ・犠牲の上に成り立っていることも理解される。例えば、私たちは、毎日の糧を得るために、動物にしても植物にしても、他の生き物を殺さなければならない。仏教では、これを人間が避けることができない悪業として宿業(宿命の業)などということがある。人間の世界で、どんなに偉そうにしている者であっても、自分たちよりも苦しみの多い生き物を犠牲にしなければ、一日たりとも生きていくことができない存在なのである。

    これに関連して、「感謝」という言葉が、偶然にも「謝罪を感じる」と書くものであることは意味があると思う。感謝とは、自分の幸福が全て、なにかしらの他者の労苦・犠牲に支えられたものであることを認識することであるとするならば、その意味で自分の罪の事実を感じることを含んでいるものだろう。

    また、普段は、非常に簡単に他人を嫌悪して批判するが、実際には自分が嫌うタイプの人たちにも支えられながら、私たちは生きている。

    現在の非常に便利な都市社会は、非常に高度な分業によって成り立っている。それはグローバル経済の中で、地球の隅々の国々・人々まで巻き込んで存在している。その中には、自分が嫌悪したり見下したり馬鹿にしたりしている人たちも含まれている。

    こうして、自分が好きな人、嫌いな人の双方を含めて、実際には、全ての人が、全ての人と支えあっている。どんな人間も、自分だけの力で生きることや、自分が好きな人間だけの間で生きることなど到底できていないのである。

    突き詰めれば、自分自身という存在自体が、自分で作ったものではなく、父母をはじめとする先祖・先人、他の親族、学校の教師・友人、会社の先輩・同僚を含めた友人知人の労苦・犠牲によって支えられて育まれてきたものである。

    自分に何か良いところがあったとしても、それが全て自分の努力のみで得られたということはあり得ず、他者の労苦・犠牲を伴う幸運に支えられたものであることに気付く。万物は相互依存であることに気付く。

    こうした気づき・目覚めは、慢心を解消する。また、慢心とともに、自と他を区別して、優劣を比較することによって生じる卑屈・妬みといった心の働きも、和らげることになる。


    5.恩返しの心に基づく真の慈悲に目覚める

    さて、大乗仏教の教義においては、こうして万物への感謝・愛を深めて、その恩に報いるために、全ての生き物を利する実践=菩薩道に入ることを説く。

    すなわち、仏陀・菩薩の利他心とは、自分を悟った者として、上から目線で、他の人々・生き物を救ってやろうという心の働きではなく、全ての人々や生き物を自分の恩人と見て、その恩に報いるための恩返しとして行われる純粋性を有している。

    そのために「因果の七つの秘訣」などの大乗仏教の瞑想では、①全ての生き物を恩人であると瞑想し(知恩)、②その恩に報いようとする心を培い(報恩)、③恩人が苦しんでいることに慈悲を持ち、④その苦しみの解消のために、自分が仏陀の境地に到るための菩薩道の修行に入ることを決意する(発(はつ)菩提(ぼだい)心(しん))といった瞑想を行う。


    6.万物一体の悟りに目覚める

    また、こうして感謝の瞑想によって、万物が互いに支えあって存在する事実に深く気付くならば、万物が一体であるという悟りが生じる。

    自と他を区別して自分だけに愛着する心の働き(自我執着)が和らぐと、怒りなどを含めた全ての煩悩の根源が和らぐことになる。安定して静まった広がった心の働き(大慈悲)が生じることになる。

    こうして、以上をまとめてみると、心の視野を拡大して感謝の瞑想をするならば、

    ①自分の膨大な幸福に目覚め、
    ②それを支える他者・万物への愛に目覚め、
    ③自分の苦しみの裏側にある恩恵にも目覚め、
    ④自分より遙かに恵まれない無数の他者への慈悲に目覚め、
    ⑤自分の幸福が他者の犠牲・労苦に基づいているという自分の罪に目覚めて慢心が和らぎ、
    ⑥謙虚な恩返しの心に基づく真の利他行に目覚め、
    ⑦万物一体の悟りに目覚めて、全ての煩悩の根源である自他の区別・自我執着が和らぐことになる。

    また、こうして感謝の瞑想によって、万物が互いに支えあって存在する事実に深く気付くならば、万物が一体であるという悟りが生じる。自と他を区別する心が和らぐと、怒りなどを含めた、全ての煩悩の根源が和らぐことになる。


    7.感謝がもたらす様々な幸福

    感謝の瞑想は、これまでに述べたように、心の幸福・浄化・安定・広がり・愛をもたらすが、他にもさまざまな恩恵がある。

    まず、安定した広い心が得られれば、物事を正しく見る智慧が生じる。心の安定とそれによる集中こそが、物事を正しく見る力をもたらすからである。これは、仏教の「止観」と呼ばれる教義である。止観とは、心が静まって静止するならば、物事を正しく見る(観る)ことができるというものである。

    そして、逆もまた真であり、物事を正しく見るならば、心は静まるということでもある。止が観をもたらし、観が止をもたらす、循環する。なお、止観の別の表現は、禅定と智慧である。禅定(瞑想による心の安定)によって、智慧(物事を正しく見る高度な認識力)が生じるといわれる。

    さらに、感謝の瞑想は、心身の健康を増進する。すでに多くの医学的な調査・研究において、感謝をはじめとする前向きな感情が、免疫力の向上に役立つことが確認されている。一方、ストレスが免疫力を弱めることをはじめとして、感謝とは反対に、不満・怒り・焦り・争いといった否定的な心の働きや行動は、免疫力を弱め、健康を損なう。

    また、感謝と恩返しの心の働きと行動は、当然であるが、人間関係を改善することは疑いがない。意識して感謝の瞑想と実践をしなければ、我々の日常は、際限なき欲求によって、感謝よりも不満が多く、愛・恩返し・分かち合いよりも、怒り・憎しみ・奪い合いが多いかもしれない。

    そして、昭和の稀代の実業家の松下幸之助は、少人数を動かす場合は、支配・命令・処罰などでも可能だが、大勢の人を動かす場合は、感謝・尊重の心が必要だと述べている。すなわち、感謝は、感謝された人の意欲を増大させ、活性化するのである。


    8.日常生活の感謝の瞑想① 朝の瞑想

    感謝の瞑想に限らないが、日常生活の中で瞑想を組み込む上では、朝起きた後と、夜寝る前の瞑想は有効である。朝起きた時は、人はどうしても、それまでに培った精神的な傾向として、際限なく求める心の働きと、それによる不満・怒りが生じやすい状態にある。

    よって、その日の仕事や勉強を始める前に、感謝の瞑想によって、そうした心の働きを和らげ、その日をより良い心の働きと行動をもって過ごすことができるようにすることが望ましい。

    もちろん、仏陀の教えを絶えず思念することを説く仏教の正念の教えからすれば、一日中絶えず感謝の瞑想をするべきであるが、それは現実には不可能であるから、まず朝に行って、その日一日のために、良い流れを作るということである。そして、その後も、仕事や勉強の合間を見て、ごく短い間でも、感謝の瞑想をすることができれば理想ではないかと思う。


    9.日常生活の感謝の瞑想② 夜の瞑想

    夜寝る前の瞑想は、心理学的にも効果が高いというデータがある。夜寝る前に、感謝の瞑想などで、不満・怒り・妬み・不安などを和らげておけば、心が落ち着き、心身がリラックスして、熟睡する助けになる。

    現在、睡眠不足・睡眠障害に悩む人が増えている。不安や緊張が強かったり、運動不足だったりすると、睡眠を妨げる。そこで、夜寝る前に、例えば、適度なヨーガ体操などの運動をした後に、感謝の瞑想をして心を静めることは、良い睡眠の助けとなり、疲労回復などをもたらし、健康のためにも重要である。

    また、睡眠の時間は、人生の3分の1から4分の1を占めるものである。よって、その質を高めることは、仏教・ヨーガの悟りの視点からも重要であり、夢を活用した瞑想修行もある。具体的には、睡眠の前に、一定の身体行法や感謝などの瞑想で、心身を浄化するならば、煩悩が静まった状態で睡眠に入ることができ、それ自体が良い瞑想状態ということができる。


    10.食事での感謝の瞑想

    食事とは、前に述べたように、他の生き物の犠牲であるから、感謝の瞑想を行う上で非常に重要な時である。

    具体的には、食事を始める前に、簡単に感謝の瞑想を行う。手を合わせて「いただきます」と言う時には、犠牲となった生き物に対して、その身の供養を感謝をもっていただくと考える。

    そして、感謝に基づく恩返しとして、その食事で得た栄養・エネルギーを無駄にせずに、なるべく良いことをすることを誓う(誓願する)。これは、前に述べたように、人が生きていく上では、他の生き物を犠牲にするという宿業があるが、それを相殺するように善行を積むという意味合いがある。

    こうした瞑想は、感謝の心とともに、謙虚な心と善行を行う精神を培うことを助けることになる。最後に、天寿を全うして死ぬことは、これまで他者からいただいたもので作っていた自分の身体を他者・自然に返して、それまでのお返しをする意味合いがあることを考えるとよいだろう。

    さらにいえば、人が生きるということは、他者の死とセットであり、他者から生命・体をもらうこと、他者の体が自分の体になることである。また人が死ぬということは、他者の生とセットであり、自分の体が他者の体になっていくことである。

    こうして、自己の生と他者の死はセットであり、自己の死と他者の生はセットであり、この地球の生命圏においては、生と死はセットであり、死ぬ者がいるから生きる者がいて、その意味でも万物が相互に依存し合って一体となって存在しているのである。こうしたことを瞑想することは、感謝に加えて、万物相互依存・万物一体の悟りを深めていくことになるだろう。


    11.ひかりの輪の三悟心経の感謝の読経瞑想

    ひかりの輪では、現代人のための仏教的な悟りを促す読経瞑想(三悟心経)がある。具体的には、

    ①万物を恩恵と見て万物に感謝する(万物恩恵・万物感謝)
    ②万物を仏と見て万物を尊重する(万物仏・万物尊重)
    ③万物を一体と見て万物を愛す(万物一体・万物愛す)

    というものである。

    一つ目の「万物恩恵・万物感謝」の瞑想に関しては、すでに詳しく説明したとおりである。二つ目の「万物仏・万物尊重」の瞑想は、慢心を避けて謙虚さを培う瞑想である。

    前に述べた通り、人は、他の生き物の命の犠牲がなければ生きることさえできないのに、感謝の心を忘れているどころか、無意識的に人間として他の生き物を見下している。

    しかし、人間は、他の生き物の上に立っているようで、多くの場合において、他の生き物よりもはるかに悪いことをする場合がある。すなわち、人間は他の生き物より、力は上であるが、行いにおいて優っているとは必ずしもいえない。

    多くの動植物が自然の摂理の中で調和を保って存在しているのに、人間は、際限のない欲求による資源消費や自然破壊を行い、飢えてもいないのに戦争という同じ種の間での大量の殺し合い・共食いを行うことさえあり、見方によっては、地球生命圏における害悪の一面さえある。

    よって、意識して慢心に陥ることを避けるように努めて、自分の周りの他の生き物、他の人々、他者・万物を見るならば、それらが様々な意味で教師・反面教師として学びの対象に見えてくる。これが万物を学びの対象・導き手と見る謙虚さを培い、慢心を乗り越える、万物仏・万物尊重の瞑想である。

    三つの目の「万物一体・万物愛す」の瞑想に関しては、食事の瞑想のところでも話したように、この世界の万物が相互に依存し合って一体となって存在しているという視点に基づいている。自と他を区別して、自己だけに過剰に執着するのではなく、自他を含めた万物を一体とみなして、万物を愛する大きな心を培うということである。


    12.瞑想を助けるヨーガ・仏教の基本的な教え

    さて、感謝の瞑想を含めて、瞑想を行う前の準備について述べたいと思う。もちろんこれは、時間がある場合であって、時間のない場合は、こうした準備をすることなく、瞑想をして構わないと思う。

    まずは、瞑想の際に自分の身を置く環境を浄化して整えることである。自宅ではなく、豊かな自然・神聖な波動を持つ聖地などに行くことができれば理想であるが、自宅で行う場合の工夫に関して述べる。

    まず基本は、部屋の整理整頓をして換気を行う。ヨーガや道教の思想でいえば、自分の体の外の「気」(目に見えないエネルギー)を整えることになる(外気を整える)。

    この際、部屋に、見ると心が静まる仏画や自然の写真、聞くと心が穏やかで前向きになる類の瞑想音楽や、ある種の仏教の法具が奏でる聖音、ストレス解消やリラックス効果がある瞑想用のお香などがあれば、理想である。

    次に、適度な運動を行って体をほぐす。例えば、ヨーガの体操(アーサナ)や気功法がある。これは、体の筋肉や関節をほぐして、血流や気の流れを改善する効果があり、それによって精神状態の安定にも繋がる。

    次に、正しい姿勢と呼吸法である。姿勢は原則として、背筋を伸ばして肩の力は抜く。こうすれば、血流がよくなり、精神に深く関係する脳や腹部の血流も改善する。足の組み方(座法)は、蓮華座や達人座のようなヨーガ・仏教の専門の座法が組めなくても、安定したものであればよい。

    なお、手は、様々な組み方(手印)があるので機会を改めて解説するが、左手の上に右手を乗せるのが、定印といわれる仏陀の瞑想を象徴する手印であり、心を安定させ、気の流れを整えるために有効だと思われる。

    最後に、呼吸法に関しては、基本的に腹式呼吸で行い、息の出し入れは、口ではなく鼻から行う。ヨーガの呼吸法は、体操(アーサナ)とともに様々なものがあるので、その詳細については、ひかりの輪で発刊している『ヨーガ・気功教本』を参照されたい。


    13.読経瞑想時の3つのポイント:三密加持

    さて、瞑想を行う際には、姿勢と言葉と意識の3つに注意することが重要である。まず姿勢は、先ほど述べた通り、背筋を伸ばして肩の力を抜き、安定した座法で座って、手印を組む。言葉の修行とは、読経や真言の念誦のことである。

    そして、非常に重要なことが、その際の心の持ち方である。単純に読経・真言念誦をしても、その教えの意味を考えたり、それに関するイメージを持ったりするように努めなければ、効果は薄くなる。

    場合によっては「馬の耳に念仏」というように、口で唱えてはいるものの、その教えが心・頭には入っていかないことになりかねない。

    例えば、前に述べた「三悟心経」の場合は、その経文が説く世界観を実感できるような思索・イメージを行うことが望ましい。

     

  • マインドフルネスと仏教の念の瞑想

    以下にご紹介のテキストは、「2017年GWセミナー特別教本『苦しみを滅する仏陀の思想と瞑想 四諦・八正道・四法印 マインドフルネス(念)』」第4章として収録されているものです。

    教本全体にご関心のある方はこちらをご参照ください。


    1.マインドフルネス瞑想とは

    今はやりのマインドフルネス瞑想は、宗教的な目的はなく、ストレス解消・能力の向上・心身の健康に役に立つとされている。マインドフルネスが、仏教の「念」(パーリ語でサティ)の英語訳であり、念の瞑想に由来することは、よく知られている。そもそも、創始者的な存在である米国の学者が、日本の禅に感銘を受けたことが、その始まりになったものである。

    マインドフルネス瞑想は、米国を中心に、体の痛みを和らげるため(マインドフルネスストレス低減法)や、鬱病などに対する心理療法(マインドフルネス認知療法)として開発された。その後、病気の人に限らず、一般の人のためのストレス解消・能力向上・健康法に役立つ瞑想法としても広まった。

    そこで、自分の仏教・ヨーガの瞑想体験から、現在のマインドフルネス瞑想の主張・流れに対して、共感・同意できることや、誤解されやすいと思うこと、そして、その限界・仏教の瞑想との違いを感じることについて書きたいと思う。

    まずは、基本的なことから。すなわち、「マインドフルネス」とは何か。日本人には、これが日本語ではないことが、その理解の上で最初のポイントになると思う。英語圏の人にも、普通の英語の意味でのmindfulness(マインドフルネス)とは、異なった特別な意味がある。

    それは、「今この瞬間の(何らかの)現象に対して、その是非・良し悪しを判断せずに、(意図して・意識して)注意を向けること(気づいていること)」というものである。これは、マインドフルネスの始祖ともいうべき米国の学者の定義である。

    そして、具体的に、どのようにこのマインドフルネスの瞑想を進めるかは、いろいろな考え方・やり方があるだろうが、だいたい呼吸・身体・歩行の動作などに対して、マインドフルネス状態で注意を向けて観察することが多い。仏典でも、そうした対象に、念を行うことが説かれている。そして、最終的には、思考や感情といった内的・精神的な要素にも行なっていく。


    2.なぜ今この瞬間の対象に意識を向けるのか

    まず、一つ目のポイントである。なぜ今この瞬間の対象に意識を向けるのか。これには、いろいろな説明が可能である。わかりやすい点から説明すれば、例えば、まず、人の意識は、過去や未来に流され、今この瞬間に向けられることはあまり多くないことがある。人によっては、90パーセントは未来や過去に意識を向けていると主張している。

    誰しも、未来には不安がある。「悪いことが起こるのでは」との思いを抱いている。現在の状態に何かしら不満があり、未来が良くなる希望を抱くものだが、「そうならないのでは」との思いも生じる。

    そして、今に不満があるならば、過去に関しては後悔や他への怒り・恨みもある。「自分は、こうしていればよかった」とか、他人に関しては「ひどいことをされた」、「こうしてくれなかった」などという思いがある。

    こう考えると、今この瞬間に意識を向ける意味がわかってくるだろう。今現在に、意識を向けている間は、未来や過去に関する過剰な思考や感情が、自ずと抑制される。それによるエネルギーの消耗を避け、結果として、雑念も減ることになるのである。


    3.なぜ是非の判断をしないのか

    次に、二つ目のポイントである。なぜ是非の判断をしないのか。これには、日常のストレス・苦しみを解消するという、心理学的な根拠があるのである。

    それは、マインドフルネス瞑想の源となっている「マインドフルネス認知療法」に関係している。そして、このマインドフルネス認知療法は、「認知行動療法」の一つである。

    是非の判断をしない理由は、この療法の理論に関係している。その点について以下に説明する。


    4.人は、対象に対する見方と感情を条件反射化している

    この認知行動療法の理論は、鬱病や過度なストレスを緩和するものである。そして、抑鬱(よくうつ)・不安といった負の感情は、その人の環境や生活条件に問題があるだけでなく、その人自身の不合理な物の見方(=認知)が原因となっている場合があると考える理論である。

    具体的には、ある対象に対して、特定の不合理な見方と、それによる特定の負の感情が、習慣となっていて、条件反射のように自動化している場合である。本来は、その対象に対して、別の合理的な見方があって、その見方をすれば、負の感情は生じないのに、特定の不合理な見方が習慣となっているために、その対象を見ると、常に負の感情が条件反射的に生じるということである。

    よって、認知行動療法の主旨は、この不合理な見方と、それが作り出す条件反射的な負の感情の存在に、本人が気づいて、それを修正することである。そして、物の見方と感情との間に強い因果関係があることは、認知行動療法の基本であるが、仏教の思想(仏教の心理学)こそが、まさにこの視点に基づいている。

    そこで、最初に戻って、マインドフルネス瞑想で、対象に対する是非の判断をしない理由を説明すると、これは、この条件反射的に習慣化・自動化された物の見方と感情の連鎖を、いったん棚上げすることに繋がるということが理解できると思う。


    5.自分の思考と感情に距離を置くことが重要

    普通、我々は、自分の思考と感情を、自分自身だと思っている。しかし、是非の判断をせずに、自分の思考や感情に注意を向けていると、思考や感情に距離を置いて、それを客観的に観察している「もう一人の自分」「超自分」の意識・視点を培うことに繋がる。

    これは、心理学では、メタ認知などということがある。そして、これができてくると、ストレスや鬱症状が和らぐという研究結果があるという。

    それはなぜだろうか。これにもいろいろな説明・解釈が可能だと思うが、いくつかのわかりやすい説明をするならば、以下のようになる。

    まず、自分の思考や感情が否定的であっても、それと距離を置くことができれば、その影響を和らげることができる。さらに、自分の思考や感情に没入していると、その奴隷になって、その思考の間違い・不合理に気づくことはできないが、自分の思考や感情を、冷静に客観的に見ることができるようになれば、修正をしやすくなる。

    こうして、是非の判断をしないことで、自分に存在している可能性がある条件反射的な不合理な見方を棚上げし、さらには、自分の思考・感情を冷静に客観的に見ることができる状態を作り出すことになる。その結果、物事を、以前よりも適切に見ることができるようになるということである。


    6.仏教の無我やヨーガの真我の思想

    なお、ここで、自分が、自分の思考や感情と距離を置くとは、言い換えれば、思考や感情は自分の本質ではないという感覚を得るということとも表現できる。実際に瞑想をしていると、生じては消えていく様々な思考や感情に対して、一歩離れた所から、自分が冷静に見ている状態になることができるようになる。

    これは、仏教の教えそのものである。釈迦牟尼が説いた「心は無我である」という教えである。さらに、思考や感情を客観的に見ている超自分・メタ認知という概念は、ヨーガの思想が説く、「真我」の概念によく似ている。真我とは、自己の本質・本当の自分といった意味である。


    7.仏教は、すべての苦しみが間違った見方によると説く

    繰り返しになるが、仏教こそが、間違った見方(=無智)が、間違った感情を生じさせていると説く思想である。厳密には、間違った見方である無智が、様々な煩悩という有害な感情を生じさせ、それが人の苦しみの原因となっていると説く。

    これは、認知行動療法における認知と感情との間の因果関係と、基本的に同じ思想である。ただし、仏教の方が、その範囲が圧倒的に広い。というのは、仏教は、すべての苦しみが、煩悩によって生じ、その煩悩の根源が、間違った見方(無智)であると説くからである。

    だから、仏教の思想を認知行動療法の表現で表せば、精神病の人だけでなく、健常者の場合も、その苦しみは、間違った見方によって生じる様々な煩悩という負の感情が原因であり、その意味で、すべての人は、広い意味で心の病を抱えた存在であるということができる。それを解消する仏道修行は、いわば、「スーパー認知行動療法」であると表現できるかもしれない。


    8.仏教における念(マインドフルネス)とは

    さて、マインドフルネスは、前に説明したように、仏教の念(パーリ語でサティ〈sati〉)の英訳ともされているが、厳密にいうと、今流行りのマインドフルネスは、仏教の念(サティ)の一部であって、本来のマインドフルネスの一部にすぎない。

    本来の念(サティ)とは、「心にとどめておく」、「いつも心に思うこと」、「記憶して忘れないこと」といった意味がある(『岩波仏教辞典』第二版)。今流行のマインドフルネス瞑想の定義である「この瞬間の対象に対して、是非の判断をせずに注意を向ける」とは、だいぶ異なっている。これは、それが本来のマインドフルネス(念・サティ)の瞑想の仕方の一部であって、全体ではないからである。

    そもそも、仏教の「念」とは、釈迦牟尼の初めての説法(初転法輪)で説かれた八正道の中の「正念」にさかのぼる。この正念とは、絶えず教え・法則を思念するといったほどの意味であり、特に、仏教の最も重要な瞑想法とされる四念処を(絶えず)修することと解釈される場合が多い。


    9.仏教の念(マインドフルネス)の瞑想の全体像

    それでは、初期仏教、大乗仏教、密教全体を見渡して、本来のマインドフルネス=念とは、どういった種類・段階のものがあるのだろうか。

    これを解説することは、至難の業である。それをあえて、私の研究や体験の範疇で表現するならば、次のようになる。なお、繰り返しになるが、ここでのマインドフルネスは、心理学者による定義ではなく、仏教の念(サティ)全体のことだと解釈されたい。


    10.第一のマインドフルネス:是非の判断をしないマインドフルネス
    =是非の判断をせず注意を向ける(今流行りのマインドフルネス)


    これには、大別すると以下の2種類がある。①より②の方が難しいので、今流行りのマインドフルネス瞑想も、だいたいこの順に練習すると思う。

    ① 呼吸・身体・動作などの外的・物理的な対象へのマインドフルネス
    ② 思考・感情など内的・精神的な対象へのマインドフルネス

    ①のタイプの瞑想に関して多少述べておきたい。初期仏教の代表的な呼吸に集中する瞑想・念=マインドフルネスは、アーナパーナ・サティ(ānāpāna-sati)と呼ばれる。これは、出息・入息への念という意味であるが、文字通り、出入息に注意を向ける。

    これは、禅仏教などで行われる数(す)息(そく)観(かん)と共通点がある。数息観は、数を数えながら息を出し入れする瞑想であるが、似た目的・効果と考えられる。


    11.ヨーガの呼吸法の特殊な目的

    なお、ヨーガの呼吸法(プラーナーヤーマ)となると、少し意味合いが異なってくる。ヨーガの呼吸法は、「調息法」と「調気法」の二つの意味がある。

    まず、前者は、古典ヨーガにおける呼吸法の意味合いであり、これは精神集中の訓練という意味合いが強いので、第一のマインドフルネスの目的に近いだろう。

    しかし、後者は、新しいヨーガであるハタヨーガにおける意味合いであり、気(=プラーナ)の強化や、その流れを整える意味がある。

    この場合、プラーナの取り込みのために、保息=クンバカの実践や、気の流れを整えるために、場合によっては、短く強く出入息をしたり、片鼻ずつ出入息したりする、といったこともある(具体的には、カパーラバーティ調気法、スクハプールヴァカ調気法など)。


    12.第二のマインドフルネス:適切な判断をするマインドフルネス
    =間違った物の見方による負の感情を修正する

    1の段階で、自分の思考や感情に対して、距離を置いた客観的な意識を培ったならば、この2番目の段階では、自分の思考や感情の中にある、苦しみをもたらす間違った思考に気づいて、それを修正するのである。

    これは、明らかに是非の判断をする瞑想であり、思考・思索を伴う。言い換えれば、是非の判断をしないで注意を向ける1の段階は、適切に是非の判断をするための準備段階となっている。そのため、是非の判断をしない、考えないのが、マインドフルネスだと思い込み、是非の判断を否定しすぎるならば、本来のマインドフルネス=仏教の念(サティ)の意味・趣旨と矛盾してしまうかもしれない。

    さて、このタイプのマインドフルネス(念・サティ)は、かなり乱暴な分類だが、二つに分けられると思う(あえて分けたようなものだから、参考程度に受け止めてほしい)。

    ① 社会生活に有害な考え方を修正するマインドフルネス

    これが、心理療法においては、「マインドフルネス認知療法」と呼ばれるものである。鬱・不安症などは、極端に否定的な不合理な物の見方(認知)、思考に基づいていると考え、それに気づいて、認知を修正する訓練である。以前説明した通りである。

    ② 煩悩・自我執着とその根源である無智を弱める仏教的なマインドフルネス

    これは、自我などに対する執着を否定して弱めたり、その反対の利他心を修習して強めたりする瞑想などである。先ほど述べた、マインドフルネスの由来となった仏教の八正道の修行における「正念」の実践である。

    具体的には、「四念処(四法印)」や「四無量心」などと呼ばれる瞑想である。この結果として、無智が取り除かれると、仏教の用語でいえば、智慧・正智・正見が生じ、悟り・解脱に至ることになる。


    13.正念は戒律の実践とセットである

    さて、上記の②の瞑想は、単に座った時にだけ瞑想するということではない。正念が常に教えを思念することという意味であるように、理想としては、一日中、可能な限り瞑想するということである。

    だからこそ、この正念の教えと連動して、八正道では、日常全体の心の持ち方・言動を制御する戒律の実践も説いている。言い変えれば、「日常生活全体が瞑想である」と表現できるだろう。

    普通は、日常の中で、間違った見方のために、煩悩が生じ、悪い言動を繰り返す悪習慣がある。よって、絶えず正しい見方を忘れないようにして、悪い心・言動の悪習慣を抑制し、良い習慣の訓練をするということである。

    私が出会ったスリランカのある高僧は、「All life is meditation」(人生全体が瞑想である)と語っていたが、仏教本来のマインドフルネス(念)は、日常全体、人生全体で行うものである。


    14.学習・教学の重要性

    さらに、①の心理療法の場合でも、②の仏道修行の場合でも、その準備として、典型的な正しい考え方と間違った考え方に関する学習をなすことを通常行う。

    学習とは、言い換えれば、多くの他の人の経験からの教訓が集約されたものであり、それを基本公式として、自分の問題の理解と解決に役立てるのである。学習をせずにできる天才的な人物もいるかもしれないが、通常の場合は、学習は、解決のプロセスを大いに加速する。

    マインドフルネス認知療法の場合は、その土台である認知行動療法の教本などを学び、鬱・不安症などの人が陥りやすい不合理な考え方のパターンを学ぶ。心理学には、精神的な問題をもたらす不合理な考え方の類型に関しては、いろいろな理論がある。

    仏道修行の場合は、その経典・教本・指導者からの学習ということになるが、これを言い換えれば、仏教の心理学の学習をすることである。

    最後に、ここまでのマインドフルネスの瞑想は、初期仏教に見られるマインドフルネスの瞑想である。これ以下は、大乗仏教・密教の領域に入ることになる。


    15.四念処と四無量心の位置づけ

    四念処の瞑想は、第一マインドフルネスと第二マインドフルネスの双方に用いられる。第一マインドフルネスの場合は、四念処が説く、①身体、②感受作用、③心、④あるゆる事物といった四つの対象に対して、是非の判断をせずに、ただ観察する。第二マインドフルネスの場合は、身体の不浄性、感受作用の苦しみ、心の無常性、あらゆる事物の無我の性質を観想することになる。

    しかし、これは、本質的には、別々の瞑想ではない。第一マインドフルネスの四念処をやっている中で、自ずと、四つの対象が不浄・苦・無常・無我という見解に到達して、第二マインドフルネスの四念処になるということである。

    なお、マインドフルネスの話から多少脱線してしまうが、四念処は、止観の瞑想の中では、ヴィパッサナー(観)の瞑想に分類される。そのため、四念処観ともいわれる。一方、四無量心(慈悲喜捨)の瞑想は、サマタ(止)に一般に分類される。

    上座部仏教の教えでは、四無量心は、止(サマタ)の対象である四(し)十(じゅう)業(ごう)処(しょ)の一部であり、四(し)梵(ぼん)住(じゅう)・四(し)梵(ぼん)行(ぎょう)とも呼ばれる。釈迦牟尼も、四無量心によって、怒り・残虐な心・不満といった心の働きを静めると説いた。この四無量心に関しては、『2016~17年 年末年始セミナー特別教本「四無量心と六つの完成」』に詳しく解説したので参照されたい。


    16.第三のマインドフルネス:肯定型のマインドフルネス
    =良い心の状態をもたらす対象を修習する

    第三のマインドフルネスは、肯定型のマインドフルネスである。すなわち、瞑想の対象に対して肯定的な意識を向けるものである。これにも二つのタイプがあると私は考えている。

    ① 一点集中型の肯定のマインドフルネス:象徴物・シンボルの瞑想

    ここでの象徴物・シンボルとは、自分の心を静めて安定させる効果を持つものを意味する。宗教においては、象徴物の多くが、崇拝対象として位置付けられている。

    しかし、ひかりの輪が採用する宗教哲学や宗教科学という立場で解釈するならば、それらは、崇拝対象という絶対的なものではなく、その人自身にとって、心を静める助けになって、自分の中の神聖な意識を引き出すものという意味で、象徴物と呼ぶことができると考える。

    さて、象徴物の具体的なものとしては、まず、視覚的なものとしては、心が落ち着く仏像・仏画・曼荼羅、ないしは、純粋な広大な自然の風景などがあるだろう。言葉や聴覚的なものでは、いわゆる真言(マントラ)・念仏・瞑想音楽・仏教法具の奏でる聖音などがあると思う。

    なお、このタイプの瞑想の典型が、弘法大師空海が開いた真言宗の瞑想だと思う。真言と曼荼羅の観想を重視する。なお神聖文字(梵字)を用いた阿(あ)字(じ)観(かん)などの瞑想もある。これは、インドの中期密教のタイプの瞑想である。

    こうして、中期密教では、芸術・美術によって表されたシンボルの瞑想が重視されるが、こうした瞑想の補助ツールと位置付けられるものが、法輪、金剛杵、金剛鈴といった各種の仏教法具や、瞑想用の香である。特に、仏教法具の中で、心を静めるのに役立つ神聖な音を奏でるものがあり、ひかりの輪の瞑想修行では、大いに活用している。

    そして、これらの念は、大乗仏教・中期密教の思想に関連している。このマインドフルネスは、第一・第二のマインドフルネスと合わせて行うことで、本来の効果が生じると思われる。

    ② 一切を肯定するマインドフルネス

    これは、万物を仏の現れとして、一切を肯定するマインドフルネスである。大乗仏教における究極の悟りの状態に関連する。なお、先ほど言及した曼荼羅の瞑想法は、曼荼羅は宇宙の万物を仏と見たものなので、一切を肯定する瞑想法の準備段階ということができる。

    このマインドフルネス瞑想は、第一・第二のマインドフルネスを土台としており、それらなしに行うのは無理があると思う。その意味で、より高度な段階のマインドフルネスだと解釈できると思う。

    最後に、ここでマインドフルネスの瞑想のタイプの中には分類しなかったが、「気」の制御を目的とする瞑想がある。チベット仏教での究境次第の瞑想や、クンダリニーヨーガに関係する瞑想である。これは、インド後期密教の瞑想であり、空海や最澄によっては輸入されなかった最後発の密教修行である。

    これは、密教の中でも後期密教の瞑想法である。これも通常は、第一・第二のマインドフルネスの土台の上に行われる。宗派によっては、第三のマインドフルネスまでを修めた上で、行うものとされている。この詳細は、その段階に来た人に限るべきだという見解が多いので、ここでは、控えたいと思う。


    17.ひかりの輪の「悟りの瞑想ヨーガ講座」のご紹介

    ここでは、参考までに、ひかりの輪の「悟りの瞑想ヨーガ講座」の内容をご紹介しておく。

    ① 事前の準備として、瞑想の場=教室の道場を浄化する。

    掃除と換気、象徴物(仏画・自然写真)の用意、瞑想音楽=法具の聖音をかける。瞑想香を焚く、瞑想用のハーブ茶を飲むなど。

    ② ヨーガ行法を行う。アーサナ、プラーナーヤーマなど。

    アーサナ(座法・体位法)は、体をほぐして、座法を組みやすくするヨーガの体操である。各種のアーサナを交えてバランスよく行う。

    プラーナーヤーマ(調気法)は、気の流れを整え、心の安定と集中力を高め、深い意識に誘導する効果もある。プラーナーヤーマも各種を行う。集中力の向上に役立つ基本的なものから、気の浄化・教化に役立つもの、深い瞑想状態に誘導するものなどがある。

    なお、ひかりの輪のヨーガ行法の詳細は、公式HPや『ヨーガ・気功教本』を参照されたい。

    ③ ひかりの輪独自の仏教的な瞑想「読経瞑想」を行う

    無智によって自と他を区別して自我に執着した日常の現実認識を修正し、万物が一体であり、それゆえに万物を愛するという思想を修習する瞑想を行い、心の安定と拡大を図る。

    ④ 黙想の瞑想

    無念無想で、静まった広がった意識を修習する。
    雑念に流されてやむを得ない場合を除いては、なるべく思考しない状態を保つ。

    ひかりの輪では、瞑想・禅定を深めるために、連休に5日間ほどのセミナーを行っている。これは、いわゆるリトリート修行である。忙しい毎日の日常の惰性に流されてばかりいると、心が不安定で散乱した状態が続くが、リトリート修行は、それを大きく転換するきっかけとなる。

    また、長期間のセミナーではなくとも、休日などに1日リセットする機会を作ることも重要である。日常の氾濫する情報をシャットして、心を安定させ、なるべく深く内省できる状況を作る。一人で静かに自室を浄化した上で籠るか、聖地・自然の中に行くか、ないしは、ひかりの輪の教室の活動などに参加して、自分をリセットする時間を作ることが望ましいと思う。

     

  • 悟りの瞑想の実践と体験

    以下にご紹介のテキストは、「2016年夏期セミナー特別教本『気の霊的科学と人類革新の道 ヨーガ行法と悟りの瞑想』」第4章として収録されているものです。

    教本全体にご関心のある方はこちらをご参照ください。


    1.悟りの瞑想

      ここでのテーマは、「悟りの瞑想」である。ここでいう悟りの瞑想とは、二つの意味があって、第一に、悟りに至るための瞑想修行のことである。第二に、悟りの境地の瞑想状態のことである。

    そして、第二に関していえば、第1章で、ヨーガ・仏教の高次元の意識状態を解説する中で、ある程度検討したことである。そして、悟りの境地を究極・最高の状態ばかりに限定せずに、いくらか広い範囲でとらえるならば、第1章で紹介した、「大我(宇宙意識)」も十分に高次元の状態である。


    2.ヨーガの説く大我と寂静我

    第一に、この大我・宇宙意識という広大な意識は、少なくとも、自分の身体に対する執着から解放されている状態と考えられる。意識が、自分の身体の範囲をはるかに超えて宇宙全体に広がっているからである。

    第二に、大我より上と位置づけられた「寂静我・非顕現」の境地は、自分の身体に限らず、一切に対するとらわれ・執着が解消し、心の働きが止滅した状態であるとされる。

    そのため、仏教で悟りの境地とされ、煩悩が吹き消された平安・寂静の境地とされる「涅槃(ニルヴァーナ)」の寂静の境地と同じではないかと推察された。また、一切が実体がない(空)と悟って、すべてのとらわれから解放された「空」の境地とも同じではないかと推察された。

    そこで、こうした境地と結びつく、悟りに至るための仏教的な瞑想、特に初期仏教の瞑想法を検討してみることにしたい。


    3.最初期の悟りの瞑想:無我の瞑想

    釈迦牟尼が説いた「無我」の原語は、パーリ語でアナッター、サンスクリット語でアナートマンである。アナートマンは、アートマン(我)の否定形であり、文字通りには、「我ならざるもの」という意味である。

    これには、「我が無い」(無我)と「我ではない」(非我)という2つの解釈があるが、仮に、ヨーガのような真我の存在を前提にしないならば、あらゆるものを非我(我ではない)とすれば、どこにも我は存在しないのだから、無我(我は無い)と同じ意味となるので、非と無の訳語の違いは重要でなくなる。

    この無我の瞑想が、『スッタニパータ』などの最初期の経典ではよく説かれている。それは、我執の否定を意味する。我執の否定とは、「私」・「私のもの」に対するとらわれを捨てることである。

    まず、ここでの「我」とは、「私」「私のもの」「私の本質」という三つの意味があると分析されており、これに基づいて、あらゆるものが「我」ではない(諸法無我)と悟れば、涅槃(悟り)の境地に到達できるとしている。よって、あらゆるものに関して「これは私ではない」「私のものではない」「私の本質ではない」と瞑想するのである。


    4.人無我と法無我:宇宙意識と涅槃・空

      その後、無我の教えは、「私・人が、無我である」という「人(にん)無我(むが)」と「あらゆる事物(法)が、無我である」という「法(ほう)無我(むが)」という二つの解釈が生じた。

    説(せつ)一切(いっさい)有部(うぶ)は、無我の教えを人無我に限定し、法無我を否定したが(法(ほう)有我(うが))、龍樹(りゅうじゅ)などの大乗仏教は、この法有我の説を徹底的に批判し、釈迦牟尼の「縁起の法」を根拠として、あらゆる事物が無我であり、空であることを徹底した。その結果、無我説から発展した「空の思想」が完成することになった。

    ここで、人無我だけであれば、「私」に対する執着から脱却するのみであるので、ヨーガが説く大我・宇宙意識の境地に留まるように思われる。一方、法無我すなわち、一切に対する執着を否定すれば、ヨーガが説く寂静我、仏教が説く涅槃寂静・空の境地に至ることが推察される。


    5.四念処の瞑想:最も中心的な瞑想法 

    初期仏教の時代から、悟りに至るための最も中心的な瞑想法に「四(し)念処(ねんじょ)」がある。初期仏教の複数の経典で詳しく説かれており、三十七(さんじゅうしち)道品(どうぽん)の一つである。その瞑想法(観想法)は、以下の通りである。

    (1)身念処:身体の不浄を観ずる(不浄観)

      (2)受念処:一切の感覚(受)は苦であると観ずる(一切皆苦)

    (3)心念処:心は無常であると観ずる(諸行無常)

    (4)法念処:いかなる事物(法)も無我であると観ずる(諸法無我)

    なお、四念処は、仏教瞑想が説く二種類の瞑想法、すなわち、「止」(サマタ)の瞑想と、「観」(ヴィパッサナー)の瞑想のうち、「観」の瞑想の中核を成す観想法である。


    6.四念処の瞑想の準備 

    仏教の教義では、瞑想は、まずは心を静める「止」の瞑想を行い、次に、物事をありのままに観察する「観」の瞑想を行う。

    よって、四念処の前に、「止」の瞑想として、例えば、数を数えながら呼吸の出し入れに集中する「数(す)息(そく)観(かん)」の瞑想などを行う場合がある。呼吸や歩行の動作など、ごく単純な身体の動作に対して一点集中すると、雑念が和らぎ、心を静めることができるからである。


    7.自分と、自分の心を切り離す「念」の瞑想

    四念処のもう一つのやり方として、身体・感覚・心・諸事物に対して、不浄・苦・無常・無我と観想するのではなく、「念」の実践をするものがある。念とは、パーリ語でサティ、英語でマインドフルネスであるが、対象に対して、執着も嫌悪もせず、善悪・是非の判断を避けて、単に意識する(気づいている)というものである。

    うつ病の治療などのために、この瞑想を導入したのが、「マインドフルネス認知療法」である。そして、マインドフルネス瞑想に従って自分の心を意識していると、「その心は自分ではない」と気づくという。言い換えれば、普段は、「心が自分だ」と思い込んでいるのである。

    こうして、「自分」と「心」の間の切り離しが生じると、うつ症状やストレスが解消するという。うつ症状では、自動的に否定的な思考や感情が生じているが、それに気づいて、その影響を受けにくくなり、逆に肯定的な思考や感情に修正できるようになるという。


    8.宇宙意識の瞑想

    真正の宇宙意識は、高度な神秘体験であるので、それをそのままに体験することは難しいだろうが、宇宙意識になぞらえた瞑想をすることは、悟りに近づく実践となると思う。例えば、以下のような瞑想は有効だと思う。

    (1)自分を体の外から見ていると観想し、実際の自分の前に、
    自分の体の姿をイメージし、その背景に広大な宇宙を思い浮かべる。

    (2)自分の意識は、自分の体から解放され、広大な宇宙全体に
    広がっていると考える。

    (3)広大で延々と続く宇宙に比較して、自分が芥(け)子(し)粒(つぶ)程に小さく、

    自分の一生は、泡のように短いと意識し、自分に対する執着が和らぎ、

    「自分には実体がない」と感じるように努める。


    9.宇宙意識に近づく手助け:無執着・放棄

    なお、宇宙・大自然と一体となる感覚を得る瞑想を行う、一つのコツについて述べたい。

    第一は、放棄・無執着の心構えである。具体的にいえば、自分のもの全てを捨て、裸一貫・初心に返るような気持ちになってみることである。自分のものに対する執着があると、自分と他者・外界の区別が強まる。逆に、その執着を捨てるならば、自他の区別も和らぎ、万物との一体感を得やすくなると思う。

    人は生まれた時も、死ぬ時も裸一貫である。その意味で、自分の財・富・名誉・地位・仕事などは、自分の物ではなく、遅くとも死ぬ時には全て、この世にお返ししなければならない、借り物にすぎない。


    10.象徴物の活用

    第二に、象徴物の活用の勧めである。私は、10年ほど前から、京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像を見て、その前で瞑想した時に、広大無辺の宇宙に広がる仏の慈悲の空間を感じることがしばしばあった。これ自体は、宇宙意識ではないだろうが、非常に神聖であり、慈悲深い波動を感じることができた。

    この弥勒菩薩像は、実に質素な姿で彫られており、布切れ一枚と、質素な王冠しかまとっていない。これも、執着の放棄と、神聖で広大な意識との関係を感じさせる事実である。

    また、それに感じる宇宙空間は、広大無辺でありながら、依然として弥勒菩薩の心の現れ、心の中の世界であるというイメージを感じた。これは、弥勒菩薩が始祖とされる唯識思想の教義であり、全ては実体がないという空の思想にもつながってくる。

    そして、ひかりの輪では、このように人の神聖な意識を引き出すものは、その人の仏性の象徴物と位置付けている。ただし、象徴物は、人によって違ってよいし、その象徴物自体が仏陀なのではない(偶像崇拝ではない)。あくまで、それに接する人の中に眠る、神聖な意識を引き出す手助けをするものである。


    11.聖地巡り

    第三に、聖地巡りの勧めである。個人的な体験であるが、聖地巡りの中で、意識の拡大を経験することが少なからずあった。例えば、見渡す限りあたり一面の広大な自然に、自分の意識が大きく広がっていた体験があった。

    また、自分の体が幻影のように感じられる一方で、自分が見ている大自然・宇宙の方が、自分の中心と感じられるような体験もした。その際は一瞬にして、ナーディが非常に強力に浄化されて、エネルギーが上昇していったことも同時に感じていた。


    12.読経瞑想の活用 

    第四に、ひかりの輪の読経瞑想の勧めである。ひかりの輪では、一元の法則に基づく簡潔な読経瞑想を実践している。それは、仏陀の悟りの境地を簡潔な表現で表したものであり、宇宙意識に近づくメッセージが込められている。

    例えば、「悟(ご)輪(りん)和(わ)経(きょう)」と名付けられた経文は「万物一体・万物愛す」である。それを含んだもう少し長い経文である「三(さん)悟(ご)心経(しんきょう)」は「万物恩恵・万物感謝、万物仏・万物尊重、万物一体・万物愛す」である。


    13.空・涅槃・真我・滅想定

    宇宙意識を超えたところに、一切の心の働きが止滅した、神聖な寂静の境地である「涅槃」(ニルヴァーナ)や「空」の境地がある。そして、「見る自分」と「見られる他者・外界」という主客の区別さえなくなった絶対状態がある。それが、仏陀の究極の瞑想状態と言われる「滅想定」や、ヨーガの説く「真我独存」の境地があるのだろう。

    これらは、宇宙意識の段階ではまだ認識する宇宙現象さえもが全ては実体がない幻影だと悟って、あらゆる現れ・あらゆる心の働きが滅した結果の意識状態である。

    個人的には、言葉では説明しがたいが、自他の区別が消滅して、見ている自分と自分が見ている世界の区別や時間さえもない無限の透明な空間(と表現してよいかわからない何か)を体験したことがある。

    また、神聖な釈迦牟尼の遺骨(仏舎利)が収められているという名古屋の日泰寺に行った時は、あたり一面の現実が、実体がないとともに、それが神聖な仏の浄土でもあると感じられる体験をした。

    仏教では、現実とは、その人の五感や意識に応じて現されたものであって、その意味で、一人に一つの宇宙(の体験)があり、唯一絶対的な現象は何一つないと説く(一切皆空)が、その教えを感じさせる体験であった。

     

仏教法具によるサウンドヒーリング

  • 1.法具によるサウンドヒーリング効果

      ここではひかりの輪が、仏教法具をどのように活用しているかについてご紹介したいと思います。


    ◆仏教法具によるサウンドヒーリング


      「ひかりの輪の仏教法具のご紹介」ご紹介しましたが、仏教法具には、心を静めて瞑想を助ける独特の音を奏でるものがあります。例えば、ガンター、ティンシャ、ドニパトロと呼ばれるものです。

      これらの仏教のサウンド法具は、聞くことによって瞑想状態に入り、心が静まって深い意識に入ることを助け、更には、
    否定的な思考を和らげ、肯定的な思考を助けるなどして、意識を浄化されるという体験をする人が多いです。
    ん。

      ドニパトロは、お寺の鐘の音にも似た低音のものですが、最近は、ヒーリングボール・シンギングボールという名前で、一般の方にも、効果の高いヒーリングツールとして広がってきました。 鳴らした後に長く続いていく振動音は、宇宙空間で採取された音の一部とよく似ているという情報もあるそうです。

      ガンターやティンシャは、ドニパトロに比較すると高音で、ドニパトロほどは一般の方に広まっていませんが、その高く美しく透明感のある音色・波動は、意識や当たりの空間を明るくし、意識を高めてくれると感じる人が多いと思います。

      なお、これらの法具の音は、単に人の心身だけでなく、空間・物質も浄化するという考えもあり、 ひかりの輪では、学習実践の場(教室)から、個人の自宅にも置かれています。

     

  • 2.法具によるサウンドヒーリング瞑想

       ひかりの輪においては、仏教法具によるヒーリングプログラムがあります。

        これは、法具が出すサウンドとヴァイブレーションを使って心身を浄化、ヒーリングするというものです。

       用いられる法具は、各種のドニパトロ、ヴァジュラガンター、ティンシャといった、仏教のサウンド法具に加えて、現代的な音叉などの器具も組み合わせておこなわれます。

       場合によって、二十種類近い音色・波動が用いられる場合がありますが、これによって、身体のあらゆる部分、全てのチャクラを浄化して、癒すように工夫されています。

       これらのサウンド法具の中には、単なる音ではなく、空気を相当に振動させるものがあり、その振動・ヴァイブレーションが、受ける人の心身を深く癒していきます。一説によれば、その振動は、人の身体の中の水まで振動させるとも言われています。

  • 法具によるサウンドヒーリングの試聴・CD販売

    ♪「聖地聖音ライブ1 三徳山」


    純粋な自然と神秘的な神社仏閣を持つ聖地、「三徳山」で行った仏教法具によるサウンドヒーリングのライブバージョン。
    聖地と法具サウンドの絶秒のコンビネーション。(2曲入り)


    《使用した法具・楽器》

    ・仏教法具:
    ドニパトロ各種(通称「宇宙音ドニパトロ」・通称「レインボードニパトロ」など)
    ティンシャ・ガンター・ダマル

    ・楽器:
    オカリナ・ディジュリドゥ・太鼓・鈴・拍子木


    ♬ご試聴はこちらから



    ♪聖音の宇宙--仏の智慧と慈悲の調べ『安寂Simple版』


    ネパールに赴き、選び抜いた仏教法具、ドニパトロ(シンギング・ボール)の、生録音版CDです。


    仏教法具のサウンドは、古来、心を静める効果があるとされ、宇宙の原初音に似ているという見解もあるそうです。

    大乗仏教の教義が説くように、この宇宙を仏陀という大いなる生命体の母胎の中と考えるならば、そのサウンドは、仏陀の智慧と慈悲の波動というイメージでしょうか。実際に、胎児が母胎の中で安らぐようなサウンドのドニパトロを使用しています。

    是非ご視聴ください。


    ・「使用法具」通称「宇宙音ドニパトロ」


    ♬ご視聴はこちらから 


    >>こちらでCDをご購入できます。

     

瞑想用の仏教法具

  • ひかりの輪の法具・仏画など

    ひかりの輪では、さまざまな仏教系の法具を活用しています。

    法具は一般には仏陀の象徴とされますが、ひかりの輪では、瞑想やヒーリングに使用しています。

    これらの仏教法具は、国内外の伝統的な宗派においては、仏陀の象徴物とされ、儀式などで用いられてきました。

    それを瞑想やヒーリングに用いる ことは、伝統宗派の中よりは、むしろ、昨今盛んになってきたヒーリング分野の研究者によるといった方がよいでしょう。

     

    さまざまな仏教法具やお香は、ひかりの輪ネットショップから購入できます。
     

     

  • 1.金剛杵と金剛鈴

    金剛杵(ヴァジュラ、チベット語ではドルジェ)

     
       金剛杵は、仏教では、仏陀の智慧や菩提心(仏陀の悟りの心)を象徴し、仏陀の心の象徴ともいわれる伝統的な法具です。

    日本語では金剛杵ですが、サンスクリット語では、vajra(ヴァジュラ)、チベット語ではドルジェといいます。この金剛杵を、ひかりの輪などでは、瞑想やヒーリングの補助ツールとして活用する場合があります。

    金剛杵は、日本でも、密教寺院にはよく祭られており、その瞑想修行で用いられ、さまざまな仏像、修験道の本尊、そして、弘法大師空海の御像にも、この金剛杵が握られています。なお、仏教の説く男性原理・女性原理においては、男性原理がこの金剛杵、女性原理が次の金剛鈴であり、それぞれ、仏陀の方便と智慧を象徴するとされて、二つがセットで用いられることが多くあります。通例、右手に金剛杵、左手に金剛鈴を持ちます。


    ●金剛杵にまつわる不思議な体験

    金剛杵を扱う一部の僧侶やヒーラーの中では、金剛杵の両側の突端から神聖なエネルギーが出ていると考える人がいるそうですが、不思議なことに、ひかりの輪でも、一部の人が、それを体験したことがありました。

    具体的には、左手の上に右手を乗せ、右手の上に金剛杵を横に寝かせて包むように持ち、両掌中央のつぼの部分に金剛杵の両突端が当たるようにするのですが、科学的には説明できないものの、その当たっている部分から心地よいエネルギーが入ってくるように感じる体験をするそうです。最初は感じなくても、使い続けているうちに、感じ始めるケースもあるそうです。

    なお、日本仏教において名高い弘法大師・空海は、金剛杵と縁が深く、有名な伝説があります。それは、大師が中国に留学中に、日本に向かって金剛杵を投げたところ、それが後に大師が真言宗の総本山とする高野山に落ちたというものです。また、大師の宗教名も遍照金剛といいます。仏教の法具を日本で最初に本格的に導入したのは、弘法大師空海といわれています。

    ひかりの輪のスタッフの経験をご紹介すると、その高野山をお参りした際、高野山の弘法大師の御廟は、非常に明るく神聖に感じられる空間だったそうです。そこで、手の平の上に、弘法大師ゆかりの法具(金剛杵)を置いて瞑想していた時に、何かのエネルギーが法具から腕を通して入ってきて、法具がひとりでに震動を始めた(ように感じる)という不思議な体験をしたそうです。これは錯覚かもしれませんが、ひょっとすると、こうした不思議な体験が、日本人が広く弘法大師を信仰する歴史ができた原因かもしれないと思わせるような出来事だったそうです。

    ※ご注意
    ひかりの輪は宗教団体ではなく、上記の不思議な体験などを根拠として、科学的に解明された根拠がないにもかかわらず、仏教の法具や特定の仏教宗派を神格化・信仰することは一切ありません。あくまで、そうした体験やヒーリング効果を生じさせるきっかけとなる可能性を感じさせる情報があったというにとどまり、皆さんがご活用される場合も、何事も妄信は危険だという原則を踏まえて、自己責任を持って活用されるようにお願いします。

  • 2.各種のサウンド法具

    ◆ドニパトロ(現代ではシンギングボールともいわれる)


    金剛鈴と同じように、美しい音を奏でる法具の一つですが、その音は、金剛鈴に比べ、お寺の鐘のように低音で、深く響き、染みわたるように広がっていきます。

    私たちの体験では、心を静めて心身をリラックスさせ、瞑想状態に入ることを助ける効果があります。そこで、ひかりの輪では、この法具を、瞑想を助けるためのBGMや、サウンドヒーリングのツールとして用いており、団体の教室や、団体スタッフの自室で用いています。

    一部では、この音が、宇宙空間で採取される音と似ているという情報があり、そのためか、宇宙の原初音などと解釈する人もいるそうですが、果たしてどうでしょうか。


    ※ご注意
    ひかりの輪は宗教団体ではなく、上記の一部の宗派の主張や個人の体験を根拠として、科学的に解明された根拠がないにもかかわらず、仏教の法具や特定の宗派を神格化・信仰することは一切ありません。あくまで、そうした不思議な体験やヒーリング効果を生じさせる「可能性」を感じさせる情報があるというにとどまり、皆さんが活用される場合も、何事も妄信は危険だという原則を踏まえ、自己責任を持って活用されるようにお願いします。


    ※参考文献(『アジアの法具と仏像』より)

    「シィンギングボール
    金属の「半円形のボール」で、日本でいう木魚のような使われ方をされています。使い方は縁を叩くか、木製のスティックで縁を右回りにゆっくりと擦るかします。すると唸るような波動音が発生します。この音色がさまざまなものを浄化します。」

     

  • 3.各種の仏画

    2011年5月に、新たなひかりの輪の仏画や曼荼羅、シンボルマークができました。
     
    ◎新・ひかりの輪シンボルマーク 

      ひかりの輪のシンボルマークが新しくなりました。

    これは、ひかりの輪の聖地巡りに不思議なことに良く現れる、太陽の周りの虹のひかりの輪と、仏教の教えの象徴である法輪を重ね合わせたものです。

    青空のイメージを背景に、法輪の真ん中から、太陽を表すひかりが四方へと放射されています。
    そして、法輪の輪が、太陽の周りの虹のひかりの輪と合体しています。
    「ひかりの輪」にぴったり合った、美しいマークとなりました。

     


              

     

       ◎虹輪釈迦牟尼像

    太陽の周りの虹のひかりの輪と、釈迦牟尼の仏画を融合させた、新しい仏画です。 背景の虹の光の輪と、手に持たれた法輪の二つの輪が、仏教開祖・釈迦牟尼像と一体化して、ひかりの輪の思想である「輪の思想」と、その思想のヒントの一部となった仏教の思想哲学などを連想させる良いものとなりました。

     

     

     

     

     


    ※これらの仏画をご希望の方は、各教室までお問い合わせください。

     

     

     

     ◎その他の仏画(ならび  に仏像の写真)

    ひかりの輪では釈迦牟尼をはじめ、さまざまな仏陀・菩薩の絵姿を描いたタンカの写真、ならびに仏像の写真をご提供しています。

    お部屋に飾っていただくと、神聖な雰囲気が出ると思います。そのため、仏教の学習・瞑想などを行う方には、それに適した雰囲気づくりを助けます。

     

     

     

  • 4.水晶・数珠ほか

    ◎水晶(仏教語では玻璃(はり))

      水晶は仏教語で玻璃ともいわれ、阿弥陀如来などについて説く無量寿経などで、仏教の七宝の一つとされています。

    また、この水晶を、汚れを清める「水」を象徴するものと解釈したり、その形からして、仏教が説く宝珠(マニ)と解釈する宗派もあります。そして、水晶は、観音菩薩が手に持つ法具ですから、観音菩薩の象徴とも解釈できるでしょう。

    さて、仏教の世界に限らず、水晶は、パワーストーンの世界では、最もオールマイティな力を持つ貴石だといわれています。インド占星学の開運法においても、貴石を用いる場合がありますが、身に着ける人の浄化を促す貴石として重用されているそうです。また、水晶を身に付けることで、汚れが浄化され、幸福になる(除災招福)という考えが、一部の仏教・ヒンドゥー教の宗派やパワーストーンの世界にはあります。

    ひかりの輪でも、教室にも一部水晶を飾っていたり、水晶で作ったブレスレッドやネックレスをお分けしたりしています。


    ※ご注意
    ひかりの輪は宗教団体ではなく、上記の一部の宗派・学派・精神世界の主張や個人の体験を根拠として、科学的に解明された根拠がないにもかかわらず、仏教の法具や特定の宗派・集団を神格化・信仰することは一切ありません。皆さんがご活用される場合も、何事も妄信は危険だという原則を踏まえ、自己責任を持って活用してくださるようにお願いします。

  • 5.法具のご提供について

       ひかりの輪では、皆さんに、さまざまな法具を提供しています(ご希望であれば、一般の方にも提供することができます。以下は、会員さん向けの説明書に基づいて、どのような法具を提供しているかをご紹介したものです。法具のネットショップはこちら。


    1.仏教法具関係

    (1)金剛杵
     







瞑想用のお香

  • チベット・ブータン・ネパールの瞑想香

    ひかりの輪では、チベット・ブータン・ネパールなどで作られた瞑想用の特別なお香を使用しています。

    これらの多くは、仏教等の聖典に説かれた伝統的な厳格な古式製法によって、チベット・ブータンの高地やネパール平野で採取される、さまざまなアロマハーブなどの純粋な天然成分を選りすぐって、僧侶や職人の厳しい管理の下で作られています。                                                             

     

    古来から宗教的な儀式・お供物にも用いられてきましたが、ひかりの輪では、教室内の空気・波動の浄化・リフレッシュ、深い瞑想とリラクセーションのために、非常に効果があると感じたので、「瞑想香」と呼んで使わせていただいております。

    これらのお香には、様々な種類があり、色々な目的によって使い分けることも可能です。

    ひかりの輪では、特別なヒーリングの際にも用いています。

    また、これらのお香をお求めになりたい皆さんにも、各教室や、本HPのネットショップで販売しております。


    ※ご注意

    当団体が販売するお香は、国内の法規を順守し、医薬品的な効果を主張するものでは決してありません。輸入された製品の英語等の紹介文書には、国内の法規では、医薬品のような効能を持つとの誤解を招く可能性もある記載がありましたので、それは当団体の主張ではないことを念のためにお伝えします。

     

瞑想音楽(試聴あり)

  • ♪「新たなる出発(たびだち)」

    この曲は、ひかりの輪としての音楽がまだなかった時に、何か瞑想に役立つ曲を作ろうということで作った曲です。

    上昇系のメロディー構成にしてエネルギーが上がるように考えられ、軽快な伴奏をつけ、曲を流していると空間が軽くなるような流れにしました。

  • ♪「せせらぎの癒し」

                                                                                    作曲・編曲/小林由紀

     この曲は、ヨーガや瞑想のBGMとして作ったものです。

    その頃はあまり自然の中に行くことがなかったこともあり、イメージを固めるまでには約1ヶ月ほどの期間をかけました。

    自然の写真を見たりCDを聴いたり、行ける範囲で自然の中で瞑想したりしながら、徐々に自分自身の心を普段のせわしい生活から切り替えて大自然の呼吸に合わせて行ったのです。

     

  • ♪「秋の高原にて」

                                                                                    作曲・編曲/小林由紀

    この曲は、聖地自然巡りで乗鞍へ行った時の、高原での瞑想をもとに作られました。

    そのイメージは、「様々な罪や苦しみを経験した魂が、この世のものともつかない雲の上の高原で、広大な時の流れと宇宙の愛がひとつになった空間に包まれて、すべてが許されていたことを悟り、感謝の念とともに慈悲の世界に入ってゆく......」そういったものでした。

     

  • ♪「天岩戸の物語 序章」

                                                                                    作曲・編曲/音楽部

     この曲は、実は戸隠に行く前からBGMとして作られていたものです。

    今回聞き直しをしていたら、戸隠の山にピッタリだったので「天の岩戸の物語 序章」という名前をつけました。

    なぜ序章なのかというと、戸隠については奥が深く、イメージ音楽がまだまだ作れそうだったからです。

     

  • ♪「みたらい渓谷」

                                                                                    作曲・編曲/小林由紀

     この曲は、聖地自然巡りで、奈良県のみたらい渓谷に行った時のイメージから作ったものです。

    みたらい渓谷は、天川から、天の川沿いに車で30分ほど登ったあたりにあります。 

    渓谷入り口の幾重にも繋がる滝にかかる吊り橋では、思わず足がすくみますが、自然の持っている生命力、流れる水の力強さなどには、やはり神を感じさせるものがあります。

  • ♪「水の神」


                        作曲/宗形真紀子

    この歌は、水の中にある「水の神」としての性質を歌ったもので、思いもよらず、できることとなりました。
    歌詞がついている歌では、ひかりの輪となってはじめてできた歌でした。

    最初に、少しの歌詞とメロディが生まれました。
    昨年、水の神である弁財天を祀る、天川弁財天社を訪れたとき、上祐代表と小林由紀さんたちと一緒に、天の川のほとりで、エメラルドグリーンの色をした天の川の水の流れを長いこと眺めて、水について考えていました。

    そのあとに、後日、メロディが歌とともに湧き出て聞こえてきました。10分かからず歌ができていました。それを音楽家の友人の小林由紀さんに歌って聞いてもらったら、意外にも、「いい曲だね!ちゃんと歌になっている」と喜んでくれたので、楽譜に落としてもらい、曲となりました。(私は楽譜も書けない)

  • 「水の神」の歌詞とその意味合い 上祐史浩

    ひかりの輪で、神々への供養などとして歌われている「水の神」の歌詞の意味合いをご説明します。それは、水を神仏の功徳を現わすものとしてとらえて、その徳性を現したものです。


    1)一番の歌詞

    水 流れる神
    わきおこっては 流れゆく
    清らかなものも けがれたものも
    川の流れに すべてをつつみ
    さまざまに 流れ 大きな海で 一つになる


    ●水の流動する性質

    水は、固定的な形がなく、流動的で、天と地の万物の間を循環し、川や海などにおいて、他の水と合体して、全く一体となります。



    この水の特徴は、誰にでもわかりやすいものだと思いますが、正確に観察・思考すると、水だけではなく、私たちの住む世界を構成するすべてのものが、そうであることが分かります。すべては、常に変化し続け、流動しており、世界の中を循環し、何者も他と独立して存在せず、すべては一体となっています。

  • 「水の神」歌詞

                                            水の神


                                                            作詞・作曲・編曲/観音楽

    この歌は、神仏の現われとしての水を歌ったものです。発想は、水の神である弁財天を祀る、奈良の天河大弁財天社を訪れて、近くを流れる天川の美しい、水の流れを見た時でした。

    天川とは、天の川(あまのがわ)であり、天の川とは、銀河を意味します。そして実際に、水は、大地だけではなく、天地を巡り、そのさまは、仏陀の教えと同じように、大宇宙の本質を表している、と感じました(上祐史浩)。

    なお、より詳しい歌詞の意味合いは、別の機会にお話ししたいと思います。



    水 流れる神
    わき起こっては  流れゆく

    清らかなものも
    けがれたものも
    川の流れに
    すべてをつつみ

    さまざまに流れ
    大きな海で ひとつになる


  • ♪「虹の神」

                                  作曲/宗形真紀子


    この曲は、最初は車の運転中に、虹の物語とともに、突然湧いてきた曲です。

    「♪天空に 七色の虹」というフレーズが流れ、虹が出現したときの驚き、目を見張るような美しさ、突然の出来事に世界が転換するようなイメージとともに、曲が流れていきました。

  • 歌詞「虹の神」

                            虹の神


                                                     作詞・作曲・編曲/観音楽(上祐・宗形・小林)

    この歌は、神仏の現われとしての「虹」を歌ったものです。
    上祐代表らが、6年前より、日本の自然・聖地巡礼を始め、そこで経験した多くの虹の体験が、オウム信仰からの脱却するにあたり、大きな手助けとなりました。
    虹体験が、オウムを脱会し、ひかりの輪を創設するにいたった原点ともいえます。

    その、さまざまな姿で現れる、印象的な虹のイメージが歌になりました。
     
    (以下の説明文:上祐史浩)

      1番

    天空に 七重の虹
    美しく 輝きあらわる

    空が 青く澄み渡り
    透けるように 輝いた時
                                      
    時を超えた 法の輪の教え
    天の現わす 如来の叡智




    (1番の説明)
    この歌詞は、多くの虹の体験の中でも最も印象深く、上祐代表らがひかりの輪を創設するにいたった原点ともいえる、草津郊外における七重の虹の体験をイメージしたものです。
    太陽の周りの虹を、仏法の象徴である法輪の象徴と見ました。
  • ♪「めぐる星空」

     


    夜空をめぐる星を見ていると、広大な宇宙を感じます。
    すべては一体でつながっている、そんな一元の意識になれるようなヒーリングミュージックが「めぐる星空」です。
    心が癒され、すべてを受け入れるような気持ちにさせてくれます。

     

    今回はより癒されるように、自然のせせらぎ音入りのものと2つ入っています。

    「コズミック・ブッダ」は、シンギングボールという特別なヒーリング効果の高い音が出る楽器を使った音楽です。
    透明な響きと無限の宇宙を感じさせる音質は、聴くものを別世界に誘なってくれます。
    昨年10月の高遠の聖地巡りのときに演奏したライブ版です。


    ■めぐる星空収録内容

    ●めぐる星空:6分37秒
    ●めぐる星空(せせらぎ音入り):6分47秒
    ●コズミック・ブッダ(クリスタルversion):6分33秒
    (クリスタルボール演奏2009年10月11日高遠ライブ)

    販売価格: 1,650円(内税)

    ◎試聴はこちらから (「めぐる星空 せせらぎ音入り」)


    >>こちらでCDをご購入できます

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