瞑想法
ひかりの輪で行っている瞑想法のコーナーです。仏教的瞑想法、瞑想用の聖音・お香・音楽などをご紹介。

瞑想法の教本のご紹介

悟りの瞑想の実践と体験

以下にご紹介のテキストは、「2016年夏期セミナー特別教本『気の霊的科学と人類革新の道 ヨーガ行法と悟りの瞑想』」第4章として収録されているものです。

教本全体にご関心のある方はこちらをご参照ください。


1.悟りの瞑想

  ここでのテーマは、「悟りの瞑想」である。ここでいう悟りの瞑想とは、二つの意味があって、第一に、悟りに至るための瞑想修行のことである。第二に、悟りの境地の瞑想状態のことである。

そして、第二に関していえば、第1章で、ヨーガ・仏教の高次元の意識状態を解説する中で、ある程度検討したことである。そして、悟りの境地を究極・最高の状態ばかりに限定せずに、いくらか広い範囲でとらえるならば、第1章で紹介した、「大我(宇宙意識)」も十分に高次元の状態である。


2.ヨーガの説く大我と寂静我

第一に、この大我・宇宙意識という広大な意識は、少なくとも、自分の身体に対する執着から解放されている状態と考えられる。意識が、自分の身体の範囲をはるかに超えて宇宙全体に広がっているからである。

第二に、大我より上と位置づけられた「寂静我・非顕現」の境地は、自分の身体に限らず、一切に対するとらわれ・執着が解消し、心の働きが止滅した状態であるとされる。

そのため、仏教で悟りの境地とされ、煩悩が吹き消された平安・寂静の境地とされる「涅槃(ニルヴァーナ)」の寂静の境地と同じではないかと推察された。また、一切が実体がない(空)と悟って、すべてのとらわれから解放された「空」の境地とも同じではないかと推察された。

そこで、こうした境地と結びつく、悟りに至るための仏教的な瞑想、特に初期仏教の瞑想法を検討してみることにしたい。


3.最初期の悟りの瞑想:無我の瞑想

釈迦牟尼が説いた「無我」の原語は、パーリ語でアナッター、サンスクリット語でアナートマンである。アナートマンは、アートマン(我)の否定形であり、文字通りには、「我ならざるもの」という意味である。

これには、「我が無い」(無我)と「我ではない」(非我)という2つの解釈があるが、仮に、ヨーガのような真我の存在を前提にしないならば、あらゆるものを非我(我ではない)とすれば、どこにも我は存在しないのだから、無我(我は無い)と同じ意味となるので、非と無の訳語の違いは重要でなくなる。

この無我の瞑想が、『スッタニパータ』などの最初期の経典ではよく説かれている。それは、我執の否定を意味する。我執の否定とは、「私」・「私のもの」に対するとらわれを捨てることである。

まず、ここでの「我」とは、「私」「私のもの」「私の本質」という三つの意味があると分析されており、これに基づいて、あらゆるものが「我」ではない(諸法無我)と悟れば、涅槃(悟り)の境地に到達できるとしている。よって、あらゆるものに関して「これは私ではない」「私のものではない」「私の本質ではない」と瞑想するのである。


4.人無我と法無我:宇宙意識と涅槃・空

  その後、無我の教えは、「私・人が、無我である」という「人(にん)無我(むが)」と「あらゆる事物(法)が、無我である」という「法(ほう)無我(むが)」という二つの解釈が生じた。

説(せつ)一切(いっさい)有部(うぶ)は、無我の教えを人無我に限定し、法無我を否定したが(法(ほう)有我(うが))、龍樹(りゅうじゅ)などの大乗仏教は、この法有我の説を徹底的に批判し、釈迦牟尼の「縁起の法」を根拠として、あらゆる事物が無我であり、空であることを徹底した。その結果、無我説から発展した「空の思想」が完成することになった。

ここで、人無我だけであれば、「私」に対する執着から脱却するのみであるので、ヨーガが説く大我・宇宙意識の境地に留まるように思われる。一方、法無我すなわち、一切に対する執着を否定すれば、ヨーガが説く寂静我、仏教が説く涅槃寂静・空の境地に至ることが推察される。


5.四念処の瞑想:最も中心的な瞑想法 

初期仏教の時代から、悟りに至るための最も中心的な瞑想法に「四(し)念処(ねんじょ)」がある。初期仏教の複数の経典で詳しく説かれており、三十七(さんじゅうしち)道品(どうぽん)の一つである。その瞑想法(観想法)は、以下の通りである。

(1)身念処:身体の不浄を観ずる(不浄観)

  (2)受念処:一切の感覚(受)は苦であると観ずる(一切皆苦)

(3)心念処:心は無常であると観ずる(諸行無常)

(4)法念処:いかなる事物(法)も無我であると観ずる(諸法無我)

なお、四念処は、仏教瞑想が説く二種類の瞑想法、すなわち、「止」(サマタ)の瞑想と、「観」(ヴィパッサナー)の瞑想のうち、「観」の瞑想の中核を成す観想法である。


6.四念処の瞑想の準備 

仏教の教義では、瞑想は、まずは心を静める「止」の瞑想を行い、次に、物事をありのままに観察する「観」の瞑想を行う。

よって、四念処の前に、「止」の瞑想として、例えば、数を数えながら呼吸の出し入れに集中する「数(す)息(そく)観(かん)」の瞑想などを行う場合がある。呼吸や歩行の動作など、ごく単純な身体の動作に対して一点集中すると、雑念が和らぎ、心を静めることができるからである。


7.自分と、自分の心を切り離す「念」の瞑想

四念処のもう一つのやり方として、身体・感覚・心・諸事物に対して、不浄・苦・無常・無我と観想するのではなく、「念」の実践をするものがある。念とは、パーリ語でサティ、英語でマインドフルネスであるが、対象に対して、執着も嫌悪もせず、善悪・是非の判断を避けて、単に意識する(気づいている)というものである。

うつ病の治療などのために、この瞑想を導入したのが、「マインドフルネス認知療法」である。そして、マインドフルネス瞑想に従って自分の心を意識していると、「その心は自分ではない」と気づくという。言い換えれば、普段は、「心が自分だ」と思い込んでいるのである。

こうして、「自分」と「心」の間の切り離しが生じると、うつ症状やストレスが解消するという。うつ症状では、自動的に否定的な思考や感情が生じているが、それに気づいて、その影響を受けにくくなり、逆に肯定的な思考や感情に修正できるようになるという。


8.宇宙意識の瞑想

真正の宇宙意識は、高度な神秘体験であるので、それをそのままに体験することは難しいだろうが、宇宙意識になぞらえた瞑想をすることは、悟りに近づく実践となると思う。例えば、以下のような瞑想は有効だと思う。

(1)自分を体の外から見ていると観想し、実際の自分の前に、
自分の体の姿をイメージし、その背景に広大な宇宙を思い浮かべる。

(2)自分の意識は、自分の体から解放され、広大な宇宙全体に
広がっていると考える。

(3)広大で延々と続く宇宙に比較して、自分が芥(け)子(し)粒(つぶ)程に小さく、

自分の一生は、泡のように短いと意識し、自分に対する執着が和らぎ、

「自分には実体がない」と感じるように努める。


9.宇宙意識に近づく手助け:無執着・放棄

なお、宇宙・大自然と一体となる感覚を得る瞑想を行う、一つのコツについて述べたい。

第一は、放棄・無執着の心構えである。具体的にいえば、自分のもの全てを捨て、裸一貫・初心に返るような気持ちになってみることである。自分のものに対する執着があると、自分と他者・外界の区別が強まる。逆に、その執着を捨てるならば、自他の区別も和らぎ、万物との一体感を得やすくなると思う。

人は生まれた時も、死ぬ時も裸一貫である。その意味で、自分の財・富・名誉・地位・仕事などは、自分の物ではなく、遅くとも死ぬ時には全て、この世にお返ししなければならない、借り物にすぎない。


10.象徴物の活用

第二に、象徴物の活用の勧めである。私は、10年ほど前から、京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像を見て、その前で瞑想した時に、広大無辺の宇宙に広がる仏の慈悲の空間を感じることがしばしばあった。これ自体は、宇宙意識ではないだろうが、非常に神聖であり、慈悲深い波動を感じることができた。

この弥勒菩薩像は、実に質素な姿で彫られており、布切れ一枚と、質素な王冠しかまとっていない。これも、執着の放棄と、神聖で広大な意識との関係を感じさせる事実である。

また、それに感じる宇宙空間は、広大無辺でありながら、依然として弥勒菩薩の心の現れ、心の中の世界であるというイメージを感じた。これは、弥勒菩薩が始祖とされる唯識思想の教義であり、全ては実体がないという空の思想にもつながってくる。

そして、ひかりの輪では、このように人の神聖な意識を引き出すものは、その人の仏性の象徴物と位置付けている。ただし、象徴物は、人によって違ってよいし、その象徴物自体が仏陀なのではない(偶像崇拝ではない)。あくまで、それに接する人の中に眠る、神聖な意識を引き出す手助けをするものである。


11.聖地巡り

第三に、聖地巡りの勧めである。個人的な体験であるが、聖地巡りの中で、意識の拡大を経験することが少なからずあった。例えば、見渡す限りあたり一面の広大な自然に、自分の意識が大きく広がっていた体験があった。

また、自分の体が幻影のように感じられる一方で、自分が見ている大自然・宇宙の方が、自分の中心と感じられるような体験もした。その際は一瞬にして、ナーディが非常に強力に浄化されて、エネルギーが上昇していったことも同時に感じていた。


12.読経瞑想の活用 

第四に、ひかりの輪の読経瞑想の勧めである。ひかりの輪では、一元の法則に基づく簡潔な読経瞑想を実践している。それは、仏陀の悟りの境地を簡潔な表現で表したものであり、宇宙意識に近づくメッセージが込められている。

例えば、「悟(ご)輪(りん)和(わ)経(きょう)」と名付けられた経文は「万物一体・万物愛す」である。それを含んだもう少し長い経文である「三(さん)悟(ご)心経(しんきょう)」は「万物恩恵・万物感謝、万物仏・万物尊重、万物一体・万物愛す」である。


13.空・涅槃・真我・滅想定

宇宙意識を超えたところに、一切の心の働きが止滅した、神聖な寂静の境地である「涅槃」(ニルヴァーナ)や「空」の境地がある。そして、「見る自分」と「見られる他者・外界」という主客の区別さえなくなった絶対状態がある。それが、仏陀の究極の瞑想状態と言われる「滅想定」や、ヨーガの説く「真我独存」の境地があるのだろう。

これらは、宇宙意識の段階ではまだ認識する宇宙現象さえもが全ては実体がない幻影だと悟って、あらゆる現れ・あらゆる心の働きが滅した結果の意識状態である。

個人的には、言葉では説明しがたいが、自他の区別が消滅して、見ている自分と自分が見ている世界の区別や時間さえもない無限の透明な空間(と表現してよいかわからない何か)を体験したことがある。

また、神聖な釈迦牟尼の遺骨(仏舎利)が収められているという名古屋の日泰寺に行った時は、あたり一面の現実が、実体がないとともに、それが神聖な仏の浄土でもあると感じられる体験をした。

仏教では、現実とは、その人の五感や意識に応じて現されたものであって、その意味で、一人に一つの宇宙(の体験)があり、唯一絶対的な現象は何一つないと説く(一切皆空)が、その教えを感じさせる体験であった。

 

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